大阪。
阪急天保山大回廊地下三階。
水銀整流器の低周波振動がコンクリートの床を伝い、靴底から足の骨へとへばりつくように這い上がってくる。
オゾンの焦げつく強烈な臭気と、吹き溜まる湿気が喉を焼きむせさせた。
地下空間の中央、武骨な鉄枠に収められた九インチのブラウン管群が、うみの色をした冷酷な電子光を暗がりへ放射している。
小林一三が指先で葉巻の灰を床へ叩き落とし、浅黒い顔をニヤリと歪めた。
その横で削げ落ちた頬を強張らせた高柳健次郎は、イコン撮像管の澄んだガラス球を、壊れものを扱うように見つめている。
世田谷の技研で配給を止められ、軍部に真空管を奪われて干上がっていた男の荒い吐息が、ガラス球を白く曇らせては消えた。
「……映ります、小林社長。
住友の中央研究所が削り出した耐熱金型に溶融ガラスを流し込み、圧縮機で均一に圧延させた。
内圧破砕の恐怖を職人が力技でねじ伏せて、冷めぬうちに蛍光物質を塗りたくった球だ。
夜通しの真空引きも、密輸した真空管も間に合った」
「受像機の数なんぞ気にせんでええ」
小林一三は葉巻の毒々しい煙を暗がりへ吹き出した。
「門真の松下君とこへ部材と重油を回して、手作業で組みませとる。
熟練の職人が血を吐きながら作っとるわ。
数千台もあれば十分や。
梅田の阪急、日比谷、主要駅前に置けばな」
「電波の発射準備、完了しましたで」
八木秀次が図面台の紙を指で鋭く弾いた。
「天保山と大連の要塞艦から、指向性アンテナ群で集光した実効輻射電力——EIRPは十万ワットに達する。
生駒と箱根を結ぶ中継網で、日本列島の空気を激しく震わせてみせる」
「地上を網の目で縛り上げるわけか」
高柳が狂気を含んだ目で暗闇を見つめた。
「白鶴二型を上空からの連絡と静止画電送に専念させれば、全都市の街頭へ電波を一斉に突き刺せる」
「それや」
小林が低く笑った。
「画面の横に『白鶴で行く台北・バタヴィア・パラオ南洋月賦旅行』の看板出してみなはれ。
群衆が画面に見入って、そのまま窓口へ雪崩れ込む。
……で、最初の見世物や」
小林の分厚い指先が、地図の上の「東京」を無情に叩いた。
「永田鉄山が平沼を潰して総理に座る。
あの男の無機質なツラと『中立宣言』を、一番最初の生中継として全国の街頭にブチ込むんや」
永田町。
首相官邸裏の茶室。
雨上がりの重苦しい湿気とともに、外の街道を這う木炭バスの焦げた油煙が漂っていた。
畳の上で近衛文麿が能面のような顔を傾け、その横で市川房枝が太い膝を折っている。
粗末な銘仙の着物から、煤と汗の匂いが湿気とともに立ち昇る。
「……平沼さんじゃ、もうもたんわね」
「だからこそ、私が出る」
永田鉄山が静かに腰を浮かせた。
軍服の硬い襟章が、暗がりで鈍い金色の光を放つ。
「……近衛公。
宮中と西園寺公への上奏を進めてもらいたい。
私が入閣し、一年で東西の歪みを整える。
完璧な兵站基地を作り上げた後、統制された国家を貴公に渡す」
「待ちな」
房枝の分厚い手が、永田の万年筆を根元から押さえつけた。
紙片が歪む。
「永田さん、内閣を組むなら条件があるだに。
婦人参政権の導入と、審議会への女性参与枠の確保。
将来的に女性議員を確実に誕生させる法案の提出を約束してもらうでね」
永田の細い眼が、暗闇の中で房枝を射抜いた。
房枝は瞬き一つせず見返した。
「阪急の託児所で腹いっぱい食わせて預けた女が作る精密ネジは、100分の1ミリの誤差もなく飛ぶ。
女を現場で生かして回すための管理権限を私に渡しな。
さもなくば明日から、全都市の女子工員を引き上げさせるでね」
障子戸の陰。
十五歳の石原時子は膝の上で指を組み、静かに息を殺していた。
房枝が求めた政治的枠組みと、その裏に潜む「精密部品の最高監督官」という暗黒の取引。
永田の目盛り、小林の銭、近衛の血統。
誰もが己の欲しい寸法だけで世界を切り取っている。
永田は短く息を吐くと、万年筆を走らせた。
紙片に黒い線が刻まれる。
「……良かろう。
女性参与枠と将来の参政権法案を約束する。
市川先生、全女子労働力の配置転換を頼みますよ」
昭和十四年。
四月十五日。
午後二時。
大命降下を受け、永田鉄山は第三十六代内閣総理大臣に就任した。
官邸の大広間には、阪急技研が持ち込んだ巨大アーク投光器群が重厚な低鳴を上げ、室内を眩鋭な青白い光と暴力的な熱気で満たしていた。
西日本の自家発電機から引き込まれた過剰な電力が、太い被覆ケーブルを太鼓のように打ち震わせている。
光の渦中に、高柳の組み上げた漆黒のイコンカメラが巨躯を横たえていた。
カメラの黒いレンズを見据えた永田が、乾いた声を叩きつけた。
「——欧州における対立に対し、大日本帝国は一切関与しない。
本日を以て、『帝国厳正中立』を宣言する!」
直後、日本列島の都市空間が跳ね上がった。
梅田阪急広場、日比谷交差点、銀座四丁目、博多駅前。
雨の垂れこめる昭和十四年の暗雲の下、街頭にそびえ立つ数百台の巨大受像機が一斉に強烈な緑色の電子光を吹き出した。
走査線が刻むザラついた画面の中で、永田の落ちくぼんだ眼が怪異な影となって全人類を見下ろす。
画面の左右には『白鶴で行く台北・バタヴィア・パラオ・南洋月賦旅行』『阪急百貨店・興亜大売出し』の鮮烈な文字。
「我が国は中立国として、満州の資源、北樺太の石油を以て、全地球の需要に応える唯一の兵站工場となる!」
梅田の広場では、数万の群衆の頭上で、新聞売りが振る号外の鈴の音がぴたりと止まった。
手渡されたばかりの紙切れが、泥に濡れたアスファルトへ無造作に叩き捨てられる。
群衆はただ一言も発さず、雨に濡れながら、頭上で緑色に輝く電子の神を見上げていた。
欲望の商業広告と、冷酷な国家の演説が、ひとつの電子光となって脳髄へ直接叩き込まれる。
新聞という紙の時代が死に絶えた、白痴のような圧倒的静寂。
同じ頃、三宅坂。
雨の陸軍本部前。
「中立など断じて許さん!」
これまでの国の方針を耐え忍んで受け入れてきたが、この中立宣言で限界を迎えた隠れ強硬派の青年将校十数名。彼らは刀を抜き、官邸の門へ突進した。
だが、彼らの前に立ちふさがったのは、憲兵だけではなかった。
雨の三宅坂を埋め尽くすように滑り込んできた、黒塗りの阪急大型バス。
そこから吐き出されたのは、黒い雨合羽を羽織った数十名の巨漢たちだった。
退役後に阪急の寮長や警備幹部として高額俸給と家族の生活を完全保証された、西日本陸軍(第4・第16師団)出身の下士官部隊。
金属音すら上がらない。
「な、なんだ貴様らは!」
叫ぶ将校たちの腕を、脚を、黒い雨合羽の巨漢たちが無言の凄絶な力で締め上げ、次々とバスの暗がりへ叩き込んでいく。
将校たちが路地裏へ引きずり込まれる際、雨合羽の袖から覗いた腕章の裏地に、密かに刺繍された「阪急の白鶴印」が濡れて光った。
思想や愛国心などではない。「西の給与と福利厚生」という巨大な資本の波に呑み込まれ、十数名の影は三宅坂の泥の中へ完全に消滅した。
官邸二階。
長廊下。
天井の白熱電球が、不気味な瞬きを繰り返していた。
官邸地下では、西日本の過剰な六十ヘルツ自家発電電力が、東電の五十ヘルツ専用設計で作られた変圧用トランスへ直接突っ込まれていた。
周波数の不整合が引き起こす強烈なヒステリシス損と狂乱的な磁気飽和。
トランスの巨大な鉄心が限界を超えて異常加熱し、ミシミシと重い鉄鳴りを上げている。
時子は小型ブラウン管の前にしゃがみ込み、静電気で髪の毛が逆立つガラス面に、冷たい頬を押し当てていた。
西日本の六十ヘルツ電源で同期を打たれた映像信号が、東京の五十ヘルツ商業電源で動作する受像機のブラウン管上で無残に破綻している。
電源フリッカーによる激しい明滅と、捉えきれない同期信号によって画面は上下へ爆速でローリングを繰り返していた。
四百四十一本の走査線が、永田の顔を細切れに刻んでは回転の渦の中へ叩き落とす。
「……時子さん。
永田閣下の『中立』、どうご覧になりますか」
背後から、足音が静かに近づいてきた。
肩章の金糸をきりと結んだ、海軍士官服の井上成美だった。
時子は振り返らず、回転を続ける画面に頬を押し当てたまま言った。
「……揃ってません、井上先生」
「揃っていない、とはどういうことでしょうか」
「東の五十ヘルツの地に、西の六十ヘルツの圧力を力任せに叩き込んでます。
画面が目が回るほど走って、東の受像機が西の鼓動に耐えられへんのです」
井上が眉をひそめた、その瞬間——
地下のトランス内部で限界に達した絶圧絶縁油が猛烈に沸騰・気化。
高圧のガスが密閉外殻を内部から一気に爆砕した。
重厚な金属打撃音が官邸の基礎を激しく揺さぶる。
トランスが溶融ショートを起こして途絶すると同時に、天井の白熱電球が一斉に破裂し、長廊下が焦げつくオイルの黒煙と真の闇に呑み込まれた。
画面の中で回転し続けていた永田の顔が、真っ黒な闇へと消失する。
「……ほらな」
時子は吹き寄せる油煙を避けることもせず、暗闇の中で冷ややかに呟いた。
「無理やり揃えようとしても、東の底が浅すぎる。
この国、じきに焼き切れるわ」
「……そのようでございますね」
井上は静かに士官服の胸元を正し、黒煙の立ち昇る廊下の奥を見つめた。
窓の外、白煙を上げる東京の夜空を、白鶴二型が重厚な二千馬力の爆音を轟かせて静かに通り過ぎていった。