白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第二十五章『家族』(1939年 9月)

神田。

 婦人問題研究所の暗い二階。

 三日三晩、時子はガリ版の鉄板の前にへばりついていた。

 指先は油墨で漆黒に染まり、爪の隙間に乾いたインクが固着して取れない。

 鉄筆で刻む文字、手折るチラシの端。

 一ミリの狂いも許さず重ねられた数千枚の運動紙の山が、異様な正確さで六畳間に聳え立っていた。

 タミたちのあの血の滲んだ指先を、この紙が一枚でも救うのだという呪縛。

 過呼吸で引きつる喉を殺し、ただ機械のように手を動かし続ける十五歳の背中を、市川房枝は黙って見つめていた。

 三日目の夕暮れ。

 雨の叩く神田の路地に、黒塗りの公用車が静かに横付けされた。

 後部座席から降り立った石原莞爾は、羊毛の軍服の肩を濡らしたまま、無言で格子戸を開けた。

 房枝は鉄筆を置いたが、目を上げない。

「……連れてくかね」

「……お世話になりました」

 石原は帽子の庇に手をやり、深く頭を下げた。

 時子は図面ケースと帳面を胸に強く抱きしめ、立ち上がった。

 膝の関節が軋み、ガリ版の黒い汚れが制服の膝に擦れつく。

 二人の間に言葉はない。

 時子は車に乗り込み、濡れたレザー座席の重い匂いの中に身体を沈めた。

 代沢。

 石原邸。

 玄関を開けた瞬間、炊きたての白米の湯気と、出汁の効いた味噌汁の香りが胸を突いた。

 割烹着姿のテイ子が、三和土で二人を迎えた。

 村神の事故、実母の死、東條の脅迫――動いた毒のすべてをテイ子は知っている。

 だが、その顔には波風一つ立っていない。

「……お帰り、時子」

「……ただいま、おかあさん」

 それだけだった。

 ちゃぶ台の上には、立つ湯気が眩しい白米、香ばしく焼き目のついたアジの塩焼き、大根の味噌汁、黄色いたくあん。

 石原も、テイ子も、時子も、一切の事情を口にしなかった。

 時子は爪の間を黒く染めた汚れた手で茶碗を握り、カツカツと箸を叩きつけた。

 たくあんを噛み砕くパリッとした硬い音。

 汁を啜る音。

 静寂の中に、生きるための音だけが落ちる。

 時子は顎から汁をこぼしそうになりながら、一心不乱に白米を口へ掻き込んだ。

 テイ子が黙って温かいお茶を差し出し、固く絞った手ぬぐいで、時子の頬についた神田の煤をそっと拭った。

 膳を下げ、畳を拭きあげた後。

 部屋の隅に立った時子が、衣類の裾を指先で固く握りしめたまま、消え入りそうな声を出した。

「……とうちゃん、おかあさん」

 石原が座布団の上で顔を上げた。

「どうした、時子」

「……今日は、みんなで寝たい」

 テイ子が静かに押し入れを開け、綿の詰まった布団を三枚、隙間なく畳の上に並べた。

 中央に時子。

 右手にテイ子、左手に石原。

 テイ子が手を伸ばし、行灯の灯りを吹き消した。

 暗闇の中、屋根を叩く雨音だけが遠く響く。

 十五歳の張つめていた糸が切れたのは、その瞬間だった。

 時子は身をよじり、布団に顔を押し付けた。

「……っ……ふ、ぐ……」

 しゃくりあげるような、無様に押し殺した嗚咽が漏れ出した。

「……とうちゃん…おかあさん……」

 暗闇の中、石原莞爾は無言で横を向き、ガシッと大きな手で時子の細い肩を引き寄せた。

 ただ、そのゴツゴツとした手のひらで、時子の背中を叩いた。

――ポン。

……ポン。

 一定の拍子で、静かに、重く。

 骨の当たる硬い感触。

 言葉は一切かけない。

 ただ、叩く手拳の重さだけが暗闇の中に落ちる。

 時子の嗚咽がやがて小さくなり、背中の上下が規則正しい呼吸に変わっていった。

 石原は暗闇の中、油墨で汚れた時子の節の立った小さな指先に触れた。

 雨音だけが、代沢の屋根を静かに叩き続けていた。

 翌朝。

 永田町の首相官邸。

 総理執務室。

 開け放たれた窓から、雨上がりの芝生の匂いが漂っていた。

 内閣総理大臣、永田鉄山大将は、デスクの上の電報綴りから目を離さなかった。

 欧州開戦の報。

「三宅坂が跳ね上がっている」

 永田は眼鏡を外し、静かに緑の絹布で拭いた。

「東條が軍務局長として陸軍省の金庫の栓を締めにかかっとる。

血の止まらん連中は抑えきれんぞ、石原陸相。南進の声をどう潰す」

 向かいに立つ新陸軍大臣、石原莞爾中将は微動だにしなかった。

「叩けば、大連のドルもバタヴィアの油も蒸発します。

兵站が三日で詰む」

「なら、何を見せる」

 永田が眼鏡をかけ直し、冷徹な視線を向けた。

「……帳簿です」

 石原の唇が、不敵に歪んだ。

「イギリスはあと何日持ちますか」

「……十七日だ」

「台帳を出します。

海軍の井上を立て、白鶴で飛びます」

 永田はしばらく石原を見つめていたが、手元の万年筆を黒革の台帳の上に、カツンと静かに置いた。

 石原は一礼し、執務室をあとにした。

 三宅坂の裏手。

 黒塗りの公用車に石原が乗り込むと、助手席には図面ケースを抱えた時子が座っていた。

「行くぞ、時子」

 石原の声に、迷いはない。

「浜離宮から白鶴で飛ぶ。

井上中将が待っている」

「……はい、とうちゃん」

 時子は膝の上で、黒革の計算帳の銀の金具をカチリと鳴らした。

 湿った革の冷たさと、神田の油墨の匂いが、指先に残っていた。

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