白鶴物語   作:石原時子

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第七章 『寝ぐずり』(1928年 9月)

大阪城本丸、第四師団司令部。

 衛兵詰所の離れから、蚊取り線香の湿った煙を切り裂いて甲高い悲鳴が響いていた。

「ひこぉき!

おったん、ひこぉきとぶぅ!

ふふふっ!」

 船場の薬種問屋の倅である吉野曹長が、汗だくになりながら軍極秘の動員計画書を頭上に掲げて逃げ回っていた。

その足元で、四歳の時子が裸足で縁側を激しく走り、狂ったように笑い転げている。

「おい嬢ちゃん、走ったらコケる!

ほれ、飴ちゃんやで!」

 限界を超えた眠気で目を血走らせ、時子は曹長の手から紙包みの安飴を引ったくった。

ろくに噛みもせず口へ放り込み、意味もなく柱の周りをグルグルと走り回る。

膨れた頬は泥汗で濡れ、息は荒い。

「……ひどい有様だな。

……冷や飯の味はどうだ、石原」

 開け放たれた襖から、その惨状を射抜く冷酷な眼。

三宅坂から自ら爆弾の状態を確かめに来た軍事課長、永田鉄山大佐と、三つ揃えの小林一三だ。

 戸籍を偽造してまで抱え込んだ「毒」と、子守りに追われる石原を、永田は解剖医の目で刺す。

石原は直立不動のまま、暗い眼光を静かに撃ち返した。

 小林が包みを畳へ滑らせた。

『阪急技術専門学校設立寄付金 金五千円』

 軍の敷地に落ちた私鉄の金。

永田はそれを丹念に折りたたむと、三宅坂の裏予算として軍服の懐深くへ吸い込んだ。

「……養育費にしては余るな」

 薄い唇をかすかに歪め、永田は踏込みへ下りると、軍靴の重い音を廊下に残して去った。

石原という不発弾がまだ牙を失っていない事実と、その裏の成果だけを携えて。

 小林は去らぬ。

上座の応接椅子に腰を下ろし、冷えた炭酸水のグラスを静かに傾けていた。

 静かに襖が開いた。

 住友本店の重役、木村だった。三つ揃えの洋服には埃一つなく、安物の軍用机の前に立つだけで、部屋の空気が別物に変わる。

 木村は畳に落ちた安飴の包み紙を見つけると、白いハンカチを取り出し、指先だけでつまみ上げた。

机の隅へ、そっと置く。

「……失礼。

住友では、机の上にゴミがあると、商談にならんのです」

 その声は、極冷の氷だった。

「木村さん」

 石原は走り回っていた時子の胴体を強引に抱きあげ、己の膝の上に乗せた。

 木村が、ハンカチで口元を軽く押さえた。

「……随分と、香ばしい兵站会議でありますな。

阪急さんとは」

 木村の視線は、机上の図面ではなく、石原の軍服の袖口へ落ちた。

洗い晒しの綿地は幾度も擦られ、肘は白く毛羽立っている。

陸軍中佐とは思えぬその生活の匂いを、商人の眼は見逃さなかった。

 その瞬間だった。

 時子の身体が硬直した。

飴の甘い匂いと汗の匂いを撒き散らしながら、顔が真っ赤に黒ずんでいく。

下唇をこれでもかと突き出し、落っこちそうな頬を膨らませた。

「……いぁや」

 ぽつり、と漏れた声。

次の瞬間、時子の目から光が消えた。

「いぁやぁぁぁぁぁぁっ!!

やぁぁぁっ!!」

 跳ね上がる肉体。

時子は狂ったように暴れだし、小さな拳で石原の胸元をドカドカと激しく殴りつけ、軍服の襟元を掴んで引っ張り回した。

素足で石原の膝を蹴りつける。

 木村の目が冷たく細まった。

石原の額から、流れるような冷や汗が吹き出す。

 だが、石原の目は木村から一度も逸れなかった。

「……住友伸銅、第二工場」

 跳ね起きようとする時子の胸を、石原の太い腕が万力のように締め上げる。

分厚い手が背中へ打ち下ろされた。

「圧延幅、四尺五寸。

月産三百トン。

住友以外に、誰が引く」

 石原の膝を狂ったように蹴りつける小さな足。

その衝撃を完全に無視し、石原の手のひらが容赦なく背骨の脇を叩く。

「鍛造用、千五百トン油圧プレス。

……ドイツ・シュローマン社製。

貴様らが裏で隠し持っておるブツだ」

 背を叩く一撃ごとに、時子の絶叫がわずかに途切れ、呼吸が強制的に乱される。

あやしなどではない。

一定の速度で打ち下ろされるその打撃は、跳ねる幼子の命の脈動を、力ずくで己の拍子へ巻き込んでいく作業だった。

「うああぁぁぁっ!

とぉちゃぁぁぁ!」

 時子は石原の胸元に顔をうずめ、鼻水と汗と涙を夏衣に擦り付けながら泣き叫び続けた。

石原の夏衣はヨダレと涙でぐちゃぐちゃに濡れ、襟ぐりは引きちぎられんばかりに乱された。

「川西。

試製大型飛行艇。

主翼桁材、ジュラルミン二トン。陸軍の予算ではない。

満鉄の満州大豆ドルだ……飲め。

飲まねば、住友の伸銅所を

『陸軍管理工場』

に指定して接収する」

 木村は返答を忘れていた。

 首筋に幼児の涙と汗を浴び、軍服をぐちゃぐちゃに濡らしながら、男の打撃の拍子は一秒たりとも狂わない。

時子の絶叫の合間に、正確無比な数字だけが冷酷に叩きつけられる。

 住友が誇る千五百トンプレスの重力すら、この男の腕の振りの前にはただの計算式に過ぎない。

 接収は脅しだ。

だが、この男は狂気ではなく、純粋な計算としてそれを実行する。

 木村の白いハンカチを握る指先が、かすかに震えた。

私腹を肥やす野心もなければ、目の前の子の慟哭に心を動かす情もない。

ただ国家の兵站という巨大な歯車を回すためだけに、己の生活も、幼子の涙すらも均一な数値として処理している。

 やがて、背骨を揺らす一定の打撃音と石原の体温の中で、時子の絶叫が「ヒック、ヒック」というしゃくり上げに変わり、小さな鼻をフスフスと鳴らしながら、泥のような眠りへと落ちていった。

 部屋に、石原の荒い息遣いだけが残る。

 石原は湿りきった胸元で眠る時子を、畳の座布団へ静かに横たえた。

乱れた服のボタンを留め直し、木村をまっすぐに見据えた。

 木村は、しばし時子の寝顔を見た。

「石原中佐。

住友の家法に『浮利を追わず』とある。

軍の浮利は追いません」

 木村は小さく息を吐いた。

「阪急は商売人、あなたは軍人」

 一度、石原を見つめる。

「……どちらも違いますな」

 石原は答えなかった。

 木村は三つ揃えの懐から静かに万年筆を抜き、己の名刺の裏に『三百貫』と短く書き走らせると、畳の上に置いた。

「二トンは出せません。

三百貫なら、伸銅所の『加工屑』としてなら、今月中に帳簿から消せます。

……浮利ではない。

廃棄物の処理です」

 木村は三つ揃えの埃を払い、立ち上がって踏込みへ下りた。

黒革靴に足を入れ、ふと爪先に付着した安飴の僅かなゴミに気づくと、白いハンカチで静かに拭い去った。

「……あと、娘さんに。

飴は、住友の飴の方がうまい。

次は持ってきますよって」

 木村の静かな靴音が廊下の闇へ消えていく。

 静まり返った部屋で、小林一三が炭酸水のグラスを静かに傾けた。

氷がカランと乾いた音を立てる。

「……木村さんも、おカワイそうに。

あの人は、石原さんを『陸軍の軍人』と思って交渉しに来たんや」

 小林はグラスを置き、ヨダレと鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた夏衣のまま、座布団に眠る時子を見つめる石原を細い目で見下ろした。

「阪急は商売人、住友は番頭。

……石原さん、あんたは軍人でもなんでもない。

ただの化け物ですわ」

 安飴と汗と、子の酸っぱい泥の匂いが立ち込める兵舎の片隅で、満州と日本を裏で繋ぐ巨大な兵站の歯車が、重々しい音を立てて噛み合わさった。

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