立ての生コンクリートと重油の焦げた匂いが混ざり合っていた。
竹芝、白鶴ターミナル。
ドォォォォン……!
双発飛行艇「青鶴」が海面を滑走し、帝都の冬空へ飛び立つ。
二千馬力「火星二一型」の重低音が新橋を揺さぶり、芝浦の操車場で黒煙を吐く蒸気機関車を、過去の遺物へと追いやっていく。
朝五時に三陸の海で引き揚げられたウニが、朝八時には阪急浜離宮の地下で氷の上に並ぶ。
黒煙を撒き散らす国鉄の鉄輪を尻目に、白鶴の数理こそが、東日本の冷えた血液を強引に循環させていた。
インキと酢酸。
そして湿気た畳と安石鹸の蒸せ返る匂いが、神田、婦人問題研究所の狭い二階を満たしていた。
壁一面の帝都地図。
三宅坂の男たちが陣取る選挙区の上から、赤と黒の墨線が引き倒されている。
皇紀二千六百年。
奉祝の狂躁に酔う国家のエアポケットを、市川房枝と小林一三は完璧にハッキングしていた。
永田鉄山との密約で特例公布させた『奉祝女子参政特例法』。
指定軍需工場で働く二十歳以上の女に「恩典」として与えられた、限定的な投票権。
一階の軒下には、『日本婦人党』の漆黒の看板が雨に濡れていた。
生活票を押さえる奥むめお。
リベラル票を掠め取る加藤シヅエ。
そして、市川房枝の直系として神田の泥を背負う林久子。
「男どもが『奉祝だ』と浮かれておる隙に、三人束ねて議席へ叩き込む。
一度開けた穴は、二度と塞がせん」
房枝が濁った名古屋弁でガリ版の鉄筆を叩く。
十五歳の時子は、窓際のパイプ椅子で黒革手帳を開いていた。
「二千四百。
午前九時二十分。
一ミリの狂いもない」
時子が爪の間の油墨を擦り落としながら呟く。
阪急沿線の女工、天保山の紡績工、神田で紙箱を折る女たち。
交替勤務を割らず、男たちの妨害を突いて投票箱へ叩き込むための、阪急バスのピストンダイヤと動員計算。
軋む階段を、靴音が上ってきた。
すり硝子の戸が引かれ、すうっと白檀の薫香が流れ込む。
「……ここが、新しい時代の陣地かしら」
平塚らいてう。
五十を過ぎてなお浮世の重力から解き放たれた姿で、静かに敷居を跨ぐ。
「銀座の撮影で見かけたのよ。
『白鶴の鶴子ちゃん』の姿を。
あの少女が房枝さんの横で、男たちの政治に殴り込みをかけていると聞いてね」
視線が、ポスターの山に立つ林久子の首筋——昨日の演説で投げつけられた小石の、赤紫色の腫れに留まった。
「……可哀想に。
そんな傷を負って男の制度に飛び込んでも、戦争の歯車に組み込まれるだけよ。
精神の太陽を失えば、ただの道具になるわ」
「へちま言っとりなさる!」
房枝が鉄板を叩いたが、らいてうの理想論を切り裂いたのは、時子の冷えた声だった。
「平塚先生、太陽で腹は膨らまへん。
……そこ、邪魔やから退いてください。
通られへん」
らいてうは静かに目を伏せると、白檀の香りを残して雨の神田の路地へ消えていった。
久子が時子の前に膝を折り、インキで汚れた時子の小さな手を握りしめた。
その手は氷のように冷たく、激しく震えていた。
「実家から絶縁状が届いたの……。
街頭に立つと、耳元で『女狐、殺してやる』って。
……あの一群の目。
私を人間とも思っていない、あの目が……」
大粒の涙が、時子の手帳に黒いシミを作る。
「私……ただの女よ。
本当は逃げ出したいの。
時子ちゃん、私、明日、立ち止められたら……」
一瞬の沈黙。
時子の脳裏に、神田の薄暗い長屋で、冷えた糊で皮の弾けた指先を凝固させていたタミの、あの紫黒く腫れた手が掠める。
自ら引き千切った手ぬぐいで傷口を容赦なく縛り上げたあの夜と同じ力加減で、時子は久子の手首を固く握り返した。
そして、手帳の最新ページを突きつける。
「……久子さん」
かすれた声だった。
「明日、交替勤務を終えた女工二千四百人が、午前九時二十分の阪急臨時便で一斉に投票所へ入ります。
警察も男らも、皇紀の特例枠で動くバスには手を出せへん。
久子さんが街頭で倒れようと、刺されようと、関係ありません。
この二千四百票は、すでに久子さんの名前で固定されています」
「時子ちゃん……?」
「とうちゃんの図面にも、小林のおっちゃんの算盤にも残っていなかった人たちを、私が集めました。
ダイヤは揃えてあります。
……久子さんがどれだけ怯えても、この数字は狂いません。
だから、安心して倒れてきてください。
帰ってきたらトコロテン、黒蜜いっぱいぶっ掛けときます」
数字は狂わない。
狂うのは、いつだって人間の方だ。
久子は息を呑み、時子の目を見つめ返した。
やがて震える唇を固く結び、涙を袖で拭うと、静かに立ち上がった。
その背中は、もう逃げ出す者のそれではない。
久子が去り、夜の静寂が戻る。時子は万年筆を置き、冷めた番茶を口に含んだ。
らいてうの残した白檀の匂いが、まだ部屋に残っていた。
「……なんやあの人。
きれいなことばっかり。
今夜食べる米の算定、いっこも入ってへんやん」
「おみゃあさん、完全に腹が据わったな」
影から歩み出た市川房枝が、椅子を引き、擦り切れた木綿の肘を卓につけた。
その硬い目が時子を射抜く。
「神田のドブ板を踏みくだいた足で、久子の逃げ道を塞いだ。
男どもの兵站どころじゃねえ。
おみゃあさんは、底辺の女どもの血と泥をそのまま掬い上げて、自分の算盤の駒に組み込んだんだ。
……あの冷飯の味が、まだ口の中に残っとるのか?」
時子は答えず、万年筆のキャップをカチリと鳴らした。
爪の間の黒い油墨は、あの夜から一度も落ちていない。
「男の『綺麗』も『汚点』も捨てて、地獄の底まで揃えにいく顔だて。
……なら、一ミリも狂わせずに、その手帳で国を叩き潰しな」
「……先生、眼鏡歪んではります」
房枝が一瞬目を丸くし、短く息を吐いて無造作に眼鏡を押し上げた。
遠く汐留の操車場から、夜の湿った空気を引き裂いて貨物列車の不気味な汽笛が届く。
父の煤の匂い。
冷たい味噌汁の出汁の匂い。
タミの爪先から漂う腐った糊の臭気。
それらの痛みが、胸の奥で重い塊となっていた。
「……次の、第四選挙区の集計に入ります、先生」
時子は万年筆を走らせた。
カリカリという硬い音が、暗い事務所に規則正しく響き渡る。