三國覇皇記   作:沙耶王

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第五話 広宗決戦

 

 

 

 

 

 皇甫嵩の天幕には、主要な将たちが集まっていた。

 

 中央には広宗周辺の地図が広げられている。

 

 広宗城を中心に、黄巾軍の陣が広く展開している。

 

 正面だけではない。

 

 左右にも複数の陣が置かれ、それぞれの部隊が互いを支えられるよう配置されていた。

 

 皇甫嵩は地図を見ながら口を開いた。

 

 「敵は十万ほど」

 

 「広宗を守るため、各所に兵を置いている」

 

 曹操が地図へ目を落とす。

 

 「正面を攻めれば、左右からも兵が動くでしょう」

 

 「そうだ」

 

 皇甫嵩は頷いた。

 

 「だから、まず敵の動きを見たい」

 

 皇甫嵩の視線が凌天へ向く。

 

 「凌天殿」

 

 「はい」

 

 「明朝、そなたの軍に前へ出てもらう」

 

 陳玄が地図を見る。

 

 「黄巾の一部を誘い出すのでございますか」

 

 「そうだ」

 

 皇甫嵩は広宗西側の陣を指した。

 

 「ここへ圧力をかける」

 

 「敵がどれほどの兵を出してくるのかを見る」

 

 「周囲の陣がどのように反応するのかも確認する」

 

 凌天は地図を眺めた。

 

 「分かった」

 

 皇甫嵩は続ける。

 

 「敵が大軍を出してきたなら、無理に押し込む必要はない」

 

 「こちらも動きを合わせる」

 

 「敵の配置が変われば、それに応じて次の手を考える」

 

 陳玄が頷いた。

 

 「承知しました」

 

 「我らは凌天様の後方を支えます」

 

 「敵の動きに合わせ、すぐ対応できるようにしておきます」

 

 韓蒼も地図へ目を落とした。

 

 「周囲の動きは私が見ます」

 

 「援軍がどこから出てくるかも確認しておきます」

 

 「ああ」

 

 凌天が答えた。

 

 高雷は大斧を担ぎ直す。

 

 「俺は兄貴と前へ出る」

 

 凌天が頷いた。

 

 「ああ」

 

 皇甫嵩は四人を見渡した。

 

 「頼む」

 

 ◇

 

 翌朝。

 

 朝霧の残る中、凌天軍が陣を出た。

 

 黒地金龍旗が朝風を受けて翻る。

 

 凌天は黒馬に乗り、高雷たちがその後に続いた。

 

 数千の兵が隊列を整え、広宗西側の黄巾陣へ向かって進んでいく。

 

 やがて、黄巾軍の陣から太鼓が鳴り響いた。

 

 ドン――。

 

 ドン――。

 

 黄色い旗が次々と動き始める。

 

 韓蒼が前方を見据えた。

 

 「敵が動きます」

 

 凌天は紫霄祥龍を手に取った。

 

 その姿が見えた瞬間、黄巾軍の一角から声が上がった。

 

 「黒地金龍旗だ!」

 

 「凌天だ!」

 

 安平郡から逃れてきた兵たちが、凌天の姿を見つける。

 

 「……あの男だ」

 

 「信都県城で俺たちを破った……」

 

 「本当にいるのか」

 

 その声は、周囲の兵へ次々と伝わっていった。

 

 だが、黄巾軍は止まらない。

 

 前方の将が槍を掲げる。

 

 「恐れるな!」

 

 「敵は数千だ!」

 

 「迎え撃て!」

 

 黄巾兵が一斉に駆け出した。

 

 万の兵が大地を揺らしながら迫ってくる。

 

 凌天は紫霄祥龍を構えた。

 

 高雷も大斧を構える。

 

 「来るぞ、兄貴」

 

 「ああ」

 

 敵軍との距離が、一気に縮まった。

 

 そして――

 

 凌天軍と黄巾軍が激突した。

 

 ◇

 

 

 激突した瞬間、戦場を轟音が包んだ。

 

 盾と盾がぶつかり、槍が突き出される。

 

 その最前線へ、凌天が踏み込んだ。

 

 紫霄祥龍が横薙ぎに振り抜かれる。

 

 鋼の刀身が走り、前列の黄巾兵がまとめて吹き飛んだ。

 

 その後ろにいた兵まで巻き込まれ、隊列が大きく崩れる。

 

 だが、万を超える黄巾兵は止まらない。

 

 次から次へと兵が押し寄せる。

 

 凌天は退かなかった。

 

 再び紫霄祥龍が振るわれる。

 

 今度は正面から迫った兵たちがまとめて薙ぎ払われた。

 

 まるで、蟻の群れへ激流が叩き込まれたかのようだった。

 

 黄巾兵の列が押し流される。

 

 倒れた兵を越え、後続が前へ出る。

 

 それでも凌天はさらに踏み込む。

 

 紫霄祥龍が振るわれるたび、敵の隊列が崩れていく。

 

 「押せ!」

 

 「凌天様に続け!」

 

 凌天軍も一斉に前へ出た。

 

 高雷が大斧を振り回す。

 

 「邪魔だ!」

 

 大斧が兵の列を打ち崩し、その横から凌天軍の兵が雪崩れ込む。

 

 黄巾軍の一角が大きく後退した。

 

 「何だ……」

 

 「止められない!」

 

 「前へ出ろ!」

 

 「無理だ!」

 

 恐怖が前線へ広がっていく。

 

 信都県城から逃れてきた兵たちは、目の前の光景に息を呑んでいた。

 

 あの時と同じだった。

 

 黒地金龍旗が翻る。

 

 凌天が前へ出る。

 

 そして、その周囲から黄巾兵が次々と倒れていく。

 

 「また……始まった」

 

 誰かが呟いた。

 

 だが、後方から新たな部隊が押し寄せてくる。

 

 万を超える軍勢の中から、さらに兵が前線へ投入されていく。

 

 凌天はそれを見ても動じない。

 

 ただ、向かってくる兵を迎え撃つ。

 

 紫霄祥龍が唸る。

 

 前列が崩れる。

 

 また振るわれる。

 

 さらに隊列が崩れる。

 

 それでも黄巾兵は押し寄せる。

 

 凌天の周囲だけ、戦場の流れが変わっていた。

 

 黄巾軍が押せば、凌天が押し返す。

 

 兵を増やせば、その兵ごと薙ぎ払われる。

 

 数で押し潰そうとするほど、前線には倒れた兵が積み重なっていく。

 

 やがて、黄巾軍の一角に大きな乱れが生じた。

 

 「右翼が崩れています!」

 

 韓蒼が叫ぶ。

 

 陳玄は戦場を見渡した。

 

 「敵は凌天様を止めるため、さらに兵を回しています」

 

 「その分、周囲が薄くなっています」

 

 韓蒼が頷く。

 

 「左側の陣も動き始めました」

 

 「敵は凌天様の軍を無視できなくなっています」

 

 陳玄は静かに目を細めた。

 

 「ならば、こちらの役目は果たせています」

 

 その頃。

 

 皇甫嵩の陣にも、次々と報告が届いていた。

 

 「申し上げます!」

 

 伝令が駆け込む。

 

 「凌天軍と交戦している黄巾軍が、周囲の陣からも兵を集めております!」

 

 「左翼の陣からも増援が動きました!」

 

 皇甫嵩は地図へ目を落とした。

 

 凌天軍のいる場所へ、黄巾軍の兵力が集中している。

 

 その一方で、周辺の陣には明らかに兵の動きが生じていた。

 

 曹操が地図を見ながら口を開く。

 

 「凌天殿が敵を引きつけております」

 

 「そのため、各陣の兵が動いているのでしょう」

 

 皇甫嵩は頷いた。

 

 「ならば、もう十分だ」

 

 皇甫嵩は顔を上げる。

 

 「伝令」

 

 「はっ!」

 

 「各軍に伝えよ」

 

 「攻めるぞ」

 

 伝令が天幕を飛び出していく。

 

 直後、皇甫嵩軍の各陣で軍鼓が鳴り響いた。

 

 旗が一斉に動く。

 

 兵が進み始める。

 

 広宗周辺に展開していた皇甫嵩軍が、ついに前へ出た。

 

 その動きを見た黄巾軍の陣に、次々と動揺が走る。

 

 凌天軍だけではない。

 

 今度は、皇甫嵩軍そのものが迫ってきていた。

 

 そして戦場は、一気に大きく動き始めた。

 

 ◇

 

 皇甫嵩軍が一斉に前進した。

 

 広宗周辺へ展開していた黄巾軍へ、各隊が攻撃を仕掛けていく。

 

 黄巾軍の陣では、次々と伝令が走っていた。

 

 「官軍が動いた!」

 

 「左翼へ兵を回せ!」

 

 「後方の部隊も前へ出せ!」

 

 だが、すでに遅かった。

 

 凌天軍へ兵を集中させたことで、黄巾軍の各陣には大きな隙が生まれていた。

 

 その隙へ、皇甫嵩軍が一気に踏み込む。

 

 太鼓が鳴り響く。

 

 弓兵が一斉に矢を放つ。

 

 その直後、歩兵が前進した。

 

 黄巾軍も必死に迎え撃つ。

 

 だが、凌天軍への対応に兵を割いたことで、皇甫嵩軍への対応が遅れていた。

 

 その戦場を、曹操も見ていた。

 

 皇甫嵩軍が動いたことで、黄巾軍の各陣が次々と対応を迫られている。

 

 凌天軍へ兵を回せば、皇甫嵩軍に押し込まれる。

 

 皇甫嵩軍へ兵を回せば、凌天軍がさらに前へ出る。

 

 曹操はその状況を静かに見つめていた。

 

 その視線の先では、黒地金龍旗が翻っている。

 

 凌天軍は未だに万を超える黄巾兵を相手にしていた。

 

 それでも、その勢いは衰えていない。

 

 曹操はしばらく凌天の姿を見つめた。

 

 そして、自らの兵へ視線を戻す。

 

 「我らも動くぞ」

 

 「はっ!」

 

 曹操軍も動き始めた。

 

 皇甫嵩軍とは別の戦線へ兵を進め、崩れ始めた黄巾軍へ圧力を加えていく。

 

 一方、凌天軍の前では、いまだに激しい戦いが続いていた。

 

 凌天は紫霄祥龍を振るう。

 

 黄巾兵がまとめて薙ぎ払われる。

 

 倒れた兵を踏み越え、後続が押し寄せる。

 

 それでも凌天は前へ進んだ。

 

 高雷が大斧を振り抜く。

 

 「まだ来るぞ!」

 

 「ならば、倒すだけだ」

 

 凌天軍の兵たちも声を上げる。

 

 「押せ!」

 

 「退くな!」

 

 黄巾軍の前線がさらに後退する。

 

 その背後では、皇甫嵩軍との戦闘も激しくなっていた。

 

 黄巾軍は凌天軍へ兵を送り続ければ、皇甫嵩軍に押し込まれる。

 

 皇甫嵩軍へ兵を回せば、凌天軍がさらに前へ出る。

 

 黄巾軍の指揮系統に迷いが生じ始めていた。

 

 陳玄はその状況を見ていた。

 

 「敵は、もう凌天様と皇甫嵩軍の両方を止められません」

 

 韓蒼が頷く。

 

 「凌天様の軍を抑えようとすれば、皇甫嵩軍が入り込む」

 

 「皇甫嵩軍を止めようとすれば、こちらがさらに前へ出る」

 

 陳玄は戦場を見渡した。

 

 「このまま押し切れます」

 

 その時、前方から黄巾軍の新たな部隊が現れた。

 

 先頭には大きな黄色い旗。

 

 数千の兵が凌天軍へ向かって進んでくる。

 

 高雷が大斧を構えた。

 

 「また来たか」

 

 凌天は紫霄祥龍を握り直す。

 

 「ならば、叩き潰す」

 

 黄巾兵が一斉に突撃した。

 

 凌天が踏み込む。

 

 紫霄祥龍が大きく振り抜かれた。

 

 先頭の兵がまとめて吹き飛ぶ。

 

 そのまま凌天軍が前へ出る。

 

 黄巾軍の隊列が崩れた。

 

 さらに皇甫嵩軍が押し込む。

 

 その一方、別の戦線では曹操軍も黄巾軍へ攻め込んでいた。

 

 黄巾軍の一つの陣が耐え切れず、後退を始めた。

 

 「退くな!」

 

 「持ち場を守れ!」

 

 だが、兵たちは止まらない。

 

 後退する兵が増えていく。

 

 やがて、別の陣でも兵が下がり始めた。

 

 さらにその隣でも、黄色い旗が後方へ動く。

 

 「退け!」

 

 「後ろへ下がれ!」

 

 叫び声が次々と上がる。

 

 広宗周辺に展開していた黄巾軍の陣が、あちこちで崩れ始めていた。

 

 崩れ始めた黄巾軍の陣は、もはや元の形を保てなくなっていた。

 

 退く部隊。

 

 踏みとどまる部隊。

 

 後方から前へ出ようとする部隊。

 

 それぞれの動きが噛み合わず、戦場のあちこちで兵が入り乱れている。

 

 「右の陣が下がっています!」

 

 「中央へ兵を回せ!」

 

 「中央へ回せば左翼が持ちません!」

 

 黄巾軍の将たちも必死に命令を飛ばす。

 

 だが、すでに命令だけでは戦場を支えられなくなっていた。

 

 凌天軍が前へ出る。

 

 その勢いに押され、黄巾兵が後退する。

 

 そこへ皇甫嵩軍が突入する。

 

 さらに離れた場所では、曹操軍が黄巾軍の側面を押し込んでいた。

 

 黄巾軍は三つの戦線で同時に戦わされている。

 

 「前へ出ろ!」

 

 「敵を押し返せ!」

 

 黄巾軍の将が叫ぶ。

 

 しかし、兵たちは前へ出ない。

 

 目の前には、黒地金龍旗がある。

 

 その下で紫霄祥龍を振るう凌天の姿が見える。

 

 「……また、あの男だ」

 

 「近づくな!」

 

 「凌天を避けろ!」

 

 その声が周囲へ広がる。

 

 だが、避けようとすれば隊列に隙が生まれる。

 

 そこへ凌天軍が入り込んだ。

 

 「押せ!」

 

 高雷が吠える。

 

 凌天軍が一気に踏み込む。

 

 凌天の紫霄祥龍が横薙ぎに走る。

 

 前列が崩れる。

 

 その隙間へ、さらに兵が入り込む。

 

 凌天は止まらない。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 そのたびに黄巾軍の戦線が後ろへ押し込まれていく。

 

 「凌天軍が抜けてきます!」

 

 「止めろ!」

 

 「無理です!」

 

 「ならば左右から囲め!」

 

 黄巾兵が凌天軍を包もうと動く。

 

 だが、その動きに合わせて皇甫嵩軍がさらに前へ出た。

 

 「敵の側面が空いたぞ!」

 

 「進め!」

 

 官軍が突入する。

 

 黄巾軍の部隊が横から崩された。

 

 さらに曹操軍も別の場所で攻撃を強める。

 

 「敵が乱れている!」

 

 「今だ、押し込め!」

 

 曹操軍が前進する。

 

 黄巾軍は完全に後手へ回っていた。

 

 その頃、黄巾軍の後方では、さらに大きな動きが起きていた。

 

 前線から逃げ戻る兵が増えている。

 

 「前線が破られた!」

 

 「官軍が迫っている!」

 

 「凌天軍も来ているぞ!」

 

 報告を聞いた将たちの表情が変わる。

 

 「張梁様へ報告しろ!」

 

 「すぐにだ!」

 

 伝令が駆け出していく。

 

 その頃。

 

 黄巾軍の本陣。

 

 張梁のもとにも、次々と報告が届いていた。

 

 「右翼が崩れました!」

 

 「左翼にも官軍が入り込んでいます!」

 

 「中央では凌天軍が前進を続けています!」

 

 張梁は険しい表情で戦場を見た。

 

 遠くに見える黒地金龍旗。

 

 その旗が、確実に近づいている。

 

 「……凌天」

 

 張梁の口から、その名が漏れた。

 

 信都県城から逃げてきた兵たちが恐れていた男。

 

 その男が、今度は自分の軍を正面から押し崩している。

 

 「兵を中央へ集めろ!」

 

 張梁が命じる。

 

 「凌天軍をここで止める!」

 

 だが、その直後。

 

 別の伝令が駆け込んできた。

 

 「申し上げます!」

 

 「皇甫嵩軍が本陣へ向けて進んでおります!」

 

 張梁の顔が強張る。

 

 さらに別の場所から声が上がった。

 

 「曹操軍も動いています!」

 

 張梁は周囲を見渡した。

 

 前には凌天軍。

 

 左には皇甫嵩軍。

 

 そして右から曹操軍。

 

 広宗周辺を埋め尽くしていた黄巾軍は、三方から押し込まれ始めていた。

 

 

 ◇

 

 黄巾党の本陣。

 

 張梁は険しい表情で戦場を見渡した。

 

 「……このままでは本陣まで来るか」

 

 側にいた将が頷く。

 

 「このままでは持ちません」

 

 「各陣の兵を集めますか」

 

 張梁は首を横に振った。

 

 「無理だ」

 

 「すでに各所で官軍と戦っている」

 

 「ここへ兵を集めれば、他の陣が完全に崩れる」

 

 張梁はしばらく戦場を見つめた。

 

 「撤退する」

 

 将たちが顔を上げる。

 

 「撤退……ですか」

 

 「ああ」

 

 「広宗を捨てるおつもりで?」

 

 「捨てるのではない」

 

 張梁は答えた。

 

 「今は兵を残すことが先だ」

 

 「このまま戦えば、黄巾党の兵がここで滅ぼされる」

 

 「生き残った兵をまとめれば、まだ戦える」

 

 将の一人が地図を広げた。

 

 「では、どちらへ?」

 

 張梁は地図へ目を落とした。

 

 南へ抜ける道がある。

 

 だが、そこへ向かうには凌天軍の前を横切る必要がある。

 

 西側には、官軍の総大将である皇甫嵩の軍が展開していた。

 

 張梁は西を指した。

 

 「皇甫嵩軍を抜ける」

 

 将たちが顔を見合わせる。

 

 「しかし、皇甫嵩軍もかなりの兵力です」

 

 「分かっている」

 

 張梁は答えた。

 

 「だが、凌天軍の正面を通るよりはいい」

 

 「凌天の軍とまともにぶつかれば、撤退どころではなくなる」

 

 張梁は立ち上がった。

 

 「各部隊へ撤退を命じる」

 

 「凌天軍とは正面から戦うな」

 

 「皇甫嵩軍の戦線を突破する」

 

 「一人でも多く逃がせ」

 

 「はっ!」

 

 伝令が一斉に走り出した。

 

 黄巾党の各所で、撤退の命令が伝えられていく。

 

 「退け!」

 

 「西へ向かえ!」

 

 「凌天軍とは戦うな!」

 

 「皇甫嵩軍を突破しろ!」

 

 黄色い旗が次々と向きを変える。

 

 それまで凌天軍へ向かっていた兵たちが、少しずつ戦場から離れ始めた。

 

 しかし、凌天はその動きを見逃さなかった。

 

 韓蒼が馬を寄せる。

 

 「元覇」

 

 「ああ」

 

 「敵が退き始めました」

 

 凌天は前方を見る。

 

 黄色い旗が、こちらから離れていく。

 

 「追うか?」

 

 高雷が大斧を担いだ。

 

 凌天は首を横に振る。

 

 「いや」

 

 「皇甫将軍の軍がいる」

 

 陳玄が戦場を見渡した。

 

 「皇甫嵩軍が退路を塞いでおります」

 

 「黄巾党は、あちらへ向かうしかありません」

 

 「ああ」

 

 凌天は紫霄祥龍を肩へ担いだ。

 

 「逃げる者を追い回すより、目の前の敵を討て」

 

 「承知しました」

 

 凌天軍はその場で戦線を維持した。

 

 その頃。

 

 黄巾党の撤退部隊は、皇甫嵩軍の戦線へ近づいていた。

 

 「前方に官軍!」

 

 「構うな!」

 

 「そのまま突破しろ!」

 

 張梁自身も馬を走らせていた。

 

 周囲には、まだ数千の兵が残っている。

 

 だが、その隊列は乱れていた。

 

 負傷した兵。

 

 武器を失った兵。

 

 仲間を探す兵。

 

 それでも、誰もが必死に西へ向かっていた。

 

 やがて前方に、皇甫嵩軍の旗が見えてくる。

 

 「皇甫嵩軍です!」

 

 張梁が顔を上げた。

 

 「止まるな!」

 

 「一気に抜ける!」

 

 黄巾党の兵が速度を上げる。

 

 皇甫嵩軍もそれを確認した。

 

 「黄巾党がこちらへ向かってきます!」

 

 「数は!」

 

 「数千!」

 

 報告を受けた皇甫嵩が馬を進める。

 

 「退路を塞げ」

 

 「逃がすな」

 

 皇甫嵩軍が隊列を組む。

 

 盾兵が前へ出る。

 

 その後ろに槍兵が並ぶ。

 

 黄巾党が迫る。

 

 「退け!」

 

 「突破するぞ!」

 

 張梁が叫ぶ。

 

 黄巾党の兵が一斉に突撃した。

 

 両軍が激突する。

 

 盾がぶつかる。

 

 槍が交差する。

 

 黄巾党の兵が必死に押し込もうとする。

 

 だが、皇甫嵩軍は崩れない。

 

 「押し返せ!」

 

 「敵を止めろ!」

 

 皇甫嵩軍が反撃する。

 

 黄巾党の先頭が次々と倒れていく。

 

 張梁は歯を食いしばった。

 

 「まだだ!」

 

 「ここを抜けろ!」

 

 張梁自身が前へ出る。

 

 槍を振るい、官軍の兵を押し退ける。

 

 その姿を見た皇甫嵩が目を細めた。

 

 「……あの男」

 

 周囲の兵へ尋ねる。

 

 「黄巾党の将は誰だ」

 

 「分かりません!」

 

 「だが、あの者が撤退を指揮しております!」

 

 皇甫嵩は張梁を見つめた。

 

 「そうか」

 

 皇甫嵩は馬を進める。

 

 張梁も、前方から近づいてくる皇甫嵩の姿に気づいた。

 

 皇甫嵩は張梁の前で馬を止める。

 

 「お前が、この軍の指揮を執っているのか」

 

 張梁は槍を構えたまま答えた。

 

 「ああ」

 

 「ならば、名を名乗れ」

 

 張梁は皇甫嵩を睨みつける。

 

 「張梁だ」

 

 皇甫嵩の表情が僅かに変わった。

 

 「……張梁」

 

 「張角の弟、張梁か」

 

 「そうだ」

 

 張梁は答えた。

 

 「兄上の弟、張梁だ」

 

 皇甫嵩は周囲へ視線を向けた。

 

 広宗を埋め尽くすほどの黄巾党。

 

 その数は十万にも及ぶ。

 

 皇甫嵩は再び張梁へ視線を戻した。

 

 「妙だな」

 

 「何がだ」

 

 「この軍は十万に及ぶ」

 

 「だが、お前一人でこれほどの兵を率いているわけではあるまい」

 

 張梁は黙っている。

 

 皇甫嵩は続けた。

 

 「張角が広宗にいるという情報は、こちらにも届いていた」

 

 「だからこそ、私はこの地へ来た」

 

 「だが、戦が始まってから今まで、張角の姿は一度も見ていない」

 

 張梁の目が僅かに動いた。

 

 皇甫嵩はその反応を見逃さなかった。

 

 「そして今、目の前にいるのは張梁」

 

 「張角本人ではない」

 

 皇甫嵩はしばらく張梁を見つめた。

 

 「……まさか」

 

 「張角は、すでに死んでいるのではないか」

 

 周囲の黄巾党の兵がざわめいた。

 

 張梁の表情が険しくなる。

 

 だが、答えは返さない。

 

 皇甫嵩は静かに問い直した。

 

 「どうなのだ」

 

 張梁はしばらく黙っていた。

 

 やがて、低い声で答える。

 

 「兄上は……もう戦えない」

 

 皇甫嵩の目が細くなる。

 

 「病か」

 

 「ああ」

 

 「この戦が始まる前から、兄上の身体は限界だった」

 

 張梁は拳を握る。

 

 「それでも兄上は、最後まで黄巾党の行く末を案じていた」

 

 皇甫嵩は張梁を見据えた。

 

 「死んだのか」

 

 張梁は答えなかった。

 

 その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 

 皇甫嵩は小さく息を吐く。

 

 「そうか……」

 

 「張角は、もうこの世にはいないのだな」

 

 張梁の目に怒りが宿る。

 

 「だが、それで黄巾党が終わったと思うな」

 

 「兄上が残したものは、まだここにある」

 

 張梁は周囲の兵を見渡した。

 

 「この兵たちも、兄上の志もな」

 

 皇甫嵩は静かに首を横に振った。

 

 「志、か」

 

 「その志のために、どれだけの民が死んだ」

 

 張梁の眉が動く。

 

 「朝廷が民を苦しめてきた」

 

 「だから兄上は立ち上がった」

 

 「貧しい者たちを救うためにな」

 

 皇甫嵩は張梁を見据えた。

 

 「ならば問おう」

 

 「何故、村を焼いた」

 

 「何故、略奪を許した」

 

 「何故、戦う意思のない民まで巻き込んだ」

 

 張梁は答えない。

 

 皇甫嵩は続けた。

 

 「大義を掲げることは容易い」

 

 「だが、戦を始めた以上、その結果から逃げることはできぬ」

 

 張梁は皇甫嵩を睨みつける。

 

 「逃げているのは、お前たちも同じではないか」

 

 「朝廷の腐敗を見ながら、何も変えられなかった」

 

 皇甫嵩の目が細くなる。

 

 「……朝廷には、朝廷の事情がある」

 

 「戦場にいる我らには、すべてを知ることはできぬ」

 

 「だが、だからといって、己の判断だけで朝廷の命を退けるわけにはいかぬ」

 

 「私は官軍を率いる将だ」

 

 「その立場にある以上、私には私の務めがある」

 

 張梁は一瞬黙った。

 

 やがて槍を構え直す。

 

 「ならば、俺たちは俺たちの道を行く」

 

 「ここを通らせてもらう」

 

 皇甫嵩は剣を構えた。

 

 「それはできぬ」

 

 張梁の目に殺気が宿る。

 

 「ならば――」

 

 槍を構える。

 

 「力ずくで通る!」

 

 張梁が馬を走らせる。

 

 皇甫嵩も馬を進めた。

 

 二人の距離が一気に縮まる。

 

 張梁の槍が突き出された。

 

 皇甫嵩は身を逸らしてかわす。

 

 槍が空を切る。

 

 張梁が槍を引く。

 

 その瞬間、皇甫嵩の剣が走った。

 

 張梁が身を捻る。

 

 だが、避けきれない。

 

 「ぐっ……!」

 

 張梁の身体が揺れる。

 

 それでも槍を離さない。

 

 「まだだ!」

 

 張梁が再び槍を振るう。

 

 皇甫嵩は受け流す。

 

 そして、間合いへ踏み込んだ。

 

 「終わりだ、張梁」

 

 剣が振り抜かれる。

 

 張梁の身体が大きく揺れた。

 

 槍が地面へ落ちる。

 

 張梁は馬上で身体を支えようとした。

 

 だが、力が入らない。

 

 「……兄上……」

 

 小さく呟いた。

 

 その身体が、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。

 

 「張梁様!」

 

 黄巾党の兵たちから叫び声が上がった。

 

 「張梁様が討たれた!」

 

 「退け!」

 

 「逃げろ!」

 

 張梁の討死を見た黄巾党の兵たちの戦意が、一気に崩れた。

 

 皇甫嵩は剣を掲げる。

 

 「敵将、張梁!」

 

 「漢王朝左中郎将、皇甫嵩が討ち取った!」

 

 その声が戦場へ響き渡った。

 

 ◇

 

 その声が、血と土煙に覆われた戦場へ響き渡った。

 

 張梁の討死を目の当たりにした兵たちが、恐怖に引きつった声で叫ぶ。

 

 「張梁様が討たれた!」

 

 「将軍が死んだぞ!」

 

 最初は一部の兵が発した叫びだった。だが、それを聞いた者たちが周囲へ伝え、さらに別の兵が声を張り上げる。将を失ったという報せは、波紋のように黄巾党の陣中へ広がっていった。

 

 「張梁様が死んだ!」

 

 「もう持たないぞ!」

 

 「誰が指揮を執るんだ!」

 

 それまで張梁の命令に従って戦っていた兵たちの間に、激しい動揺が走った。

 

 前線では敵と刃を交えていた兵が振り返り、後方では指揮を待っていた部隊がざわめき始める。

 

 誰もが次の命令を求めたが、それを下す者はもういなかった。

 

 張梁から事前に撤退を命じられていた部隊は、報せに動揺しながらも、必死に命令を守ろうとした。

 

 「西へ退け!」

 

 「張梁様の命令だ!」

 

 「隊列を崩すな! 西へ向かえ!」

 

 だが、指揮官を失った兵たちは、もはや整然と退くことさえできなかった。

 

 退路へ向かう部隊と、恐怖に駆られて別方向へ走る者が入り乱れ、味方同士がぶつかり合う。

 

 倒れた者を助け起こす余裕もなく、武器を捨てて駆け出す兵まで現れた。

 

 一方、凌天軍や曹操軍と交戦していた部隊では、将を失った衝撃がさらに早く隊列を崩していった。

 

 「将軍が討たれたぞ!」

 

 「退け! もう戦えない!」

 

 「ここにいたら殺される!」

 

 前線の一角で兵が背を向けると、その動きは瞬く間に周囲へ広がった。

 

 踏みとどまろうとする者もいたが、押し寄せる味方に巻き込まれ、陣形はたちまち崩壊する。

 

 黄巾兵たちは武器を振るうことも忘れ、ただ生き延びるために戦場から離れていった。

 

 その背後から、凌天は散り散りになる敵兵を見渡した。

 

 黄巾党はすでに戦う集団ではなく、追われる群れへと変わっている。

 

 だが、ここで見逃せば、再び集結して抵抗する可能性があった。凌天は一瞬も迷わなかった。

 

 「追撃する」

 

 短い命令が、張り詰めた空気を切り裂いた。

 

 陳玄がすぐさま兵たちへ向き直る。

 

 「追撃せよ!」

 

 号令と同時に、凌天軍が一斉に駆け出した。

 

 騎兵が敗走する敵の側面へ回り込み、歩兵が崩れた隊列へ食らいつく。

 

 土煙が巻き上がり、怒号と馬蹄の音が戦場をさらに激しく揺さぶった。

 

 追われる兵たちは、背後から迫る敵の気配に振り返る。

 

 「来るぞ!」

 

 「もっと早く走れ!」

 

 「道を空けろ!」

 

 だが、退路には味方が殺到し、進むことさえままならない。

 

 押し合い、転倒し、踏みつけられる者が続出する。

 

 その混乱に乗じて、凌天軍の刃が次々と黄巾兵を捉えていった。

 

 同じ頃、皇甫嵩軍も黄巾党への追撃を開始していた。

 

 「逃がすな! 一人も残すな!」

 

 皇甫嵩軍の兵たちが喊声を上げ、別の退路へ迫っていく。

 

 曹操軍もまた敗走兵を追っていた。

 

 各軍の攻勢によって黄巾党の退路は次々と塞がれ、行き場を失った者たちはさらに混乱を深めていく。

 

 張梁を失ったことで、黄巾党は統制を完全に失っていた。

 

 ある者は西へ向かい、ある者は南へ走り、またある者は武器を捨てて降伏を叫んだ。

 

 そのすべてを、凌天軍、皇甫嵩軍、曹操軍が追い立てていく。

 

 張梁の死は、黄巾党にとって敗北を告げる一撃となった。

 

 そしてその瞬間から、戦場は撤退ではなく、命を懸けた逃走と、それを許さぬ追撃の場へと変わっていた。

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