真鍮の歯車が、夜を削る。
国家戦略院、女子演算隊。
机という机に計算票が広がり、壁には太平洋の兵站航路図が張り付いていた。
横浜から南へ伸びる赤鉛筆の線に、ワシントンから届いた条件が重なる。
給油拠点の優先使用権。
北樺太直行石油の割当制限。
白鶴太平洋横断航路の国際管理。
数字を一つ動かせば、別の数字が死んだ。
燃料を削れば予備重量が減り、荒天時の安全率が落ちる。
安全率を守れば輸送量が足りず、西日本の兵站枠を支える物資の循環が途絶する。
どこから弾き直しても、末尾の収支は同じ「赤」に帰結した。
米国の要求を呑めば白鶴の翼は残る。
だが、その翼が何を運び、どこへ向かうかを自分たちで決められなくなる。
「……もっぺん、弾くで」
最高演算官、石原時子が言った。
向かいの席で、真下ミサヲの指先が算盤の玉を弾く。
パチ、パチ。
最後の「一」の玉を動かし、指が止まった。
「……向こうの条件どおりに揃えっど、白鶴は飛べても……
おらたちの空じゃなくなっちまうべ」
時子は答えなかった。
計算票の空白に鉛筆の芯を強く押し当て、黒い点を一つ打った。
廊下から靴音が近づいてきた。小林一三だった。
机の計算票を一瞥し、火のついていない葉巻を指で転がす。
「ご苦労さんやな、時ちゃん。
せやけど、向こうの席にこの重たい計算機をそのまま担いでいくわけにもいかんしな」
「……おっちゃん、分かってる」
「向こうさんは、こちらの計算を読む前に、こちらの人間を見る。
何を知っているか、どれほどの力があるか、勝手に値踏みするんや。
その値踏みを、こっちから利用する」
小林は航路図を指先で軽く叩いた。
「相手が勝手に作る人物像まで、交渉の道具にする。
商売いうのは、そういうもんやろ」
「衣装……やな」
時子の言葉に、小林はあっさりと頷いた。
阪急浜離宮大回廊。
硝子天井から降り注ぐ光が、磨き上げられた床に帯を落としていた。
機械の油の匂いはない。
石鹸と香水、そして新しい絹の匂いだけがあった。
「……ここ、ほんとに現実だべが?」
「阪急の金が作った顔や」
時子は平然と歩き出した。
「ミサヲちゃん、手ぇ出して。
寸法測られへんやろ」
ミサヲはためらいながら、右腕を差し出した。
肘から手首にかけ、赤黒くひきつったケロイド状の火傷跡。
店員は傷を見ても何も尋ねなかった。
銀の巻尺を取り出し、袖丈、肩幅、胸囲の数字を書き留めていく。
ただ淡々と寸法を測るその動作に、ミサヲの右肩からわずかに力が抜けた。
「時子ちゃん」
声をかけてきたのは、井上靚子だった。
濃紺のドレスを纏い、手には条約文書の英訳刷りを抱えている。
「第四演算班の、真下さんですね。
あなたの作成された偏西風補正の摩擦係数表、拝見しましたわ」
ミサヲは背筋を伸ばした。
「明日の交渉で、わたくしは政治と法理の言葉を話します。
時子ちゃんは全体の数値を動かす。
ですが、その根拠となる『底の数字』を守るのはあなたです。
心強く思いますわ」
ミサヲは無言で頭を下げた。
店員が三着の衣裳を運んできた。
純白のシルク、胸元の真珠、そして肘の上までを完全に覆い隠す厚手の白い革手袋。
「……これ、おらも着るんだべが」
「あたりまえやん」
時子が言った。
靚子が白手袋を取り、静かに指を通した。
「米国のアングロサクソンは、東洋の幼い女が契約書を前にして怯えることを期待していますわ」
革の端を整え、手首に馴染ませる。
それ以上、言葉は重ねなかった。
ミサヲも白い絹手袋を受け取り、自らの右腕に引き上げた。
ケロイドの凹凸が絹の裏側に密着し、確かな痛みが走った。
浜離宮かふぇ。
テーブルの上に、名物の阪急モンブランが三つ並んでいる。
「食べよ、計算したらお腹減ったわ」
時子がスプーンを運ぶ。
ミサヲも口にしたが、もう甘さは感じなかった。
靚子が紅茶のカップを置いた。
「……ミサヲちゃん、でよいかしら?
あなたが数字の底に置いているものについて、教えていただけますか」
ミサヲは、銀のスプーンを置いた。
「……米が取れねぇと、最初に消えんのは音だぞい。
家の中から声が消え、男足が出稼ぎで消え、次に髪も結ったことねぇような女子が、朝一番の汽車に乗せられんだ。
戻ってきた奴ぁいねぇ。
帳面にも残んねぇ。
だから数字になんねぇ」
カフェの奥で、客の笑い声と銀器の音が微かに響く。
「おらが演算隊で弾いてる『1』は、米の石数じゃねぇ。
帳面から消された女子の数だ」
靚子はティーカップを見つめたまま、微動だにしなかった。
時子は冷めかけた紅茶のカップを置き、二人を見た。
「今夜は、わたくしの家で休みましょう」
靚子が言った。
時子は短く頷いた。
「そうしょ」
麻布。
井上邸。
夜八時。
成美はその夜、官邸に泊まり込むことになっていた。
装飾の排された広い和室に、三つの布団が並べられていた。
灯りは落とされ、庭の竹林が夜風にしなる低い摩擦音だけが響いている。
誰も眠っていなかった。
昼間、ミサヲが吐き出した「消された女子の数」という残響が、冷えた畳の匂いとともに暗闇の底へ溜まっていた。
声を出せば、足元からすべてが瓦解することを知っていた。
誰も口を開かなかった。
ささり、と衣擦れの音がした。
冷え切った指先が暗闇を探り当て、時子の開かれた掌に触れた。
靚子の手だった。
指関節が白い骨を浮かせるほど強く、すがりつく圧力で時子の指を握りしめてくる。
時子はそれを手繰り寄せ、細い手首ごと自分の胸元へ抱え込んだ。
隣の布団が沈み込み、激しい熱を帯びた肉体が滑り込んできた。
ミサヲだった。
右腕のケロイドの突っ張った肌が、時子の裸の二の腕に直接押し当てられる。
引きつった皮膚の摩擦熱。
真鍮と汗と、新しい白絹の残り香。
時子は空いた腕を伸ばし、ミサヲの背中を固く抱き寄せた。
靚子もまた暗闇の中で手を伸ばし、ミサヲの強張った肩へとしがみついた。
三人の肋骨が重なり、不揃いな鼓動が薄布団を押し押し返した。
言葉は、一言もなかった。
ミサヲの喉から、押し殺した短い呼吸が漏れ、時子の首筋を熱く濡らした。
その肩の小さな打ち震えが、皮膚の熱を通じて時子へ、そして靚子の指先へと伝播していく。
誰かが声なく泣いていた。
涙の理由を確かめる者はいない。
数字の底に沈む人間の冷たさと、明朝対峙する巨大な怪物への根源的な恐怖。
ただそれだけが、密着した皮膚の強張りと激しい脈拍となって互いを浸食していた。
時子は、握りしめたふたつの手を、骨が軋むほど強く締め直した。
闇の中で、誰も手をほどこうとはしなかった。
言葉を捨てた三人の肉体は、ただ互いの体温だけを頼りに、ひとつの固い塊となって夜に耐えていた。
翌朝。
午前六時。
窓からの冷気が、和室を満たしていた。
三人は鏡の前に並び、白い手袋を嵌めた。
ミサヲが自分の右腕を見つめ、革の端を固く引っ張り上げた。
靚子が手帳を胸に収め、鏡の中の時子と一瞬だけ目を合わせた。
時子は二人を見返し、静かに息を吐いた。
「ほな、行こ」
三人が、廊下を踏み出した。