九段。
憲兵司令部。
地下鑑識室。
赤ランプが落とす血のような光の中で、チオ硫酸ナトリウムと酢酸の刺すような薬品臭が澱んでいた。
水槽のバットの中で、現像液に浸されたガラス乾板が小さく揺れている。
東條英機中将は白手袋を外し、湿った硝子の端を慎重に指先でつまみ上げた。
赤外線感光乾板。
1928年、亡き村神大尉の事故調書原本。
かつて墨で塗りつぶされた塗抹痕の奥から、赤外線で透過撮影されたネガの黒白が逆転し、怪しく白い文字となって浮かび上がっていた。
『時子 四歳』
『母、三・一五事件にて検挙、獄死。
並びにソ連諜報網への軍事機密漏洩疑義』
東條の細い指先が、ガラスの冷たさを確かめるように滑る。
石原莞爾。
身内の不祥事を揉み消し、赤化スパイの遺児を抱え込み、白鶴の絶対公差を計算する「心臓」として鎮座させていた。
東條は乾板を静かに引き上げると、印画紙とともに予備の茶封筒へ収め、軍服の内ポケット深くへ滑り込ませた。
永田町。
首相官邸。
執務室。
庭のシガラシが狂ったように鳴いていた。
内閣総理大臣、永田鉄山大将が執務デスクで静かに眼鏡を外した。
その傍らには、参謀本部作戦部長、石原莞爾少将。
杉戸が滑り、東條が寸分狂わぬ歩調で踏み込んできた。
応接卓へ叩きつけられる茶封筒。
赤外線復元写真と、大連からの極秘送金票。
「説明を伺いたい、石原少将。
事故死の隠蔽、およびコミンテルン関係者の潜伏隠匿。
……明朝、全資料を枢密院と宮中へ回送する」
東條の鋭い視線が石原を射貫く。
だが、石原は微動だにしない。硝子玉のような目を東條に向け、しゃがれた声で言い放った。
「村神の件は事実です。
時子はコミンテルンの娘だ。
……どうぞ、宮中へ」
永田が引き出しから黒革の分厚い台帳を取り出し、東條の資料の横へ静かに置いた。
【西日本白鶴兵站・裏会計総覧】。
「告発と同時に、この台帳が陸軍省の手続きとして処理される」
石原が台帳の表紙を指先でトントンと叩いた。
「白江航空の全機差し押さえ。
大泊の北樺太ガソリンは封鎖。
明朝の奉天軍三十万への給与振込は停止。
……東條中将、軍紀の維持と引き換えに、満州の治安失効を承認されるか」
東條の眼光が極限まで細まった。
ただの脅迫ではない。
白鶴という機構はすでに西日本の物流と満州興業、さらには関門海峡の送電網まで血脈として張り巡らされている。
いまこれを止めれば、陸軍そのものが自滅する。
……だが、引き下がるわけにはいかない。
東條の冷酷な官僚脳が、一瞬で最善の解を弾き出した、その時。
「……東條」
永田が眼鏡をかけ直し、静かに告げた。
「お前が中将のまま軍務局長に入れ。
この不法な兵站と裏会計を、お前の目で毎日監視しろ。
……その代わり、異動で石原を中将へ上げ、陸相に座らせる」
室内に、時計の秒針の音だけが落ちた。
同階級のまま、石原が「大臣」、東條が「局長」。
一見、石原への大抜擢に見える。
だが、東條の口元に、微かな冷笑が浮かんだ。
軍務局長。
全陸軍の予算、制度、省令の蛇口を握る絶対のポスト。
裏会計を陸軍省の規則という檻の中に引きずり込み、予算の分配権を自ら握れば、白鶴の毒薬の栓は自分が締め上げることができる。
石原が陸相の椅子に座ろうと、その首根っこを永久に縛り上げるのは、自分だ。
「……軍務局長、謹んでお引き受けいたします」
東條は茶封筒を胸ポケットに納めると、黒い手帳を取り出し、鉛筆で『軍務局長/石原陸相』とだけ手短に刻んだ。
一度も後ろを振り返らず、東條は退室した。
三宅坂の裏手。
雨が車窓を激しく叩く黒塗りの公用車。
車内には、湿った羊毛の軍服とガンオイルの匂いが重く充満していた。
隣で十五歳になった時子が、膝の上で黒革の図面ケースを抱え込んでいる。
「神田へ行く。
市川房枝のところへ預ける」
石原の低い声には、感情の起伏がない。
「……なんでなん? 急に」
時子の口から出たのは、天保山や代沢で育まれた、使い慣れた大阪の言葉だった。
石原は前方の暗がりを見つめたまま、言葉を吐き出す。
「露見した。お前の出自だ」
「……わたしの、出自?」
「血のつながりはない。
お前を四歳で引き取った」
車底を叩く雨音が、急激に大きくなったような気がした。
「実父の村神は、事故で死んだ。実母は……三・一五で捕まり獄死した、赤だ」
その瞬間、時子の喉の奥で「ヒュッ」と乾いた空気が引きつった。
脳奥の暗がりから、十一年間封印されていた四歳の記憶が、泥水のように溢れ出す。
——東山の寺の、黴と安石鹸の匂い。
白い子供着物の袖を掴んだとき、折れるほどの手圧で手首を握り返してきたテイ子の、あの冷たく激しい手のひら。
「いくん?」と尋ねた自分の問いに、「ええ。おいで」と応じたあの氷の声。
(……あれは、夢やなかったんか)
全身の血が足元から抜け落ちていく。
頭の中で、これまで自分に注がれてきたぬくもりの記憶が、濁流となって乱反射した。
自分の手首に跡が残るほど抱きしめ、熱い白米を盛ってくれたテイ子。
「時ちゃん、銭っちゅうのはな、グルグル回すんや」とトコロテンを奢ってくれた小林のおっちゃん。
「お嬢!でかいなれよ」と痛いくらいに頭を撫で回してくれた山下のおっちゃん。
天体望遠鏡で土星の環を見せ、「時子さん、宇宙はみな美しかよ」と微笑んだ大石のわさじい。
そして、いつだって自分の前で巨大な壁となり、絶対の数字を預けてくれた、この父。
自分は愛されていた。
歪で狂気じみてはいても、間違いなく家族として、血以上に濃い絆で抱きしめられていた。
……だが、そのすべては、国賊の娘という泥の上に建てられた「偽りの城」だったのか。
自分がこの父の、この白鶴の「公差の狂い」そのものだったのか。
「……嘘や」
時子の唇が震えた。
指先が強張り、図面ケースの角に爪が食い込んで白く変色する。
「嘘や……今さら、そんな……!」
「東條に掴まれた」
石原の声が、時子の叫びを冷たく遮った。
「白鶴の公差計算室からは外す。憲兵の届かん神田へ潜れ」
呼吸ができない。
胸の奥が締め付けられ、酸素が肺に届かない。
とうちゃんに拒絶されたという恐怖と、自分がこの父の、この家の「致命的な弱点」であったという事実が、時子の十五歳の身体を完膚なきまでに砕いていた。
喉の奥から、酸っぱい胃液の匂いがせり上がってくる。
「……とう、ちゃん……っ」
激しい雨音の中、石原は初めて時子へ顔を向けた。
その硝子玉のような目の奥に、狂おしいまでの執着と、親としての凄絶な光が宿っていた。
「公差が整うまで、潜れ。
……必ず迎えに行く」
石原の手が伸び、強張った時子の頭を、壊れものを扱うように強く引き寄せた。
軍服の硬い布地とガンオイルの匂いが、時子の鼻腔を突く。
「……それまで市川の指示に従え。泣くな、数字を殺せ」
「……はいっ」
時子は抱え込んだ図面ケースに額を押し当て、声にならない悲鳴を殺した。
車窓の外、雨に濡れる三宅坂の暗闇が、少女の生きる世界をどこまでも呑み込んでいった。