阪神急行梅田駅、新ターミナルビル大食堂の工事現場。
骨組みの鉄骨が剥き出しの空間に、セメントの粉塵と、突貫作業員が喰らうカレー粉の甘い刺激臭が立ち込めていた。
鋼鈑を叩くエアリベットガンの爆音が地響きとなって鼓膜を揺らすなか、小林一三は簡易机の上に巨大な図面を広げた。
大阪湾から梅田、そして京都を結ぶ阪神急行の路線網。
その港湾部に、巨大な水上飛行艇の発着場が黒いインクで描き足されている。
「大連や上海から飛んできた客を、そのままうちの電車に呑み込む。
……だが石原さん、最大の問題は軍でも大蔵省でもない。
大阪市や」
小林は冷えた炭酸水を口に含み、グラスの縁を指で撫でながら苦々しく吐き捨てた。
「市営モンロゥ主義ですよ。
市内の港も交通も、市役所が独占して絶対に譲らん。
私鉄が港へ直結の線を伸ばすなど、市会が束になって叩き潰しにきますわ」
「市を跨ぐから争いになる」
図面を覗き込む石原の眼光は、極冷の刃だった。
「第四師団の『戦時補給路演習』の指定を受けるのです。
港から梅田への資材輸送網として、陸軍が阪急の線路を暗号指定する。
演習用地となれば、市の条例など吹き飛ぶ」
「……陸軍の威光で、市の独占を叩き割ると」
小林の目が細くなった。
「タダとは言いません。
見返りに、阪急の資本で技術徒弟学校を造りなさい。
貧しい農家の次男坊を集め、鉄道と航空の保全を叩き込む。
平時は阪急の社員、有事には軍の予備役技術兵です」
小林は炭酸水のグラスを静かに置いた。
氷が乾いた音を立てて跳ねる。
「商人の金を兵隊の養育に使わせる気ですか。
……相変わらず、えげつない算盤を弾くお人だ」
小林の低い呟きに、石原はふっと薄い唇を吊り上げた。
「市役所の狸どもを黙らせるなら、その悪知恵、買いましょう」
◇
夕刻。
池田の回生病院、特設病室。
白茶けた部屋に、消毒液の冷たい匂いが漂っていた。
病床のテイ子は、ゆっくりと身体を起こした。ギシと鉄製ベッドが鳴り、ドアが開く。
石原が時子の手を引いて入ってきた。
「……莞爾さん、時子」
テイ子の顔に安堵が走る。
だが、次の瞬間、テイ子の視線が石原の夏衣の胸元で止まった。
下士官たちに洗い落とされた綿地に染み込んだ、石鹸の匂い。
その奥に張り付く、かすかなアンモニアの不快な残香。
そして四歳の時子は、石原の大きな軍帽を両手で抱え、直立していた。
「……莞爾さん。
そのお召し物は……」
テイ子の声がかすかに震えた。
「支障はない」
石原は短く応え、丸椅子を引き寄せると時子を抱き上げた。
テイ子は息をのんだ。石原は膝の上の時子の真っ赤な頬を、無骨な指でそっと撫でた。
時子は表情一つ変えず、ポケットから小さな右手を静かに引き抜いた。
掌の上に乗っていたのは、鳴尾の砂浜で拾い集めた、波に洗われて傷一つない『完璧な楕円形』を描く黒い平石だった。
不揃いな貝殻や雑石はすべて捨て、それ一つだけを寸分の狂いもなく選別した規格品。
時子はそれを、テイ子の掛け布団の折れ目へ、吸い付くような正確さでそっと置いた。
「……かーちゃ、いし」
幼子の愛嬌など微塵もない、透き通った声。
テイ子の目からぽろりと涙がこぼれ落ち、布団の上の黒石を濡らした。
テイ子は細い指でその冷たい石を固く握りしめ、夫を見つめた。
石原は何も言わず、ただ静かに窓の外、阪神急行の線路が伸びる夕闇を見つめていた。