白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二十二章『海風』(1939年 7月)

紀伊水道沖。

 三〇ノットで波頭を割る空母『飛龍』の木甲板を、向かい風が叩きつけていた。

 六〇ノットの合成暴風。

煙突から吹き降ろす濁った重油煙と、塩分を含んだ大気が混ざり合い、目を洗うような刺激となって人垣の目蓋を刺す。

 そのただ中に、白があった。

 薄桃色のシルクブラウスに、微動だにせぬ純白のサマーウールスラックス。

裾を固く締め上げる乗馬用ブーツの茶色だけが、重油飛沫の散る鉄板の上に孤立している。

 一九歳の井上靚子(しずこ)は、濡れた甲板の上で膝一つ揺らさず立っていた。

 小脇に抱えた『Sperry / Hydromatic』の英文原本マニュアル。

インチとポンドの単位に叩き落とされ、パニックを起こす整備兵に指示を飛ばす「通訳」であり、阪急の備品帳を記帳する監査員。

中将である父、成美が政治工作で手をとられる中、油塗れの現場へ放り込まれたのはこの少女だった。

「井上のお嬢さん!

アメリカーノの差圧弁、キログラム換算じゃ初期圧が取れん!」

油まみれのスパナを掲げ、整備士官が風の向こうで怒号を上げる。

英文の密輸マニュアルなど、現場の兵隊にはただの暗号だ。

靚子は視線すら動かさず、薄い唇をわずかに開いた。

「ミリではなく『Forty Pounds』です!

バイオネットを二回転!

十八ページですわ!」

「ポンドか! 二回転絞れ!」

 頭上高く、澄んだ金属音が走る。

 太陽の直下に浮かぶのは、三菱の『十二試艦上戦闘機』だ。

 手作業で叩き出されたジュラルミンの翼が、真夏の光を繊細に照り返している。

職人の手ヤスリが削り出した極限の幾何学。

風を切る音すら軽く、空中に描く円弧には一切の弛みがない。

 甲板の隅で、堀越二郎が白手袋のままポケットの計算尺を握りしめていた。

「相変わらず綺麗に削っとるな」

 川西の菊原静男が、油のついた太い腕で首筋の汗を拭い、目の前の無骨な鉄塊を拳で殴りつけた。

 太く短く膨らんだ胴体。

右へ強引に倒された垂直尾翼。

「だがな、こいつはボルト八本で繋がっとる。

動圧カプセルとG接点や。

風圧とGに任せてトリム叩き込めば、勝手に水平へ戻る」

 化け物発動機の地鳴りが、飛龍の甲板を激しく震わせた。

 二千馬力の回転トルクが機首を激しく左へ叩き倒そうとする。

直後、ギィィンと胴体の骨組みが鋭い悲鳴を上げた。

右へ傾けられた尾翼と油圧電磁弁が連動し、機首を力ずくで正面へ押し戻す。

 わずか八十メートル。

『海風』の巨躯が、飛龍の木甲板を蹴り飛ばして空へ躍り出た。

 上空での交錯。

 身軽な十二試が機首を落とし、最小の旋回半径で『海風』のテールへ回り込む。

試作搭乗員の手が手繰り寄せた完璧な未来位置。

 瑞星の排気音が、海風の真後ろをピタリと捉えた。

 堀越の指先が強張る。

 直後、大気が引き裂かれた。

『海風』の太い胴体が、旋回もひねりもなく、垂直の角度へ機首を跳ね上げる。

 ただ一直線に天空を貫く黒い影。

十二試の照準器から、巨大な胴体が絶対的な馬力差だけで消え去った。

 眩暈のするような高度差。

追随しようと機首を上げた十二試の頭上に、すでに『海風』が覆いかぶさっていた。

 十二試が身を翻す。

 だが、『海風』の尾翼が猛風の中で狂ったように跳ねた。

動圧カプセルの水銀柱がGの過重に揉まれ、油圧電磁弁が甲高い金属悲鳴を上げて過剰応答(オーバーシュート)を巻き起こす。

 胴体骨組が発作のようなハンチングを起こした。

機首が上下左右へ狂った痙攣を繰り返し、操縦士の腕ごと操縦桿を力ずくで叩きつける。

人間が抑え込もうとする筋力など一蹴し、アナログの油圧回路が狂暴に舵をねじ戻す。

 操縦士の意図も、狙いすらもない。

ただ荒り狂う首振りの暴走の中、計算された幾何学の交錯点へ、二〇ミリの砲身が一瞬だけ重なった。

そのゼロコンマ数秒の狂いに、回路のG接点が勝手に火花を散らす。

 ドバババババ!

 大気を撃ち砕く激砲。

叩き出された巨大な排薬莢が舞い、十二試の引き去る標的の吹き流しが、掠めた瞬間に微塵へと弾け散った。

『海風』は追撃すらせず、雲海の彼方へ一直線に突き抜けていく。

「……あ」

 堀越の喉から、乾いた息が漏れた。

 背後は取ったはずだった。

己の幾何学は完璧だった。

 だが、堀越の眼光は逃さなかった。

 強制的に舵をねじ戻した瞬間の、海風の尾翼。

 結合ボルトの周囲から、白いジュラルミンの粉が吹き飛んだ。

塗料が割れ、リベットの頭がコンマ数ミリ浮き上がる。

 あの軋み。

あの振動。

 二年前の「骨の削れる音」だ。

 あの接続部は、わずか五十時間の飛行で長穴に歪み、フラッターを起こして空中分解する。

 知多半島の寒気の中で突かれた、あの凍りついた角の冷たさ。

『……おっちゃん。

このひこうき、おっちゃんが削ったん?』

 幼い声が耳奥で蘇り、真夏の飛龍甲板で堀越の指先を凍りつかせた。

 甲板へと着艦した『海風』。

 風防が滑り開いた瞬間、半消化の米と酸っぱい胃液の匂いが、エンジンの熱風に乗って吹き出した。

 半年前まで丹波で鍬を握っていた若い搭乗員が、血走った目で木甲板の上へ転がり落ちる。

過重に叩きのめされた膝を激しく震わせ、重油と胃液の混ざった鉄板に顔を伏せて叫んだ。

「僕が……僕が落としたんやない!

この箱が、僕の体を勝手に動かして……撃ち抜いたんや!」

 泥と化した少年兵の叫び。

 靚子は視線すら落とさず、足元の吐瀉物を無機質な足取りで躱すと、余白へ鉛筆を走らせた。

「過重限界下、トリム作動圧三十ポンド。

……狂いはありません」

 その背後。

井上成美が白手袋の手を組み、静かに佇んでいた。

「……堀越さん」

 第一ボタンまで留められた軍服の襟。その眼差しには温かみすらあるが、光は一切宿っていない。

「貴方は二年前の名古屋で、川西の機体を『骨が削れる』と評しましたね」

 堀越の手が止まった。

「……見たでしょう、井上中将。

あの尾翼の塗料が割れた。

ボルト穴が歪んでいる。

あれは五十時間で空中分解する死の予兆です!」

 堀越の声が、潮風の中で激しく震えた。

「そんなものは飛行機ではない!

命を預ける翼を何だと思っている!

50時間で使い捨てるために削り、磨いたとでもいうのですか!」

 井上は静かに、白波の打つ水平線へ視線を向けた。

「……50時間で十分なのですよ」

 言葉が、甲板の暴風を止めた。

「50時間飛べば、機体も乗員も南洋の海でどうせ消耗して消えます。

我が海軍が必要としているのは、一生モノの工芸品ではなく、使い捨ての規格品です。

熟練工が削り出す貴方の美しい機体一機の工数で、阪急の工場は『海風』を四機吐き出します。

……どちらが兵隊を活かすか、計算尺を使うまでもないでしょう」

「……ッ!」

 喉の奥で、血の味が広がった。

言い返そうとした堀越の言葉を、井上の澄んだ声が完璧に塞ぎ止めた。

「お分かりですか、堀越さん。

貴方が作ろうとしている繊細な『軽単』に乗る人間など、もはやこの国には一人も存在しないのですよ」

 井上はポケットから出した書簡を、堀越の胸元へ静かに差し出した。

 ——機体開発からの撤退。

二千馬力級発動機の供給専業化。川西航空機への出向。

「……三菱の発動機は、素晴らしい。

……それだけで十分でしょう、堀越さん」

 辞令を突っぱねる言葉すら、堀越の口から出なかった。

 手の中で、バキリと嫌な音が響いた。

 ポケットの奥で力任せに握り潰された計算尺。

竹の鋭い繊維と裂けたセルロイドの断面が白手袋を突き破り、堀越の掌に深く刺さった。

 滲み出る黒赤い血が、かつて精密な対数スケールを描いていた数値をゆっくりと呑み込んでいく。

 白のスラックスの裾を揺らし、乗馬ブーツの硬い踵を鳴らして、少女が通り過ぎていく。

 甲板の突起物も、ぶちまけられた搭乗員の胃液も、重油の泥も、その歩みを一ミリも狂わせることはない。

 遠ざかる少女がか細く、不機嫌そうに息をついた。

「真夏のブーツなど、最悪ですわ」

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