南シナ海の上空、上空千メートル。
二重星型十四気筒「火星二一型」エンジンが吐き出す重低音が、白鶴二型の防音客室を細かく震わせていた。
毎分二千回転で発熱する軸受。
加熱されたキャスターオイルの焦げた匂いが、熱帯の湿気とともに機内に満ちている。
卓上の磁器のカップで、冷めた紅茶が規則正しく波打っていた。
海軍少将、井上成美は、白手袋の指先でカップの縁を静かに押さえた。
「……英国がナチスに屈すれば、住友と大連が立て替えた手形はすべて紙くずです」
向かいの座席で、陸軍大臣、石原莞爾は軍帽の庇を深めにかぶり、うつむいている。
石原の鼻腔を、機内の潤滑油臭が不快に突く。
「向こうから泣きついてくるに決まっとる」
しゃがれた庄内弁が、エンジン音に混じる。
「ポンドが紙くずになった奴らに必要なのは、油だけだばね。
傷病兵のモルヒネ、火薬の大豆グリセリン、インチネジだ。
全部、西の金と東の工場で揃えてやるんださ」
石原の硝子玉のような目が、傍らに座る時子へ向いた。
「……時子、台帳を」
十五歳の時子は口を開かない。
揺れに耐え、熱帯の湿気で首筋に張り付く黒髪を気に留める様子もなく、膝の上の黒革計算帳を開く。
その指先には、永田鉄山から叩きつけられた特注の真鍮製ヘンミ計算尺が固く握りしめられていた。
竹の肉を貫く厚手の真鍮。
両端の固定金具からカーソル枠に至るまでふんだんに奢られたその重量が、熱帯の湿気と機体の振動の中でも微動だにせず、冷徹な質量で時子の指の腹に食い込んでいた。
真鍮特有の鈍い金属臭が、キャスターオイルの焦げ臭さと混ざり合う。
万年筆の先で、東日本の町工場一覧と輸送日程の数字を指し示した。
指先は紫色のインクで汚れ、爪の根元には痛々しいささくれが伸びている。
石原は短く息を吐き、井上を見据えた。
「冷えた工場を動かす。
狂いはねえ」
「……見事な毒薬でございますね」
井上が白手袋の手を膝の上に揃えた。
「我々にすがらねば東洋の領土を一日も維持できぬよう、手続で縛り上げましょう」
ラッフルズ・ホテル。
二階特別応接室。
スコールの雨粒がガラス窓を打ち叩き、天井の三葉ファンがキュルキュルと不快な金属音を響かせていた。
湿った羊毛軍服の匂いと、ダージリン、そして応接室の外から漂う石炭酸の匂いが重く垂れこめている。
英国中国艦隊司令長官、トーマス中将は、火の消えたパイプを噛みしめたまま卓上の海図を見つめていた。
落ちくぼんだ目の周りには、濃い隈が刻まれている。
「……イノウエ提督、これは何かの冗談か?」
トーマスが卓上の書類を拳で叩いた。
「中国艦隊の司令長官に、本国海軍省の裁可もなしに主要港湾の利用権を私約する権限などあるわけがない。
貴公らは大英帝国の主権を買収できると思っているのか」
さらにトーマスは険しい視線を落とし、井上の傍らに座る時子を指さした。
「……それに、この重大な軍事交渉の場に、そのような女子供を同席させるとは何事だ」
井上成美は表情を変えず、白手袋の手を組み替えた。
「主権の買収などとんでもないことでございます。
本国からの補給が絶たれ、香港上海銀行の信用が消え失せた貴艦隊が、自壊を免れるための緊急の代物弁済契約にすぎません」
井上の流暢なオックスフォード英語が響く。
「本国への打電でしたらご自由に。
もっとも、現在シンガポール発の全暗号電信は、港外に着底固定された我が方の工作船『扶桑』のアンテナを経由しております。
ロンドンの受信機に届く頃には、単なる電波障害として処理されているでしょうが」
「なに……」
井上はさらに淡々と続ける。
「これは国家間の主権譲渡ではなく、大連の満州興業が所有する不動産法人と、シンガポール港湾局の間で結ばれる、ケッペル港湾施設の『緊急優先利用および役務提供に関する協定』でございます。
貴艦隊が生き延びるために必要な燃料と医薬品の供給と引き換えに、港湾の補給優先権を我が方の管理下におく。
それだけのことでございます」
行政手続の隙間を完全に塞ぎきる書類群。
トーマスの喉から乾いた呼吸が漏れた。
目の前の男たちが暴く自らの軍の機密は、単なる脅しではない。
その致命的な飢餓状態を「今すぐ現実に解消できる唯一の供給網」が、彼らの手中にあるという動かぬ証明そのものだった。
ドサリと音がした。
石原莞爾が椅子の背もたれに体重を預け、不機嫌そうに足を組み直したのだ。
軍服で張った大きな肩が、時子の身体を覆い隠す位置に割り込む。
英国人たちの視線は、石原の湿った背中にぶつかって遮られた。
「人間だと思って見てっから腹立つんださ、その毛唐は」
低い庄内弁が落ちる。
石原は腹を圧迫しながら、軍帽の庇の奥からトーマスを見射抜いた。
「機械に歳も性別もねえだろ。
ちゃっちゃと数字見ればいいんださ」
石原は目線で卓上を示した。
「……時子、あれを」
時子は無表情のまま黒革計算帳を開き、切り離した紙を一枚、応接卓の中央に置いた。
そこに記されているのは、現実の数字のみだ。
――中国艦隊重油現残高:四千二百トン(スラッジ混入率14%)
――野戦病院破傷風患者:三百十二名(モルヒネ残量:三十六時間分)
――樺太直行油(扶桑経由)補給可能量:月三万トン
――大連精製医療用モルヒネ:本日夕刻便にて到着済(四十箱)
――ボイラー缶摩耗率およびインチ規格予備部品不足数:千四百八十個
「なぜ我々の病院の病床数と薬品の枯渇時間まで……」
金融高官の手から紙が落ちた。
トーマス中将のパイプを持つ手が震え、灰が卓上に散った。
本国からの補給は断たれ、大英帝国の威信などという虚構は、三十六時間後に狂乱する傷病兵と、半月後に動かなくなるボイラーの冷たい数字の前に完全に無力化していた。
拒絶すれば艦隊は港で腐る。
受け入れざるを得ない。
「……決済は」
「ポンドのお支払いは不要です」
井上が静かに言った。
「大連のドル外貨と住友銀行の信用状を充当し、帳簿上で相殺します。
貴国が支払うのは、港湾の利用権と、この紙への署名のみ」
スコールの雨音がヤシの葉を叩き続けている。
トーマスは震える手で万年筆を取り、インク瓶に浸した。
黒いインクの滴が、協定書の署名欄に落ちて滲んだ。
時子はそれを見届け、膝の上で計算尺の真鍮枠を鳴らした。
カチリ。
静寂の中に金属音が響いた。
スコールがやみ、ラッフルズ・ホテルの回廊には鮮血のような夕刻の光が差し込んでいた。
湿気と、濡れた赤土の匂いが立ち込めている。
応接室を出たトーマス中将は回廊の柱に背を預け、火のつかないパイプを口にくわえたまま佇んでいた。
マッチを擦る手がガタガタと震え、軸が折れる。
大英帝国の誇りを自らの手で売り渡した屈辱が、血を冷たく冷やしていた。
廊下の奥から、静かな足音が近づいてくる。
黒革の計算帳を小脇に抱え、ハンカチで指先のインク汚れを拭きながら歩いてくるのは、時子だった。
トーマスは折れたマッチを捨て、冷めた眼差しで少女を見下ろした。
軍人たちの後ろに控えていただけの、言葉も解らぬであろう子供。
トーマスは自嘲気味に鼻で笑い、通じるはずもない母国語で、吐き捨てるように呟いた。
「かわいそうな人形め……
あの狂人どもの駒だということすら、分かっていないのだろうな」
自身の惨めさを誤魔化すための皮肉。
だが、時子は足を止めた。
ハンカチを四つ折りに畳んでポケットに収めると、背筋を伸ばした。
井上成美仕込みの姿勢でトーマスを見上げる。
そして、英国のポッシュ特有の、冷たく気品に満ちた英語の響きで、淡々と業務連絡を落とした。
「モルヒネ四十箱が、十分前にタンジョン・パガー第四埠頭へ到着いたしました。
受領書にサインを、提督」
トーマスの手が止まった。
口のパイプが滑り落ちそうになる。
発音の美しさではない。
この少女は、皮肉を言われたことすら意に介さず、論破して勝ち誇るわけでもなく、ただ「受領書にサインをしろ」という事務手続きの処理として自分を扱っているという事実。
時子は膝の上の黒革計算帳を開き、切り離した受領票と万年筆を差し出した。
爪の先には紙で切った薄い血の跡があり、額には熱帯の汗が滲んでいる。
その無機質な瞳の奥には、前章で東京の闇に突き落とされ、家族の足元が崩れ去った恐怖を埋めるかのように、狂気的なまでの数字と計算尺の質量にしがみつく幼い執着が凍りついていた。
トーマスは震える手で万年筆を受け取り、受領票にサインを走らせた。
時子はそれを受け取ると、静かに会釈した。
一言も残さず、足音を立てて回廊の奥へと去っていく。
カチリ。
すれ違いざま、抱えられた特注ヘンミ計算尺の真鍮とセルロイドが擦れ合い、微かな金属音が響いた。
トーマスの手から、火のつかないマッチ箱が床に落ちた。
拾うことすら忘れ、老将は膝を震わせながら、少女の背中を見送った。
夕日の赤が、白い床の上に十六歳の少女の華奢な影を長く引き伸ばしていた。