首相官邸、地下廊下。
靴底が湿ったコンクリートを叩く硬質な音が重く反響していた。
煤けた裸電球が、空気の振動で細かく揺れている。
総理大臣、永田鉄山大将は、黒革の手袋を嵌めた手で、一枚の暗号電信紙をコンクリートの卓上へ叩きつけた。
「NY連銀が我が国のドル口座を全面凍結。
高活性アルミナ触媒、並びに四エチル鉛の対日禁輸が大統領令で発効した。
……現行の100オクタン航空燃料備蓄で、陸海はあと何日持つ」
陸軍大臣、石原莞爾中将は直立不動のまま、傍らに佇む少女へ視線を投げた。
「……時子」
石原時子が黒革の手帳を開く。
時子は一切口を開かない。
陶器のように白い指先が、卓上の真鍮製ヘンミ計算尺へと伸びる。
滑り出す真鍮のカーソル。
冷たい摩擦音だけが、コンクリートの沈黙を刻む。
計算尺が止まった。
時子の焦点の定まらない両瞳が、コンクリート壁の一点を射抜いたまま動かない。
喉の奥から「ヒュッ」と掠れた空気が漏れ、万年筆を握る指先だけが異常な速度で紙片を刻む。
『西日本第一工場完成まで:180日』
『東日本工場への資金投入による金融破綻まで:144時間』
「144時間……五十一万八千四百秒か」
永田が呟いた瞬間、時子の呼吸が完全に途絶えた。
白磁の首筋に青い血管が一筋浮き上がり、そのまま硬直する。
永田は黒革の手袋を見つめ、手首の革を「ぎちり」と軋ませた。
「東の泥舟が沈むまでの144時間の間に、西の180日後を見据えた自給体制の全手配を終えろ。
……マニラだ。西の工場を動かす『触媒二十五トン』と『四エチル鉛濃縮原液五トン』を、米海軍補給廠から毟り取ってこい。
白鶴二型三艇の限界積載量、合計三十トン。
明日までに持ち帰れ」
翌朝。
午前十時。
マニラホテル最上階会談場。
天井のシーリングファンが、ハバナ葉巻の紫煙を重苦しく掻き回している。
米大統領特使ウィルソンが、太い吸い殻を銀の灰皿へ深く押し潰した。
「口座はすべて止めた。
日本側に支払能力はない。
我々は本日正午をもってルソン島全域の民間給油施設を封鎖し、不払いに対する担保として、マニラ湾に留め置かれた貴国の全航空艇を接収する」
傍らの米海軍アジア艦隊参謀長、ハルト少将がホルスターの革フラップを外した。
カチリ、と澄んだ金属音。
回廊からは、米海軍陸戦隊が小銃の遊底を引く金属音が響く。
「抵抗すれば、即時射殺する。
……お前たちの買い叩き交渉など、ワシントンには届かん」
対峙する井上成美海軍中将は、第二種軍装の立襟を一切乱さぬまま、銀の器から掬い上げた氷水の水滴を、白い手袋で静かに拭った。
「焦燥は交渉の眼を曇ませます。我が国は常に、最も合理的な解のみを求めております」
その背後から、二人の少女が足音もなく歩み出でた。
石原時子と井上靚子。
アラバスターの如き肌に、阪急マルーンのパイピングが施された完璧な夏制服、カンカン帽、真っ白な手袋、そして太ももを締め上げる漆黒のチャックブーツ。
殺伐とした軍事空間に、異質な都市の静寂を持ち込む。
井上靚子が一切の淀みない洗練された英語で、即座に割って入った。
「特使。
昨夜、補給廠第4号倉庫で漏洩した危険物——貴廠は管理責任を問われぬよう、既に『廃棄処分対象』として軍の帳簿から抹消処理されていますわね?
我々は売買ではなく、その事故処理を代行するだけですわ」
間髪入れず、使い古された麻スーツの小林一三が歩み出でた。
竹扇子で胸元を煽りながら、低いダミ声を落とす。
「接収か、結構。
……だが特使、あんたらが欲しいのはうちの飛行艇のガラクタやなさそうやな。
ワシントンに持ち帰る『目に見える戦果』と『キャッシュ』とちゃうか?」
小林が目配せすると、供の者が革のボストンバッグ二個を卓上へドスンと叩きつけた。
ファスナーが開かれ、緑色の米連邦準備銀行券——日本側が保有する最後の現生ドル紙幣の束が溢れ出す。
ウィルソンの眉がピクリと跳ねた。
「違法な金など受け取れん!」
「違法? 滅相もない」
小林がニヤリと汚い笑みを浮かべ、ダミ声で畳みかける。
「これは『緊急撤去費用』および『和解金』二百万ドルや。
国の帳簿と、あんたら個人の懐は別やろ。
二百万ドルを懐に放り込んで事故処理完了と本国へ報告すれば、あんたらは英雄、うちはいらん危険物を引き取るゴミ拾いや。
……綺麗に収まる話やと思いませんか?」
時子が噛み締めた唇から血を滲ませながら叩き出した計算書と和解文面が、井上の手によって卓上を滑る。
ウィルソンの顔面から血の気が引いた。
卓上の二百万ドルを見つめる手が、かすかに震える。
「……条件がある」
ウィルソンが氷のように冷たい声を落とした。
理屈を根底から叩き潰す、暴力そのものの声音だ。
「この二百万ドルを収受し、三十トンの引き取りを認める。
……だが、本日をもって貴国の全航空艇に対し、フィリピン自治領領空の通過権を永久に剥奪する。
台北からマニラへ至る南航路は完全封鎖だ。
ドルは受け取ってやる。
……だが、お前たちに渡す空などない」
小林の扇子がピタリと止まり、井上の白い手袋がかすかに固まった。
「……結構でございます」
井上の言葉とともに、カリカリという紙を裂くようなペン音が響いた。
午後一時。
マニラ湾。
補給廠の重い鉄扉が開かれ、黒塗りのドラム缶群と木箱が、白鶴二型三艇の腹へと吸い込まれていく。
木箱の隙間から、石油系溶剤と防毒塗料の刺激臭が漂う。
三十トンの危険物を積んだ三艇の船体が沈み込み、喫水が深くなった。
最後の現生ドルと、南への空路。
引き換えに得たのは、自給までの百八十日をつなぐ三十トンだった。
三十トンの死荷重を背負い、二度とフィリピンの空を踏むことも許されず、台北へと追い払われる。
三十分後。
マニラホテル最上階のバルコニーでは、焼きつくような光と潮の臭気を、海からの風が運んでくる。
時子は黒革の手帳を開き、万年筆で一行だけを刻んだ。
『1940.09 現地ドル残高ゼロ。
比島領空権喪失。
触媒25t・濃縮原液5t確保。
自給まで180日』
万年筆を握る右手がピタリと止まった。
指先が真っ白に固まり、真鍮の計算尺を固く握りしめたまま強直している。
長時間履き続けた厚手牛革とジュラルミン・チャックの密閉が、骨を砕くような激痛で足を支配していた。
呼吸が浅く、荒い。
背後から、静かな足音が近づく。
白檀の甘い香水が、重油と泥臭い潮風、そして足元から立ち上る生の蒸気を包み込んでいく。
隣にそっと寄り添った井上靚子が、時子の冷たく固まった指先から万年筆を引き抜き、卓上へ置いた。
そのまま時子の細い右手を、己の素肌の温もりで強く包み込む。
鬱血していた指関節に、じわりと生々しい赤みが戻った。
「あ……っ」
時子の肩が跳ねた。
靚子は何も言わず、時子の細い背中に腕を回し、その身体を自分の方へ抱き寄せた。
「……手が、まだ凍りついたままですわ」
耳元で囁く息遣いに、時子は白檀の香りに顔を埋め、小さく頭を靚子の胸元へ預けた。
「……おねえちゃん」
掠れた声がひとつ、南国の強烈な潮風に溶けた。
手帳の上に、真鍮の計算尺がぽつりと音を立てて転がる。
眩しい光の中、ふたりのカンカン帽のリボンが静かに揺れていた。