阪急宝塚線の小気味よいジョイント音が、夕闇の北摂を駆けていく。
車輪が淀川の鉄橋を渡る頃、車窓は無数の工場の煙突が吐き出す黒煙と重油の匂いに塗り潰されていた。
「……莞爾さん。
あの巨大な塊が、梅田なのですか」
病み上がりのテイ子は、青白い顔で窓外の巨大なコンクリートの群れを見つめていた。
四歳の時子が小さな鼻を窓ガラスに押し付けている。落っこちそうな真っ赤な頬が、ガラスの冷たさにつぶれていた。
「おぅち、どんどんおおきぃ。
みんな、まっすぐだの」
時子の声に躊躇いはない。
規則正しく並ぶ架線柱の連続を、ただ無機質な目で追っていた。
降車ホームには、和装に革靴を履いた小林一三が懐中時計を手に立っていた。
「よくおいでになりました、石原さん。
奥様、お体の具合はいかがですか。
大阪の煤煙は体に毒だ、早く中に入りましょう」
翌日の開業を控え、一般客の途絶えた梅田阪急ビル。
巨大な伽藍のような空間には、生乾きのセメントと、西洋の化粧品の匂い、そして新調された制服の糊の臭気が充満していた。
一糸乱れぬ速度で商品を棚に並べる店員たち。
靴音すら厚い絨毯に吸い込まれ、聞こえない。
あらかじめ置かれた歯車のように、人間が動いている。
テイ子は胸の悪さを押し殺すように、石原の軍服の袖を強く握りしめた。
「抗えないというのは、心地よいものですよ、奥様」
小林は前を歩いたまま、静かに言った。
「正しい仕組みというものは、人に刃物を突きつけない。
ただ、逆らう気を失わせる。
それが私の商売です」
時子が関西初のエスカレーターの前にトコトコと歩み寄った。
金属の段が床の隙間に滑り込み、消えていく境界をじっと見つめている。
「おったん。
これ、どこいくん?」
「裏側です。
見えないところで、全部の歯車が繋がっているんですよ」
時子は小林の顔を見上げると、無言で小さく頷いた。
最上階。
阪急大食堂。
白木のカウンターの奥で、小林が顎で合図すると、職人がガラスの器から天草の固まりを取り出した。
自らの重みでだらしなく形を崩していく、冷たく不格好な塊——トコロテンの原形だ。
職人がその無形の肉塊を真鍮の天突きシリンダーへ押し込み、木製のピストンをあてがった。
ギギギ、と重い真鍮の摩擦音が響く。
時子の目が釘付けになった。
一寸の狂いもない格子を通り抜ける、その瞬間。
崩れていただけの無形の塊が、均一な四角い「線」へと一瞬で切り裂かれ、押し出されていく。
美しく整列した半透明の糸が、ガラスの器へ滑り落ちた。
職人がそこへ、どろりとした漆黒の黒蜜を流しかけた。
濃厚な甘い黒の塗料だ。
「一日一万本、これで流します」
小林は、時子の前にその器を置いた。
石原は、真鍮の格子を見つめたまま微動だにしなかった。
シリンダーから押し出される無数の糸。
上から被せられる漆黒の蜜。
石原の喉が、ゴクリと乾いた音を立てて鳴った。
「……堰き止めれば溢れる。
だから、型に通して回転させる」
石原の低く掠れた声に、小林はふっと薄い唇を緩めた。
「人は、自分で動いていると思いたい生き物ですからね」
時子は器の縁に小さな両手を添えると、口をかまぼこ型にすぼめ、黒蜜の池に沈んだトコロテンを器から直接、チュルリと口の中へ滑り込ませた。
「つべたぃ!
……おったん、これ、まいにちたべたい!」
口のまわりを黒蜜で真っ黒に染め、落っこちそうな真っ赤な頬をきゅっと上げて笑う。
テイ子は、石原の袖を握る指の関節を白くさせながら、その黒蜜に塗れた時子の笑顔をただ無言で見つめていた。