白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二十三章『黒印』(1939年 9月)

九段。

憲兵司令部。

地下鑑識室。

 赤ランプが落とす血のような光の中で、チオ硫酸ナトリウムと酢酸の刺すような薬品臭が澱んでいた。

 水槽のバットの中で、現像液に浸されたガラス乾板が小さく揺れている。

 東條英機中将は白手袋を外し、湿った硝子の端を慎重に指先でつまみ上げた。

 赤外線感光乾板。

 1928年、亡き村神大尉の事故調書原本。

かつて墨で塗りつぶされた塗抹痕の奥から、赤外線で透過撮影されたネガの黒白が逆転し、怪しく白い文字となって浮かび上がっていた。

『時子 四歳』

『母、三・一五事件にて検挙、獄死。

並びにソ連諜報網への軍事機密漏洩疑義』

 東條の細い指先が、ガラスの冷たさを確かめるように滑る。

 石原莞爾。

 身内の不祥事を揉み消し、赤化スパイの遺児を抱え込み、白鶴の絶対公差を計算する「心臓」として鎮座させていた。

 東條は乾板を静かに引き上げると、印画紙とともに予備の茶封筒へ収め、軍服の内ポケット深くへ滑り込ませた。

 永田町。

首相官邸。

執務室。

 庭のシガラシが狂ったように鳴いていた。

 内閣総理大臣、永田鉄山大将が執務デスクで静かに眼鏡を外した。

その傍らには、参謀本部作戦部長、石原莞爾少将。

 杉戸が滑り、東條が寸分狂わぬ歩調で踏み込んできた。

 応接卓へ叩きつけられる茶封筒。

赤外線復元写真と、大連からの極秘送金票。

「説明を伺いたい、石原少将。

事故死の隠蔽、およびコミンテルン関係者の潜伏隠匿。

……明朝、全資料を枢密院と宮中へ回送する」

 東條の鋭い視線が石原を射貫く。

 だが、石原は微動だにしない。硝子玉のような目を東條に向け、しゃがれた声で言い放った。

「村神の件は事実です。

時子はコミンテルンの娘だ。

……どうぞ、宮中へ」

 永田が引き出しから黒革の分厚い台帳を取り出し、東條の資料の横へ静かに置いた。

【西日本白鶴兵站・裏会計総覧】。

「告発と同時に、この台帳が陸軍省の手続きとして処理される」

 石原が台帳の表紙を指先でトントンと叩いた。

「白江航空の全機差し押さえ。

大泊の北樺太ガソリンは封鎖。

明朝の奉天軍三十万への給与振込は停止。

……東條中将、軍紀の維持と引き換えに、満州の治安失効を承認されるか」

 東條の眼光が極限まで細まった。

 ただの脅迫ではない。

白鶴という機構はすでに西日本の物流と満州興業、さらには関門海峡の送電網まで血脈として張り巡らされている。

いまこれを止めれば、陸軍そのものが自滅する。

 ……だが、引き下がるわけにはいかない。

 東條の冷酷な官僚脳が、一瞬で最善の解を弾き出した、その時。

「……東條」

 永田が眼鏡をかけ直し、静かに告げた。

「お前が中将のまま軍務局長に入れ。

この不法な兵站と裏会計を、お前の目で毎日監視しろ。

……その代わり、異動で石原を中将へ上げ、陸相に座らせる」

 室内に、時計の秒針の音だけが落ちた。

 同階級のまま、石原が「大臣」、東條が「局長」。

 一見、石原への大抜擢に見える。

だが、東條の口元に、微かな冷笑が浮かんだ。

 軍務局長。

全陸軍の予算、制度、省令の蛇口を握る絶対のポスト。

 裏会計を陸軍省の規則という檻の中に引きずり込み、予算の分配権を自ら握れば、白鶴の毒薬の栓は自分が締め上げることができる。

石原が陸相の椅子に座ろうと、その首根っこを永久に縛り上げるのは、自分だ。

「……軍務局長、謹んでお引き受けいたします」

 東條は茶封筒を胸ポケットに納めると、黒い手帳を取り出し、鉛筆で『軍務局長/石原陸相』とだけ手短に刻んだ。

 一度も後ろを振り返らず、東條は退室した。

 三宅坂の裏手。

雨が車窓を激しく叩く黒塗りの公用車。

 車内には、湿った羊毛の軍服とガンオイルの匂いが重く充満していた。

 隣で十五歳になった時子が、膝の上で黒革の図面ケースを抱え込んでいる。

「神田へ行く。

市川房枝のところへ預ける」

 石原の低い声には、感情の起伏がない。

「……なんでなん? 急に」

 時子の口から出たのは、天保山や代沢で育まれた、使い慣れた大阪の言葉だった。

石原は前方の暗がりを見つめたまま、言葉を吐き出す。

「露見した。お前の出自だ」

「……わたしの、出自?」

「血のつながりはない。

お前を四歳で引き取った」

 車底を叩く雨音が、急激に大きくなったような気がした。

「実父の村神は、事故で死んだ。実母は……三・一五で捕まり獄死した、赤だ」

 その瞬間、時子の喉の奥で「ヒュッ」と乾いた空気が引きつった。

 脳奥の暗がりから、十一年間封印されていた四歳の記憶が、泥水のように溢れ出す。

 ——東山の寺の、黴と安石鹸の匂い。

 白い子供着物の袖を掴んだとき、折れるほどの手圧で手首を握り返してきたテイ子の、あの冷たく激しい手のひら。

「いくん?」と尋ねた自分の問いに、「ええ。おいで」と応じたあの氷の声。

(……あれは、夢やなかったんか)

 全身の血が足元から抜け落ちていく。

 頭の中で、これまで自分に注がれてきたぬくもりの記憶が、濁流となって乱反射した。

 自分の手首に跡が残るほど抱きしめ、熱い白米を盛ってくれたテイ子。

「時ちゃん、銭っちゅうのはな、グルグル回すんや」とトコロテンを奢ってくれた小林のおっちゃん。

「お嬢!でかいなれよ」と痛いくらいに頭を撫で回してくれた山下のおっちゃん。

天体望遠鏡で土星の環を見せ、「時子さん、宇宙はみな美しかよ」と微笑んだ大石のわさじい。

 そして、いつだって自分の前で巨大な壁となり、絶対の数字を預けてくれた、この父。

 自分は愛されていた。

歪で狂気じみてはいても、間違いなく家族として、血以上に濃い絆で抱きしめられていた。

 ……だが、そのすべては、国賊の娘という泥の上に建てられた「偽りの城」だったのか。

自分がこの父の、この白鶴の「公差の狂い」そのものだったのか。

「……嘘や」

 時子の唇が震えた。

指先が強張り、図面ケースの角に爪が食い込んで白く変色する。

「嘘や……今さら、そんな……!」

「東條に掴まれた」

 石原の声が、時子の叫びを冷たく遮った。

「白鶴の公差計算室からは外す。憲兵の届かん神田へ潜れ」

 呼吸ができない。

胸の奥が締め付けられ、酸素が肺に届かない。

 とうちゃんに拒絶されたという恐怖と、自分がこの父の、この家の「致命的な弱点」であったという事実が、時子の十五歳の身体を完膚なきまでに砕いていた。

 喉の奥から、酸っぱい胃液の匂いがせり上がってくる。

「……とう、ちゃん……っ」

 激しい雨音の中、石原は初めて時子へ顔を向けた。

 その硝子玉のような目の奥に、狂おしいまでの執着と、親としての凄絶な光が宿っていた。

「公差が整うまで、潜れ。

……必ず迎えに行く」

 石原の手が伸び、強張った時子の頭を、壊れものを扱うように強く引き寄せた。

軍服の硬い布地とガンオイルの匂いが、時子の鼻腔を突く。

「……それまで市川の指示に従え。泣くな、数字を殺せ」

「……はいっ」

 時子は抱え込んだ図面ケースに額を押し当て、声にならない悲鳴を殺した。

 車窓の外、雨に濡れる三宅坂の暗闇が、少女の生きる世界をどこまでも呑み込んでいった。

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