代沢の自宅の土間に、軍靴の重い音が途切れた。
石原莞爾の膝が砕け、三宅坂の少将衣嚢が泥と一緒に板間へ落ちる。
「……あなた!?」
奥から駆け寄ったテイ子の悲鳴が、行燈の暗がりを震わせた。
石原は返事すらできない。
軍袴の上から両手で下腹部を抱え込み、畳の縁を爪が割れるほど強くむしり取っていた。
額から吹き出した油汗が、青畳の目へどろりと滴り落ちる。
武蔵野の風の中で時子が「肥えた」と指差した帯革の下——そこにあったのは脂などではない。
一滴も出なくなった尿と血が逃げ場を失い、恥骨の上を焼き物の壺のように硬く、押し弾けるほどに膨らませていた。
「テイ……鞄……」
喉の奥で血を吐くような声。
テイ子が震える手で持ってきた革鞄から、石原は血と茶色い錆の浮いた自作の金属棒——ブジーをむしり取った。
消毒もしていない鉄の棒を、激痛に歪んだ手つきで下半身へ突き刺そうとする。
自傷以外の何物でもない狂気。
「やめて!
そんなもの刺したら死んでしまう!
軍医殿を呼びます、すぐに!」
「だまれ!
陸軍の藪医者どもに……
こんな姿見せられるか……!」
石原がテイ子を腕で払いのけた、その時だった。
横から伸びてきた小さく硬い手が、石原の腕をひねり上げた。
金属棒がガラガラと板間を転がる。
「なにすんだ、時子……!」
時子は父親の怒号を無視し、転がった鉄棒を爪先で暗がりへ蹴り飛ばした。
行燈と電球の光の下、袴の隙間から剥き出しになった父親の腹へ、ガリ版の黒インクで染まった両手を容赦なく叩きつけた。
「……がはっ!」
石原の口から絶叫にならない悲鳴が漏れる。
時子は冷たい瞳を微動だにもさせず、父親の膨らみを、天突きでトコロテンを押し出すときのように強く包み込んだ。
手のひらに伝わる、人間の皮膚とは思えない酷熱。
石の硬さ。
そして下着にしみ出しているどろりとした血の匂い。
「……これ、脂ちゃう」
時子の声が、細く震えた。
「破裂するで。
破裂して、お腹の中で血が腐って死ぬんや。
とうちゃんが死んだら、わたしの計算が狂うやんか!
揃わへんようになる!」
時子の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、石原の胸元を濡らした。
「死んだらいいや!
とうちゃん!
狂うたらあかん!」
「時子……」
時子の本気の慟哭に射すくめられ、石原は絶句した。
時子は袖で乱暴に涙を拭うと、すばやく立ち上がり、廊下の黒い電話器へ飛びついた。
受話器をひったくり、激しい音を立ててダイヤルを回す。
「交換!
代沢から浜離宮!
阪急の社宅とちゃう、浜離宮の付属病院や!
小林のおっちゃんに繋いで!
急ぎや、死人が出る!」
十五分後。
代沢の閑静な闇を切り裂き、黒塗りのシトロエンが滑り込んできた。
乗っていたのは軍医ではない。阪急のマークを刻んだ白衣の運転手と看護婦だった。
担架に押し込まれ、車内に担ぎ込まれる石原。
テイ子が石原の冷たい手を両手で固く握りしめ、時子は頭元にへばりついて、濡れた手拭いで何度も油汗を拭った。
「とうちゃん、耐えてや。
おっちゃんの病院へ行くんやから」
石原はうわ言のように庄内訛りで呟いた。
「……あほみてだんでねが。
下半身むきだしで、かつぎ込まれで……」
「黙って!
喋ったら腹に響く!」
時子の怒声に、石原は力なく瞼を閉じた。
車は三宅坂の陸軍本部の脇をすり抜け、深夜の浜離宮へと滑り込んだ。
「阪急浜離宮大回廊付属病院」。
地下通用口の扉が開くと、そこは石炭酸とクレゾールの匂いが立ち込める、純白のタイル張りの別世界だった。
担架が滑る先で、ダブルの高級スーツを着こなした小林一三が、パイプの紫煙を燻らせて立っていた。
「やあ、石原さん。
随分とお見広しいお姿ですな」
「……小林さん…
笑いに来たか……」
石原が歯を剥き出すと、小林はふっと目元を崩し、時子とテイ子の肩に手をおいた。
「笑うわけがないでしょう。
時ちゃんが電話口で泣きじゃくるもんやから、飛んできましたよ。
……世界の石原莞爾も、娘の涙には形無しですな」
小林はそう言うと、時子の頭を優しく撫でた。
「安心しなさい、時ちゃん。
……去年、君の父君がローマで人種法の撤廃を叩きつけた恩を返しに来たユダヤ人、ウィーン最高の頭脳や。
死なせはせん」
無菌手術室の重い扉が閉まる。
そこに立っていたのは、執刀衣に身を包んだ眼の深い男だった。
ナチスの追手を逃れ、白鶴の欧州便で極秘裏に亡命してきたウィーン大学のユダヤ人泌尿器外科医。
医師は診察台の上の石原を見つめ、青い瞳をわずかに開いた。
「……将軍、イシワラ」
ドイツ語の低く掠れた声。医師の指先が微かに震える。
前年の昭和十三年、ローマ。
ファシズムの狂気がヨーロッパを呑み込もうとしていた時、ムッソリーニに人種法撤廃の覚書を突きつけ、東方への渡航査証(ビザ)を力ずくで毟り取った東洋の軍人——その男が今、自分の前で下半身を剥き出しにし、激痛に身悶えしている。
医師は、革鞄から押収された血濡れの金属棒をピンセットで持ち上げると、ブリキの屑籠へ放り投げた。
「……バルバライ(野蛮な)。
あなたが我々を地獄から救い出した手で、なぜ自分の体を壊しているのです」
台の上には、ナチスの刻印を削り取った銀製内視鏡と、極細のゴム製持続導尿管。
そして、甘ったるい薬品の臭気を放つ黄褐色の玻璃注射管が整然と並べられていた。
「痛みは終わります、将軍。
我々の命を救ったお返しだ」
寸分狂わぬ手つきで、導尿管が滑り込んでいく。
石原の体が一度大きく跳ね上がった。
直後。
導尿管の先につなげられたガラス管を、暗赤色の濁った尿が、ドクドクと恐ろしい勢いで流れ始めた。
ガラス容器を満たしていく血と膿。
その瞬間、石原の膨れ上がっていた下腹部が、急速に萎んでいった。
腹を押し潰していた地獄のような圧迫感が、一気に引いていく。
「……うっ…」
石原の口から、深い吐息が漏れた。
全身の毒素が抜け、脳の奥の濁熱が潮が引くように消え去っていく。
病室のベッドの上で、石原は目を覚ました。
下半身の激痛は消えていた。
傍らで、テイ子が安堵の表情で眠っている。
そして、石原の布団の上に顔を押し当て、自分の手を固く握りしめたまま眠っている時子の姿があった。
ガリ版のインクで汚れた指先が、石原の手を離さず握りしめている。
石原は静かに息を吐き、自由になった左手で、娘の短い黒髪を撫でた。
「……すまねえな、時子」
顔のすぐ脇で、甘いパイプの煙がくゆった。
石原が目だけを動かすと、ベッドの頭元に小林一三が立っていた。
火鉢の炭火に照らされたその顔から、一切の感情が削ぎ落とされている。
小林はゆっくりと屈み込み、パイプの煙を石原の頬へ吹きかけた。
そして、すやすやと寝息を立てる時子の黒髪へ視線を落とすと、石原の耳元へ口を寄せた。
「巡り巡るものですな、石原さん」
掠れた、だが極めて明瞭な低い地声が、石原の鼓膜を直接揺らす。
「あなたがローマで救ったユダヤの頭脳が、寿命を買い戻した。
これであなたの脳味噌は、あと二十年は動く。
満州の大豆も、白鶴の兵站も、これで狂わずに済む。
……死ぬことなど許しませんよ」
石原の背筋に、氷を叩きつけられたような冷気が走った。
石原は何も言わず、ただ眠る時子の頭を撫でながら、暗闇の天井を見つめ続けた。