ドラム缶が鉄板を転がる鈍い音が、潮風に乗ってバルコニーまで吹き上がっていた。
マニラ湾中、三艇の白鶴二型が影を浮かべている。
米軍補給廠から横流しされた100オクタン航空ガソリン臭が重く立ち込める中、ガソリンが腹へ吸い込まれるたび、巨大な船体が僅かに沈んで濡れた水面が黒くうねった。
「離水まで、あと三時間というところか」
小林一三が竹扇子を緩やかに動かした。
白檀のほのかな香りが、ガソリンと重油の臭気をわずかに押し戻す。
井上成美は白い手袋のまま、胸元の金ボタンに触れた。
「給油手配と書類の発行は、米軍補給廠に完了させました。
これ以上の長話は無用でしょう」
「お父様」
井上靚子が、阪急マルーンのパイピング制服の裾を整えて一歩前へ出た。
「離水までの時間、時子ちゃんと街を視察させていただきたく存じます」
成美の濃い眉がかすかに動いた。
小林がダミ声を漏らして笑う。
「アメリカ様が綺麗に舗装した表通りと、その裏に隠したドブの匂い、まとめて見てくるとええ。
車と護衛は回しますよって」
時子は応じなかった。
使い込まれた特注ヘンミ計算尺を黒革の手帳に挟み込み、白く強直した指先で固く握りしめたまま、漆黒のチャックブーツの牛革の硬さに足を痺れさせていた。
黒塗りのフォードが、イントラムロスの古い石造りの街並みを滑るように走る。
サン・アウグスティン教会の回廊には、鮮烈なブーゲンビリアの赤が咲きこぼれていた。
分厚い石壁が熱気を遮り、木漏れ日が冷涼な石畳を黄色く染めている。
車を降りたところで、胸元に米海軍観測所の銀章をつけた小柄な老人が足を止めた。
切り揃えられた銀髪。
男は時子の胸元と手帳に視線を落とすと、滑らかな音節を口にした。
“Sinjorino Ishiwara, ĉu ne?”
(石原さんですね?)
澄んだエスペラント語だった。
“Mi aŭdis vian prelegon. Ĝi estis mirinda.”
(貴女の気象学の発表を聞きました。素晴らしかった)
時子の肩が跳ねた。
わさじい——大石和三郎以外で、この言葉を完璧に操る人間に逢ったのは初めてだった。
“Dankon! Mi ne—”
(ありがとうございます! まさか——)
だが、歓喜が喉を抜けた瞬間、老人の差し出した気象データシートに視線が落ちた。
マニラ湾上空の気圧配置と露点温度。
老人の爪に残る泥汚れ、シャツの袖口に滲む観測所の湿気。
脳裏で、わさじいが示した一万メートルの偏西風データと、白鶴二型の離水重量計算が強烈に噛み合った。
脳裏で、佐賀のわさじいが示した一万メートルの偏西風データと、父の兵站計算が同時に回転を始めた。
気圧配置、観測高度、機器の制度不足。
“...…Tamen, ĉu via veterdatenaro ankoraŭ enhavas eraron de tri procentoj?”
(……ですが、貴方の気象データ、まだ三パーセントの誤差が残っておりますでしょう)
老学者が絶句する前に、時子は無表情にお辞儀を返し、背を向けた。
「……綺麗な言葉ですのね」
立ち止まっていた靚子が、静かに微笑んだ。
「世界中の誰とでも分かち合える言葉。
お父様が仰る『法と文明』に、少し似ていますわ」
時子は答えなかった。
溢れかけた言葉を喉の奥へ押し戻し、ただ唇を薄く結ぶ。
ナイロンの下で鬱血した足首の痛みを殺しながら、差し出された靚子の手の温もりに重ね、しなった計算尺越しに、静かに握り返した。
フォードがイントラムロスの厚い城門を抜けた。
小窓から滑り込んできたのは、ジャスミンでもブーゲンビリアでもない。
煮えたぎる椰子油と、腐濁したドブの糞尿、そして生ごみが混ざり合った激臭だった。
ネオンが派手に明滅する白人専用の憲兵クラブ。
そのすぐ裏手、ぬかるんだ泥の路地に車が差し掛かる。
ドスン、と鈍い音が響いた。
白人将校が、褐色肌の車夫を革靴の先で蹴り飛ばした音だった。
血と泥を吐く男の横で、肋骨の浮き出た子供たちが、米兵の投げ捨てたタバコの吸い殻を奪い合って泥を舐めている。
「……あ」
靚子の喉から、掠れた声が漏れた。
「これが……お父様の仰る、条約と文明……?」
顔面から血の気が失せた。
胃の奥からこみ上げる不快感に、靚子は口元を抑えて蹲る。
パチ、と小さな金属音が車内に響いた。
時子が手帳を開き、無感情に万年筆を走らせる。
栄養失調率、乳幼児死亡率、物価変動。
震える靚子の手を、時子は冷え切った自分の指先で強く握りしめた。
「こんなん東京のドブ板にも、なんぼでもあるで」
無機質な近畿弁が、車内の腐臭の中に落ちた。
東京のドブには電車が走り、トコロテンの押し出し器があった。
だが、ここには人間の規格すら存在しない。
「今度、おねえちゃんも見てみる?」
太平洋の闇を切り裂くように、白鶴二型が飛んでいた。
非加圧の機体を配慮し、高度は僅か三百メートル。
二千馬力エンジン四基の重低音が機骨を強烈に震わせ、すぐ眼下では黒々としたうねりが海面を舐めるように過ぎ去っていく。
狭い客室の中、重油と潮の臭気が混ざり合う闇で、二人は米軍外套の粗末なウール毛布にくるまれていた。
ようやく脱ぎ捨てたロングブーツの脇で、ナイロンの摩擦に擦り剥けた互いの足先を重ね合わせる。
離水時、防波堤のコンクリート壁が機首の目と鼻の先をかすめた感覚が、まだ掌に残っていた。
靚子の白檀の香水と、時子の髪に残る塩の匂い。
抱き合ったまま浅い眠りの中、首筋に触れる互いの熱気だけが、漆黒の夜の海上で二人の少女を繋ぎ止めていた。
東京。
麻布。
井上邸。
卓上のランプが、静寂な洋館の一室を照らしていた。
成美は硝子びんから万年筆へ、静かに黒インクを補充していた。
鏡の前で絹のガウンを羽織った靚子が、絞り出すような声を父親の背中に投げかける。
「お父様……あの街で見たのは、法でも文明でもありませんでした。
白人が自分たちの都合のために築いた、冷酷な搾取の仕組みです。
あんな紙一枚の条約で、あの泥は救えません」
成美はペン先を静かに紙から離した。
振り返った顔には、揺らぎひとつない。
「靚子。
法と条約は、文明という名の防波堤です。
それがあるからこそ、私たちは人としての気高さを保ち、折衝を行うことができるのです」
成美はキャップをカチリと締めた。
氷のように澄んだ敬語が室内に響く。
「ですが、防波堤の外側には、いつの時代も泥と荒波が吹き荒れているのですよ。
そして、防波堤を設計する者は、自ら波に呑み込まれてはならないのです」
靚子は唇を噛み締め、深く頭を下げた。
代沢。
石原邸。
畳の匂いが漂う暗がりで、石原莞爾は氷の浮いていない冷茶を啜っていた。
時子は使い込まれた竹の計算尺を手帳に挟もうとした。
だが、指先が強直して動かない。
カチャン、と乾いた音を立ててセルロイドの尺が畳へ転がった。
「……とうちゃん」
「なんだの」
「世界中、どこ行ってもあんなんかな」
莞爾は茶碗を置くと、低い庄内弁を落とした。
「はは、甘いのぉ。
もっと凄惨い地獄なんざ、どこさでもあるんだの」
莞爾は立ち上がり、時子の小さな頭の上にゴツゴツした手を乗せた。
「だからこそ、揃えるんだ。
叩いて、測って、弾いて……
あの泥の底にいる奴らまで全部まとめて、人間の規格の中に引きずり込んでやらなきゃならねえ」
夜が深まる。
時子の呼吸が突如として浅くなり、胸元が激しく上下し始めた。酸素が途絶えたように喉がヒューヒューと音を立てる。
身体が金縛りに遭ったように硬直し、歯の根が合わずにガチガチと鳴った。
虚ろな目が、暗闇の中に立つ莞爾とテイ子を捉える。
「……とうちゃん」
時子から掠れた幼い声が漏れた。
「……今日は、川したい」
莞爾は膝をつき、時子の小さな体をそっと抱き上げた。
敷布団の真ん中に時子を横たえ、テイ子が無言で上掛けを覆う。
父と母の間に挟まれた「川の字」の闇。
両側から伝わる体温の中で、時子は小さく身体を丸めた。