神田。
婦人問題研究所。
夕闇の差し込む六畳間に、ガリ版の油墨と安石鹸、湿気た紙と雨の匂いが重く沈殿していた。
軍服を脱いだ石原莞爾は、畳の上に軍帽を置くと、無言で両手を突いた。
額が床板の墨汚れにつくまで、深く、深く頭を下げる。
陸軍中央の権力闘争から追われ、身ぐるみ剥がされた男の背中が、ただの小さなおとこに見えた。
「……時子を、頼みます。
この子に……
人間の飯を食わせてやってください」
市川房枝は鉄筆を握ったまま、眼鏡の奥から石原の薄い頭頂部を見つめていた。
原稿用紙の上に置かれた太い指先一つ動かさない。
「……大参謀が、どえらい挨拶だね」
石原は何も答えず立ち上がると、一度も振り返らず、暗い木造階段を軋ませて去っていった。
部屋の隅で、十五歳の時子は膝を抱えて丸まっていた。
指先が硬直して動かない。
過呼吸で口角から垂れた唾液と、万年筆の黒いインクが、紺色の制服の膝を汚していた。
「わたしのせいや……
わたしの血のせいで、とうちゃんの計算が狂うてしもた……
わたしは、汚点や……」
カサカサした声が漏れる。
房枝は鉄筆をガリ版の鉄板の横へ静かに置いた。
台所へ引っ込み、戻ってきた盆には、冷めきって表面に薄皮の張った味噌汁と、固まった一盛りの冷飯が載っていた。
ダン、と時子の前へ叩きつける。
「……時子」
濁った名古屋弁が、部屋の湿気を切り裂いた。
「石原のバカが、畳に頭擦り付けていったわ。
『この子に人間の飯を食わせてくれ』だとさ。
国家がどうの言っとる男が、鼻紙みたいなツラして頭下げてくんだで、笑えてまうがね」
時子が顔を上げた。
瞳の焦点が定まらない。
「ち、違う……
わたしは、とうちゃんの綺麗な世界を壊したアホで……」
「綺麗だの汚点だの、男の気取った言葉使っとるんじゃないわ!」
房枝の手がガシと時子の襟首を掴み上げた。
ゴツゴツとした大きな手のひら。
安石鹸と油墨の匂いが鼻を突く。
「腹が減ったら飯を食う。
泥かぶって、排泄して、また地に足つけて立つ。
アタシらがやってきたのは、それだけだ!
愛だの何だの甘っちょろいもんじゃない。
あの男はな、あんたを生かすために泥を被りに来たんだがね!」
房枝は冷え切った茶碗と箸を、時子の手へ力任せに押し付けた。
時子は震える手で箸を握った。固い冷飯を口へ押し込む。
たくあんの塩気と、出汁の抜けた冷えた味噌汁の匂い。
顎から汁を垂らし、鼻水をすすりながら、ただひたすらに喰らいついた。
茶碗を空にしたころには、肩の浅い上下運動が止まり、胸の揺れは一定の周期に落ち着いていた。
「……時子、ついてきや」
房枝は着物の裾を高く端折り、古びた革靴の紐を固く結び直していた。
「久子、留守を頼むぞ。
折り直したチラシ、一枚でも二ミリずれてたら承知せんで」
「はい、先生」
表へ出ると、ねっとりとした煤の匂いが肌にまとわりついた。
万世橋を越え、東へ歩むにつれて足下から砂利が消えた。
靴底にねばりつく黒い粘土質の泥。
踏み出すたび、湿った土が脚を引っ張る重い手応えが膝へと伝わる。
房枝が傾いた長屋の格子戸を引き開けた。
「タミさん、おるか!」
立ち上ってきたのは、腐った藁と汗の酸っぱい匂い。
壁から伸びた黒い電線は途中で切れ、導線を剥き出しにしたまま垂れ下がっている。
房枝が燐寸を擦った。
橙色の小さな火種が、湿ったむしろの上に沈み込む女の輪郭を浮き彫りにする。
膝元にはボロ切れを纏った幼子がへばりついていた。
「市川……先生……」
房枝は何も言わず、竹皮に包んだ握り飯を二つ、むしろの端へ滑らせた。
冷え切った闇の中で、女の掌だけが白く浮いていた。
十本の指先は紫黒く腫れ、爪の際から割れた皮膚に冷えた澱粉糊の白い塊が凝固している。
女の膝の上で、不揃いに破られた粗悪な紙屑が、冷たい水で練られた糊の湿り気を吸って鈍い擦過音を立てていた。
濡れた紙を木型へ押し当て、角を折る。
一千個で六銭。
時子は土間に膝をついた。
紺色の制服の膝が、湿った土の黒を吸っていく。
油墨と生血と腐った糊の臭気が混ざり合う。
時子の手が伸びた。
インクで汚れた指が、糊で潰れた女の指腹に触れる。
乾燥した研磨紙を滑らせたような荒い摩擦音が静寂を割った。
女の皮膚は氷のように冷たかった。
時子の視線は女の顔を跳ね飛ばし、木型の上の紙箱の角だけに固定されていた。
指先が、積まれた箱の端を一定の速度で撫でる。
「……紙の厚みが、不揃いや」
高低のない、一定の音量。
「ここ、〇・五ミリ厚い。
糊の水分で紙が膨らんでる。
押し固める圧力が足りん。
重ねたら、自重で角から崩れる」
時子はポケットから、白鶴の刺繍が入った木綿の手ぬぐいを取り出した。
両端を掴み、一気に引く。
木綿が引き千切れる乾いた破裂音が狭い部屋に跳ね返った。
帯状になった布を女のひび割れた人差し指に巻きつけ、容赦なく強く引き締める。
女の口から短い悲鳴が漏れた。時子は結び目の位置と布の張りのみを見つめていた。
「血止めて、指の皮固めて、厚み揃えんかったら――この子、死ぬ」
時子は女の傷口から目を離し、薄暗い長屋の天井、その向こうの空を見据えた。
瞳の奥で、冷たい光が凝固していく。
「とうちゃんの図面にも……
小林のおっちゃんの算盤にも、永田の先生の統制にも、この人らは入ってへん。
端数にも、計算の枠にも残ってへん……
誰も、ここまで揃えてへんかったんや」
時子は制服の裾で爪の間の油墨を力力任せに擦り落とした。
黒い汚れが生地に擦れ込み、二度と落ちない染みになる。
「わたしが……揃える。
この泥の底まで、一ミリも狂わせんと、全部揃える」
ふん、と鼻で笑う音が、暗闇の天井から降ってきた。
房枝が暗がりのなかで巨躯を揺すり、時子の背中を上から覗き込んでいた。
眼鏡のレンズが、湿気た燐寸の残り火を鈍く反射している。
「時子。
あんたはまだなあんも分かっちゃせんわ」
低く、濁りきった声が、時子の耳奥を殴りつけた。
「自分から好んでこの泥へ降りてきてな、いつでも腹いっぱい食える元の場所へ戻れる高みから、下々を眺めとるだけだで。
そんな汚ぇ高みの見物に気付かんようじゃ、あんたの言う『揃える』なんてのは、ただの子供のお遊びだて!」
房枝の言葉が、時子の背骨を氷の楔のように貫いた。
膝を泥に浸しながら、自分だけが安全な舟の上から手を差し伸べていた横柄さ。
傷ついた自尊心を救うために、この女の貧困を「計算の材料」に利用していた愚かさ。
時子の指先が土間の泥を固く握りしめた。
爪の間へ黒い粘土が食い込む。
「……遊びや、あらへん」
顔を上げた時子の目から、甘い感傷も、己の血への怯えも完全に消え去っていた。
「高みにおるなら……
その高みの金も、知恵も、全部この泥に流し込んで揃えたらええ。
先生。
神田へ戻って、チラシ折ります。運動の紙、折ります」
房枝は暗闇の中で眼鏡のブリッジを指で静かに押し上げた。
レンズの奥の目が、目の前の十五歳の中に芽生えた、本物の怪物の影を完璧に捉えていた。
「二ミリ狂っとったら、あんたごと叩き出すがね」
「……一ミリも、狂わせへん」
時子は格子戸を引き開け、暗がりの中へ踏み出した。
ドブ川の水たまりに革靴の踵が容赦なく突き刺さり、黒い泥線を描いて跳ねあがる。
万世橋の向こう、遠く西の空には雲が重く垂れ込めていたが、十五歳の背中はただまっすぐに、泥を踏みくだいて進んでいった。