信都県城。
朝。
城門前には、数千の兵が集まっていた。
黒地金龍旗が朝風を受け、大きく翻っている。
その下で、凌天は黒馬に跨っていた。
腰に剣を佩き、その傍らには完成したばかりの長柄武器――紫霄祥龍が立て掛けられている。
長大な鋼の柄。
その先には、槍の穂先ではなく、幅広い刀身が取り付けられている。
高雷がそれを眺めた。
「随分と物騒な得物になったな」
「そうか」
「兄貴には似合ってるがな」
高雷は笑った。
陳玄が前へ進み出る。
「凌天様」
「何だ」
「皇甫嵩将軍は、すでに冀州へ入り、広宗方面へ進んでいるとの報せがございます」
「どれほど離れている」
「急げば、数日で追いつけましょう」
凌天は前方を見る。
「ならば、行くぞ」
「はっ」
号令とともに軍が動き出した。
数千の兵が一斉に進む。
黒地金龍旗が、その中央で風を受けて翻った。
◇
それから三日。
凌天の軍は、冀州の街道を進んでいた。
安平郡を離れ、広宗へ近づくにつれて、戦乱の痕跡が増えていく。
焼け落ちた家。
荒らされた田畑。
街道脇に残された武器。
黄巾と官軍が戦った跡も、そこかしこに残っていた。
韓蒼が前方へ目を向ける。
「前方に騎馬」
凌天が顔を上げる。
「数は」
「十騎ほど」
韓蒼は騎馬隊へ向かって進んだ。
やがて、騎馬の一団が近づいてくる。
先頭の兵が声を上げた。
「何者だ!」
韓蒼が答える。
「破賊都尉・凌天様の軍です」
「皇甫嵩将軍のもとへ参陣するため、参りました」
兵たちの間にざわめきが起こる。
「凌天……?」
先頭の兵が頷いた。
「しばし待たれよ!」
騎馬隊はその場を離れ、来た道を戻っていった。
韓蒼はその背を見送った。
「皇甫嵩将軍へ報告に戻ったようです」
「そうか」
凌天は前方を見た。
「ここで待つ」
「はっ」
軍はその場で停止した。
◇
同じ頃。
皇甫嵩の本陣。
天幕の中では、将たちが地図を囲んでいた。
皇甫嵩は広宗周辺の地図を見つめている。
冀州の黄巾勢力は、なお広宗を中心に勢力を残していた。
盧植が退けられ、その後を受けた董卓も黄巾軍を破ることができなかった。
今度は自分が、この戦線を立て直さなければならない。
その時、天幕の外から声が響いた。
「申し上げます!」
「何だ」
「安平郡方面より、軍勢が参っております」
皇甫嵩が顔を上げる。
「軍勢?」
「破賊都尉・凌天と名乗っております」
その名を聞いた瞬間。
皇甫嵩の手が止まった。
凌天。
その名は、すでに耳にしている。
青州で黄巾を破り、安平郡では信都県城を制圧した若き将。
その後も軍を退かず、周辺の黄巾を討ち続けているという。
朝廷から破賊都尉の官職まで与えられた男。
「通せ」
「はっ」
◇
しばらくして。
天幕の外が騒がしくなる。
だが、その声は次第に消えていった。
皇甫嵩はそれを感じ取った。
――何だ。
兵たちの声が途切れていく。
足音が近づいてくる。
一つ。
また一つ。
そして、天幕の入口に人影が現れた。
皇甫嵩は顔を上げる。
一人の男が入ってきた。
黒甲。
堂々たる体躯。
その身から放たれる圧は、これまで皇甫嵩が見てきた若者とは明らかに違っていた。
空気が重い。
皇甫嵩は、その変化を肌で感じていた。
――これが、凌天か。
凌天は皇甫嵩の前まで進む。
そして、深く一礼した。
「臣、姓は凌、名は天、字は元覇にございます」
「朝廷より賜りました任に従い、皇甫嵩将軍の軍へ参りました」
皇甫嵩は凌天を見据えた。
「うむ」
凌天は後ろへ視線を向ける。
「こちらは、私が信を置く者たちにございます」
「高雷、字は震山」
高雷が一歩前へ出る。
大柄な身体を真っ直ぐに伸ばし、皇甫嵩へ堂々と一礼した。
続いて陳玄。
「陳玄、字は子明」
陳玄は深く一礼する。
その所作には一分の乱れもない。
最後に韓蒼。
「韓蒼、字は伯遠」
韓蒼も静かに一礼した。
三人が下がる。
皇甫嵩は静かに頷いた。
「黄巾との戦は、未だ終わっておらぬ」
「そなたらが戦場で如何なる働きを見せるか、見届けさせてもらおう」
凌天は一礼した。
「御期待に背かぬ働きをいたします」
皇甫嵩は地図へ目を向ける。
「まもなく広宗へ進む」
「そこで黄巾の主力と相対することになる」
「承知いたしました」
その時、天幕の外から声が響いた。
「皇甫将軍」
「何だ」
「曹操騎都尉がお見えです」
皇甫嵩が顔を上げる。
「通せ」
ほどなくして、一人の男が天幕へ入ってきた。
年は二十代の終わりほど。
細身の身体に、鋭い眼差しを宿している。
その立ち姿には、若さだけではない落ち着きがあった。
男は凌天へ一瞬だけ視線を向ける。
そして皇甫嵩へ一礼した。
「曹操、字は孟徳にございます」
皇甫嵩は頷いた。
「曹都尉か」
「はっ」
皇甫嵩は凌天へ視線を向ける。
「こちらは破賊都尉、凌天だ」
「先ほど参陣したばかりだ」
曹操が凌天へ向き直る。
「凌都尉」
「曹都尉」
二人は互いに一礼した。
皇甫嵩が口を開く。
「広宗に着けば、いよいよ黄巾の主力と相対することになる」
「二人とも、戦場での働きを期待している」
凌天と曹操は、それぞれ一礼した。
「はっ」
「承知いたしました」
◇
その日の夕刻。
皇甫嵩軍は広宗へ向かう途中の平地に陣を敷いた。
各軍がそれぞれに天幕を張り、兵たちは食事や武具の準備を進めている。
凌天の陣でも、陳玄が兵たちへ指示を出していた。
高雷は兵の様子を眺め、韓蒼は周囲の警戒に当たっている。
凌天が天幕へ戻ろうとした時だった。
「凌都尉」
振り返ると、曹操が立っていた。
「曹都尉か」
「少し話をしてもよろしいか」
「構わぬ」
二人は陣の端へ移動した。
曹操は凌天の軍へ目を向ける。
「改めて見ると、随分と個性的な方々を揃えておられる」
「そうか?」
「ええ」
曹操は高雷へ目を向けた。
「高雷殿は、かなりの武人とお見受けしました」
「高雷は力がある。正面から敵を打ち破るなら、あいつほど頼りになる者はいない」
次に陳玄を見る。
「陳玄殿は、軍を支える役目でしょうか」
「ああ。兵のことだけではない。兵糧や物資、城のことまで任せている」
「なるほど」
最後に韓蒼へ目を向ける。
「韓蒼殿は?」
「周囲を見るのが得意だ。敵の動きや地形を見るなら、あいつに任せている」
曹操は三人へ視線を向けた。
「高雷殿は武に優れ、陳玄殿は軍を支え、韓蒼殿は周囲を見る」
「いずれも一軍を任せられる才を持っているように見えます」
「凌都尉は、よくこれほどの者を集められたものですな」
凌天は三人へ目を向けた。
「昔からの付き合いだ」
「そうでしたか」
曹操は頷いた。
「私にも、従弟に夏侯惇、夏侯淵という者がおります」
「二人とも武には覚えがありましてな」
「そうか」
「機会があれば、いずれ紹介したいものです」
凌天は頷いた。
「楽しみにしておこう」
曹操は一礼した。
「では、また」
「ああ」
曹操は自陣へ戻っていった。
◇
翌朝。
皇甫嵩軍は広宗へ向けて進軍を開始した。
数万の兵が街道を埋め、無数の旗が朝風に揺れている。
その中を、黒地金龍旗が進んでいた。
曹操は馬上から前方を進む凌天軍へ目を向けていた。
高雷は兵の列を見渡している。
乱れがあれば自ら声をかけ、兵を正していく。
大柄な身体に似合わず、兵の動きを細かく見ていた。
陳玄はさらに後方へ目を配っている。
兵糧を積んだ荷車。
武具を運ぶ兵。
各隊の間隔。
伝令の動き。
軍全体が滞りなく進むよう、細かな部分まで確認していた。
韓蒼は隊列の外側を進んでいる。
街道の左右。
丘の向こう。
林の中。
時折、馬を止めて遠くを見渡し、異変がないことを確認すると隊列へ戻っていく。
そして、その中心に凌天がいる。
細かな指示を出すことはない。
だが、必要な時には一言だけ声をかける。
その声を受けた高雷や陳玄、韓蒼が、それぞれの役目を果たす。
曹操はその様子を静かに眺めていた。
やがて、前方から伝令が駆けてくる。
「申し上げます!」
「広宗まで、あと半日ほどにございます!」
皇甫嵩へ報告が伝わる。
軍の進む速度がわずかに上がった。
昼を過ぎた頃。
街道の先に、小高い丘が見えてきた。
皇甫嵩が馬を進める。
その後ろに、凌天や曹操たちも続いた。
丘を越えた。
その瞬間。
視界が一気に開けた。
遠くに広宗の城壁が見える。
そして――
その周囲を埋め尽くす無数の黄色い旗。
黄巾軍だった。
その兵列は地平線の彼方まで続いている。
高雷が目を細める。
「……多いな」
陳玄も敵陣を見渡した。
「信都県城で敗れた黄巾が、そのまま広宗へ集まったのでしょう」
凌天は黙って敵陣を見つめた。
安平郡で戦った黄巾。
その残党が、ここへ集まっている。
曹操も目を細める。
「十万近くいるかもしれませんな」
しばらくして、前方から伝令が駆けてきた。
「申し上げます!」
皇甫嵩が振り返る。
「敵軍、およそ十万!」
周囲の将兵から、低いざわめきが起こった。
皇甫嵩は広宗を見据えたまま、表情を変えない。
凌天もまた、十万の黄巾軍を見つめていた。