永田町。
首相官邸執務室。
窓の隙間から入り込む湿気が、羊毛の軍服を重くしている。
永田鉄山は万年筆の尻で台帳を叩いた。
「国家戦略院の女子演算隊。
公差の精度は上々だな」
向かいの陸軍大臣、石原莞爾中将は答えなかった。
喉頭骨がごくりと下がり、一瞬だけ視線が足元の床に落ちる。
「海外専門の特別諜報隊を置く。
統括長は東條に兼任させるが、白鶴の裏計算公差と暗号鍵がなければ動かせん。
石原、貴様が直接引き継げ」
「……は」
「何か不都合でもあるのか」
「いえ、承知いたしました」
永田はそれ以上問わなかった。
乾いた台帳の音が、部屋に残る。
代沢。
石原邸。
夕立あとの畳は湿った草の匂いがした。
石原は塗りの箸を握ったまま、茶碗の底を睨んでいた。
箸先から落ちた味噌汁の雫が、畳の目筋にしみを作っていく。
「なんや、とうちゃん。
どないしたん?」
十六歳の時子がたくあんを噛んだ。
ぽり、と小さな音が響く。
「……東條に、戦略院の裏公差と暗号鍵を渡さねばなんね」
「東條さんが?」
「ああ……あいつの顔を見ると、柄に手が掛かる。
軍刀でぶった斬りそうで、おれ自身が怖ぇんだ」
石原の巨躯が小さく丸まり、鼻から粗い息が漏れた。
時子は箸を置いた。
「わたしが行くわ。
引き継ぎも、統合手順も、わたしがやる」
沈黙が落ちた。
蚊取り線香の青い煙が、二人の間で重く停滞する。
握りしめられた竹箸がミチ、と木目を悲鳴させた。
「駄目だ。
東條はそんな甘い男でねぇ」
「知ってる。
せやから、わたしが行くんやんか」
時子は立ち上がり、父の太い肩へそっと頭を預けた。
白檀の香りがかすかに立つ。
テイ子が焚いた香りだった。
「次はな、わたしがとうちゃんを助けるねん。
とうちゃんが倒れたら、わたしが背負って下りたるからな」
石原は数珠を握りしめた拳で、時子の頭を一度だけ乱暴に撫で下ろした。
「……馬鹿こぐでねぇ、おめみてぇなちっちぇのが」
「もう、ちっちぇことないもん」
石原の口元がほんの少し歪んだ。
「……飯、食え」
時子は自分の席へ戻り、冷めかけた茄子を箸で割った。
三宅坂。
陸軍省軍務局長室。
東條英機中将は黒革の手帳を開き、鉛筆の先で紙面を叩いていた。
杉戸が三度叩かれる。
「入れ」
扉が開き、時子が黒革の計算帳を二冊抱えて入った。
濡れた靴底が床板に小さな跡を残す。
「石原時子です。
特別諜報隊統括長就任に伴う、白鶴航空網の裏計算公差と暗号鍵の移管手順を持ってきました」
「石原君は、娘に仕事を押しつけたのかね」
「とうちゃんは、閣下の顔を見たら軍刀でぶった斬りそうや言うてました」
東條の目角がわずかに動き、肩が低い振動で揺れた。
「なるほど……君でよかった」
時子は計算帳を卓上に置き、寸分の狂いもなく木目に平行に滑らせた。
「こちらが移管手順。
こっちが裏公差です」
東條の左指が、卓の二段目の引き出しの縁――『黒印』の茶封筒が眠る位置へ静かに滑った。
「確認しよう。
君の帳簿に相違があれば、例外なく憲兵に引き渡す」
「もちろんです」
時子は一冊目を開いた。
「ただ、その前に。
軍務局が作った西日本のガソリン配給表、末尾の公差に三十八銭の開きがあります」
東條の指先が止まる。
「三十八銭?」
「軍務局側で、給油槽の繰越分を二重に計上してます。
七頁、四段目。
ここです」
東條が紙を覗き込み、鉛筆の芯が黒い点で止まる。
確かに同じ数値が二度記載されていた。
「この三十八銭を放置したまま接続すれば、明朝六時、計算が食い違う。
特別諜報隊の回線は繋がっても、届いた数字が使いものにならんようになります」
「君が直せるのか」
「わたしの帳簿なら、直せます」
「君を拘束すれば?」
東條の指先が引き出しの鍵穴に触れた。
金属の噛み合うカチリという微かな音が、室内を満たすインクの匂いを鋭く切り裂く。
一瞬、時子の喉頭骨が小さく跳ね、抱え直した計算帳の革の背へ指先が白くなるほど強く食い込んだ。
「できますよ」
時子は喉の渇きを押し殺し、ガラス玉のような瞳で東條を見据えた。
「でも、代わりの計算官を用意するのに何日かかります?
その間、白鶴も天保山の給油槽も、物資配分も全部ずれていきます」
「脅迫かね」
「いいえ、予定表です」
鍵穴に乗った東條の親指に力がこもり、真鍮の表面がぬめりと光った。
室内を支配する壁時計の秒針が、十回、音を刻む。
時子の胸の奥で息が詰まる。
東條は時子の顔を、その視線を、微動だにしない脚の立ち姿を、冷徹に測量し続けた。
やがて親指の力が抜け、引き出しから手が離れる。
東條は真鍮ベルを叩いた。
澄んだ金属音が鳴り響く。
「天突きと寒天を持ってこい。
酢醤油もだ」
十分後、黒漆の小鉢と檜の天突きが置かれた。
東條は寒天の塊を木枠へ押し込む。
ギチ、と檜が軋んだ。一分四厘の角柱が小鉢へ落ちる。
出汁と米酢、醤油を回し、辛子を添えて突き出す。
「野田の醤油と米酢。
三対二。
余計なものは入れん」
時子は一本掬って口へ運んだ。強烈な酸味が舌を焼く。
表情一つ変えずに飲み込んだ直後、東條の無言の視線を受けながらまばたきが遅れ、華奢な肩がかすかに上下した。
荒れた舌の上で酸味を転がし、一呼吸置いてから口を開く。
「……角が立ってますね」
「寒天の角は統制の角だ」
「でも、これだけやと徹夜は持ちません。
夜通し数字を回すなら糖分が要ります。
計算が終わったあとに、黒蜜を出してください」
「甘やかしは惰弱を生む」
「甘やかしやありません。
燃料の補給です。
胃を起こすもんと、頭に要るもんは違います」
「人間を機械と同じに考えているようだな」
「機械やったら、壊れた部品を取り替えるだけでいい。
でも人間は違います。
疲れたら間違う。
腹が減ったら考えが続かへん。
壊れる前に手当てするんです」
東條は時子を検品するように凝視した。
「……黒蜜を入れると、角が崩れるのではないか」
「別の器にしたらいいんです。
混ぜる必要はありません」
東條は手帳を開き、鉛筆を走らせた。
『夜間執務規格。
酢醤油による覚醒。
終了後、糖分補給。
二段階処理』
「……採用しよう」
「ありがとうございます」
東條はガソリン配給表を広げた。
「三十八銭の誤差は明朝六時までに修正したまえ。
暗号鍵の移管はそのあとだ」
「分かりました」
時子は扉へ向かう。
「時子君」
振り返る。
「石原君に伝えておけ。
引き継ぎは君でよかった、とな」
「自分で言うてください」
時子は扉を引いた。
東條は閉じた杉戸を見つめ、二段目の引き出しを開けた。
中には時子を拘束するための書類。
コミンテルン内通の捏造名目。
必要な署名欄。
東條は万年筆を手に取り、最初の書類に『廃棄』と叩きつけるように書き殴った。
次の書類にも同じ字を叩き込み、封筒を奥へ押し戻す。
鍵を回す重い音が響いた。
代沢。
石原邸。
夜更け。
石原は上衣を脱ぎ、膝を抱えて座っていた。
玄関の音。足音が近づく。
「……時子」
「ただいま」
石原は首を巡らせ、娘の顔を食い入るように見た。
「……なんか言われだか」
「引き継ぎ済んだよ」
「そうでねぇ。
あいつ、何か出してきただか。
憲兵とか……」
「何もなかった。
トコロテン、ご馳走してもろた」
石原の顔から急速に血の気が引いた。
「……なんだば?」
「トコロテン。
天突きで、きれいに突いてくれはった。
一分四厘の角柱や。
酢醤油のやつ」
「……あのカミソリが、自分で天突いたんだが?」
「そうやで」
石原は顔を覆った。
「……で、何を話した」
「黒蜜の話。
徹夜の計算には糖分が足りへんから、二段階の夜食規格にしろってゆうた。
採用してくれはったよ」
石原は仰向けに倒れ、畳の目を睨みつけた。
「……あの幾何学偏執狂め。
娘相手に、そこまで……」
「とうちゃん、明日の朝六時までに三十八銭を揃えなあかんねん」
「……おめ、帰ってきてまで数字の話か」
「間に合わへんもん」
「……飯は食ったのか」
「トコロテン食べた」
「そんなん飯に入らねぇべ!」
石原は体を起こし、力任せに立ち上がった。
「米食わねばだめだ。
味噌汁も温め直す」
「とうちゃん、声が大きい」
「うるせぇ!」
厨へ向かう石原の背中に、時子は小さく呟いた。
「……おおきに」
石原の足がピタリと止まった。
「……何だば」
「なんでもない」
時子は計算帳を開いた。
紙面に幾何学的な数字が静かに走る。
石原は米櫃を開け、米を研ぎ始めた。
ジャリ、ジャリ、ジャリ――。
暗い厨に響く水と米の摩擦音と、紙の上を走る冷たい鉛筆の音だけが、夜の石原邸を満たしていた。