寒肥の混じる潮風が、浜離宮の瓦根を叩いていた。
阪急の資金が造り上げた大回廊ホールの壇上、真鍮の送話器を前にして、十五歳の石原時子は澱みないエスペラント語で挨拶を述べていた。
その唇から滑り出る発音は滑らかであり、文法の一点の破綻もない。
万雷の拍手がホールを揺らし、ひな壇の老学者たちが満足そうに頷き合う。
だが、最前列で見つめる大石和三郎の眼だけは誤魔化せなかった。
喉の奥で微妙に震える吐息の引き攣り、送話器の鉄格子に映る焦点の定まらぬ瞳、そして台を握りしめた爪が皮膚に白く食い込んでいるさま。
時子は流暢に喋りながら、その実、精神の螺子が弾け飛んだ自動人形のように、暗記した音盤をただ再生しているだけだった。
完璧な役目を果たし終えて壇を下りた時子は、代沢へ向かう黒塗りの公用車内でも、膝の上の図面鞄を抱え込んだまま一言も喋らなかった。
羊毛の外套の隙間から、細い肩が僅かに脈打つように震えているだけだった。
代沢の石原邸に足を踏み入れた途端、時子は奥の畳部屋へ崩れ落ちた。
手ぬぐいを握りしめ、喉の奥から酸っぱい胃液を吐き散らす。
激しい過呼吸が胸を上下させ、細い指先が血の出るまで畳の縁を噛みむしる。
九月に東條英機から『コミンテルンの娘』と暴かれ、神田の潜伏から公差計算室の暗がりへと追い立てられて以来、擦り減り続けた精神が完全に悲鳴を上げていた。
テイ子が無言で抱きかかえ、温めた白湯で唇を湿らせ、夜更けにようやく眠りの中へ沈めた。
深夜の書斎。
真鍮の気圧計が、畳の上に鋭い音を立てて叩きつけられた。
「石原!
時子のあの目は何事かばい!」
大石和三郎は毛糸の帽子を握りつぶし、佐賀弁の濁った声を叩きつけた。
「エスペラントは見事やった!
ばってん、喉の引き攣りも目角の乾きも、長年見てきた俺の目は誤魔化せんぞ!
上空の風を無視して等圧線を極限まで詰め込めば、突風が吹いて機体は空中分解する!
一五年かけて育てた子供の頭に猛烈な低気圧を閉じ込めて、『規格を揃えた』気になっておったとか!」
石原莞爾は数珠を握りしめたまま、畳の上に胡坐をかいて黙し込んでいた。
灯芯の爆ぜる音が一つ響く。
「……夜になると、己の血の匂いに怯えて吐くんださ」
低い庄内弁が、床板を這った。
「東條の手から逃すために神田へ潜らせ、帳簿の数字を叩き出させた。
……だが、夜になるとただの泣きじゃくる童に戻る。
親として、胃が焼けちぎれそうだ」
「風を読まん男に兵站も何もあるかばい!」
大石は真鍮の気圧計を拾い上げ、莞爾の目の前に突きつけた。
「数字の届かん極寒の風の中に放り込め!
狂った規格の化身としての時子も、夜に泣く娘の時子も、丸ごと抱えて走るのが親だろが!」
莞爾の黒目が、すっと細くなった。
参謀の脳が爆速で回転を始める。
「……大泊だ。
白鶴を飛ばす」
莞爾は机の上の万年筆を引き抜き、陸軍省と航空本部宛ての公文書用紙へ一気に文字を叩きつけた。
『一万メートル級排気過給機・極寒地耐久試走』
『北樺太直行揮発油粘度変化、並びに北端防空情報最終監査』
東條英機には北樺太の油と防空データという軍的実利を食わせ、口を封じる。
全省庁の書類をハッキングし、昭和十五年正月の「大泊行き」を強引に決定した。
大晦日の未明、天保山沖の暗がりから双発の爆音が夜気を引き裂いた。
白鶴二型は滑走面を烈しく叩く波沫を切り裂いて大空へ躍り出ると、津軽海峡を覆う巨大な低気圧の猛威を力ずくで強行突破し、氷片の漂う亜庭湾の海面へその巨躯を叩きつけるように着水した。
小林一三とともに築き上げた西日本の航空物流網を、ただ娘の歪んだ息を吹き返えさせるためだけに私物化する、冷徹で悪辣な兵站運動。
気温マイナス十五度。
大泊、旭ヶ丘の斜面には、鉛色の空が垂れ込めていた。
アザラシ皮を貼り付けた木製滑走板が、硬い雪面を噛む。
「ザクッ、ザクッ」という断続的な音だけが、極寒の静寂を削り取っていた。
先頭を行く莞爾の背中は、前傾姿勢のまま少しも揺れない。
竹の一本棒を雪に突き刺す角度、膝の曲げ方、雪を蹴るピッチ。
すぐ後ろを追う十五歳の時子は、まったく同じ動作で雪面を削っていた。
公差計算の数字も、実母の獄死という血の呪いも、ここでは何の意味も持たない。
手に伝わる竹の感触、鼻腔を刺す冷気の匂い、そして前を行く「とうちゃんの背中」の目配せと息遣いだけが、時子の五感を満たしていた。
亜庭湾の流氷を一望する山頂に立ったとき、猛烈な吹雪が二人を襲った。
莞爾は無言で袋から真鍮の保温木箱を取り出した。
阪急大泊ホテルの厨房で作らせた白磁の鉢。
中には真鍮の押し器から絞り出された鮮烈な黄色の栗餡と、熱い練乳が山をなしている。
時子は凍える手で竹ヘラを握り、栗餡を口に運んだ。
濃密な甘みと牛酪の熱が胃袋へとなだれ込み、冷え切った内臓を焼き焦がす。
涙が頬を伝い、氷の粒となって落ちた。
莞爾は一本棒を雪深くに突き刺し、流氷の海を見つめたまま言った。
「……なんにも、心配いらね。
お前がどこまで行こうと……
とうちゃんが、いつも後ろにおっからな」
時子は竹ヘラを握りしめ、小さく頷いた。
「……うん」
下山のためアザラシ皮を外すと、滑走板は一気に斜面を滑り出た。
時子が先頭に立ち、風を切る。
だが、中腹を過ぎたあたりで突風が吹き荒れ、視界が真っ白な闇に呑まれた。
白魔である。
直後、足元の雪が消えた。
露出した氷板に滑走板のエッジが弾かれ、時子の体は宙を舞った。激しい衝撃とともに斜面を転がり落ちる。
右足首に鈍い激痛が走った。
「……とうちゃーん!」
絶叫は吹雪の咆哮に呑み込まれた。
立ち上がろうとしたが、右足首が力なく折れ曲がる。
周囲は見渡す限りの白闇。
石原の姿も、足跡も、完全に消えていた。
凍える雪の上に縮こまり、時子は息を殺した。
冷気が羊毛を透かして皮膚を刺す。
五分が過ぎた。
白闇の奥から、硬い雪を噛む音が近づいてきた。
「ザクッ、ザクッ」。
猛吹雪を突き破って現れたのは、外したはずのアザラシ皮を凄まじい手つきで巻き直し、吹雪の斜面を猛スピードで「逆登」してきた石原莞爾だった。
莞爾は無言で雪の上に膝をついた。
その湿った羊毛の胸元から、血の混じったような激しい喘鳴と、極寒を突っ切ってきた熱い汗の匂いが荒々しく吹き出していた。
異国の医術で繋ぎ止めたはずの病患の肺臓が、氷点を下回る冷気を一気に吸い込み、裏返った笛のような悲鳴を上げている。
男が無言で脱いだ革手袋の手は、冷気と疲弊で微かに震えていた。
手慣れた手つきで時子の右足首を確かめ、靴紐を締め直す。
「……ただの捻挫ださ。滑れる」
時子は莞爾の湿った羊毛の胸元に、しがみついた。
喉の奥を焼く喘鳴の振動が、時子の肌に痛いほど伝わる。
山頂での言葉は嘘ではなかった。
この男は、己の命の螺子をすり減らし、本当に自分の後ろを登り直してきたのだ。
蒸気放熱器が心地よい暖気を立てる阪急大泊ホテルの特別室。
室内には炊きたての白米の湯気が漂っていた。
手当てを終えた時子は、テイ子の膝の上に頭を乗せていた。
テイ子は白湯で湿らせた手ぬぐいで、時子の額、首筋、そして冷え切った足を静かに拭っていく。
「……おかあさん」
時子の声には、もう何の強張りもなかった。
目角の陰りは消え、吹っ切れた澄んだ瞳が天井の灯りを見つめている。
「わたし、もう大丈夫や。
……とうちゃん、ほんまにずっと後ろにおった」
「そう」
テイ子は時子の柔らかくなった頬を両手で包み、額をそっと重ねた。
「あの人はね、お前を一人で歩かせるような真似は絶対にしませんよ。
……お父様がどれだけ冷たい箱を作っても、お前がどれだけ恐ろしい数字を覚えても、私のご飯を食べたら、みんなただの人間にお戻りになります」
外では樺太の吹雪が窓枠を猛烈に叩いていたが、室内には何ものも侵すことのできない絶対的な生の温もりだけが満ちていた。
時子は深く安らかな息を吐き出し、静かに目を閉じた。