春の風が、丘の草をゆっくりと揺らしていた。
大きく枝を広げた一本の木。
その根元には、静かに眠る墓がある。
ミカサは、その前に膝をついた。
抱えてきた花束から、一本の赤い薔薇を取り出す。
「今年も来たよ、エレン。」
墓石の前へ、そっと置く。
一本。
ただ一本だけ。
誰に見せるためでもない。
その意味を知っているのは、ミカサ自身だけで十分だった。
あなたしか愛していない。
風が木の葉を揺らし、どこか懐かしい音を立てる。
ミカサは静かに目を閉じた。
戦いが終わって数年が過ぎた頃だった。
夕暮れの丘で、ジャンが声をかけた。
「……少し、話せるか。」
ミカサは頷く。
二人で並んで歩くことなど、昔はほとんどなかった。
しばらく沈黙が続き、やがてジャンが苦笑する。
「俺さ。」
照れ隠しのように頭を掻く。
「昔から、お前のことが好きだった。」
ミカサは黙って聞いていた。
「今さらだよな。」
「……。」
「それでも、一度くらい言わなきゃ前へ進めねぇ気がした。」
風が吹く。
遠くで鳥が鳴いた。
ミカサはゆっくりとジャンを見る。
その瞳に迷いはなかった。
「ごめんなさい。」
ジャンは小さく息を吐く。
予想していた返事だった。
それでも胸は少し痛む。
「私は、エレンを愛しているの。」
静かな声だった。
泣いているわけでもない。
叫んでいるわけでもない。
ただ、揺るがない事実を告げるように。
「私が、エレン以外を愛することはない。」
ジャンは空を見上げた。
夕焼けが眩しかった。
「……そうか。」
その一言だけだった。
怒りもなかった。
責める気持ちもない。
そんな資格は自分にはないと知っていた。
ずっと見てきたのだから。
幼い頃から。
あの二人がお互いにとって、どれほど大きな存在だったかを。
「ありがとな。」
ジャンは笑った。
「ちゃんと聞けてよかった。」
ミカサは静かに頭を下げる。
「ごめんなさい。」
「謝るな。」
ジャンは振り返らなかった。
「俺も、前へ進まなきゃな。」
そう言って歩き出した背中を、ミカサは最後まで見送っていた。
ーー
季節は巡る。
春が来るたび、ミカサは丘へ向かった。
一本の赤い薔薇。
そして、四本の赤い薔薇。
一本。
あなただけを愛している。
四本。
私の気持ちは永遠に変わらない。
毎年。
一度も欠かすことなく。
誰に言われたわけでもない。
誰かに見せるためでもない。
約束など交わしていない。
それでも、それがミカサの生き方だった。
「今年も春になったよ。」
「アルミンがね、本を出したの。」
「ジャンは子どもが生まれたって。」
「コニーは相変わらず。」
「サシャがいたら、きっと笑ってた。」
墓石に向かって、静かに話す。
返事はない。
それでもミカサは話し続けた。
昔からそうだった。
エレンは黙って聞いていることも多かったから。
ーー
「本当に羨ましい死に急ぎ野郎だったよ。」
ある日、ジャンが墓前で呟く。
隣には妻と、小さな娘がいた。
娘が首を傾げる。
「パパのお友達?」
「ああ。」
ジャンは笑う。
「世界を救った、とんでもない奴だ。」
「その人?」
「そう。」
娘は墓へ小さな花を置いた。
「ありがとう。」
無邪気な声だった。
少し離れた場所で、ミカサはその様子を見ていた。
ジャンと目が合う。
互いに微笑み、小さく頷くだけ。
もう言葉はいらなかった。
ジャンは前へ進んだ。
ミカサは立ち止まることを選んだ。
どちらが正しいという話ではない。
それぞれが選んだだけ。
アルミンは何度も丘を訪れた。
「ミカサ。」
「少し休んだらどうだい。」
「今日は風が強いよ。」
そう言っても、ミカサは笑うだけだった。
「大丈夫。」
「ここへ来ると、安心するの。」
アルミンは何も言えなくなる。
分かっていたからだ。
誰にも代われない。
誰にも埋められない。
それほど深く、彼女は一人の人を愛したのだと。
年月は静かに流れた。
木はさらに大きく育り、丘の景色も少しずつ変わっていく。
ミカサの髪は白くなった。
歩く速度も遅くなった。
それでも春になると、杖をつきながら丘へ向かった。
一本の薔薇。
四本の薔薇。
「今年も来たよ。」
その声だけは昔と変わらなかった。
やがて、その春は訪れなかった。
古い友人達は、ミカサの遺志に従った。
彼女が眠る場所は決まっていた。
あの丘。
あの木の下。
エレンの墓の隣。
二つの墓は寄り添うように並び、春になると同じ木陰に包まれる。
アルミンは白い花を供えた。
ジャンは家族と共に祈りを捧げた。
誰も泣かなかった。
愛した少年を死ぬまで想い続けた彼女を静かに見送った。
風が枝を揺らす。
赤い薔薇が二つの墓の間で、そっと揺れていた。
遠い昔。
少年は「自由」を夢見た。
少女は、その少年を生涯に渡り愛し続けた。
その想いは、生きている間も、人生を終えた後も変わらない。
春風だけが知っている。
二人がようやく、同じ景色の中で静かに眠っていることを。