阿弥陀堂の軒下に、泥と煤の塊がうずくまっていた。
福島県安達郡の山懐。
欧州の戦争特需で西日本がドルと原油に沸き立つ陰で、三度続いた冷害に捨て置かれた村。
あばら屋の影では、青く膨らんだ三歳の弟が、肥溜めの縁の湿った土を黙々と舐めていた。
娘の右腕全体に、ひきつれた酷いケロイドが波打っていた。
二年前の極寒期、かさ増しの灰を混ぜた煮え立つ糠汁の鍋を、腹をすかせた弟がかき倒しそうになった時、右腕一本でかばい投げ出した熱湯の痕跡だった。
医者も薬もなく、腐った油を塗られただけの皮膚は、灰のような乾いた粉を吹き浮かせている。
「このケロイドじゃ値がつかねえ。
吉原に持ち込んだって船賃で足が出る」
女衒が足元の泥を蹴り、唾を吐いた。
父親は手にしていた竹竿を振るい、娘の背中を叩きつけた。
乾いた打撃音が響く。
娘は声を上げなかった。
泥に頬をつけたまま、弟の喉が土を呑み込む動きだけを見ていた。
村吏が息を切らして走り込んできたのは、その時だった。
「おい! 大阪の阪急だ!
学歴はいらん、三食白米支給、毎月四十円! 送金二十円だ!」
父親が竹竿を放り投げ、娘の首根っこを掴んで泥の中から引きずり揚げた。
「ついて行け。
死んでも米と銭、送ってこい」
娘は遠くで泣く弟の青白い腹を一瞬だけ見つめると、言葉もなく足を踏み出した。
永田町。
首相官邸。
地下特別室。
湿った冷気、巨大な羽釜から噴き出す炊きたての純白の米が放つ濃厚な蒸気が、防空用コンクリート壁に重くへばりついていた。
新調された木製机が四百。
東北の貧村からすくい上げられた少女たちが、村から着てきた継ぎはぎのモンペのまま、無心で算盤を弾いている。
洗っても落ちない囲炉裏の煤と汗、そして爪の生え際から滲む血の匂いが、地下の密閉空間に充満していた。
「……小林さん。
きつけ衣すら与えんでボロ布のまま働かせるたあ、相変わらずエグい商売だでね」
白地に紺の格子柄の着物を隙なく着こなした市川房枝が、通路に立ち、鋭い眼光を少女たちへ向けていた。
「身売り屋に叩き売られて男の毒塗れで腐るのと、毎月四十円手挟んで阪急の帳簿叩くの、どっちが女の救済です?」
小林一三は扇子の骨で肩を軽く叩き、喰えない笑みを浮かべた。
「着物なんぞ着せたって算盤の速さは上がらん。
毎月実家へ直接送り込み、病気が出たら白鶴で阪急病院から医者を飛ばす。
……立派な事業やろ」
「へちま言っとりなさる!」
房枝の名古屋弁が、地下室の空気を一刀両断にした。
「ワタシがここで、この子らの待遇監督責任者になる。
帳簿も病人の数も全部見る。
一人でも使い潰してみろ。
あんたらが海外で回しとる裏金ごと、まとめて新聞にぶちまけてやるでね」
「……怖い先生や」
小林は笑みを消さず、隣に立つ三十三歳の理論物理学者、湯川秀樹へ視線を送った。
排水ポンプの重低音が響く区画で、湯川秀樹は足を止めていた。
丸眼鏡の奥の目が捉えていたのは、一人の少女の右腕だった。
引きつれた酷いケロイド。
少女は右腕の傷をかばうように手首を固定し、指先だけで猛烈に算盤の珠を送っている。
一枚の伝票を終えるたび、視線はすでに次の数値へ跳んでいた。
爪の生え際から生血が噴き出し、算盤の木枠を黒く染めている。
それでも動作は途切れない。
湯川は胸の万年筆に手を触れたまま、静かに息を呑んだ。
計算の速さではない。
これは、統計誤差が生まれる前に、人間が擦り切れる音だ。
「……なぜ手動計算機を使わない」
湯川の問いに、少女は紙から目を外さずに答えた。
「あれは、取っ手戻す時に手が止まる。
……算盤だっぺば、指動かした分だけ一枚多く紙が終わる」
「なぜそこまで急ぐ」
「……一枚でも多く弾けば、おかわりもらえっぺ?
仕送り増えて、故郷の弟に米を腹いっぱい食わせてやれるだべな?」
少女の濁った瞳が一瞬だけ泳ぎ、泥を舐めていた弟の青白い腹の記憶を彷徨った。
杉戸が開き、十六歳になった時子が歩み寄ってきた。
前章の血の吐息を覆い隠すように、硬く、冷たい気を無理に張り詰めている。
「……湯川先生」
「照合の誤りはない、時子さん」
湯川は低く告げた。
「だが、人間を定数(オペレーター)として使い潰すシステムは、過熱すれば必ず特異点を生む。
これは解法ではない」
「……結構です。
わたしたちが求めるのは美しさやなくて、速度ですから」
時子は即答した。
声の端に、かすかな引きつれが混じる。
「時子」
歩み寄る弟子の正面に、市川房枝が巨木のごとく立ち塞がった。
「あんた、このボロボロの娘っこらを最高機関の毒沼に引きずり込む気かね。
永田や井上の真似をして、人を歯車にして平気でおれるようになったんか」
時子は背筋を伸ばし、師の視線を受け止めようとした。
「市川先生。
三宅坂の嘘だらけの数字に国を潰されないために、この子らの速度を使います。
『現実に勝つための力を握れ』って、先生が……」
「好きにしや」
房枝の低く重い声が切り裂いた。
「永田や井上の毒を呑んでその覚悟だと言うんならな。
……だがね、後で泣きついてきても知らんよ。
アタシはあんたの涙の一滴も拾わんでね」
房枝は背を向け、闇の奥へ去った。
背中が消えた瞬間、時子の胸の奥で、カチリと何かが割れる音がした。
「くっ……」
喉の奥で押し殺した悲鳴が漏れる。
手袋の内部で、爪が皮を破り掌に食い込む。
膝が微かに震え——神田の長屋で、泥に沈めた膝の感触が蘇る。
あの日、房枝に「高みの見物だ」と殴られた、冷たい泥の感触。
泣くな。
弱みを見せるな。
わたしは最高演算官や。
奥歯が鳴るほど噛み締め、血の味のする唾を飲み下して、揺らぎを氷の底へ無理やり押し沈めた。
時子は息を整えると、膝を折り、右腕にケロイドの残る少女の前で視線を落とした。
「……名前は? なんていうん?」
少女は一瞬、ビクッと肩を跳ねさせると、引きつれた右腕を無意識にボロのモンペの影へ隠した。
自分の醜い傷を軽蔑されると思ったのか、黒い瞳に鋭い警戒の色が走る。
「……ミサヲ。……真下ミサヲ」
時子はポケットから白鶴の筒型継手を取り出し、算盤の横へ置いた。
「ミサヲちゃん。
今日から第一演算班の班長代理になってもらう。
基本給四十円に、処理枚数に応じた特別給与枠を付ける。
実家への送金も三十円に増額する。
白米も炊事場にあるだけ食べてええ」
ミサヲの視線が、時子の差し出した継手と、その細い手に注がれた。
時子の指先にもまた、かつて計算尺を滑らせすぎて裂けた皮膚の、生々しい傷跡が残っていた。
「……米、ほんとに毎日どんぶりで喰えるっか?」
「ええよ、誰も止めへん」
「……ホントに、実家に三十円届くっぺか?
弟を……土舐めさせなくて済むんだべか?」
ミサヲの声が微かに震え、隠していた右腕の指先が、算盤の木枠を強く握りしめた。
「約束する。
阪急が責任持って送る」
ミサヲは固く口を結ぶと、鼻をひとつ鳴らし、冷たい目つきを取り戻した。
「……じゃあいい。
計算が遅くて足引っ張る奴は、これで頭割って追い出していいっぺか?」
時子は手帳の表紙を静かに閉じ、眼差しを見つめ返した。
「遅い奴を追い出すのは自由や。せやけど、壊した道具の代金は自分で払わなアカンよ」
言葉はそれだけで終わった。
笑みもなく、絆もない。
ただ、生きるための米と、国家の数値を上書きするための速度という、冷酷極まりない能力主義の取引。
ジャッ、ジャッ。
算盤の木珠が、地下室に乾いた音を刻み続けた。
血の滲んだ帳簿の上で、三宅坂の数字が、指先の肉を削りながら処理されていった。