白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十四章『娘話』(1940年 4月)

白磁のスープ皿を、銀の匙がかすかに擦った。

 カチリ。

 乾いた金属音が、海へ突起のように突き出した小食堂の空気へ落ちる。

 阪急浜離宮大回廊内ホテル、最上階。

 四月の東京湾は鈍い鉛色に沈み、低空を流木のような影が一機、ぬめりとした翼を傾けて横切っていた。

 白鶴二型。

機首が水面を撫で、白い艇体が海を滑る。

 井上成美は、その水煙を一度だけ視界の端で捉え、すぐに眼前の白い器へと視線を落とした。

「……お口に合いましたか、靚子」

「ええ、お父様」

 靚子は静かに匙(さじ)を置いた。

「蕪の風味が、とても優しゅうございますわ」

 黒いウールのワンピース。

その胸元には亡き母、喜久代から譲り受けた真鍮枠の小さな真珠のブローチ。

 だが、テーブルの仕切られた布の下、彼女の足元には異質な塊があった。

阪急が『鶴子』と『おねえさま』の広告塔用に支給した、ジュラルミン・チャック付きの祝典モデルの編み込みロングブーツだ。

この食堂でも、彼女はそれを履き続けている。

 ガラス越しに差し込む春の光景とは裏腹に、足首を締め付ける重厚な革の内側には微かな蒸れと熱が籠もり、優雅な食堂の空気の中で不気味な居心地の悪さを醸し出している。

 成美は娘の顔を覗き込んだ。

 かつて世田谷の自室で膝を抱え、父親の足音ひとつに肩を震わせていた少女の面影を探す。

 だが、目の前にいるのは、軍艦の鉄甲板に立ち、男たちの怒号の中で平然と気象計算表をめくる女だ。

 母を亡くしてから暗い台所で黙々と出汁を引いていた指先には、いまや英語の技術書と真鍮計算尺の冷たい感触が染みついている。

「……こうして二人で食卓を囲むのも、いつ以来でしょうかね」

「そうですわね。

お父様が呉からお戻りになって以来ですわ」

「母様が亡くなってから、お前には随分と不自由をかけました」

「そんなこと」

 靚子が小さく首を振る。

黒髪が繊細に揺れた。

「私は、お父様の娘ですもの」

 成美の指先が、ワイングラスの脚をなぞったまま止まった。

 娘は穏やかに笑っている。

だが、その瞳の奥には、父親である自分すら立ち入れない透徹した冷たさがあった。

「時子さんと行動を共にするようになってから、お前は変わりましたね」

「……そうでしょうか」

「ええ」

 成美はグラスを置いた。

静かな音がテーブルクロスに沈む。

「阪急の気象観測網の再編。

ウラジオストクでの通訳。

横須賀で、燃料補給の優先順位を独断で書き換えた件もそうです」

「……」

「以前のお前なら、決してあそこまで他人の領域に足を踏み入れなかった」

 靚子は答えず、テーブルの下でブーツの硬い革を擦り合わせた。ギィと小さく革が鳴る。

「私は、お前をまだ温室の子供だと思っていたのでしょうね。

……だが、どうやら勘違いだったらしい」

 成美の声音から、かすかに父としての情が引いていく。

「お前には、もうお前自身の戦場がある」

「……お父様」

「ついでに一つ、伺っておきましょう」

 成美の問いは、刃のように細く、鋭かった。

「時子さんとは、どういう関係なのですか」

 靚子の指先が、膝の上でかすかに強張った。

「……どういう、とおっしゃいますと?」

「永田総理と石原陸相をご覧なさい」

 成美は苦笑を漏らした。

「あのおふたりは、お互いの腹の中を鋭利な刃物で探り合いながら、同時に相手の喉元へ剃刀を突きつけているような間柄です。

それでも、国家という巨大な歯車を噛み合わせるときだけは、コンマ一ミリの狂いもなく互いを利用し尽くす」

「……」

「傍から見ていると、実に妙な光景ですよ。

喉元にナイフを突きつけ合ったまま、まるで密室でふざけ合っている幼馴染にしか見えないときがある」

 成美の目が、静かに娘を射抜いた。

「お前と時子さんも、似たようなものではありませんか」

「違いますわ」

 即答だった。

間髪を容れぬ拒絶。

 成美の白眉が、かすかに上がった。

「違う、と?」

「ええ」

 靚子は視線を落とし、白磁の器に映る薄暗い天井のあかりを見つめた。

「あの方は……私とは違います」

「どう違うのです」

「……分かりません」

 初めて、靚子が言葉に詰まった。

つま先の熱が、革の圧迫感とともに皮膚へ伝わってくる。

「ただ……時子ちゃんの隣にいると、頭の中が静かになるのです」

 成美は黙っていた。

「人が死んでも」

 靚子は窓の外を見た。

「機械が壊れても。

数字にしてしまえば、迷わない」

 白鶴の航跡が、鉛色の海に溶けていった。

 成美の視線が、テーブルの下へ落ちた。

娘のブーツには、乾いた泥がこびりついていた。

 成美は胸ポケットへ手を入れた。

黒革の手帳に触れる。

だが、出さずにそのまま手を引いた。

「……そうですか」

 それだけだった。

「お父様?」

「いや。

……ならば、別の話をしましょう」

 成美は水を一口飲んだ。

「縁談の話です」

「……まあ」

 靚子の目が丸くなった。

「昨年夏の横須賀で、お前の作業手順を見ていた兵士達から山のように届いております。

その中で、ある軍医中佐から、少し面白い紹介文が届きました。

『あれほど感情を排して理性的に物事を処理できる女性なら、これからの海軍衛生制度の改革に不可欠だ』と」

 靚子は数秒間絶句し、やがてふっと肩を揺らした。

「お父様。

それ、見合いの口説き文句としては、ずいぶん情緒に欠けておりませんこと?」

「私もそう思います」

 成美の口元が僅かに緩んだ。

 靚子が声を殺して笑う。

ほんの一瞬だけ、世田谷の家で父親の後ろをついて歩いていた十九歳の少女に戻っていた。

「一、二年後、白鶴の空路が完成し、仕事が区切りを迎えたときでいい。

一度、会ってみなさい」

 成美は淡々と言った。

「普通の家庭というものもあります。

朝食を共にし、静かな夜を迎える。

お前には、まだそういう生き方へ戻る道が残されています」

 靚子は答えず、窓の外の闇を見つめた。

「……静かですわね」

「ええ」

「少し……怖いくらい」

 成美は娘を見た。

「お前は、静かな場所が嫌いでしたか?」

「いいえ」

 靚子は首を振る。

「お会いすることは、お受けいたしますわ」

「そうですか」

「ただ……

私がもう『普通の娘』に戻れるかどうかは、分かりませんわ」

 成美は頷いた。

それ以上、何も言わなかった。

 遠く横須賀の方角から、重厚な艦笛が響いた。

夜の海を滑り、暗がりへと消えていく。

 代沢。

石原邸。

 四畳半の室内には、焦げた畳の匂いと、酸えた味噌汁の匂いが重く淀んでいた。

 ちゃぶ台の端。

石原莞爾は冷え切った豆腐へ醤油差しを傾けていた。

 とろりとした黒い筋が、白い豆腐を塗潰していく。

「とうちゃん!」

 時子が飛び込んできた。

 平皿をドスンと叩きつけ、石原の手から醤油差しをひったくる。

「またそんなアホみたいに醤油かけて!

自分の身体分かってんのか!?」

「そんなごど、わがってるわ」

「分かってへんやん!」

 時子は鬼の形相で石原を睨みつけた。

「また下っ腹に尿溜まって、極太のゴム管突っ込まれて泣き叫ぶハメになるんやで!

膀胱破裂して死にたいんか!」

「またユダヤの医者に頼んで、管通してもらえばいいんださけ」

「ハァ!?

満州のユダヤ人脈はな、ドルと技術を巻き上げるための管や!

とうちゃんの腐った尿道掃除する管とちゃうわ!」

「一緒だの」

 石原はくすんだ頬骨を歪めて薄笑いを浮かべた。

「人間のパイプも、大連の重油パイプも、詰まったら抜けばいい。

……おめぇは計算尺叩いて、ハルチョー食ってさっさと寝ろ」

「一緒にせんとって!」

 時子は頭を抱え、ちゃぶ台の向かいへドカリと座り込んだ。

 膝の上に置かれた指先。

その爪の端には、ウラジオストクの装甲列車で真鍮計算尺を握りしめたときについた黒い機械油が、洗っても落ちずに残っている。

時子は親指の爪で、その黒い汚れをガリガリと強く擦った。

「……とうちゃん」

「ん?」

「死んだら、許さんからな」

 石原の箸が止まった。

黒く染まった豆腐を雑に口へ放り込み、咀嚼する。

皮を突き破りそうな頬骨が動く。

「……死なね」

「絶対やで」

「ん」

 それだけ言うと、石原はそれ以上口を開かなくなった。

時子も黙った。

 外では春風が桜の花びらを散らし、遠く羽田の空を飛ぶ白鶴の重低音が、薄いガラス障子をビリビリと揺らしていた。

 その振動を指先に感じながら、時子は黒く汚れた爪を握り込んだ。

 白鶴の音が、遠ざかっていった。

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