阪急浜離宮大回廊。
白鶴網気象観測対策会議。
鋸の目が立つ青畳から、刈りたての藺草の青臭さが立ち上っていた。
板間に据えられた巨大な氷塊から、溶けた水が絶え間なく滴る。
冷水が漆塗りの受け皿を叩く重い水音だけが、会議の始まりを待つ男たちの静寂を刻んでいた。
内閣総理大臣、永田鉄山大将。
三宅坂の参謀本部。
東日本の軍需官僚。
西日本の金融資本と技術陣。
国家の異なる歯車が、逃げ場のない回廊の闇に押し込められていた。
特設能舞台。
装飾の一切を排した白木の空間を、笛の甲高い悲鳴が切り裂いた。
中の舞の静謐な四拍子が、突如として牙を剥く。
大鼓の打ち手が右腕を振り被り、極限まで焙られた革を叩き据える。
硬質で尖った破砕音。
それに呼応するように、小鼓の湿った連打が食い破るように重なった。
乱序の不規則な連打から、狂ひの疾走へ。
打ち手の額から脂汗が飛び散り、締め太鼓の撥が残像を描く。
男たちの肉体が発する限界の呼気と、楽器を破壊せんばかりの音の暴力が、回廊の空気を沸騰させていく。
狂気が絶頂に達した次の瞬間――すべての撥と手が、空中でピタリと静止した。
残響すら残らない。
氷片を突きつけられた完全な無音。
その呼吸すら許されぬ真空へ、すり足の衣擦れだけを響かせ、舞台中央に石原時子が滑り出た。
仕舞『屋島』。
龍村美術織物の重厚な金襴の装束。
面はつけない。
十六歳の素顔。
黒い瞳は、舞台の誰にも焦点を結んでいなかった。
ただ暗い牙を研ぐ修羅の刻印だけが深く穿たれていた。
「今日の修羅の敵は誰そ。
なに能登の守教経とや。
あらものしや、手なみは知りぬ。
思ひぞいづる壇の浦の……」
声は、十六歳の少女の喉から出ているとは思えぬほど、乾いていた。
時子が右手に握った扇をすぱりと開く。
竹の骨が擦れる鋭い音が鳴った。
扇の切っ先が描く軌道には、一ミリのブレもない。
重心を極限まで低く沈め、両膝の角度を固定したまま、白足袋が杉板の前を滑っていく。
時子が動けば空気が削り取られ、時子が止まれば時間が凍りつく。
地謡座に居並ぶ近衛文麿をはじめとする八名の男たちが、重厚な唸りを上げる。
最後の一歩。
右足が上がり、杉板を穿つ。
ドスン、と乾いた足拍子の衝撃が、板間の冷気となって観客の足裏を突き抜け、喉元を絞め上げた。
観客席の井上靚子は、膝の上で両手を強く握りしめていた。
薄い絹の靴下の中で、つま先が凍りついて動かない。
脳裏を過るのは、あの冬の夕刻、回廊の竹樋で互いの素足を浸した――生暖かい汗の匂いだ。
舞台袖の石原莞爾は睫毛一つ動かさず、低く吐き捨てた。
「……ここまで、来おったか」
時子が扇を閉じ、ピタリと止まる。
死の静寂の中、時子はただ静かに頭を下げた。
舞台が引くと同時に、阪急航空顧問の大石和三郎が演壇の中央へ足を踏み入れた。
表紙から数式に至るまでエスペラント語で埋め尽くされた分厚い冊子を、畳へ叩きつける。
「何だ、これは! 謀反か!
帝国陸軍を愚弄する気か!」
三宅坂の参謀が血走った目で怒号を上げる。
大石は佐賀訛りで一喝した。
「騒ぐな。
自然の摂理が貴様らの国語ば聞くもんか」
「そこまでだ」
永田鉄山の乾いた声が落ちる。眼鏡のツルを指先で押し上げた。
「読めぬ資料を、読めぬという理由で排する者は去れ。
これより先は国家最高の実務卓だ。
白鶴網気象観測対策会議を開会する」
東の官僚たちが蜘蛛の子を散らすように退席していく。
大石が巨大な黒板の前に立ちはだかり、チョークを粉々になるまで叩きつけた。
「これまでの観測網じゃ持たん。
甲型も乙型ゾンデも、一万メートルの偏西風とスコールじゃただのゴミたい。
時刻ば揃え、器械ば較正し、同じ物差しで集めな大気の動きは見えてこん!」
「観測点を増やしても、三宅坂に情報が届く頃には風が変わる」
石原莞爾が地図を見下ろして吐き捨てる。
大石は黒板に一本の巨大な矢印を引いた。
「そげんだ。
必要なのは、高高度を飛び、長時間耐え、観測器と無線ば積める機体と網だ」
三菱の堀越二郎が青白い顔で立ち上がった。
「与圧室、一万メートルの低温低気圧……
現在の加工精度では物理的に不可能です」
大石は冷徹な眼光を突きつけた。
「不可能と逃げるな。
材料か、設計か、加工か。
現象を切り分けもせず一言で片付ける者に技術者と名乗る資格はなか!」
永田が機密費の帳簿にペンを走らせる。
「予算は通す。
三宅坂の愚物どもには新型爆撃機の基礎研究と報告しておけ」
数日後。
大阪。
天保山大回廊。
仮設の開発室には、大石和三郎をはじめ、川西の菊原、三菱の久保と堀越、そして海軍の種子島休時が集められている。
石原時子も、その場に立っていた。
大石が卓上に大判の紙を広げ、太い木炭で一万メートルの等圧線と風速を叩きつけるように描いた。
「いいか、上空一万メートルは外気温マイナス五十度、風速七十メートルの『偏西風』が吹き荒れとる。
空気が薄けりゃ過給器のないエンジンは息絶え、プロペラ推力も激減する。
加えて長時間の燃料重量と与圧室の構造強度。
現在の技術じゃ、物理的な壁が高すぎる!」
気象の絶望的な脅威を知り尽くす大石の佐賀訛りが、技術者たちを威圧する。
だが、その大石に真っ向から噛みついた男がいた。
海軍技術将校、種子島休時が、卓を拳で打ち据える。
「じゃっで、限界が見えとるなら、重いピストンなんぞ捨てればよかっとじゃ!」
「何ば言うか、種子島!」
「排気の熱と圧力でタービンを回し、空気を圧縮する過給器の開発はその第一歩だ。
その技術を先へ進めれば、燃焼ガスを直接ノズルから噴き出して推力を得る『噴射推進』への道が開けとる!
もちろん今のままじゃ過給器は回らん。
じゃっどん、耐熱合金と軸受さえ手に入れば、いずれプロペラすら不要のエンジンが生まれるど!」
大石の「自然への畏怖」に対し、種子島が「未来の動力体系への野心」で激突する。
熱い怒号の応酬に、三菱の堀越二郎が震える手で計算尺を滑らせ、悲鳴のような声を上げた。
「夢を語らないでください!
タービン入口の高温に耐える材料がない。
回転数を上げれば羽根車に遠心応力がかかる。
軸受の潤滑も持たない!
どれか一つを解決しても、残りが壊れるんです!」
「……あの」
少女の温度のない声が、大人たちの熱気をすぱりと切り裂いた。
時子が卓上へ一枚の白紙を滑らせる。
『達成』
『未達』
『原因不明』
「人間の限界とか、夢のエンジンとか……
そういう大人のお話は、今はどうでもいいです。
一号機の目的は、完璧に飛ぶことやないです。
機体がどこで壊れるかを、ちゃんと見つけることとちがいますか。
一つ目。
観測の機械を積んで飛ぶこと。
二つ目。
決めた高度で、数字を記録すること。
三つ目。
帰ったら分解する。
壊れた理由を、原因不明で終わらせない」
三菱の久保が険しい顔で反発する。
「各社の技術製法や原価まで他社にさらけ出せと言うなら、組織として飲めん!」
「作り方とかお金のことは、ナイショでいいですよ」
時子の瞳は、黒く澄んだまま久保を真っ直ぐに射抜いた。
「でも、どの材料が何度で割れるのか、どれくらい回したらガタがくるのか。
その『壊れた理由』の情報だけは同じ規則で出してください。
原因不明で済ませることはできません。
原因を検証する仕組みに乗らない会社は、次の共同試験には……
もう参加させられませんからね」
突きつけられた完璧な理詰めの前に、久保は腕を組んだまま唇を噛みしめ、堀越は計算尺を握りしめたまま視線を落とした。
十六歳の子供ゆえの無頓着さと残酷さが、技術者たちの逃げ道を完全に塞いでいた。
カツン、と乾いた下駄の音が室内に響いた。
小林一三が開発室に入ってくると、卓上に銀貨の束を無造作に崩し置いた。
「…えげつない手配をするようになったもんやな、時ちゃん。
おい久保くん、堀越くん。
各社が試作機の損失を恐れて足踏みしてるようやが、そんな暇はない。
住友の冶金部隊を叩き起こして、排気タービン試験用の部材を三日以内に大阪工場へ揃えなはれ。
試験一回で五万円飛ぼうが、失敗時の損失は阪急が一旦すべて被る」
堀越が絶望的な声を上げた。
「五万……!
無茶です、まだ設計の擦り合わせすら……!」
「その代わり、ここで出たタービン合金と軸受の極限データは、阪急技研が独占供与を受ける。
後で海軍に売れば十倍になって返ってくるわ」
小林は帳面を広げ、不敵に笑った。
「完成品を出せとは言うてへん。壊して、調べて、次を作る。その手を止めさせんための投資や」
時子は鉛筆を置き、卓上の白紙を見つめた。
「始めましょう」
天保山の窓の外で、潮風が湿った音を立てて吹き抜けた。
白鶴網はまだ空に存在しない。
だがその夜、測り難き大気を規格に収めるための試みが、静かに産声を上げた。
――そのとき、参謀本部三宅坂の暗闇で、一通の電報が握り潰された。
「西日本、白鶴網ノ実態ハ爆撃機非ズ――気象統制網ナリ」