ガリガリガリ、チン。
一千台の真鍮歯車が削り合う悲鳴と桁移動の鈴音が、浜離宮大回廊の湿った板間を揺らしていた。
潮風の湿気、タイガー計算機が撒き散らす重油の匂い、一千人の女が吐き出す酸っぱい呼気が、天井の梁に重く澱んでいる。
第四演算班、三十八名。
ミサヲは油で黒ずんだハンドルのクランクを握り締め、狂ったように腕を回し続けた。
右腕の肘から手首にかけて、黒くひきつったケロイドがある。
一回転ごとに、突っ張る肉がちぎれるような異音が腕の奥で鳴る。
「回せ! 手ぇ休めるな!」
背後で、軍医上がりの陸軍少佐の靴底が板間を蹴った。
参謀本部の怒号に押し潰された男の、狂気じみた唾がミサヲの首筋へ飛ぶ。
「ハワイとバタヴィアの兵站試算だ!
コンマ数時間の遅れが、太平洋の白鶴をそのまま海へ叩き落とすと知れ!」
カチャン、と鈍い金属音が響いた。
十四歳の娘がクリアレバーを握ったまま、膝から板間へ崩れていた。
「……小石川へ送れ。
明朝のトラックで東北から代替を百人引き抜く」
少佐の懐中時計を握る手が震えている。
脱落者を出せば己の首が飛ぶ。
倒れた娘の顔から血の気が引き、割れた爪を板間に立てて、肩を荒く上下させた。
ミサヲの右腕のケロイドが、硬く引きつった。
板間に倒れた娘の指が、まだクリアレバーに掛かっていた。
十四歳。
明朝、代わりの百人が来る。
その百人の中にも、同じ年頃の娘がいる。
ミサヲは顔を上げなかった。
クランクを半回転させ、手首を返す。
いつもの速さで回せば、また誰かが倒れる。
ミサヲは次の桁へ進む手を、ほんのわずかに緩めた。
隣の娘が、その手元を見た。
何も聞かなかった。
ただ、自分のクランクを回す速さを落とした。
次の台。
その次の台。
三十八人の手が、少しずつ遅れ始めた。
ガリ、ガリ……チン。
桁移動の鈴音が、あちこちで途切れた。
少佐は懐中時計を睨みつけた。
「クッ……全台、油が切れているのか……!
全員、今夜の配給は半合だ!
明朝までに歯車を磨き直せ!」
誰も返事をしなかった。
三十八人の手が、また一斉に動き始めた。
速さだけが、元に戻った。
少佐はそれを確かめると、忌々しそうに靴底で床を鳴らし、廊下へ消えた。
倒れていた娘が、胸を上下させながら無音で肩を揺らした。
ミサヲは唇の皮を噛み切り、溢れた血を飲み込みながら、黙ってクリアレバーを叩いた。
数日後。
阪急浜離宮大回廊。
大回廊の端にある「浜離宮かふぇ」のカーテンレース越しに、白い陽光が落ちていた。
銀のスプーンの先で、黄色いペーストが静かに崩れる。
「……なん、だべ……これ」
油で黒ずんだ指先が、小さな銀器を壊しそうなほど強く握りしめられている。
「阪急モンブランや」
時子は珈琲のカップを置く音も立てず、目の前の少女を見つめていた。
「芋と豆乳で作ってある。
食べてみて」
ミサヲがおそるおそるペーストを口へ運ぶ。
舌を刺す甘みに、喉が鳴った。
次の瞬間、大粒の涙がぼろぼろと頬の汚れを洗って落ちる。
「……こんな……甘ぇもの……」
「泣かんとって。
甘味に酔う前に、これ見て」
時子はテーブルの端に、折りたたんだ集計用紙をすっと滑らせた。
「第四班の気象計算シート……」
時子は集計用紙を指で押さえた。
「陸軍の古い一律補正を、機体ごとの実績に当てはめてる。
わさじいの偏西風データと、白鶴の飛行実績を突き合わせたら、過大な見積もりが見つかるんや」
ミサヲの手からスプーンが落ち、カチャと高い音を立てた。
「……気づいたんだな、あねさま」
時子は答えず、ミサヲの右腕を見た。
「倒れた子だけやないんやね」
ミサヲの手が止まった。
「三十八人、全員を残したかったんやろ」
ミサヲはスプーンを握り直した。
「……一人減ったら、次が来んだ。
次も倒れっちまったら、また次が来んだ」
声が掠れた。
「うちら、何人いだって足んねぇんだ……」
時子は集計用紙に目を落とした。
時子は一列の数字を指でなぞった。
「必要な予備燃料は削らへん。
実測値を根拠に、予算を査定し直す。
過大な見積もりを改める。
そこで生じた差額を、振替が認められた特定作業費の枠を通して、保守費と糧食、第四班の手当に回すんや」
ミサヲは涙を拭わず、集計用紙を見つめた。
「……監査に耐える数字に、すんだな」
時子は用紙を置き、ミサヲの右手を握った。
「行くで、ミサヲちゃん。
今夜はわたしの家来て」
代沢。
石原邸。
昆布出汁の匂いと、炊きたての飯の湯気が茶の間を満たしていた。
「さ、冷めないうちに召し上がりなさい」
テイ子が差し出した塗りの椀から、熱い味噌汁の香気が立ち昇る。
だがミサヲは畳の上で身体を硬直させたまま、指一本動かせない。
向かいに座る男——畳の上に投げ出された鋭い眼の異形。
陸軍大臣、石原莞爾の眼光が、ただ暗く、重く、茶の間の空気ごとミサヲの呼吸を止めている。
「なに気取ってら。
食わねば冷めるろ」
莞爾が庄内弁のダミ声で言い捨て、雑に椀を傾けた。
ミサヲが喉の奥で息を詰まらせた瞬間、隣から声が落ちた。
「とうちゃん」
時子が箸を置く。
「言い方。
この子、朝から何も食べてへん」
莞爾は手に持った椀を止め、一瞬だけ眼の奥を光らせた。
「腹減った兵が叩き出す数字は、薬量間違えた砲弾と同じだ。
現場で狂う」
椀を置き、黙々と飯を口へ運び始める。
「腹満たさね奴に、兵站の数字触らせる気はねえ。食え」
テイ子の柔らかい手が、ミサヲの背に添えられた。
ミサヲの肩が大きく跳ねた。
叩きつけられた圧に弾かれ、両手で椀を抱え込んだ。
米粒の上に涙をこぼしながら、夢中で飯を掻き込んだ。
行灯の灯りが落ちた時子の部屋。
敷かれた二つの布団の間に、畳の冷気が静かに忍び寄っていた。
隣の布団から、衣服の擦れる音と、押し殺した嗚咽が漏れる。
「……あねさま」
「時子でええよ」
「……と、時ねえ」
「……なに?」
「……おっかぁの味噌汁と、おんなじ匂いすんだ」
ミサヲの体が布地の中で丸まり、小刻みに震えている。
時子は無言で己の掛け布団を押しのけ、ミサヲの布団の中へと潜り込んだ。
冷気のあとに、ミサヲの体温と、汗と油の匂いが触れる。
時子は細い腕を伸ばし、ミサヲの痩せた肩と、右腕の硬いケロイドごと強く抱き寄せた。
ケロイドの角立った皮膚が自分の胸に食い込む。
ミサヲが時子の胸元に顔をうずめ、ついに声を上げて泣き出した。
胸元に、熱い涙と吐息が深く染み込んでいく。
——泣くな。弱みを見せるな。
そう自分に言い聞かせたはずの氷が、音もなくひび割れる。
目の奥が熱くなり、抑えていたものが一気に溢れた。
暗闇の中で、二人の嗚咽が重なる。
体温と呼吸が、一つに溶けていった。
やがて、時子は掠れた声で言った。
「……死なせんための数字を、わたしが作る」
翌朝。
神田。
婦人問題研究所。
油墨と湿気た紙の匂いが沈殿する六畳間で、房枝は原稿用紙の上から鉄筆を上げず、眼前の二人をじっと見つめていた。
眼鏡の奥の光は鈍く、重い。
「ほう……一千人の地獄で手首ひとつで三十八人の手を止めたかね。
どえらい度胸だて」
濁った太い名古屋弁が、部屋の静寂を削り取る。
ミサヲの右腕の傷と、時子の背後に蠢く青臭い覚悟を、冷酷なまでに丸裸にして見据えていた。
「男どもが『軍政統制』だの威張っとる足元で、あんたらは泥に塗れて生き残りの歯車回した。
……だがな、そんな現場の足掻きなんぞ、永田の帳簿に入れば一発で叩き潰されるがね」
時子は言葉を返さず、房枝の前に一枚の集計表を滑らせた。
「だから、実測値で査定し直します」
時子の指先が、数字の列を淡々と叩く。
「わさじいの偏西風データと、機体ごとの飛行実績を突き合わせます。
必要な予備燃料は削らない。
過大な見積もりを改めて、振替の認められた特定作業費の枠を通して、保守費と糧食、第四班の手当に振り直します」
房枝は鉄筆を置いた。
「……その数字は、監査に出せるんだね」
「出せます。
せやけど、金が動けば記録が残る。
物が届けば、受け取った人間の名も残る」
「それで、アタシに何をさせる?」
「配給です。
物資を集めて、必要なところへ届ける。
運ぶ人間も、受け渡す場所も、先生の人脈で繋いでほしいんです」
時子の言葉に、房枝は眼鏡を押し上げた。
「帳簿を誤魔化すんじゃないんだね」
「正規の予算を振り替えます。
その先の人間まで、永田に一目で辿らせたくないんです」
「役所の紙に載らん繋がりなら、アタシらにはあるがね。
物を集めて届ける。
受け取った女らまで、あの蜘蛛の網に絡め取らせん。
そこは、アタシがやる」
時子は黙って頷いた。
「……石原の娘らしい、汚ぇツラになりおったわ」
房枝は立ち上がり、ミサヲのケロイドの残る右肩を、骨が響くほど強く叩いた。
「よし。
物資の手配と配給の道筋は、アタシがつけたるでね。
誰がどこへ運び、誰に渡したか。
永田に一目で追わせんよう、人の繋がりを使うでね」
房枝は時子を見据えた。
「永田の網に、こっちから穴を開けたるわ」