首相官邸執務室。
分厚い奉書紙に、重々しい朱肉の匂いが立ち上っている。
永田鉄山総理は太い万年筆で落款を押し込むと、視線すら上げずに言った。
「欧州が弾けて半年。
スターリンはモスクワで不可侵条約の甘い夢を貪っている。
だが来年、ヒトラーが東へ舵を切った瞬間、シベリア鉄道の動脈は即死する。
……スモレンスクへ向かうその血路を、我が『白鶴』の循環網に接続させろ」
机上を滑る、折り目の正しい全権委任状。
「サルトゥ油田は、出始めた瞬間が一番危ない。
石油が流れ始めれば、そこが敵の狙い目になる。
……その喉首も、白鶴の網で押さえろ」
陸軍大臣、石原莞爾は無言で紙片を胸ポケットに収めた。
「お前自らが赴く以上、失敗は許さん」
永田の眼鏡の奥で、統制の光が鋭く瞬いた。
「連れて行け。
時子の『公度』は今や、未来の数個師団の火力を凌駕する」
高度一千。
白鶴二型の床板を通して、四発の空冷エンジンが刻む重低音が腰骨を微細に揺らしていた。
丸窓の向こうは、鉛色に凝固した北天。
密閉された特別客室には、小林一三が選ばせた白檀の香と、二重床の隙間から這い上がる北樺太産高オクタンガソリンの甘い刺激臭が立ち込める。
時子と靚子の膝先が触れ合っていた。
衣擦れの微かな音。
靚子が真っ白な手袋を無言で引き抜く。
微かに汗ばんだ素肌の指先が、時子の手首の脈に触れた。
体温を探るように這い上がり、そのまま掌を深く、激しく絡めとる。
薔薇の化粧水と、揮発油の匂い。
時子の肩に、靚子の華奢な顎がすり寄る。
耳元で、熱い吐息だけが微かに震えた。
時子は前を見つめたまま、ただ横顔を靚子の髪に沈めた。
金角湾。
鉛色の海面を割り、五艇の白鶴二型が水煙を上げて着水した。
沿岸の赤軍砲台の真下、引き込み線に鎮座する黒緑の重装甲列車『リトヴィノフ号』。
鉄扉が開くと、粗悪なマホルカタバコの煙と重油の臭気、そして厨房から漂う、唐辛子と胡桃を煮詰めた暴力的な獣肉の匂いが鼻を突いた。
部屋の最奥。
パイプを咥えたヨシフ・スターリン。
その横で、無機質な眼鏡を光らせる外務人民委員ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ。
石原の横から井上成美が静かに歩み出た。
背筋を寸分の乱れもなく伸ばし、極上の氷を溶かしたような完璧な敬語で告げる。
「総書記閣下。
我が内閣は、貴国への将来的な東方兵站援助を申し出ます。
シベリア鉄道の荷役規格を我が方の白鶴パレット網に段階的に統合し、天山山脈イシク・クル湖とバクーの水面使用権をお認めいただきたい。
湖では離着水と補給、バクーでは給油と整備に限ります。
いずれも土地の領有や行政権を求めるものではありません。
見返りとして、地中海アンコーナ経由での欧州向け物資輸送、ならびに満州大豆と高純度モルヒネの即時供給をお約束いたします」
通訳の喉が震え、蒼白な顔でロシア語が紡がれる。
モロトフの視線が井上と石原を通り抜け、後ろに佇む二人の少女の足元から頭頂へと滑る。
寸分違わず畳まれたマルーンの外套の裁断、同じ位置に締められたベルト、ミリ単位の狂いもない帽子のかぶり深さ、そして左右対称に握られた革鞄。
モロトフの薄い唇が、冷ややかに歪む。
「……衣服の裁断から鞄の真鍮まで、寸分違わぬ規格品か。
極東の資本主義者どもは、小娘の仕立てにまで兵站の公度を押し付けていると見える。
……不躾な要求だな。
不可侵条約下の我が国に対し、不沈飛行艇のハブなどという主権侵害は断じて認めん」
石原莞爾は微動だにせず、庄内訛りの残る濁った声で低く笑った。
「おどしじゃねぇ。
おめだぢが来年、ドイツに殴り込まれてどんだけ擦り潰されるか分かってっから、商売に来だ。
……時子」
時子が静かに前に出た。
寸分違わず規格化されたマルーンの外套。
革鞄の真鍮留め具が、カチリと小さく鳴る。
卓上へ滑り出たのは、一束の薄青い複写紙と、永田譲りの黒ずんだ真鍮の特注ヘンミ計算尺。
時子は計算尺のカーソルを、ただ一刻み――カチリと走らせた。
「……来年夏、独ソ条約が破棄された場合。
バイカル東側、貨物規格の不統一による荷役停滞、十四パーセント。
ウラル疎開工場、軸受の供給断絶による主要生産ラインの稼働率、四十パーセント。
西部前線、医療用モルヒネの規格不統一による供給脱落、月間四千単位」
淡々とした抑揚のないロシア語が、密室の湿度を凍らせる。
時子は多くを語らない。
ただ、滑らせた複写紙の束をモロトフの眼前に静かに押しやった。
そこには、阪急技研と大石和三郎の検印が押された高地気圧補正データ、イシク・クル湖における補助火薬噴進の離水滑走距離試算、そして白鶴二型が年間で輸送可能な高純度触媒、真空管、四エチル鉛、モルヒネの正確なトン数と回転数が、未来の確定数値として刻まれていた。
モロトフが無言で紙片を引き寄せる。
指先で一枚、また一枚と捲る。
目の奥にあった外交官の威圧が、冷ややかな慄然へと削られていく。
「この数字を、我々が独自に検証できるのか」
モロトフの問いに、時子は顔を上げた。
「できます。
記録は全部、同じ形式で残します。
ソ連側の計測値も、そちらの記録も、両方で確かめられます」
井上が静かに言葉を継いだ。
「まずはウラジオストクの一港、シベリア鉄道の一駅、イシク・クル湖の一航路に限り、三ヶ月の試験運用といたします。
荷役記録と飛行記録は双方で照合し、規定値を超える遅延が生じた場合も、原因を確認したうえで措置を決定します。
全線の統合は、その結果を見てからです」
モロトフはすぐには答えなかった。
時子は鞄から万年筆を取り出すと、協定覚書の末尾、日本側の署名欄に先を滑らせた。
毛筆の書道のごとく、寸分の乱れもなく描かれる一筆書きの幾何学的な署名。
その筆跡の狂いなさに、モロトフの視線が釘付けになる。
時子の肩にそっと寄り添っていた靚子が、透き通るような薄い唇をわずかに開いた。
芯のブレない凛とした声が、絶対零度の密室を切る。
「……定時運行を前提としております。
ソ連側の手配不全で給油遅延が生じた場合、原因を双方で確認し、協定で定めた範囲内で、次便の優先枠とカスピ海北部における物資の自主調達権を行使いたします。
調達の品目と数量は、あらかじめ双方で定めた範囲に限ります。
一分の遅れも許されません」
インクの匂いが静かに立ち上る。
モロトフは唇を固く結び、卓上の書類と二人の少女を交互に見つめた。
静寂。
スターリンはパイプを指先で回し、書類から目を離さなかった。
「三ヶ月で、何が分かる」
低い声が落ちた。
時子は計算尺を鞄に納めながら、視線すら上げずに単調に呟いた。
「……奥のハルチョー。
唐辛子と胡桃が多すぎる。
胃粘膜が切れますよ」
言葉が止まった。
赤軍将校たちの皮膚が引きつり、モロトフの手が止まる。
最奥の革椅子。
パイプの煙の向こうで、ヨシフ・スターリンの黄色い瞳が静かに時子を捉えていた。
時子はようやく顔を上げた。
「三ヶ月あれば、どこで遅れるか分かります。
うまくいかんかったら、やめたらいいだけです」
スターリンは時子を見つめ、それからモロトフを見た。
「我々だけで検証できるのか」
「可能です。
試験区間の運用権は、ソ連側に残ります」
モロトフは書類を閉じずに答えた。
スターリンは無言のまま、卓上のハルチョーを一さじ掬い、口に運んだ。
カチャリ、と銀のスプーンが陶器と触れ合う音だけが響く。
ゆっくりとした咀嚼。
喉を鳴らす音。
パイプの紫煙がゆっくりと天井へ立ち上った。
スターリンはスープを飲み干すと、パイプを卓上に静かに置いた。
片手を伸ばす。
モロトフの手から万年筆を静かに受け取ると、奉書紙の末尾、時子の完璧な署名の隣へ、重々しい黒インクの筋を深く刻み込んだ。
「……極東一熱いハルチョーを、もう一杯持ってこい」
地の底から響くような掠れた声。
湯気を立てるスープが運ばれてくる。
時子が一口すする。
喉を焼く劇物の熱。
「……辛っ」
スターリンは、舌を出した時子の顔を見ていた。
なぜか、娘スヴェトラーナの幼い頃が脳裏をよぎった。
スターリンは黙ってスープをすすった。
時子の顔が、妙に忘れがたかった。
テーブルの下。
靚子の白く細い指先が、時子の手首をそっと探り当て、マルーンの外套の陰で、己の体温を注ぎ込むように激しく絡みついた。