白鶴物語 代替昭和飛行艇文明史   作:石原時子

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第三十八章『天突』(1940年 8月)

永田町。

首相官邸執務室。

 窓の隙間から入り込む湿気が、羊毛の軍服を重くしている。

 永田鉄山は万年筆の尻で台帳を叩いた。

「国家戦略院の女子演算隊。

公差の精度は上々だな」

 向かいの陸軍大臣、石原莞爾中将は答えなかった。

喉頭骨がごくりと下がり、一瞬だけ視線が足元の床に落ちる。

「海外専門の特別諜報隊を置く。

統括長は東條に兼任させるが、白鶴の裏計算公差と暗号鍵がなければ動かせん。

石原、貴様が直接引き継げ」

「……は」

「何か不都合でもあるのか」

「いえ、承知いたしました」

 永田はそれ以上問わなかった。

乾いた台帳の音が、部屋に残る。

 代沢。

石原邸。

 夕立あとの畳は湿った草の匂いがした。

 石原は塗りの箸を握ったまま、茶碗の底を睨んでいた。

箸先から落ちた味噌汁の雫が、畳の目筋にしみを作っていく。

「なんや、とうちゃん。

どないしたん?」

 十六歳の時子がたくあんを噛んだ。

ぽり、と小さな音が響く。

「……東條に、戦略院の裏公差と暗号鍵を渡さねばなんね」

「東條さんが?」

「ああ……あいつの顔を見ると、柄に手が掛かる。

軍刀でぶった斬りそうで、おれ自身が怖ぇんだ」

 石原の巨躯が小さく丸まり、鼻から粗い息が漏れた。

 時子は箸を置いた。

「わたしが行くわ。

引き継ぎも、統合手順も、わたしがやる」

 沈黙が落ちた。

蚊取り線香の青い煙が、二人の間で重く停滞する。

握りしめられた竹箸がミチ、と木目を悲鳴させた。

「駄目だ。

東條はそんな甘い男でねぇ」

「知ってる。

せやから、わたしが行くんやんか」

 時子は立ち上がり、父の太い肩へそっと頭を預けた。

白檀の香りがかすかに立つ。

テイ子が焚いた香りだった。

「次はな、わたしがとうちゃんを助けるねん。

とうちゃんが倒れたら、わたしが背負って下りたるからな」

 石原は数珠を握りしめた拳で、時子の頭を一度だけ乱暴に撫で下ろした。

「……馬鹿こぐでねぇ、おめみてぇなちっちぇのが」

「もう、ちっちぇことないもん」

 石原の口元がほんの少し歪んだ。

「……飯、食え」

 時子は自分の席へ戻り、冷めかけた茄子を箸で割った。

 三宅坂。

陸軍省軍務局長室。

 東條英機中将は黒革の手帳を開き、鉛筆の先で紙面を叩いていた。

 杉戸が三度叩かれる。

「入れ」

 扉が開き、時子が黒革の計算帳を二冊抱えて入った。

濡れた靴底が床板に小さな跡を残す。

「石原時子です。

特別諜報隊統括長就任に伴う、白鶴航空網の裏計算公差と暗号鍵の移管手順を持ってきました」

「石原君は、娘に仕事を押しつけたのかね」

「とうちゃんは、閣下の顔を見たら軍刀でぶった斬りそうや言うてました」

 東條の目角がわずかに動き、肩が低い振動で揺れた。

「なるほど……君でよかった」

 時子は計算帳を卓上に置き、寸分の狂いもなく木目に平行に滑らせた。

「こちらが移管手順。

こっちが裏公差です」

 東條の左指が、卓の二段目の引き出しの縁――『黒印』の茶封筒が眠る位置へ静かに滑った。

「確認しよう。

君の帳簿に相違があれば、例外なく憲兵に引き渡す」

「もちろんです」

 時子は一冊目を開いた。

「ただ、その前に。

軍務局が作った西日本のガソリン配給表、末尾の公差に三十八銭の開きがあります」

 東條の指先が止まる。

「三十八銭?」

「軍務局側で、給油槽の繰越分を二重に計上してます。

七頁、四段目。

ここです」

 東條が紙を覗き込み、鉛筆の芯が黒い点で止まる。

確かに同じ数値が二度記載されていた。

「この三十八銭を放置したまま接続すれば、明朝六時、計算が食い違う。

特別諜報隊の回線は繋がっても、届いた数字が使いものにならんようになります」

「君が直せるのか」

「わたしの帳簿なら、直せます」

「君を拘束すれば?」

 東條の指先が引き出しの鍵穴に触れた。

金属の噛み合うカチリという微かな音が、室内を満たすインクの匂いを鋭く切り裂く。

 一瞬、時子の喉頭骨が小さく跳ね、抱え直した計算帳の革の背へ指先が白くなるほど強く食い込んだ。

「できますよ」

 時子は喉の渇きを押し殺し、ガラス玉のような瞳で東條を見据えた。

「でも、代わりの計算官を用意するのに何日かかります?

その間、白鶴も天保山の給油槽も、物資配分も全部ずれていきます」

「脅迫かね」

「いいえ、予定表です」

 鍵穴に乗った東條の親指に力がこもり、真鍮の表面がぬめりと光った。

 室内を支配する壁時計の秒針が、十回、音を刻む。

時子の胸の奥で息が詰まる。

 東條は時子の顔を、その視線を、微動だにしない脚の立ち姿を、冷徹に測量し続けた。

やがて親指の力が抜け、引き出しから手が離れる。

 東條は真鍮ベルを叩いた。

澄んだ金属音が鳴り響く。

「天突きと寒天を持ってこい。

酢醤油もだ」

 十分後、黒漆の小鉢と檜の天突きが置かれた。

 東條は寒天の塊を木枠へ押し込む。

ギチ、と檜が軋んだ。一分四厘の角柱が小鉢へ落ちる。

 出汁と米酢、醤油を回し、辛子を添えて突き出す。

「野田の醤油と米酢。

三対二。

余計なものは入れん」

 時子は一本掬って口へ運んだ。強烈な酸味が舌を焼く。

表情一つ変えずに飲み込んだ直後、東條の無言の視線を受けながらまばたきが遅れ、華奢な肩がかすかに上下した。

荒れた舌の上で酸味を転がし、一呼吸置いてから口を開く。

「……角が立ってますね」

「寒天の角は統制の角だ」

「でも、これだけやと徹夜は持ちません。

夜通し数字を回すなら糖分が要ります。

計算が終わったあとに、黒蜜を出してください」

「甘やかしは惰弱を生む」

「甘やかしやありません。

燃料の補給です。

胃を起こすもんと、頭に要るもんは違います」

「人間を機械と同じに考えているようだな」

「機械やったら、壊れた部品を取り替えるだけでいい。

でも人間は違います。

疲れたら間違う。

腹が減ったら考えが続かへん。

壊れる前に手当てするんです」

 東條は時子を検品するように凝視した。

「……黒蜜を入れると、角が崩れるのではないか」

「別の器にしたらいいんです。

混ぜる必要はありません」

 東條は手帳を開き、鉛筆を走らせた。

『夜間執務規格。

酢醤油による覚醒。

終了後、糖分補給。

二段階処理』

「……採用しよう」

「ありがとうございます」

 東條はガソリン配給表を広げた。

「三十八銭の誤差は明朝六時までに修正したまえ。

暗号鍵の移管はそのあとだ」

「分かりました」

 時子は扉へ向かう。

「時子君」

振り返る。

「石原君に伝えておけ。

引き継ぎは君でよかった、とな」

「自分で言うてください」

 時子は扉を引いた。

 東條は閉じた杉戸を見つめ、二段目の引き出しを開けた。

 中には時子を拘束するための書類。

コミンテルン内通の捏造名目。

必要な署名欄。

 東條は万年筆を手に取り、最初の書類に『廃棄』と叩きつけるように書き殴った。

次の書類にも同じ字を叩き込み、封筒を奥へ押し戻す。

 鍵を回す重い音が響いた。

代沢。

石原邸。

 夜更け。

石原は上衣を脱ぎ、膝を抱えて座っていた。

 玄関の音。足音が近づく。

「……時子」

「ただいま」

 石原は首を巡らせ、娘の顔を食い入るように見た。

「……なんか言われだか」

「引き継ぎ済んだよ」

「そうでねぇ。

あいつ、何か出してきただか。

憲兵とか……」

「何もなかった。

トコロテン、ご馳走してもろた」

 石原の顔から急速に血の気が引いた。

「……なんだば?」

「トコロテン。

天突きで、きれいに突いてくれはった。

一分四厘の角柱や。

酢醤油のやつ」

「……あのカミソリが、自分で天突いたんだが?」

「そうやで」

 石原は顔を覆った。

「……で、何を話した」

「黒蜜の話。

徹夜の計算には糖分が足りへんから、二段階の夜食規格にしろってゆうた。

採用してくれはったよ」

 石原は仰向けに倒れ、畳の目を睨みつけた。

「……あの幾何学偏執狂め。

娘相手に、そこまで……」

「とうちゃん、明日の朝六時までに三十八銭を揃えなあかんねん」

「……おめ、帰ってきてまで数字の話か」

「間に合わへんもん」

「……飯は食ったのか」

「トコロテン食べた」

「そんなん飯に入らねぇべ!」

 石原は体を起こし、力任せに立ち上がった。

「米食わねばだめだ。

味噌汁も温め直す」

「とうちゃん、声が大きい」

「うるせぇ!」

 厨へ向かう石原の背中に、時子は小さく呟いた。

「……おおきに」

 石原の足がピタリと止まった。

「……何だば」

「なんでもない」

 時子は計算帳を開いた。

紙面に幾何学的な数字が静かに走る。

 石原は米櫃を開け、米を研ぎ始めた。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ――。

 暗い厨に響く水と米の摩擦音と、紙の上を走る冷たい鉛筆の音だけが、夜の石原邸を満たしていた。

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