白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十二章『焔火』(1940年 3月)

大連港の海面下。

暗礁に着底させた阪急軍艦ホテル『山城』。

 主砲塔を削った密室に、重油と潮の匂いが溜まっていた。

 ペルシャ絨毯に倒れた一升瓶から、黒い油が毛足を浸していく。

外気の冷気を受け、油の縁が膏薬のように白く固まり始めていた。

「……張学良の三十万の鼻に引っかかるぞ」

 山下奉文が首を巡らせ、氷の浮いた硝子杯を指で揺らした。

カランと硬い音が鳴る。

「匂いが吹雪に乗れば十里先まで届くき。

地から油が湧いたと知られた瞬間、満洲を縛っとるカラクリが内側から弾け飛ぶ」

 サルトゥから駆けつけた河本大作が、煤と原油で焼けた顔を歪め、喉を鳴らした。

「第四号井の仕切弁が吹き飛んで、泥穴が黒い蝋の湖になりつつある。

流動点が高すぎる……

スチームを通さんと一分で管の中で脂が凝固(こご)る。

阪急技研の加熱ろ過器を通さねば、山城の汽缶どころか輸送船のポンプが一発で詰まるんだ。

掘り当ててみれば、俺たちの器があまりに小さすぎた」

 石原莞爾は冷えた番茶を口に含んだ。

「……十二年だ」

 破れ作業着の板垣征四郎が、血走った目を石原へ向けた。

爪の間に黒い泥がへばりついている。

「十二年、穴を掘り続けた兵が原油の池の中で皮膚を溶かしている。

一刻も早く阪急の温水管と土木隊を入れろ」

 石原は答えず、横に座る少女へ目をやった。

 十五歳の時子が、螺鈿紺色のワンピース姿のまま大福帳を開いていた。

「……サルトゥ第四号井、自噴圧維持。加圧加熱装置の導入費および現地労務費、一括清算完了」

 時子の声には湿度が一切ない。万年筆が黒い数字を刻む。

板垣の靴から落ちた泥など存在しないかのように。

「……とうちゃん、帳尻は合う」

「わかった、下がって休め」

「うん」

 時子が手帳を閉じ、立ち上がる。

去り際、石原の手が伸び、少女の肩の塵を払った。

父親としての、極めて穏やかな手つき。

 時子が手帳を抱え直し、すれ違いざま、板垣の足元へ一瞬だけ視線を落とした。

 破れた軍靴の先から零れ、ペルシャ絨毯の毛足を汚す黒い泥。

そして、肉に食い込むほど黒く染まった板垣の爪。

 時子の瞳には、憐憫も不快感も浮かばない。

 ただ、それが

「一石あたりいくらの損失か」

「ろ過装置のフィルターを何分で目詰まりさせるか」

という記号としてのみ、十五歳の網膜に記録されていく。

 視線を戻した時子の喉が、小さく一度だけ鳴った。

泥の匂いを排煙するかのような、微かな息の揺らぎ。

 それ以上、足を止めることもなく、少女は薄暗いドアの向こうへ姿を消した。

 その瞬間、板垣の瞬きが止まった。

「……とうちゃん、か」

 板垣の声から抑揚が消えていた。

高低のない、平坦な音が鼓膜を突く。

「毎分十石。

スチーム加熱圧二キロ。

兵の皮膚の溶解率、一時間で二分。

……千四百二十人の死骸をろ過器に通せば、綺麗に割り切れるな、石原」

 板垣は自分の爪を見つめたまま、等速で数字を呟き続けた。

「……この泥も、俺の爪の粘膜も、お前の娘の洋装服の代金だ。

最初からそう言えばよかったのだ。

そうすれば、兵ももっと効率よく溶けられた」

 石原は視線すら上げず、一升瓶を起こした。

「お前がサルトゥで削り落とした肉も、ここで叩き直す血も、すべて白鶴の計算式の中にある。

……お前の狂気すら、兵站の摩擦係数に過ぎん」

「……摩擦係数。

なるほど、摩擦か」

 板垣は小さく頷き、足元を見つめたまま足音もなく部屋を出た。

 その夜。

大連港。

三号埠頭。

 中立国船籍の貨物船が湿った蒸気を吐いていた。

甲板の上で外国船員が吐き捨てる粗野な英語が、夜の海に響く。

 ボロボロの外衣を羽織った板垣は、タラップの影に身を潜めていた。

懐の手のひらで、油と血で固まった分厚い野帳の感触を確かめる。

 タラップの鉄の手すりに手をかけた。

冷気が掌を刺す。

 背後で、雨傘が開く乾いた音がした。

「……板垣中将」

 低い声と同時に、冷たい鉄の筒が肋骨の隙間に深く突き刺さる。

「白鶴の搭乗名簿に、あなたの名はありません。

……お静かに」

 板垣は振り返りもおこなわなかった。

ただ、平坦な目のまま、海を見つめていた。

 被せられた粗い麻袋の匂いが鼻を突く。

 黒塗りの車がエンジン音もなく走り去り、その暗闇はそのまま千マイル離れた湿った漆喰の部屋へと繋がっていた。

 永田町。

 首相官邸の奥。

 外光を遮断した執務室に、冷えた茶の匂いが沈んでいた。

 永田鉄山は眼鏡を外し、太い指で目頭を押した。

「……なぜ今だ、石原」

 石原莞爾は、萬年筆の漆蓋を回した。

「放置すればハルビンまで固まります。

満洲の冬に、あの原油を裸で流せば、ただの黒い帯です。

張学良の鼻に引っかかり、赤軍の偵察機を呼びます」

 永田の指が試算表を擦った。

「サルトゥに年一億を固定してみろ。

手元金が干上がり、六十万の給与が止まる。

回転が止まれば、黒字のまま倒れるのだぞ」

 紙の端が、指先の脂でわずかに透けた。

「……満洲の泥で、国家の喉を詰まらせる気か」

 部屋の隅で、白手袋が地図を広げた。

 井上成美が萬年筆の先を、大連の一点に置いた。

「大豆油で溶かします」

 石原が目を上げた。

「大連の搾油工場か」

「未精製の大豆油です。

混合比は試験が必要ですが、粘度を下げられる可能性があります」

 井上は地図に線を引いた。

「阪急の私設線で大連まで運び、要塞戦艦『山城』の二重底へ注ぎ込む。

海軍の練習船名義で舞鶴と天保山へ回します」

「海軍が黙って呑むか」

「呑ませる条件を作ります」

 井上の声は変わらなかった。

「混練廃物も捨てません。

北摂の阪急油脂化学で処理し、石鹸や塗料の原料に回す。

小林氏には、その採算を取らせます」

 石原が細く息を吐いた。

「……相変わらず、毒の塗り方が巧い。井上さん」

「後始末は、海軍の仕事ですから」

 永田は答えなかった。

 木印を朱肉へ沈める。

 印面の溝に、赤い朱がゆっくりと満ちていった。

「八千万で海軍が呑むか。

腹を空かせた鮫に、かすり傷の血を舐めさせるような真似をしてみろ。

二重底ごと白鶴を食い千切りに来るぞ」

 永田は眼鏡を掛け直した。

「本物が噴いたときはどうする。底なしだった場合だ」

 石原の手が止まった。

「西の住友、阪急、日産。

東の三菱、日立。

北摂と大連に囲い込みます。

他国の特許も含め、技術と資本を押さえる。

高オクタン価揮発油まで組めれば、採算の桁が変わる」

「買い叩くのではない。

世界ごと喰い潰すのだな」

 永田の目が、眼鏡の奥で光った。

「小林の算盤と時子の計算尺で、陸軍の血も海軍の欲も、まとめて呑み込む」

 石原は漆蓋を回す手を止めた。

「呑むのは人間ではありません。白鶴という仕組みです」

「同じことだ」

 永田は試算表へ木印を落とした。

 ぐじり、と紙が潰れた。

 朱の印影が、数字の上に残った。

「……大連の板垣は」

「台湾へ送ります。

樟脳特務監督として」

「それで終わりか」

「周囲は山と海です。

無煙火薬の原料を管理させます。

十二年、油田で穴を掘った男です。

今度は樟脳の山で働いてもらう」

 永田の手が止まった。

「腐らせるな」

 低い声だった。

 石原は口を閉じた。

「死ぬまで火薬の配合を計算させろ。

十二年穴を掘った男だ。

使えるものを残らず使え」

 永田は、石原を見据えた。

「最後の一滴まで絞り出してから捨てろ。

……それがお前たちの作った仕組みだろうが」

 石原は答えなかった。

 永田は伏せた書類の上に、手を置いた。

 その手の下には、サルトゥの収支表があった。

 採掘量。

 輸送費。

 処理費。

 売却益。

 どの欄にも、板垣征四郎の名を書く場所はなかった。

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