昭和十五年。
阪急浜離宮大回廊ターミナル。
帝国皇紀二千六百年を祝う一大祝典の朝は、氷点下の冷たい海風が濡れたコンクリートを叩きつけていた。
耳を突き刺すのは重砲の轟音でも軍歌でもない。
特設舞台に立つ貴志康一の銀のタクトが閃くたび、管弦の重厚な和音が鉄骨を揺らし、波止場を隙間なく埋めた群衆の鼓膜を叩き割る。
数年前、天保山で倒れ阪急病院で命を拾った男が、狂熱に頬を赤らめタクトを振る。
タキシードのポケットに血の滲んだハンカチを突っ込んだまま、命を削って音を吐き出していた。
アーチから吊るされた無数のネオン球が、鉛色の冬空を桃色に染め上げる。
寒さに凍える群衆は、鼻水をすすりながら阪急無料配布のカルピスをあおり、湯気の立つ同じく無料の大豆肉の肉まんを頬張った。
指先に絡みつく脂を舐め取り、喉の奥に甘ったるい痰を詰まらせながら、泥靴の足をあからさまに打ち鳴らす。
「天皇陛下万歳!
皇紀二千六百年万歳!
白鶴万歳!」
押し合う湿った肩、伸ばされた垢じみた手。
将棋倒しになった人間の肘が隣の肋骨を打つ鈍い音が響き、踏みつけられた麦わら帽子や吐き出された大豆のカスが泥水に沈む。
充血した目に悲壮感など欠片もない。
腹を満たす温かい脂と、耳から注ぎ込まれる威圧的な音律に狂喜する、泥臭い臣民の生々しい欲望が蠢いていた。
貴志のオーケストラが吐き出す重低音が、床を通じて足裏から太ももの骨へ、生理的な不快感となって伝わってくる。
最上層の複層ガラスの向こうで、十五歳の時子が万年筆のキャップを鳴らした。
カチリ。
膝の上には油脂で黒光りする革帳。
指先にはインクの酸っぱい匂いと、朝から握りしめていた爪の跡が残っている。
「……みんな、阿呆になっていくな」
ポツリと漏らした時子の視線の先で、群衆の頭数は一頭、二頭と、小林のおっちゃんの帳簿へそのまま移されていく。
桁が増える。
計算尺を滑らせるたび、東日本の「国家」を支えていた泥臭い人間たちの生気が、吸い上げられて消えていく感覚があった。
「『阿呆』で構わね、時子」
直立した石原莞爾の声が降った。
羊毛の軍服はボタン一つ緩まず、首筋には太い脂皺が刻まれている。
硝子玉のような目は眼下の泥まみれの狂騒を通り越し、三宅坂を見据えていた。
「拝ませでおげばいい。
頭空っぽにして騒いでいる間に、俺達は骨ば抜く」
天保山沖に着底させた戦艦『扶桑』のサロンから引き上げられた温熱。
大連百貨店の七層吹き抜けを舞う白鶴の模型。
旅順の着底要塞『山城』で交わされるオハ油田の取引。
六十ヘルツの標準時計と定時運行表が、湿気と汗の匂うアジアの各地を、一つの時刻で強引に縛り上げていた。
阪急が街頭に据え付けた数千台の巨大ブラウン管受像機が、一斉に妖しい緑色の電子光を吐き出す。
画面の上下には『阪急提供・紀元二千六百年特別奉祝』『白鶴で行く大東亜月賦旅行』の鮮烈な文字。
正午一刻。
走査線が刻む画面の中で、内閣総理大臣、永田鉄山大将が太い指先で老眼鏡を掛け直し、無感情な声を叩き込んだ。
「——皇紀二千六百年を迎え、大日本帝国は西日本の高度兵站網と白鶴の翼を以て、全アジアの平和と繁栄を永久に保障する」
梅田阪急広場、銀座四丁目、博多駅前。
言葉を失って画面を見上げる群衆の頭上を、雲を突き破って二千馬力の火星二一型エンジン四基が唸りを上げた。
川西製、白鶴二型。
「飛んできたぞ! 白鶴だ!」
腹部から放たれた桃色のチラシが、雪のように舞い散る。
地べたに唾を吐き捨て、紙片を奪い合う群衆。
文字を読むことすら放棄した臣民たちが口を開ける、白痴のような静寂と熱狂が街を埋め尽くした。
永田町。
首相官邸の深奥。
二重の防音扉が外の熱狂を遮っていたが、部屋には男たちの蒸れた羊毛軍服と、冷めた茶の出がらの臭いが充満していた。
固い革椅子の端が十五歳の太ももに食い込み、時子の肌に鈍い痛みを立てている。
卓上に広げられた三千分の一の東京市街図。
赤い斜線が霞が関と三宅坂を横切っていた。
「今夜、防空演習の名目で白鶴を飛ばせ」
永田鉄山が太い指で眼鏡を外し、目頭の窪みを強く揉んだ。
疲れた皮膚がサワサワと音を立てる。
「要員と重要暗号機を乗せろ。
官僚機構の実務を西へ逃がす」
「総理」
井上成美が白手袋の指を丁寧に折りたたんだ。
「横須賀の重油は残り八ヶ月。
三宅坂の強硬派は青筋を立てて騒いでおりますが、すでにこの国の動脈は東京を離れております。
天保山回廊の八階と九階は、小林氏の手で接収に等しい改装が済んでおります。
今夜動かすのが最も合理的かと」
「待たれよ」
石原が上衣のボタンを締め直し、背筋を伸ばした。
「霞が関の役人と判子をそのまま持ち込んでも、阪急の定時運行の足を引っ張り、住友の帳簿を汚すだけです。
分散でも統合でもなく、不全を撒き散らすだけの『拡散』になります」
永田は眼鏡を掛け直し、地図に開いた万年筆の穴に、太い親指をあてがってミシリと力を込めた。暗い眼光が石原を射抜く。
「……国家の統制権を、民間の電鉄会社と十五歳の小娘の帳簿に委ねろと言うのだな」
「統制とは、実体を握る者にしか行えぬものであります」
石原の敬礼は微動だにしなかった。
「東京は空っぽの仮面でよろしいかと。
実体はすでに、白鶴に乗って西へ飛んでおります」
時子は小さく息を吐いた。
万年筆の先が紙に触れ、黒いインクが汗ばんだ紙面に滲んでいく。
巨頭ふたりが交わす冷酷な現実論理の衝突が、己の骨の奥まで振動として響いていた。
深夜。
阪急浜離宮大回廊ターミナル。
首府の暗がりから防空演習のサイレンがウーと不気味に長鳴きし、濡れたコンクリートを這う。
焦げたガソリンの匂いと濡れた鉄の臭気。闇の中に聳え立つ白鶴二型の大尾翼が、冷たい雨に濡れて黒く光っていた。
防空腕章をつけた三宅坂の憲兵たちがポンチョの陰で腕を組み、冷え切った足を交互に踏みかえている。
ただの演習を監視している気でいる憲兵たちの前を、黒い雨衣を着た官僚たちが走った。
青ざめた顔で鼻汁をぬぐい、暗号機を抱えてタラップを駆け上がっていく。
雨の中に立つ石原の横で、時子の紺色ワンピースが激しい風に煽られ、濡れた太ももに冷たく張り付いていた。
黒革帳を抱きしめる指の関節が、白く強張る。
「……とうちゃん」
エンジンの爆音とサイレンの唸りに負けぬよう、時子は声を張り上げた。
「東京、空っぽにしてまうの?」
石原は雨に濡れる海を見つめたまま、太い首筋をかすかに動かした。
情を排した、泥臭い兵站の顔だ。
「消すんじゃね。
皮だげ残して、中身は西さ移すんだ。
三宅坂の仮面ば、爆撃させでおげばいい。
どこ撃たれでも即死せん身体こさえるのが兵站だ」
石原は、時子が雨からかばうように抱える帳簿に目を落とした。
「ほんとの日本は、もうこの帳簿ん中隠したぞ」
時子は冷えた黒革の計算帳を、己の胸に強く押し当てた。
帳簿の重みが、肋骨の奥へ食い込んでくる。
浜離宮で肉まんを頬張り万歳を叫んでいたあの群衆の頭数も、消えていく東日本の生気も、すべてはこの帳簿の桁に変換されて収まっている。
この計算を止めた瞬間に、自分も、とうちゃんも、この狂った国もすべて泥の中に溶けて消えるのだ。
一機の白鶴が激しい飛沫を跳ね上げ、闇の海面を滑走し始めた。
巨大な翼が夜空へ浮き上がる。
時子の腕の中で、黒革の帳簿がエンジンの振動に合わせて重く、低く、震えていた。
東京の頭上を、国家の解体を告げる白鶴の羽音が静かに切り裂いていった。