白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十五章『国家戦略院』(1940年 5月)

永田町。

首相官邸。

執務室。

 石炭酸の鋭い匂いと、濡れた羊毛軍服が吐き出す重苦しい蒸気。

真鍮時計の秒針が、冷えた空気を刻む。

 総理大臣、永田鉄山大将は黒革の手袋を嵌めた指先で、卓上の電信紙を滑らせた。

『ルーズベルト大統領再選。

対日石油全面禁輸を即時発効』

 直立不動のまま佇む海軍中将、井上成美の第一種軍装には、一筋のシワすら存在しない。

氷のように澄んだ声が、静寂を穿つ。

「永田総理。

ワシントンが動きました。

ルーズベルトは再選直後、スイスフラン決済枠を反故にし、高オクタン価ガソリン、四エチル鉛、原油の全面禁輸を即時発効いたしました」

 陸軍大臣、石原莞爾中将。

その固く結ばれた口元から漏れるのは、冷気と乾いた吐息だけだ。

「百四十四時間経過。

東京手形交換所は正午に破綻。

大蔵省の50ヘルツ金融網は完全に沈没した。

……東は死んだ。

残るは米国の禁輸だ」

 永田は手ぬぐいで薄い唇を拭うと、低い冷笑を漏らした。

「喉元を締め上げた気でいる」

 永田の視線が、暗がりへ落ちる。

 そこから踏み出した石原時子の足元が、千鳥足を描いた。

 十六歳の肉体はとうに限界を超えている。

詰襟の袖口から覗く手首は痛々しいほど細く、ヘンミ計算尺を滑らせ続けた右指は擦過熱で皮膚が割れ、生血が黒く乾きついていた。

真鍮の計算尺が卓上へ置かれようとした瞬間、濡れた汗で滑り、木肌へ転がる。

「……時子」

 石原の低い声。

 脳の裏側で吹き荒れる高周波の耳鳴り。

時子は荒い息を吐き、血の滲む指で計算尺を掴み直すと、黒革手帳へ突きたてた。

「……オハ……100オクタン……通りました……自給ライン、立ち上がりました……」

 ドサリと、膝の力が抜ける。

時子の身体が前傾し、床へ崩れ落ちようとした——その瞬間。

傍らに立つ井上靚子は、時子の重心がわずかに揺らいだ気配を事前に察知していた。

時子の身体が落ちる前にさっと一歩を踏み込み、滑らかな動作でその細い胴と背に腕を滑らせる。

時子の華奢な重みが床へ叩きつけられる前に、そっと己の胸元へ抱き寄せた。

白檀の匂いと、冷え切った肌の温度。

靚子は顔色ひとつ変えぬまま、己の肩へ時子の頭を深く預けさせ、震えるその背を揺るぎない手で抱きかかえ続ける。

耳元で、かすかに衣服の擦れる音がした。

「……時子ちゃん」

靚子の密やかな囁きが、時子の耳奥の吹雪を溶かす。

時子は血と汗の混じった鼻下を袖口で擦りつけようとして、手が止まった。

鼻孔から、新たな血が糸を引いて落ちていた。

「……バタヴィアも……サイゴンも……60ヘルツに換装済みです……アメリカのポンプを持ち込んでも……一滴も吸い上げられへん……

太平洋の石油流動性……凍りつきました……」

時子は喉の奥から這い上がる血を強引に飲み下し、掠れた息を継いだ。

靚子の胸元を、血に汚れた指先で固く握りしめる。

「……わたしが倒れても、……動くようにしてください」

重苦しい静寂が、執務室の空気を凍らせた。

永田鉄山は、時子の手から真鍮の計算尺を無造作に引き抜いた。

「……永田先生」

「黙れ」

永田の冷ややかな一言。

カーソルを親指でカチリと滑らせる。

「単軸の機関は、過熱すれば焼き切れて潰れる。

お前の脳味噌を、四則演算の熱で溶かすわけにはいかん」

ポン、と音を立てて、永田は卓上へ一冊の新聞を投げ捨てた。

三面記事の見出し——『秋田・山形 娘売りの悲惨 冷害農村に身売り業者横行』。

「阪急の技術校網を、今夜をもって直轄へ昇格させる。

『女子演算隊』を即時編成しろ」

石原の眉根が動く。

「……女子でありますか」

「男は駄目だ。

二十才になれば甲種合格で陸軍に奪われるか、工廠へ引き抜かれる。

熟練手が途中で消えれば、白鶴規格の兵站暗号は潰れる」

永田は新聞の写真を人差し指で突きたたたいた。

「徴兵令の届かん女で固める。

それも、いまだ冷害と貧困で女子売買が横行しておる東北の、高等女学校出の次女、三女だ。

妓楼や女工に売られる前に、国家が正規の手当で買い叩く。

学費免除、三食全寮制、親元には紡績工場の倍の仕送りを叩き込め。

身売り防止というお題目を立てれば、山形や秋田の飛び切りの頭脳が、勝手に転がり込んでくる」

永田の唇に、血の通わない薄い笑みが浮かぶ。

「位置印を一日十二時間滑らせる単純作業だ。

男の集中力は半日で切れるが、女の作業精度は男の比ではない。

外界から遮断し、兵站計算だけに特化させる」

時子の身体を優しく抱いたまま、靚子が静かに眼光を落とした。

「……彼女たちを国家の兵站を動かす技術官僚として組み込まれるのですね。

誇りを持たされた女の手は、絶対に計算を間違えませんわ」

永田が巨躯を起こした。

漆黒の影が、二人の少女と卓上の将星たちを丸ごと呑み込んでいく。

「東の死体から脂肪と血を搾り取った。

西の自給兵站も完成した。

統制院も今日限りで叩き潰す。

陸の縄張り、海の自我欲、財閥の既得権益——小児病の時代は終わった。

外交、金融、軍政、暗暗流動性、そして阪急の民間兵站網……

すべてを一元的に統括し、地球規模の公差を零にする最高決裁機関を創設する」

永田の目が、冷酷な光を放って井上成美を射抜いた。

「『国家戦略院』を発足させる。

最高顧問には私が就く。

……自由な采配を揮わす。

対米実務と全兵站統括を担う最高責任者——『国家戦略院院長』は井上中将、きさまだ」

井上成美は微動だにせず、寸分の乱れもない一礼を返した。

「最高顧問閣下。

お引き受けいたしました。

海軍の外交権能および作戦兵站網の全権を以て、国家戦略院の実務指揮を執ります」

石原莞爾が踵を揃え、右手を軍帽の庇へ跳ね上げた。

「陸軍省ならびに全参謀本部、直ちに最高顧問の傘下に入り、井上院長の指揮に服します」

永田は壁の地政学図の前へ歩み寄った。

「最高顧問命令を発令する。

仙台、小樽の接収施設を第一期『女子演算隊訓練所』に指定。

ただちに三千名の初期公募枠を発表させろ」

永田は振り返り、靚子の胸元で小さく息を吐く時子を見下ろした。

「時子。

お前は構造式だけを書け。

お前の黒革の手帳と計算尺を、国家戦略院の最高計算機として認める。

……お前がその『最高演算官』だ」

時子は、自分の汚れた手帳を見つめた。

自分ひとりの肉体を押し潰そうとしていた国家の巨大な重量が、無数の見知らぬ少女たちの指先へと拡散していく感覚。

「……阪急の線路みたいに、網を……広げるんですね」

「そうだ」

永田の声には、一切の揺らぎもなかった。

「お前が潰れれば、西の自給兵站も、太平洋の100オクタン網もすべて止まる。

……死ぬことは許さん」

時子は喉の奥の血を飲み下し、永田に向かって深く頷いた。

「……はい、永田先生」

カチリ。

時子の指先で、黒革計算帳の銀の金具が重く閉じた。

官邸の暗闇の底で、東日本の死体と引き換えに産み落とされた巨大な怪物——「国家戦略院」と、三千人の人間計算機集団「女子演算隊」が、静かにその目を覚ました。

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