皇甫嵩の天幕には、主要な将たちが集まっていた。
中央には広宗周辺の地図が広げられている。
広宗城を中心に、黄巾軍の陣が広く展開している。
正面だけではない。
左右にも複数の陣が置かれ、それぞれの部隊が互いを支えられるよう配置されていた。
皇甫嵩は地図を見ながら口を開いた。
「敵は十万ほど」
「広宗を守るため、各所に兵を置いている」
曹操が地図へ目を落とす。
「正面を攻めれば、左右からも兵が動くでしょう」
「そうだ」
皇甫嵩は頷いた。
「だから、まず敵の動きを見たい」
皇甫嵩の視線が凌天へ向く。
「凌天殿」
「はい」
「明朝、そなたの軍に前へ出てもらう」
陳玄が地図を見る。
「黄巾の一部を誘い出すのでございますか」
「そうだ」
皇甫嵩は広宗西側の陣を指した。
「ここへ圧力をかける」
「敵がどれほどの兵を出してくるのかを見る」
「周囲の陣がどのように反応するのかも確認する」
凌天は地図を眺めた。
「分かった」
皇甫嵩は続ける。
「敵が大軍を出してきたなら、無理に押し込む必要はない」
「こちらも動きを合わせる」
「敵の配置が変われば、それに応じて次の手を考える」
陳玄が頷いた。
「承知しました」
「我らは凌天様の後方を支えます」
「敵の動きに合わせ、すぐ対応できるようにしておきます」
韓蒼も地図へ目を落とした。
「周囲の動きは私が見ます」
「援軍がどこから出てくるかも確認しておきます」
「ああ」
凌天が答えた。
高雷は大斧を担ぎ直す。
「俺は兄貴と前へ出る」
凌天が頷いた。
「ああ」
皇甫嵩は四人を見渡した。
「頼む」
◇
翌朝。
朝霧の残る中、凌天軍が陣を出た。
黒地金龍旗が朝風を受けて翻る。
凌天は黒馬に乗り、高雷たちがその後に続いた。
数千の兵が隊列を整え、広宗西側の黄巾陣へ向かって進んでいく。
やがて、黄巾軍の陣から太鼓が鳴り響いた。
ドン――。
ドン――。
黄色い旗が次々と動き始める。
韓蒼が前方を見据えた。
「敵が動きます」
凌天は紫霄祥龍を手に取った。
その姿が見えた瞬間、黄巾軍の一角から声が上がった。
「黒地金龍旗だ!」
「凌天だ!」
安平郡から逃れてきた兵たちが、凌天の姿を見つける。
「……あの男だ」
「信都県城で俺たちを破った……」
「本当にいるのか」
その声は、周囲の兵へ次々と伝わっていった。
だが、黄巾軍は止まらない。
前方の将が槍を掲げる。
「恐れるな!」
「敵は数千だ!」
「迎え撃て!」
黄巾兵が一斉に駆け出した。
万の兵が大地を揺らしながら迫ってくる。
凌天は紫霄祥龍を構えた。
高雷も大斧を構える。
「来るぞ、兄貴」
「ああ」
敵軍との距離が、一気に縮まった。
そして――
凌天軍と黄巾軍が激突した。
◇
激突した瞬間、戦場を轟音が包んだ。
盾と盾がぶつかり、槍が突き出される。
その最前線へ、凌天が踏み込んだ。
紫霄祥龍が横薙ぎに振り抜かれる。
鋼の刀身が走り、前列の黄巾兵がまとめて吹き飛んだ。
その後ろにいた兵まで巻き込まれ、隊列が大きく崩れる。
だが、万を超える黄巾兵は止まらない。
次から次へと兵が押し寄せる。
凌天は退かなかった。
再び紫霄祥龍が振るわれる。
今度は正面から迫った兵たちがまとめて薙ぎ払われた。
まるで、蟻の群れへ激流が叩き込まれたかのようだった。
黄巾兵の列が押し流される。
倒れた兵を越え、後続が前へ出る。
それでも凌天はさらに踏み込む。
紫霄祥龍が振るわれるたび、敵の隊列が崩れていく。
「押せ!」
「凌天様に続け!」
凌天軍も一斉に前へ出た。
高雷が大斧を振り回す。
「邪魔だ!」
大斧が兵の列を打ち崩し、その横から凌天軍の兵が雪崩れ込む。
黄巾軍の一角が大きく後退した。
「何だ……」
「止められない!」
「前へ出ろ!」
「無理だ!」
恐怖が前線へ広がっていく。
信都県城から逃れてきた兵たちは、目の前の光景に息を呑んでいた。
あの時と同じだった。
黒地金龍旗が翻る。
凌天が前へ出る。
そして、その周囲から黄巾兵が次々と倒れていく。
「また……始まった」
誰かが呟いた。
だが、後方から新たな部隊が押し寄せてくる。
万を超える軍勢の中から、さらに兵が前線へ投入されていく。
凌天はそれを見ても動じない。
ただ、向かってくる兵を迎え撃つ。
紫霄祥龍が唸る。
前列が崩れる。
また振るわれる。
さらに隊列が崩れる。
それでも黄巾兵は押し寄せる。
凌天の周囲だけ、戦場の流れが変わっていた。
黄巾軍が押せば、凌天が押し返す。
兵を増やせば、その兵ごと薙ぎ払われる。
数で押し潰そうとするほど、前線には倒れた兵が積み重なっていく。
やがて、黄巾軍の一角に大きな乱れが生じた。
「右翼が崩れています!」
韓蒼が叫ぶ。
陳玄は戦場を見渡した。
「敵は凌天様を止めるため、さらに兵を回しています」
「その分、周囲が薄くなっています」
韓蒼が頷く。
「左側の陣も動き始めました」
「敵は凌天様の軍を無視できなくなっています」
陳玄は静かに目を細めた。
「ならば、こちらの役目は果たせています」
その頃。
皇甫嵩の陣にも、次々と報告が届いていた。
「申し上げます!」
伝令が駆け込む。
「凌天軍と交戦している黄巾軍が、周囲の陣からも兵を集めております!」
「左翼の陣からも増援が動きました!」
皇甫嵩は地図へ目を落とした。
凌天軍のいる場所へ、黄巾軍の兵力が集中している。
その一方で、周辺の陣には明らかに兵の動きが生じていた。
曹操が地図を見ながら口を開く。
「凌天殿が敵を引きつけております」
「そのため、各陣の兵が動いているのでしょう」
皇甫嵩は頷いた。
「ならば、もう十分だ」
皇甫嵩は顔を上げる。
「伝令」
「はっ!」
「各軍に伝えよ」
「攻めるぞ」
伝令が天幕を飛び出していく。
直後、皇甫嵩軍の各陣で軍鼓が鳴り響いた。
旗が一斉に動く。
兵が進み始める。
広宗周辺に展開していた皇甫嵩軍が、ついに前へ出た。
その動きを見た黄巾軍の陣に、次々と動揺が走る。
凌天軍だけではない。
今度は、皇甫嵩軍そのものが迫ってきていた。
そして戦場は、一気に大きく動き始めた。
◇
皇甫嵩軍が一斉に前進した。
広宗周辺へ展開していた黄巾軍へ、各隊が攻撃を仕掛けていく。
黄巾軍の陣では、次々と伝令が走っていた。
「官軍が動いた!」
「左翼へ兵を回せ!」
「後方の部隊も前へ出せ!」
だが、すでに遅かった。
凌天軍へ兵を集中させたことで、黄巾軍の各陣には大きな隙が生まれていた。
その隙へ、皇甫嵩軍が一気に踏み込む。
太鼓が鳴り響く。
弓兵が一斉に矢を放つ。
その直後、歩兵が前進した。
黄巾軍も必死に迎え撃つ。
だが、凌天軍への対応に兵を割いたことで、皇甫嵩軍への対応が遅れていた。
その戦場を、曹操も見ていた。
皇甫嵩軍が動いたことで、黄巾軍の各陣が次々と対応を迫られている。
凌天軍へ兵を回せば、皇甫嵩軍に押し込まれる。
皇甫嵩軍へ兵を回せば、凌天軍がさらに前へ出る。
曹操はその状況を静かに見つめていた。
その視線の先では、黒地金龍旗が翻っている。
凌天軍は未だに万を超える黄巾兵を相手にしていた。
それでも、その勢いは衰えていない。
曹操はしばらく凌天の姿を見つめた。
そして、自らの兵へ視線を戻す。
「我らも動くぞ」
「はっ!」
曹操軍も動き始めた。
皇甫嵩軍とは別の戦線へ兵を進め、崩れ始めた黄巾軍へ圧力を加えていく。
一方、凌天軍の前では、いまだに激しい戦いが続いていた。
凌天は紫霄祥龍を振るう。
黄巾兵がまとめて薙ぎ払われる。
倒れた兵を踏み越え、後続が押し寄せる。
それでも凌天は前へ進んだ。
高雷が大斧を振り抜く。
「まだ来るぞ!」
「ならば、倒すだけだ」
凌天軍の兵たちも声を上げる。
「押せ!」
「退くな!」
黄巾軍の前線がさらに後退する。
その背後では、皇甫嵩軍との戦闘も激しくなっていた。
黄巾軍は凌天軍へ兵を送り続ければ、皇甫嵩軍に押し込まれる。
皇甫嵩軍へ兵を回せば、凌天軍がさらに前へ出る。
黄巾軍の指揮系統に迷いが生じ始めていた。
陳玄はその状況を見ていた。
「敵は、もう凌天様と皇甫嵩軍の両方を止められません」
韓蒼が頷く。
「凌天様の軍を抑えようとすれば、皇甫嵩軍が入り込む」
「皇甫嵩軍を止めようとすれば、こちらがさらに前へ出る」
陳玄は戦場を見渡した。
「このまま押し切れます」
その時、前方から黄巾軍の新たな部隊が現れた。
先頭には大きな黄色い旗。
数千の兵が凌天軍へ向かって進んでくる。
高雷が大斧を構えた。
「また来たか」
凌天は紫霄祥龍を握り直す。
「ならば、叩き潰す」
黄巾兵が一斉に突撃した。
凌天が踏み込む。
紫霄祥龍が大きく振り抜かれた。
先頭の兵がまとめて吹き飛ぶ。
そのまま凌天軍が前へ出る。
黄巾軍の隊列が崩れた。
さらに皇甫嵩軍が押し込む。
その一方、別の戦線では曹操軍も黄巾軍へ攻め込んでいた。
黄巾軍の一つの陣が耐え切れず、後退を始めた。
「退くな!」
「持ち場を守れ!」
だが、兵たちは止まらない。
後退する兵が増えていく。
やがて、別の陣でも兵が下がり始めた。
さらにその隣でも、黄色い旗が後方へ動く。
「退け!」
「後ろへ下がれ!」
叫び声が次々と上がる。
広宗周辺に展開していた黄巾軍の陣が、あちこちで崩れ始めていた。
崩れ始めた黄巾軍の陣は、もはや元の形を保てなくなっていた。
退く部隊。
踏みとどまる部隊。
後方から前へ出ようとする部隊。
それぞれの動きが噛み合わず、戦場のあちこちで兵が入り乱れている。
「右の陣が下がっています!」
「中央へ兵を回せ!」
「中央へ回せば左翼が持ちません!」
黄巾軍の将たちも必死に命令を飛ばす。
だが、すでに命令だけでは戦場を支えられなくなっていた。
凌天軍が前へ出る。
その勢いに押され、黄巾兵が後退する。
そこへ皇甫嵩軍が突入する。
さらに離れた場所では、曹操軍が黄巾軍の側面を押し込んでいた。
黄巾軍は三つの戦線で同時に戦わされている。
「前へ出ろ!」
「敵を押し返せ!」
黄巾軍の将が叫ぶ。
しかし、兵たちは前へ出ない。
目の前には、黒地金龍旗がある。
その下で紫霄祥龍を振るう凌天の姿が見える。
「……また、あの男だ」
「近づくな!」
「凌天を避けろ!」
その声が周囲へ広がる。
だが、避けようとすれば隊列に隙が生まれる。
そこへ凌天軍が入り込んだ。
「押せ!」
高雷が吠える。
凌天軍が一気に踏み込む。
凌天の紫霄祥龍が横薙ぎに走る。
前列が崩れる。
その隙間へ、さらに兵が入り込む。
凌天は止まらない。
一歩。
また一歩。
そのたびに黄巾軍の戦線が後ろへ押し込まれていく。
「凌天軍が抜けてきます!」
「止めろ!」
「無理です!」
「ならば左右から囲め!」
黄巾兵が凌天軍を包もうと動く。
だが、その動きに合わせて皇甫嵩軍がさらに前へ出た。
「敵の側面が空いたぞ!」
「進め!」
官軍が突入する。
黄巾軍の部隊が横から崩された。
さらに曹操軍も別の場所で攻撃を強める。
「敵が乱れている!」
「今だ、押し込め!」
曹操軍が前進する。
黄巾軍は完全に後手へ回っていた。
その頃、黄巾軍の後方では、さらに大きな動きが起きていた。
前線から逃げ戻る兵が増えている。
「前線が破られた!」
「官軍が迫っている!」
「凌天軍も来ているぞ!」
報告を聞いた将たちの表情が変わる。
「張梁様へ報告しろ!」
「すぐにだ!」
伝令が駆け出していく。
その頃。
黄巾軍の本陣。
張梁のもとにも、次々と報告が届いていた。
「右翼が崩れました!」
「左翼にも官軍が入り込んでいます!」
「中央では凌天軍が前進を続けています!」
張梁は険しい表情で戦場を見た。
遠くに見える黒地金龍旗。
その旗が、確実に近づいている。
「……凌天」
張梁の口から、その名が漏れた。
信都県城から逃げてきた兵たちが恐れていた男。
その男が、今度は自分の軍を正面から押し崩している。
「兵を中央へ集めろ!」
張梁が命じる。
「凌天軍をここで止める!」
だが、その直後。
別の伝令が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「皇甫嵩軍が本陣へ向けて進んでおります!」
張梁の顔が強張る。
さらに別の場所から声が上がった。
「曹操軍も動いています!」
張梁は周囲を見渡した。
前には凌天軍。
左には皇甫嵩軍。
そして右から曹操軍。
広宗周辺を埋め尽くしていた黄巾軍は、三方から押し込まれ始めていた。
◇
黄巾党の本陣。
張梁は険しい表情で戦場を見渡した。
「……このままでは本陣まで来るか」
側にいた将が頷く。
「このままでは持ちません」
「各陣の兵を集めますか」
張梁は首を横に振った。
「無理だ」
「すでに各所で官軍と戦っている」
「ここへ兵を集めれば、他の陣が完全に崩れる」
張梁はしばらく戦場を見つめた。
「撤退する」
将たちが顔を上げる。
「撤退……ですか」
「ああ」
「広宗を捨てるおつもりで?」
「捨てるのではない」
張梁は答えた。
「今は兵を残すことが先だ」
「このまま戦えば、黄巾党の兵がここで滅ぼされる」
「生き残った兵をまとめれば、まだ戦える」
将の一人が地図を広げた。
「では、どちらへ?」
張梁は地図へ目を落とした。
南へ抜ける道がある。
だが、そこへ向かうには凌天軍の前を横切る必要がある。
西側には、官軍の総大将である皇甫嵩の軍が展開していた。
張梁は西を指した。
「皇甫嵩軍を抜ける」
将たちが顔を見合わせる。
「しかし、皇甫嵩軍もかなりの兵力です」
「分かっている」
張梁は答えた。
「だが、凌天軍の正面を通るよりはいい」
「凌天の軍とまともにぶつかれば、撤退どころではなくなる」
張梁は立ち上がった。
「各部隊へ撤退を命じる」
「凌天軍とは正面から戦うな」
「皇甫嵩軍の戦線を突破する」
「一人でも多く逃がせ」
「はっ!」
伝令が一斉に走り出した。
黄巾党の各所で、撤退の命令が伝えられていく。
「退け!」
「西へ向かえ!」
「凌天軍とは戦うな!」
「皇甫嵩軍を突破しろ!」
黄色い旗が次々と向きを変える。
それまで凌天軍へ向かっていた兵たちが、少しずつ戦場から離れ始めた。
しかし、凌天はその動きを見逃さなかった。
韓蒼が馬を寄せる。
「元覇」
「ああ」
「敵が退き始めました」
凌天は前方を見る。
黄色い旗が、こちらから離れていく。
「追うか?」
高雷が大斧を担いだ。
凌天は首を横に振る。
「いや」
「皇甫将軍の軍がいる」
陳玄が戦場を見渡した。
「皇甫嵩軍が退路を塞いでおります」
「黄巾党は、あちらへ向かうしかありません」
「ああ」
凌天は紫霄祥龍を肩へ担いだ。
「逃げる者を追い回すより、目の前の敵を討て」
「承知しました」
凌天軍はその場で戦線を維持した。
その頃。
黄巾党の撤退部隊は、皇甫嵩軍の戦線へ近づいていた。
「前方に官軍!」
「構うな!」
「そのまま突破しろ!」
張梁自身も馬を走らせていた。
周囲には、まだ数千の兵が残っている。
だが、その隊列は乱れていた。
負傷した兵。
武器を失った兵。
仲間を探す兵。
それでも、誰もが必死に西へ向かっていた。
やがて前方に、皇甫嵩軍の旗が見えてくる。
「皇甫嵩軍です!」
張梁が顔を上げた。
「止まるな!」
「一気に抜ける!」
黄巾党の兵が速度を上げる。
皇甫嵩軍もそれを確認した。
「黄巾党がこちらへ向かってきます!」
「数は!」
「数千!」
報告を受けた皇甫嵩が馬を進める。
「退路を塞げ」
「逃がすな」
皇甫嵩軍が隊列を組む。
盾兵が前へ出る。
その後ろに槍兵が並ぶ。
黄巾党が迫る。
「退け!」
「突破するぞ!」
張梁が叫ぶ。
黄巾党の兵が一斉に突撃した。
両軍が激突する。
盾がぶつかる。
槍が交差する。
黄巾党の兵が必死に押し込もうとする。
だが、皇甫嵩軍は崩れない。
「押し返せ!」
「敵を止めろ!」
皇甫嵩軍が反撃する。
黄巾党の先頭が次々と倒れていく。
張梁は歯を食いしばった。
「まだだ!」
「ここを抜けろ!」
張梁自身が前へ出る。
槍を振るい、官軍の兵を押し退ける。
その姿を見た皇甫嵩が目を細めた。
「……あの男」
周囲の兵へ尋ねる。
「黄巾党の将は誰だ」
「分かりません!」
「だが、あの者が撤退を指揮しております!」
皇甫嵩は張梁を見つめた。
「そうか」
皇甫嵩は馬を進める。
張梁も、前方から近づいてくる皇甫嵩の姿に気づいた。
皇甫嵩は張梁の前で馬を止める。
「お前が、この軍の指揮を執っているのか」
張梁は槍を構えたまま答えた。
「ああ」
「ならば、名を名乗れ」
張梁は皇甫嵩を睨みつける。
「張梁だ」
皇甫嵩の表情が僅かに変わった。
「……張梁」
「張角の弟、張梁か」
「そうだ」
張梁は答えた。
「兄上の弟、張梁だ」
皇甫嵩は周囲へ視線を向けた。
広宗を埋め尽くすほどの黄巾党。
その数は十万にも及ぶ。
皇甫嵩は再び張梁へ視線を戻した。
「妙だな」
「何がだ」
「この軍は十万に及ぶ」
「だが、お前一人でこれほどの兵を率いているわけではあるまい」
張梁は黙っている。
皇甫嵩は続けた。
「張角が広宗にいるという情報は、こちらにも届いていた」
「だからこそ、私はこの地へ来た」
「だが、戦が始まってから今まで、張角の姿は一度も見ていない」
張梁の目が僅かに動いた。
皇甫嵩はその反応を見逃さなかった。
「そして今、目の前にいるのは張梁」
「張角本人ではない」
皇甫嵩はしばらく張梁を見つめた。
「……まさか」
「張角は、すでに死んでいるのではないか」
周囲の黄巾党の兵がざわめいた。
張梁の表情が険しくなる。
だが、答えは返さない。
皇甫嵩は静かに問い直した。
「どうなのだ」
張梁はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答える。
「兄上は……もう戦えない」
皇甫嵩の目が細くなる。
「病か」
「ああ」
「この戦が始まる前から、兄上の身体は限界だった」
張梁は拳を握る。
「それでも兄上は、最後まで黄巾党の行く末を案じていた」
皇甫嵩は張梁を見据えた。
「死んだのか」
張梁は答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
皇甫嵩は小さく息を吐く。
「そうか……」
「張角は、もうこの世にはいないのだな」
張梁の目に怒りが宿る。
「だが、それで黄巾党が終わったと思うな」
「兄上が残したものは、まだここにある」
張梁は周囲の兵を見渡した。
「この兵たちも、兄上の志もな」
皇甫嵩は静かに首を横に振った。
「志、か」
「その志のために、どれだけの民が死んだ」
張梁の眉が動く。
「朝廷が民を苦しめてきた」
「だから兄上は立ち上がった」
「貧しい者たちを救うためにな」
皇甫嵩は張梁を見据えた。
「ならば問おう」
「何故、村を焼いた」
「何故、略奪を許した」
「何故、戦う意思のない民まで巻き込んだ」
張梁は答えない。
皇甫嵩は続けた。
「大義を掲げることは容易い」
「だが、戦を始めた以上、その結果から逃げることはできぬ」
張梁は皇甫嵩を睨みつける。
「逃げているのは、お前たちも同じではないか」
「朝廷の腐敗を見ながら、何も変えられなかった」
皇甫嵩の目が細くなる。
「……朝廷には、朝廷の事情がある」
「戦場にいる我らには、すべてを知ることはできぬ」
「だが、だからといって、己の判断だけで朝廷の命を退けるわけにはいかぬ」
「私は官軍を率いる将だ」
「その立場にある以上、私には私の務めがある」
張梁は一瞬黙った。
やがて槍を構え直す。
「ならば、俺たちは俺たちの道を行く」
「ここを通らせてもらう」
皇甫嵩は剣を構えた。
「それはできぬ」
張梁の目に殺気が宿る。
「ならば――」
槍を構える。
「力ずくで通る!」
張梁が馬を走らせる。
皇甫嵩も馬を進めた。
二人の距離が一気に縮まる。
張梁の槍が突き出された。
皇甫嵩は身を逸らしてかわす。
槍が空を切る。
張梁が槍を引く。
その瞬間、皇甫嵩の剣が走った。
張梁が身を捻る。
だが、避けきれない。
「ぐっ……!」
張梁の身体が揺れる。
それでも槍を離さない。
「まだだ!」
張梁が再び槍を振るう。
皇甫嵩は受け流す。
そして、間合いへ踏み込んだ。
「終わりだ、張梁」
剣が振り抜かれる。
張梁の身体が大きく揺れた。
槍が地面へ落ちる。
張梁は馬上で身体を支えようとした。
だが、力が入らない。
「……兄上……」
小さく呟いた。
その身体が、ゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
「張梁様!」
黄巾党の兵たちから叫び声が上がった。
「張梁様が討たれた!」
「退け!」
「逃げろ!」
張梁の討死を見た黄巾党の兵たちの戦意が、一気に崩れた。
皇甫嵩は剣を掲げる。
「敵将、張梁!」
「漢王朝左中郎将、皇甫嵩が討ち取った!」
その声が戦場へ響き渡った。
◇
その声が、血と土煙に覆われた戦場へ響き渡った。
張梁の討死を目の当たりにした兵たちが、恐怖に引きつった声で叫ぶ。
「張梁様が討たれた!」
「将軍が死んだぞ!」
最初は一部の兵が発した叫びだった。だが、それを聞いた者たちが周囲へ伝え、さらに別の兵が声を張り上げる。将を失ったという報せは、波紋のように黄巾党の陣中へ広がっていった。
「張梁様が死んだ!」
「もう持たないぞ!」
「誰が指揮を執るんだ!」
それまで張梁の命令に従って戦っていた兵たちの間に、激しい動揺が走った。
前線では敵と刃を交えていた兵が振り返り、後方では指揮を待っていた部隊がざわめき始める。
誰もが次の命令を求めたが、それを下す者はもういなかった。
張梁から事前に撤退を命じられていた部隊は、報せに動揺しながらも、必死に命令を守ろうとした。
「西へ退け!」
「張梁様の命令だ!」
「隊列を崩すな! 西へ向かえ!」
だが、指揮官を失った兵たちは、もはや整然と退くことさえできなかった。
退路へ向かう部隊と、恐怖に駆られて別方向へ走る者が入り乱れ、味方同士がぶつかり合う。
倒れた者を助け起こす余裕もなく、武器を捨てて駆け出す兵まで現れた。
一方、凌天軍や曹操軍と交戦していた部隊では、将を失った衝撃がさらに早く隊列を崩していった。
「将軍が討たれたぞ!」
「退け! もう戦えない!」
「ここにいたら殺される!」
前線の一角で兵が背を向けると、その動きは瞬く間に周囲へ広がった。
踏みとどまろうとする者もいたが、押し寄せる味方に巻き込まれ、陣形はたちまち崩壊する。
黄巾兵たちは武器を振るうことも忘れ、ただ生き延びるために戦場から離れていった。
その背後から、凌天は散り散りになる敵兵を見渡した。
黄巾党はすでに戦う集団ではなく、追われる群れへと変わっている。
だが、ここで見逃せば、再び集結して抵抗する可能性があった。凌天は一瞬も迷わなかった。
「追撃する」
短い命令が、張り詰めた空気を切り裂いた。
陳玄がすぐさま兵たちへ向き直る。
「追撃せよ!」
号令と同時に、凌天軍が一斉に駆け出した。
騎兵が敗走する敵の側面へ回り込み、歩兵が崩れた隊列へ食らいつく。
土煙が巻き上がり、怒号と馬蹄の音が戦場をさらに激しく揺さぶった。
追われる兵たちは、背後から迫る敵の気配に振り返る。
「来るぞ!」
「もっと早く走れ!」
「道を空けろ!」
だが、退路には味方が殺到し、進むことさえままならない。
押し合い、転倒し、踏みつけられる者が続出する。
その混乱に乗じて、凌天軍の刃が次々と黄巾兵を捉えていった。
同じ頃、皇甫嵩軍も黄巾党への追撃を開始していた。
「逃がすな! 一人も残すな!」
皇甫嵩軍の兵たちが喊声を上げ、別の退路へ迫っていく。
曹操軍もまた敗走兵を追っていた。
各軍の攻勢によって黄巾党の退路は次々と塞がれ、行き場を失った者たちはさらに混乱を深めていく。
張梁を失ったことで、黄巾党は統制を完全に失っていた。
ある者は西へ向かい、ある者は南へ走り、またある者は武器を捨てて降伏を叫んだ。
そのすべてを、凌天軍、皇甫嵩軍、曹操軍が追い立てていく。
張梁の死は、黄巾党にとって敗北を告げる一撃となった。
そしてその瞬間から、戦場は撤退ではなく、命を懸けた逃走と、それを許さぬ追撃の場へと変わっていた。