神田。
婦人問題研究所。
薄暗い六畳間に、ガリ版の油墨と湿気た紙、そして路地のドブから上がってくる煤けた雨の臭いが重く澱んでいた。
ガリガリという乾いた鉄筆の音が一定の刻みで落ちる横で、奥むめおが畳に太い膝を突き、雑記帳を叩いていた。
「……房枝、本所と深川の長屋はもうおぞいことになっとんの」
むめおの低くねばりつく声が、油墨の空気を揺らす。
「東北の冷害村から娘っこが片っ端から消えとるんざ。
身売り屋に叩き売られるか、小林一三が阪急の地下穴へかき集めて算盤弾かせるかだて。
内職の紙箱貼りじゃ、子どもに食わせる芋の皮すら買えんの。
あんたが三宅坂や永田町ででかい顔しとる間に、足元の女らはドブの泥舐めて死んどるんざぞ!」
市川房枝は鉄筆を止めず、眼鏡の奥の眼光をチラリとむめおに向けた。
「へちま言っとりなさる。
アタシが永田の胸ぐら掴んで『女子参与枠』と『参政権法案』を飲ませたからこそ、阪急の裏金から毎月四十円が東北の実家へ直接叩き込まれとるんだで。
男どもの兵站の首根っこを女が握らんで、どうしてこの地獄で生き残れるかね」
「男の戦争の歯車にして勝ち取る参政権に、何の値打ちがあるんざ!」
むめおが身を乗り出した。
「あんたが上で制度の網を張るんなら、アタシは下で配給と米を握るんざ。
大塚に託児所と生活組合立てて、どんなにおぞい暮らしでも、女と子どもに一口の白米と温かい汁飲ませるての。
……上と下からこの不甲斐ない国家を挟み撃ちにせんと、女の生息域なんか一坪も残らんのだでな!」
「わかっとるわ」
房枝は鉄筆を置き、短く息を吐いた。
「だからあんたに現場の配給権を丸投げしとるんだがね。
アタシらはやり方が違うだけだ。
……目指すはひとつだで」
その時、すり硝子の格子戸が、静かに滑った。
湿った風とともに、雨上がりのドブ板を踏んしてきた靴音が三和土(たたき)で止まる。
柄の失せた地味な木綿の着物に、泥跳ねのついた羽織。
手には、ずっしりと重みのある風呂敷包みが一つ。
三宅坂の陸相の妻、石原テイ子だった。
公用車も従者もない。
都電を乗り継ぎ、ぬかるみを歩いてきた脚元から、湿った綿の匂いが立ち上る。
「……何の用だね、陸相の奥さんが」
房枝の濁った名古屋弁が、暗い部屋の空気を切る。
「ここは将校の奥さんがお茶飲みに来るところじゃねえんだわ。
憲兵の目が届くだで、さっさと帰りや」
テイ子は何も答えず、三和土で履物を揃えると、静かに敷居を跨いだ。
畳の網目に指先を並べ、額がすれるまで深く頭を下げる。
「……時子の母でございます」
静かな、だがかすかに震える声だった。
「先月は……
あの子に食事と、神田の泥を教えてくださり、ありがとうございました」
「挨拶なら、先週あの男が阪急のトコロテン持って来たで終っとるがね。
大参謀様が『面目ない』なんて顔して頭下げていけば十分だろ」
「あれは、主人の挨拶でございます」
テイ子は頭を上げ、膝の上で結んだ風呂敷を静かに解いた。
現れたのは、代沢の家で自ら仕込んだ手前味噌の小さな樽と、ずっしりと重い白晒(さらし)の反物が二反。
「トコロテンでは、長屋のお母さん方の指の傷は治りません」
テイ子の細い指が、晒の端をすがるように強く握りしめた。
「その晒は……割れた指に巻くにも、おむつにするにも使えます。
味噌は、出汁がなくても味がつきます。
今朝、代沢で詰めてまいりました」
むめおの鋭い目が動いた。
無言のまま膝を進めると、味噌樽の蓋を外し、人差し指の腹で味噌をすくって口へ運ぶ。
じっと舌の上で転がし、麹の香りと塩気を確かめると、むめおの顔から険しさが消えた。
「……本物の味噌だて。
麹がしっかり立っとんの」
むめおは晒を持ち上げ、生地の密度を指先で確かめた。
「房枝、これ上等な晒だぞ。
内職で指破いた女の手にも、赤ん坊のおむつにも一番ええんざ。
……陸軍大臣の奥さんが、電車乗って泥踏んで、これ運んできたんかね」
テイ子の細い指が、膝の上で固く組み合わさった。
伏せられた睫毛の奥で、黒い瞳が小さく揺れている。
「……あの子は今、主人とシンガポールへ向かっております。
また……あの冷たい数字と図面の世界へ行ってしまいました」
房枝は無言のまま、鉄筆を手の中で転がした。
「私には……何も解らないのです」
テイ子の喉の奥から、乾いた息が漏れる。
「あの子が膝の上で書き殴る気象の数値も、兵站の計算も、私には理解できません。
計算尺を弾いているときのあの子の横顔は……恐ろしいほど遠くて、私など視界に入っていない」
テイ子は畳に額を深く押し当てた。
「私とあの子には……血のつながりがありません。
いくら温かい白米を炊いて抱きしめても、あの子の頭の中にある冷たい世界から引き戻す術がないのです。
このままでは……あの子はただの計算機になって壊れてしまう」
小さな部屋に、テイ子の荒い息遣いと、雨樋から落ちる水の音だけが響く。
「だから……先生方に頼るほかなかったのです。
私には与えられない『生の足場』を……神田の泥の匂いを、どうかあの子に教え続けてください。
三宅坂の男たちがどんなに大きな数字であの子を包もうと、あの子がただの人間であることを、先生方のその大きな手で引き止めてやってください……
お願い申し上げます」
静寂が、部屋を支配した。
ガリ版の油墨の臭気の中に、テイ子の手前味噌の甘酸っぱい麹の匂いが、くっきりと立ち上っている。
むめおは溜息をひとつ吐くと、味噌樽の蓋を締め、しっかりと己の胸に抱え込んだ。
「……房枝。
あんたが永田町でどんなにでかい政治動かそうと、このお母さんの言う通りだて。
数字で頭狂わせた人間を繋ぎ止めるのは、こういう味噌の匂いと温かい汁なんざ」
房枝はしばらく黙って見下ろしていたが、やがて短く息を吐くと、晒の反物を己の膝元へ引き寄せた。
「……バカだね、あんたは」
房枝の濁った名古屋弁が、暗闇を低く揺らす。
「血がつながっとるから親なんじゃない。
あんたみたいに、自分の届かん遠くへ行くガキの背中見て、ハラハラして泥足でここまで飛んでくる奴が『母親』じゃなかったら、一体何だってんだわ」
テイ子が、はっと顔を上げた。
「晒と味噌は貰っとく。
……あのガキが次に神田へ来たら、手加減なしで長屋のドブ掃除させてやるでね。
二ミリ狂ったら、あんたの目の前で叩き飛ばしてやる」
「……はい」
「さっさと帰りや。
代沢の白米が冷めるぞ」
むめおが格子戸を滑らせ、雨上がりの神田の路地へテイ子を送り出した。
「奥さん。
晒も味噌も、大塚と本所の託児所でちゃんと使わせてもらうでな。
……この味噌で温かい汁飲ませてやるで心配いらんよ」
テイ子は目元を濡らしたまま深々と頭を下げ、雨上がりの神田のぬかるみへ、しっかりと一歩を踏み出していった。
すれ違いざま、房枝は鉄筆を動かしたまま、背中でぽつりと言い捨てた。
「……あんたの味噌で食う冷飯は、きっと旨いだで」
濡れた革靴が泥を砕く音が、路地裏に硬く響いて消えた。