永田町。
首相官邸地下第二会議室。
関西電力直通の六十周波(Hz)超高圧電灯が、コンクリートの壁を青白くえぐり出していた。
変圧器から立ち昇る放電の臭いと、地下特有の古粘土の湿気。
何十台もの真空管送受信機が吐き出す熱気が、密室の空気をどろりと澱ませている。
「第五編隊より再送要求!
空電の雑音で暗号が割れません!」
「台湾沖、短波帯域完全に飽和! 傍受も送信も追いつかん!」
電信兵の怒号が飛び交う。
卓上の巨大な南方航空網発着図表は、赤鉛筆の太い斜線で塗り潰され、元の地形すら見えない。
南方海上で季節風が急変し、二つの熱帯低気圧が挟み込むように接近していた。
風の境界線が秒単位で歪み、事前の迂回計算がことごとく破綻している。
「……計算、追いつかへん」
十七歳の最高演算官、石原時子の掠れた声が床へ落ちた。
白手袋はヘンミ計算尺の真鍮枠を擦りすぎて黒く染まっている。
時子が五分かけて弾き出した安全航路も、電信に変換され、現場が復号する頃には既に「過去の風」となっていた。
「無線の帯域を舐めている。
大気を静的な計算に押し込めるのは不可能だ」
国家戦略院数理顧問、湯川秀樹がチョークを置いた。
白い粉塵が舞う。
「各機へ個別の方位変更を打ち続ける限り、通信網の麻痺は避けられない」
「それでも飛ばさねば、南方の血脈が死ぬんだの」
陸軍大臣、石原莞爾の低い声が響く。
冷徹な目で盤面を睨みつけていた。
「台湾の米も、大連の油も、蓄えは五十六時間で尽きる。
兵站が止まれば仕掛けは総崩れださげ」
「……地べたの風ばっかい追っかけて、線ば引こうとしよっぎんたぃ」
濁った声が沈黙を切り裂く。
大石和三郎がゆっくりと立ち上がり、筑波の赤土がこびりついた着物の胸元へ太い手を差し込んだ。
ドサリ。
卓上へ放られたのは、煤けた革手帳と、深い緑色の星型フェルト。
ゴムと硫黄の臭いが、地下の湿気に混じって鼻腔を突く。
観測気球のレンズ拭きだ。
大石はそれを、時子が計算尺を握りしめている手の上へ、そっと被せた。
「……時子さん。
枝葉の風は捨ててよか。
一番太か『芯』だけば見んしゃい」
九年前。
白梅館の濡れた縁側で受け取った、あの温かい布地。
熱を持った大石の親指から、時子の肩へ微かな震えが伝わる。
全機を誘導せねばという強迫観念でこわばっていた指先から、ゆっくりと力が抜けていった。
「……わたし、何やってたんや」
時子の声が途切れた。
呼吸が浅く乱れる。
黒く汚れた手のひらで、緑のフェルトを擦りつけるように握りしめた。
卓上の赤線だらけの図表が、一瞬、視界の中で焦点を失う。
「全機を……
わたしの手元で縛ろうとしてた。
そんなん……届くわけないやん」
時子の喉が、小さく鳴った。掠れた言葉が途切れ途切れに零れる。
「海を巨大な格子に切る。
危険な死地の番号だけを三文字で叩き出す。
それ以上は何も言わん。
『そこに入るな』とだけ伝え……
あとは現場の目に委ねるんや」
「……格子番号二文字、照合一文字」
戦略院院長、井上成美が素早く引き取った。
端正な顔に一切の余裕はない。
「白鶴の観測電文を天保山で長波に引き直し、巨電力で一斉同報します。
電文を三文字に削れば、雷雑音の隙間を貫いて現場へ届く。
個別の対話を捨てねば、全滅します」
「だが、その『死地』を切り出すには、高層の風の芯を測り続ける目が必要だ」
永田鉄山が黒革の手袋を嵌めた手を卓へ置いた。
革がぎしりと軋む。
「誰が熱帯の空で観測を続ける?」
「白鶴ば上げる。
一万二千の定点観測機としてだの」
石原の即断に、技術陣の陰から堀越二郎が血走った目を剥いた。
「一万二千は積乱雲の真上、低圧と極低温の地獄です!」
堀越の喉が裂けんばかりに跳ねる。
「発動機も電熱服も一時間半が限界だ!
限界を超えればネジ穴が削れ、機体も人間も空でバラバラになります!」
「せば、一時間半で降ろせ」
石原の瞳には一切の熱がない。「機体も人間も使い潰す気はねぇだ。
天保山と舞鶴にドックば構え、順次交代で組み回すんだ」
「四年前の名古屋と同じや、堀越君」
小林一三が竹扇子をパチンと鳴らした。
「一時間半で降りてきた機体から、発動機架(しか)を引き抜く。
乗員も温かい湯に叩き込んで次の組に乗せ換える。
骨が歪んだ艇体はドックへ引き落として、予備機を弾き出す。
阪急の電車運行図表と同じや。
銭と部品の山で、物理の壁を殴り倒すんや」
堀越の唇が激しく震えた。
手の中で、かつて握り潰した計算尺の傷跡が痛む。
飛龍の甲板で井上が放った『使い捨ての規格品』という言葉が、耳の奥によみがえった。
機体と人間の命をすり潰す前提の運用。
設計者としての誇りが、冷酷な仕組みの歯車に噛み潰されていく。
「……大石先生」
井上が低く問う。
「一万二千で、気圧の芯は読めますか」
「……十分ばい」
大石が太い首を縦に振り、力強く図表を叩いた。
「外囲の気圧勾配の『芯』さえ押さえれば、低気圧の眼の動く筋道は計算でくっ」
直後——背後の真空管受信機群が一斉に、耳を突き刺すような鋭い高周波の絶叫を上げた。
壁際のアネロイド気圧計の針が、カタカタと狂ったように痙攣を始める。
電信兵の怒号がピタリと途絶えた。
大石の指が図表の上で硬直する。
小林の扇子を弄ぶ手も止まった。
コンクリートの壁を透かし、巨大な大気の怪物が地下室の喉元を押し潰していた。
「……時子」
その重苦しい沈黙を切り裂き、永田の冷たい眼鏡が光った。
「女子演算隊から、専属の気象観測演算隊を編成する。
人選は任せる。
個々の機を救う計算は捨てる。
観測と演算、地上長波同報までを一つの循環として組み直せ」
「……わかってます、先生」
時子は計算尺から完全に手を離した。
緑のフェルトを丁寧に四つに折りたたみ、制服の胸ポケット深くへ納める。
その上から掌をあて、一度だけ強く叩いた。
だが、あばら骨の奥に去来したのは温もりだけではない。
これから自分たちが発する「三文字」の数字が、現場の飛行艇を、そして乗員たちを極限の消耗戦へ叩き込むという冷たい戦慄だった。
壁際で、気圧計の針がカチカチと狂った刻みを打ち続けている。
受信機の真空管が発する放電の匂いが、死臭のように密室に満ちていた。
時子は卓上の航路図へ深く身を乗り出した。
「あの子らには、全体を管理する管制官になってもらいます。
一桁の間違いが、南方の白鶴を殺す。
……血の通った数字だけを叩き出させます」
時子の手が赤鉛筆を握り直す。
黒く汚れた指先が、最初の死地となる空域へ、無音で印を落とした。
気圧計の針の痙攣は、一度も止まらなかった。