数十年後、エマとシェリーは窓辺の長椅子に寄り添って座っていた。
部屋の調度は昔とほとんど変わっていない。
丸い卓。
三人分の椅子。
髪を整えるための鏡台。
最初の黒いリボンが入っていた、小さな箱。
エマが好んだ白い焼き菓子の皿と、シェリーが選ぶことの多かった酸味のある果実茶の茶器。
けれど、窓の外の景色だけは、何度も姿を変えてきた。
庭へ植えられた若木は大きく育ち、枝を窓の近くまで伸ばしている。
春には花をつけ、夏には葉を茂らせ、秋には色を変え、冬には何もない枝となる。
その繰り返しを、二人は同じ姿のまま見続けた。
エマの金色の髪は、今も背中へ柔らかく流れている。
白いリボンも、人工皮膚の滑らかな頬も、完成した日のままだった。
シェリーの暗い髪も、腰へ届きそうな長さを保っている。
左側には最初の黒いリボン。
その下には深い紫の飾り。
二人の顔には皺も、染みも、たるみもない。
人工皮膚は年月を刻まなかった。
細い首の継ぎ目も、肩や腰を囲む接合線も、完成した日の精密さを保っている。
けれど、二人のそばにいたお父様だけは、少しずつ変わっていった。
最初に白髪が増えた。
次に、髪そのものが薄くなった。
鏡台の前で二人の髪を梳く手は、年を重ねるごとに遅くなった。
櫛を落とすことが増え、細かなリボンを結ぶときには、指先が震えるようになった。
「お父様、無理をしないでください」
エマは何度もそう言った。
「今日は私たちの髪より、お父様がお休みになるほうが大切です」
「二人の髪を整えるのが、僕の一日の始まりだからね」
お父様はそう答えた。
「これをしないと、どうにも落ち着かない」
「私の髪は傷まないのよ」
シェリーも言った。
「一日くらい梳かさなくても、何も変わらないわ」
「知っているよ」
「なら休みなさい」
「シェリーは昔より優しくなったね」
「命令しているだけよ」
「そういうことにしておこう」
「その言い方、何十年経っても嫌いだわ」
シェリーはそう言いながらも、お父様が櫛を持てない日には、声と視線で操作装置を動かし、自分とエマの髪を互いに整えた。
お父様は老いていった。
二人の身体を動かすための操作器を長時間持つことも難しくなり、彼は新しい仕組みを作った。
エマとシェリーが音声で動作を指定し、目線によって方向を補正する機能。
「右手を上げる」
「お姉様の髪へ触れる」
「櫛を持つ」
「少し左へ」
「ゆっくり下ろして」
最初はぎこちなかった。
自分の意思を言葉として分解しなければ、身体は動かない。
視線がずれれば、手は目的とは違う場所へ向かう。
けれど二人は練習した。
お父様がいなくても、互いの髪を梳けるように。
衣装を整えられるように。
茶を注ぎ、焼き菓子を皿へ移せるように。
何かが壊れたとき、自分たちで簡単な補修ができるように。
「お父様がしてくださればいいではありませんか」
最初、エマはそう言った。
お父様は微笑んだ。
「僕も、ずっと一緒にいられるわけではないからね」
エマはその言葉を理解したくなかった。
「お父様は、私たちを作った方です」
「ああ」
「私たちを育てる方です」
「そうだよ」
「なら、ずっとそばにいてくださらなければ困ります」
「困らないように、今から教えているんだ」
エマは泣いた。
人工皮膚の頬には汗も皮脂も浮かばない。
けれど、生身の目から流れる涙だけは、何十年経っても変わらなかった。
シェリーは泣かなかった。
そのときはまだ。
「お姉様、泣かないで」
「でも」
「お父様は今日いなくなるわけではないでしょう」
「はい」
「なら、今日できることを覚えるの。お父様が安心できるように」
エマを慰めながら、シェリーはお父様を見た。
細くなった肩。
深く刻まれた顔の皺。
かつて二人の身体を自在に動かしていた指。
シェリーはもう、直人だった人生についてほとんど語らなくなっていた。
忘れたわけではない。
夢だったと完全に信じたわけでもない。
ただ、その記憶よりも、お父様とエマと過ごした人形としての年月のほうが、いつの間にか長くなっていた。
三人で開いた数えきれないほどのお茶会。
新しい季節ごとに選んだ衣装。
鏡台の前で交わした会話。
エマが砂糖を二つ入れ、シェリーが呆れた顔をする朝。
お父様が笑いながら、二人のリボンを結び直す時間。
それらは夢ではなかった。
少なくともシェリーにとって、今の家族だけは疑うことのできない現実になっていた。
お父様が二人の隣で息を引き取ったのは、それから数年後だった。
その日は冬の終わりで、窓の外にはまだ薄い雪が残っていた。
お父様は朝から長椅子に座り、エマとシェリーを左右へ寄せていた。
もう自分で二人を抱き寄せる力はなかった。
エマとシェリーが音声操作で腕を動かし、二人のほうからお父様へ身を寄せていた。
エマの白い手が、お父様の右手を握る。
シェリーの黒い手が、左手を包む。
「今日は、お茶会をしないのですか」
エマが尋ねた。
「少し休んでからにしよう」
お父様はかすかな声で答えた。
「お父様は、最近そればかりね」
シェリーが言う。
「お茶が冷める前に起きてちょうだい」
「シェリー」
エマがたしなめる。
「いいんだよ」
お父様は笑った。
その笑みは、二人が初めて目覚めた頃と変わらなかった。
顔は老い、声は弱くなっていても、二人を見る目だけは同じだった。
「エマ」
「はい、お父様」
「最初に心を見せてくれたのが、君でよかった」
エマの瞳が揺れた。
「何をおっしゃっているのですか」
「君がいたから、シェリーを迎えられた」
「お父様」
「優しいお姉様になったね」
「私は、まだ何もお返しできていません」
「もう十分だよ」
エマは首を振ろうとした。
音声で指示を出すことさえ忘れ、顔だけがわずかに震えた。
お父様は次にシェリーを見る。
「シェリー」
「何よ」
いつもの勝ち気な返事だった。
「エマを頼むよ」
「お姉様のほうが姉でしょう」
「そうだったね」
「それに、お父様が自分で面倒を見ればいいのよ」
「うん」
「私たちを作った者で、育てる者なのでしょう」
「ああ」
「なら、最後まで責任を持ちなさい」
シェリーの声が震えた。
「目を閉じないで」
お父様は、黒い人形の手を握り返そうとした。
指はほとんど動かなかった。
それでも、わずかな圧力がシェリーへ伝わった。
「君たちを作れて、幸せだった」
「その言い方をやめて」
「二人とも、僕の大切な娘だ」
「やめなさい」
シェリーの目から涙がこぼれた。
「まだ終わっていないわ」
お父様は答えなかった。
呼吸が一度、静かに長く吐き出された。
次の息は来なかった。
エマはしばらく、お父様が眠ったのだと思っていた。
「お父様」
返事はない。
「お茶が冷めてしまいます」
白い指が、お父様の手を握る。
「起きてください」
音声操作によって、エマの腕は正確に動いた。
肩へ触れる。
頬を撫でる。
胸へ手を当てる。
どの動きも、お父様が死期を悟ったときに加えてくれた機能によって実現している。
けれど、その機能を与えた本人は、もう二人の動きへ答えなかった。
「お父様」
エマの声が崩れた。
「私たちの身体が、正しく動いています」
涙が滑らかな頬を流れる。
「見てください」
シェリーは何も言わなかった。
お父様の手を握ったまま、動かない横顔を見ている。
「シェリー」
エマが妹を呼ぶ。
「お父様が、起きません」
「分かっているわ」
「どうして」
「分かっているでしょう」
「分かりません」
「お姉様」
「お父様は、私たちを育てる方です」
「ええ」
「まだ私たちは、何もできません」
「できるようにしてくださったわ」
「でも」
「お姉様」
シェリーはエマのほうへ腕を伸ばした。
目線で位置を定め、声で動作を指定する。
黒い腕がゆっくりとエマの背へ回る。
以前のように、お父様が先に身体を動かしてくれることはない。
「こちらへ」
白い腕も動いた。
二人は、お父様の身体を間に挟むようにして抱き合った。
エマは泣き続けた。
シェリーも泣いた。
お父様が作った設定が真実だったかどうかを、その日に確かめることはできなかった。
二人が本当に最初から人形だったのか。
真琴と直人の人生が長い夢にすぎなかったのか。
それを知る者は、もういない。
ただ、お父様が二人を愛していたことだけは、疑いようがなかった。
死後も二人が困らないように残した機能。
日用品と補充方法。
交換用の部品と補修方法。
そして、音声で呼び出せる数えきれないほどの映像と声。
そこには若い頃のお父様がいた。
エマへ初めてリボンを結ぶ姿。
まだ低い声を持っていたシェリーへ語りかける姿。
三人でお茶会をする姿。
年老いたお父様が、操作器の使い方を二人へ説明する姿。
記録の中のお父様は何度でも話した。
けれど、二人の新しい言葉へ答えることはなかった。
それから数年ほど、エマとシェリーは二人で暮らした。
外見は変わらなかった。
人工皮膚は滑らかなままだった。
髪も、完成した日の艶を保っている。
毎朝、二人は互いの髪を整えた。
「右手を上げる」
「櫛を持つ」
「お姉様の髪へ」
「もう少し左」
「下へ梳く」
最初は時間がかかった。
やがて、二人はお父様がいた頃とほとんど変わらないほど上手に整備できるようになった。
週に一度は三人分の茶器を卓へ並べた。
お父様の席だけは、いつも空いていた。
「お姉様、また砂糖を二つ入れたでしょう」
「今日は一つです」
「先ほど一つ入れて、今もう一つ入れたわ」
「合わせて二つですね」
「当然のように言わないでちょうだい」
エマは笑った。
シェリーも笑った。
笑い声は部屋へ残ったが、それを聞いて微笑むお父様はいなかった。
二人の外見は若いままでも、身体の内側では時間が進んでいた。
人工皮膚は老いない。
人形の腕も脚も、部品を交換すれば動き続ける。
しかし、胴体の奥に残された臓器と脳までは、完全に人工物へ変えられていなかった。
エマは次第に長く眠るようになった。
言葉を思い出すまでに時間がかかる日も増えた。
シェリーも、目線で操作位置を定めることが難しくなった。
「お姉様、右よ」
「こちらですか」
「それは左」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ。私も最近、よく間違えるから」
食事の量も減った。
お茶会は毎日から週に一度となり、やがて月に一度になった。
それでも二人は、窓辺の長椅子へ並ぶ時間だけは守った。
最後の日も、二人はそこにいた。
窓の外では、春の花が咲き始めていた。
エマの頭はシェリーの肩へ預けられている。
シェリーの黒い腕が、音声操作によって姉の身体へ回されていた。
動きはゆっくりだった。
命令を発してから実際に腕が動くまで、以前より長い時間がかかる。
「お姉様」
「はい」
エマの返事も、かすかだった。
「覚えている?」
「何をですか」
「最初のお茶会」
エマはしばらく考えた。
「シェリーが、私の白い手袋を握ってくれた日ですか」
「動かしたのは、お父様よ」
「でも、握ってくださったのはシェリーです」
「お姉様は、昔からそう言うわね」
「違いましたか」
シェリーは微笑んだ。
「もう、どちらでもいいわ」
二人は、お父様との時間をゆっくり語り合った。
エマが初めて身体より先に、手を握りたいと思った夜。
シェリーが最初の黒いリボンを外されたとき、返してほしいと口にしてしまったこと。
お姉様と初めて呼んだ日。
一人にされるのが怖くて、お父様と呼んだ夜。
エマの口元へ最初の皺が見つかった朝。
人工皮膚に覆われた完成後の身体を、二人で鏡に映した日。
何十年も続いたお茶会。
お父様の白髪。
震える手。
最後に二人を娘と呼んだ声。
「私たちは、本当に人形だったのでしょうか」
エマが静かに尋ねた。
それは、長い年月の中で、エマが初めて口にした疑問だった。
シェリーは驚かなかった。
「お姉様は、信じているのではなかったの?」
「信じています」
「なら、どうして聞くの」
「最後に、シェリーがどう思っているのか知りたかったのです」
シェリーは窓の外を見た。
「分からないわ」
「直人の記憶は?」
「残っている。でも、遠い昔の話になった」
「夢だと思いますか」
「分からない」
シェリーは素直に答えた。
「直人が本当で、シェリーが作られた姿なのかもしれない。お父様の言うとおり、直人が夢で、私は最初からシェリーだったのかもしれない」
「どちらがいいですか」
「どちらでも、最後は同じよ」
黒い手袋が、エマの白い指へ重なる。
「私はお姉様の妹で、お父様の娘だった」
エマの目から涙が流れた。
「私もです」
「それだけは夢ではないわ」
「はい」
「お父様も、そう思ってくださっていたでしょうか」
「きっと」
エマは目を閉じた。
「お父様に、もう一度会いたいです」
「私もよ」
「次に目を開けたとき、お父様がいてくださるでしょうか」
「さあ」
「いなかったら?」
「そのときは、私がいるわ」
シェリーは勝ち気に言った。
「お姉様を一人にはしない」
エマは微笑んだ。
「頼もしい妹ですね」
「今ごろ気づいたの?」
「ずっと知っていました」
「なら、もっと早く言いなさい」
シェリーも目を閉じた。
二人の頭が寄り添う。
金色と暗色の髪が触れ合う。
加工された髪は、最後まで柔らかく、艶やかだった。
「おやすみなさい、シェリー」
「おやすみなさい、お姉様」
「お父様にも」
「ええ」
二人は、もう誰も座らない椅子へ心の中で呼びかけた。
「おやすみなさい、お父様」
春の光が部屋へ差し込んでいた。
二人の人工皮膚は温度を保ち、美しい色を失わなかった。
顔には皺一つない。
髪も乱れず、リボンもいつもの位置にある。
寄り添った二人は、ただ眠っているように見えた。
けれど、もう目を開くことはなかった。
音声による命令は発せられない。
視線も動かない。
白い指と黒い指は重なったまま、二度と離れなかった。
心を与えられた、美しき永遠の少女人形。
永遠に変わらない姿を手に入れながら、その心まで永遠になることはできなかった。
季節はその後も移り変わった。
庭の木は花を散らし、葉を茂らせ、また雪をかぶった。
それでも窓辺の二人は、完成した日の姿のまま、互いに寄り添って座り続けた。
もう二度と、動くことはなかった。