神田。
婦人問題研究所の暗い二階。
三日三晩、時子はガリ版の鉄板の前にへばりついていた。
指先は油墨で漆黒に染まり、爪の隙間に乾いたインクが固着して取れない。
鉄筆で刻む文字、手折るチラシの端。
一ミリの狂いも許さず重ねられた数千枚の運動紙の山が、異様な正確さで六畳間に聳え立っていた。
タミたちのあの血の滲んだ指先を、この紙が一枚でも救うのだという呪縛。
過呼吸で引きつる喉を殺し、ただ機械のように手を動かし続ける十五歳の背中を、市川房枝は黙って見つめていた。
三日目の夕暮れ。
雨の叩く神田の路地に、黒塗りの公用車が静かに横付けされた。
後部座席から降り立った石原莞爾は、羊毛の軍服の肩を濡らしたまま、無言で格子戸を開けた。
房枝は鉄筆を置いたが、目を上げない。
「……連れてくかね」
「……お世話になりました」
石原は帽子の庇に手をやり、深く頭を下げた。
時子は図面ケースと帳面を胸に強く抱きしめ、立ち上がった。
膝の関節が軋み、ガリ版の黒い汚れが制服の膝に擦れつく。
二人の間に言葉はない。
時子は車に乗り込み、濡れたレザー座席の重い匂いの中に身体を沈めた。
代沢。
石原邸。
玄関を開けた瞬間、炊きたての白米の湯気と、出汁の効いた味噌汁の香りが胸を突いた。
割烹着姿のテイ子が、三和土で二人を迎えた。
村神の事故、実母の死、東條の脅迫――動いた毒のすべてをテイ子は知っている。
だが、その顔には波風一つ立っていない。
「……お帰り、時子」
「……ただいま、おかあさん」
それだけだった。
ちゃぶ台の上には、立つ湯気が眩しい白米、香ばしく焼き目のついたアジの塩焼き、大根の味噌汁、黄色いたくあん。
石原も、テイ子も、時子も、一切の事情を口にしなかった。
時子は爪の間を黒く染めた汚れた手で茶碗を握り、カツカツと箸を叩きつけた。
たくあんを噛み砕くパリッとした硬い音。
汁を啜る音。
静寂の中に、生きるための音だけが落ちる。
時子は顎から汁をこぼしそうになりながら、一心不乱に白米を口へ掻き込んだ。
テイ子が黙って温かいお茶を差し出し、固く絞った手ぬぐいで、時子の頬についた神田の煤をそっと拭った。
膳を下げ、畳を拭きあげた後。
部屋の隅に立った時子が、衣類の裾を指先で固く握りしめたまま、消え入りそうな声を出した。
「……とうちゃん、おかあさん」
石原が座布団の上で顔を上げた。
「どうした、時子」
「……今日は、みんなで寝たい」
テイ子が静かに押し入れを開け、綿の詰まった布団を三枚、隙間なく畳の上に並べた。
中央に時子。
右手にテイ子、左手に石原。
テイ子が手を伸ばし、行灯の灯りを吹き消した。
暗闇の中、屋根を叩く雨音だけが遠く響く。
十五歳の張つめていた糸が切れたのは、その瞬間だった。
時子は身をよじり、布団に顔を押し付けた。
「……っ……ふ、ぐ……」
しゃくりあげるような、無様に押し殺した嗚咽が漏れ出した。
「……とうちゃん…おかあさん……」
暗闇の中、石原莞爾は無言で横を向き、ガシッと大きな手で時子の細い肩を引き寄せた。
ただ、そのゴツゴツとした手のひらで、時子の背中を叩いた。
――ポン。
……ポン。
一定の拍子で、静かに、重く。
骨の当たる硬い感触。
言葉は一切かけない。
ただ、叩く手拳の重さだけが暗闇の中に落ちる。
時子の嗚咽がやがて小さくなり、背中の上下が規則正しい呼吸に変わっていった。
石原は暗闇の中、油墨で汚れた時子の節の立った小さな指先に触れた。
雨音だけが、代沢の屋根を静かに叩き続けていた。
翌朝。
永田町の首相官邸。
総理執務室。
開け放たれた窓から、雨上がりの芝生の匂いが漂っていた。
内閣総理大臣、永田鉄山大将は、デスクの上の電報綴りから目を離さなかった。
欧州開戦の報。
「三宅坂が跳ね上がっている」
永田は眼鏡を外し、静かに緑の絹布で拭いた。
「東條が軍務局長として陸軍省の金庫の栓を締めにかかっとる。
血の止まらん連中は抑えきれんぞ、石原陸相。南進の声をどう潰す」
向かいに立つ新陸軍大臣、石原莞爾中将は微動だにしなかった。
「叩けば、大連のドルもバタヴィアの油も蒸発します。
兵站が三日で詰む」
「なら、何を見せる」
永田が眼鏡をかけ直し、冷徹な視線を向けた。
「……帳簿です」
石原の唇が、不敵に歪んだ。
「イギリスはあと何日持ちますか」
「……十七日だ」
「台帳を出します。
海軍の井上を立て、白鶴で飛びます」
永田はしばらく石原を見つめていたが、手元の万年筆を黒革の台帳の上に、カツンと静かに置いた。
石原は一礼し、執務室をあとにした。
三宅坂の裏手。
黒塗りの公用車に石原が乗り込むと、助手席には図面ケースを抱えた時子が座っていた。
「行くぞ、時子」
石原の声に、迷いはない。
「浜離宮から白鶴で飛ぶ。
井上中将が待っている」
「……はい、とうちゃん」
時子は膝の上で、黒革の計算帳の銀の金具をカチリと鳴らした。
湿った革の冷たさと、神田の油墨の匂いが、指先に残っていた。