阪急浜離宮大回廊。
グランドグリル特別室。
南欧風のマホガニーの卓に、硝子越しに差し込む東京湾の陽光が跳ねていた。
庭園の潮風と、銀器に注がれたコンソメスープの熱い匂い。
「……あきまへんなぁ。銭にならんゴミを抱えるほど、阪急は裕福やありません」
小林一三がそろばんの枠を指先で叩き、冷めた紅茶に砂糖を二杯投げ込んだ。
「川西と白江の工場で白鶴を増産させればさせるほど、機体を削った超ジュラルミンの端材が山となっていきます。
倉庫を圧迫するだけの屑や。
石原さん、陸軍で買い取ってくれまへんか」
卓の端で書類の山に目を通していた石原莞爾が、鼻で笑った。
「ぬかすな、小林さん。
三宅坂の金庫は空っぽだの。
予算枠なんぞ東日本の冷害補正で一瞬で消ゆる」
その向かい。
国家戦略院院長の井上成美が、白手袋の指先を静かに重ねた。
「……小林さん。
そのアルミの廃材、吉田工業のチャックに使えませんか。
昨年夏、試飛で娘の靚子を空母に同行させ痛感しましたが、乗馬長靴(ちょうか)の紐を解き明かす五分の遅れは、我が軍にとって純然たる兵力損失です」
小林が間髪入れず問う。
「……だが井上さん、吉田の真鍮チャックは重くてすぐ緑青を吹く」
「ですから、白鶴のジュラルミンを使うのです。
阪急技研で低温焼鈍をかけ、耐食アルマイトを施す。
軽量で完全耐塩害の銀のエレメント……。
海軍の特科靴にも、民間の服飾にも化けますよ」
ジャラッ!
小林の手元でそろばんの玉が狂暴な音を立てた。
「……長靴の市場は完全な空き地や!
住友の連続圧延機で革とジュラルミン・チャックを打ち込ませれば一足十五円。脱ぎ履き一秒。
『皇紀二六〇〇年祝典モデル』として売るんです!」
「贅沢品として警視庁に差し止められる」石原が短く言った。
「警視庁防空課へ『非常時防空即応被服』として事前認可の判子を押させますわ。
配給特例枠を手配する。
『空襲時に日本の婦女子を焼き殺す気か』と新聞で叩くだけです。
……広告塔には、またあの二人を使います」
小林は部屋の陰で控えていた二人を指さした。
十五歳の時子と、二十一歳の井上靚子。
「……えー、おっちゃん。
またなん?」
時子は塗りの卓に肘をつき、露骨に嫌そうな顔を歪めた。
「もぉ『鶴子』とか嫌やで。
市川先生らにも、揶揄われてんねんから」
「『鶴子』は阪急の象徴ですやんか。
今度は『鶴子』と『おねえさま』の二人組で銀座闊歩してもらう。
時ちゃんと靚子ちゃんが並んでチャック引いたら、日本の女学生も全国のモガも一斉に押し寄せてきますわ」
「知らんし、そんなん。
わたしの足なんか誰も見ぃへんって」
「……撮影やってくれたら、阪急モンブラン五十銭、三年タダで食べ放題にしたる」
ピクッ、と時子の肩が跳ねた。
「……ほんま?
毎日行っても、持ち帰りもアリ?」
「粗利の千分の一以下ですわ」
「……くっ、やるわ。
モンブラン三つ、先払いにしてよ」
猪口のお茶を飲み干すと、時子は高低のない声で付け加えた。
「……おっちゃん。
そのチャックブーツの仕上げと検品やねんけど。
わたしに仕切らせたい場所があるねん。
神田や浅草のドブ板長屋。
ブーツの紐通すハトメとフック、ジュラルミンの金具カシメる内職をその人らにやらせたい」
「……阪急は慈善事業やありません。
ハトメのカシメが甘くて裏にバリが出たり、穴がコンマ数ミリ傾いたらブランドが死にますわ」
「歪んだ品なんか出せへん。
工場のラインで作業工雇ったら固定費がかかるやろ。
ドブ板の人らに手動のカシメ具握らせて、出来高十足五十銭。
品質管理はわたしがやる。
ハトメのカシメが緩かったり爪がコンマ一ミリでも立って刺さったら、その場で叩き返して一銭も払わん。
飢えてる人らは、手ぇ血に染めてでも完璧な角度で金具叩き込んでくる」
静寂が落ちた。
小林はそろばんを抱える手を止め、十五歳の少女の顔をじっと見つめた。
「……時ちゃん。
どうやらよほどの修羅場くぐり抜けてきたみたいやな」
小林の口角が吊り上がった。
「……気に入った!
これぞ『奉祝報国商法』や!」
井上成美が眼鏡のツルを静かに押し上げた。
「……奉祝に防空、そして報国貧民救済。
これでは差し止めようがありませんね」
石原が呆れたように鼻で笑った。
「……時子、おめもたいがい安く買われたもんだの。
まあいい、小林さん。
吉田工業の工場へジュラルミン廃材ば即座に回してください。
永田の統制派が騒ぎ出す前に、日本の女たちの足元ば阪急のアルミで塗り替えてしまえ」
数日後。
浜離宮から勝鬨橋を渡し、築地を抜けて降り立った東京、銀座四丁目交差点。
服部時計店の重厚な構えを背に、黒塗りの阪急ハイヤーが横付けされた。
後部座席の扉が開く。
カツン。
硬質なヒールの音が石畳を叩いた瞬間、銀座を行き交う歩行者の息が止まった。
時子(鶴子)と、靚子(おねえさま)。
レースが胸元を飾る立ち襟の白いブラウスに、深い茶の織り柄が浮き立つ重厚なロングコート。
革ベルトでウエストを絞り上げたスラックスの裾が、漆黒の牛革ロングブーツの中へと一滴の隙もなく絞り込まれている。
熱い排気ガスの匂いと、舗装油の焦げつく臭気。
足元を固める重圧な牛革が、太ももからふくらはぎを締め上げていた。
通り沿いには、阪急が手配した『阪急総天然色』用大型カメラと、天保山、大連の要塞網から指向性アンテナと中継線で同期された街頭テレビ(九インチ緑色ブラウン管)の臨時中継車が陣取っていた。
「おい、総天然色の映画撮影か!?」
「あそこの街頭テレビの画面にも映ってるぞ!」
むっと立ちこめる人々の汗と唾液の臭い。
群がる数千の野次馬の視線が、物理的な熱気となって肌を焼き焦がす。
「……時子ちゃん、歩幅を三インチ広げなさい」
靚子が視線を前方に据えたまま呟いた。
「全員が私たちの足元を注視しておりますわ」
「うん、わかってる。
おねえちゃん」
時子が右脚の踵をカツンと響かせた。
「人垣の半分、阪急の社員やろ、これ」
「構いません。
大衆の目を釘付けにすれば私たちの勝ちです」
そう囁いた直後、靚子は黒革の手袋をすっと外し、熱を帯びた長めの指先を時子の手へ滑り込ませた。
ポケットから引き出された時子の素手を、握りしめる。
「……っ、おねえちゃん?」
「動揺なさいませんように」
「……知らんわ、そんなん。
手ぇ、ぬくい……」
時子は冷ややかな瞳をそらし、歩幅を揃えた。
二人がカメラの真前に差し掛かった、その時。
撮影監督の手が上がった。
「総天然色、回せ!
街頭テレビ同期、開始っ!」
(……この一秒で、全国の女の足元が阪急のアルミに塗り替わる)
時子は繋いだ手を強めに握り返した。
二人は同時に膝を折った。
ジッ。ジッ。
研ぎ澄まされた金属音が二回、銀座の街頭に鋭く響き渡る。
わずか一秒。
ジュラルミン・チャックのエレメントが滑らかに噛み合いを解き、皮の圧迫から解き放たれた足首が冷たい外気を吸い込む。
二人はその一秒で車内へと滑り込んだ。
街頭テレビの緑色画面が、その一秒の脱着劇を日本全土の主要都市へ生中継した。
「一秒で靴が脱げたぞ!?」
「チャックだ!
長靴にチャックが付いてるんだ!」
車内の暗がりの中、至近距離で重なる荒い吐息。
革と汗の匂い。
フラッシュの残像が窓越しに弾ける間際、時子の濡れた唇のすぐそばで、靚子の指先が乱れたボブカットの毛先を耳の後ろへと払い落とした。
その一秒を、総天然色フィルムと街頭テレビの撮像管が同時に捉えた。
迎えた皇紀二千六百年の祝典の朝。
東京と大阪の全駅舎、そして雑誌のグラビアをあの一枚の写真が埋め尽くした。
『奉祝・皇紀二千六百年記念・非常時防空即応長靴(チャックブーツ)——帝都を守る一秒の機能美』
【編み上げの美しさに、一秒の即応を。
本品の最終仕上げは、帝都防空報国運動として神田・浅草の生計困難なご家庭へ委託されております。
阪急百貨店・全店にて大売り出し。
一足・十五円】
——爆発した。
祝祭ムードに財布の紐を緩めきっていた庶民たちは飛びついた。
梅田と浜離宮、銀座の特設販売所には早朝から数千人の女たちが押し寄せ、札束を抜き出した。
乗り込んできた憲兵隊を、小林一三は「皇紀の年に日本の女子を家の中で焼き殺す気か」と記者前で一蹴した。
だが、一本の冷たい棘が時子の喉元を刺した。
三宅坂の陸軍統制派、監査官から、一通の緊急査察書が叩きつけられたのだ。
『軍需用超ジュラルミン材の不法民需転用、ならびに防空被服における規格不全の疑い』
神田の内職ラインで、手先の震えた長屋の女がカシメ損ねた一足——ハトメの裏爪がコンマ〇・三ミリ浮き上がり、購入した将校の娘の絹靴下を切り裂いた事故品が、統制派の手に渡っていた。
小林の政治工作で差し押さえこそ免れたものの、陸軍査察官は冷酷に言い放った。
「下層の素人に軍事規格を触らせた結果だ。
次は阪急技研の工場ごと差し止める」
浜離宮大回廊。
時子はデスクの上に置かれた欠陥ブーツのハトメに、人差し指の腹を強く押し当てた。
ちくり、と鋭い痛みが走る。
コンマ〇・三ミリ浮いたジュラルミンの爪が皮膚を突き破り、小さな紅い血の玉が爪の先から滲み出した。
自分が締め上げた規格が、自分の指を裂いている。
神田の長屋で追い詰めた、あの飢えた女の手元から漏れ出たコンマ数ミリが、巡り巡ってここまで戻ってきた。
銀座の狂騒が静まり返った、夕刻の大回廊。
二月半ばの潮風が通り抜ける板間に、二足の漆黒のロングブーツが転がされていた。
時子は脱ぎ捨てた綿の靴下を横目に、素足を豪快に竹樋へ突っ込んだ。
バシャリと跳ねた水滴が、容赦なく肌を打つ。
「……ッあ、冷たっ……!」
一日中硬い革に絞られていた足首に、氷水が突き刺さる。
すぐに感覚が麻痺していった。
その隣。
膝を揃えて腰掛けた井上靚子も、純白の絹靴下を脱ぎ捨てると、躊躇いながら白い足先を冷水へと沈めた。
「……うっ……ひどい冷たさですわね……」
白手袋を外した手で足首を撫で下ろす靚子の唇が、寒さと疲労で僅かに震える。
時子はかじかむ腕を伸ばし、隣の靚子の腕に自分の腕を固く絡めた。
時子が力なく頭を傾けると、靚子もそっと自分の頭を時子のボブカットの頭頂部へ寄せて、重ね合わせた。
額と頭頂部が重なり、互いの生暖かい髪の残り香と息遣いが交錯する。
靚子が、ふと小さく鼻を鳴らした。
「……時子ちゃん、少しかぐわしいですわ」
「……もぉ。
一日中履かされててんから、当たり前やん。
……おねえちゃんかて、人のこと言われへんで」
「ふふっ……お互い様ですわね」
時子は返事をせず、絡めた腕に少しだけ力を込めた。
竹樋の水面で、二人の足先がかすかに触れ合っていた。
重なる頭の向こう、靚子の薄い唇から、白く凍りついた溜息が漏れ出た。
「……ほんとに。
ロングブーツでの長距離ほど、最悪なものはありませんわ」