叩きつけられる黒土とガソリンの匂いが、武蔵野の低空に充満していた。
バリバリバリ……
空気を引き裂く重低音。
風防の有機硝子がミシミシと鳴り、プロペラ後流が巻き上げる砂利が強風となって叩きつける。
滑走路の泥の中に打ち込まれていたのは、飛行機の形をした狂気の杭だった。
巨大な空冷十四気筒『火星』が爆発的な回転を上げるたび、反動偶力で機体全体が横へ、左へ、じわじわと捻じれ傾こうとする。
機首のカウルから吐き出される黒煙と熱気が、武蔵野の泥を猛烈な勢いで吹き飛ばしていた。
帝国航空が十一月、西の白鶴技術に叩きのめされて屈服し、乞食同然で頭を下げ与えられた一千八百馬力。
北樺太オハ油田から大泊の海底要塞船へ、そして西の航路へと流れる黒い血流。
その生命線の蛇口を西にガチガチに握られ、お裾分けとして滴り落ちてくる高オクタン揮発油を細い管で乞い、不格好な鉄板の中に押し込められた敗北の心臓。
流線型などどこにもない。
大面積のテーパー翼も治具も作れぬ東の工場で、分厚い鉄板を力任せに鋲(リベット)で叩きつけた胴体。
後方へ向かって急激に絞り込まれたラインは、締め上げられた蛇の首そのものだ。
そして、主翼。
あまりにも短く、重い鉄のくさび。
胴体との結合部には、日産の量産ラインでガチガチに叩き込まれた太い位置決めピンと、肉厚な鍛造接手の螺子(ねじ)頭が、隠しもせず生々しく剥き出しになっていた。
技師長席の糸川英夫の眼窩は落ちくぼみ、目は赤く血走っていた。
髪は油で固まり、爪の間には黒い機関油が泥のようにへばりついている。
五ヶ月。
八月に名古屋で西の馬力に圧殺されて以来の絶望。
十一月に「工場のない東が生き残る唯一の手だ」と嘲笑交じりに授けられた図面を抱え、突貫の五十日で形にした狂気の結晶。
東の工作能力では高高度用の翼面など削り出せない絶望と、永田からの圧迫。
屈辱に脳を灼かれた糸川は高高度の失速リスクから目をそらし、「一千八百馬力さえあれば強引に高高度の薄い空気も押し切れる」と自分に嘘をつき、現実逃避の過集中へ没入していた。
「……これが、君の答えか。
糸川君」
外套の襟を立てた永田鉄山が歩み寄ってくる。
隣には、軍服姿の陸軍少将、石原莞爾。
その半歩後ろに、十四歳の石原時子。
「実にいい。
無駄な肉が綺麗に削ぎ落とされている。
日産のラインに乗せるにはこの寸法が一番だ。
アメリカの重爆も、西の白鶴も、一千八百馬力の杭で下から突き刺して叩き落とす」
石原莞爾は、荒い空蒸かしで左へ傾こうとする小さな機体を見つめていた。
東北訛りの低い声が、プロペラ音の隙間に落ちる。
「……尖りすぎだの。
火星の重さをこの短けえ翼で背負えば、翼面荷重が跳ね上がる。
離陸の瞬間、この大馬力の回転で左へ一気に巻き込むぞ。
熟練の操縦手でねえと滑走路の肉片になる。
兵站の計算が合わん」
「……兵站など、後から工場の数字で合わせればよい」
永田が切り捨てる。
石原はふと永田の口元を見た。
「閣下、髭が……」
永田は青々とした顎を擦った。
「……時子に言われた。
揃っていない、とな。
……だから剃った」
だが、糸川は誰の言葉にも反応しなかった。
じっと自分の『昇龍』を見つめる少女——時子の視線だけに射すくめられていた。
時子はガリ版の黒いインクで染まった右手を、冷たい強風に晒しながら一歩踏み出した。
風が黒髪をなびかせ、焦げた排気ガスの熱気が鼻腔を突く。
時子は『昇龍』の翼根へ歩み寄り、胴体と主翼を繋ぐ無骨な鍛造接手と、剥き出しの螺子頭に黒い指先をそっと触れさせた。
「……糸川さん」
轟音をすり抜け、その声が糸川の耳奥へ刺さる。
「はね……ちっちゃい」
糸川の肩が跳ねた。
時子は丸眼鏡の奥の冷ややかな眼光で、糸川の血走った目を射抜く。
公差ゼロの天突きでトコロテンを押し出してきた少女特有の、冷徹な数理の目。
「糸川さん、分かってて自分に嘘ついてはるやろ。
東の工場で大きい翼が作れへんからって、馬力で強引に押し通せるって自分を騙してるだけやんか」
糸川の息が止まった。
「白鶴の二千馬力なら力任せに引っ張れても、この型落ちの一千八百馬力でこの翼やったら、一万メートルの薄い空気に乗れへんよ。
上昇力だけで敵の陣形を切る『甲型』にはなれても、落ちてきた敵を喰いちぎる『乙型』の翼にはならんもん。
上空で揚力失って止まったら、突く前にただの鉄くずになって落ちるで」
糸川の全身から、すっと血の気が引いた。
地上の三分の一まで薄れる空気密度と失速速度の物理から目をそらしていた自分の醜悪さ。
設計者としての誇りを捨て、自分自身につかせていた無様な嘘。
糸川の膝が震えた。
泥のような狂気が削げ落ち、氷のように冷ややかな設計者の目が戻ってくる。
「……そうだ」
糸川は泥を踏みしめた。
「……自分を騙していた。
翼を、二つの規格に分ける。
胴体と火星の構造は一本で流す! だが単位枠の螺子で組み替える!」
糸川は背後の図面台へ向き直し、折れかけた鉛筆を力強く握りしめた。
「甲型は翼内砲を捨てて胴体銃のみ、徹底的な軽量化で一万メートルへ跳ね上がる!
乙型は翼枠の幅を左右で二平米延ばし、内部に二〇粍機関砲と二百五十瓩の懸架装置を仕込む!
……そして、その先です。
高高度から落ちてきた敵を確実に殺すには、火星を二基積んだ双発の重武装機が要ります!」
「双発だと!?」
永田の顔が険しく歪む。
「火星を二基も使う道楽など、今の東の兵站で許されると思うか!」
「西の出資を引っぱきます!」
糸川は図面を叩きつけ、永田の目を睨み返した。
血の滲む唇から声が漏れる。
「発動機も、金も、互換の知恵すらも西から乞うたものだ!
ですがね……
この三段要撃陣形と、ミクロン単位で縛り上げる『帝国航空規格』だけは、俺たちのものだ!
文句はありませんね!」
永田は一瞬眉をひそめたが、糸川の眼底に宿る屈辱の炎を見つめ、鼻で笑った。
「……いいだろう。
西の金を骨までしゃぶり尽くせ。規格だけは一ミリも譲るな」
滑走路の端で、石原莞爾は静かに娘の横顔を見つめていた。
時子は、無骨な螺子に触れた自分の指先を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……とうちゃん」
「なんだ」
「揃えるのはな、削り落とすだけやないねんな。
足りん分を足して、ぴったり四角にするのも『揃える』なんやな」
石原は返事をしなかった。
小林一三の銭、永田鉄山の毒、市川房枝の泥、そして己の兵站の数理が、娘の中に恐ろしい精度で揃い始めている。
時子は強風の中、父親の革帯の上に乗った小腹へ目を落とした。
「あと、とうちゃん」
「ん?」
「……ちょっと肥えたな」
石原は一瞬、喉を詰まらせた。
頬の肉が引きつり、軍服の詰襟に指をかける。
「……大泊で小林のおっちゃんに蟹食わされたんだべ」
ぽつりと吐き捨てた父親の背中を、武蔵野の黒い煙と砂嵐が吹き抜けていく。
滑走路の中央で、反動偶力に身をよじらせながら一千八百馬力をふかす『昇龍』。
東の三宅坂が産み落とした屈辱と規格のくさびが、黒い煙を吐き出しながら、試運転の空へ向かって咆哮を上げていた。