広宗を制した官軍は、勝利の余韻に浸る間もなく戦後の処理に追われていた。
逃げた黄巾兵の追跡。
捕虜の確保。
武器や兵糧の回収。
そして、張角の行方を探すこと。
張梁は皇甫嵩の手によって討ち取られた。
その張梁から、皇甫嵩は張角がすでに病死していることを聞いていた。
だが、張角がどこに葬られたのかまでは分からない。
そこで、捕らえた黄巾兵への尋問が始まった。
凌天が陳玄と共に自軍の陣へ戻ろうとしていた時だった。
天幕の方から、鈍い音が響いた。
続いて、苦痛に耐えるような呻き声が漏れる。
風が吹くたび、炙った鉄のような臭いが流れてくる。
天幕の外に立つ兵たちも、誰一人として中を覗こうとはしなかった。
しばらくして、再び鈍い音が響く。
その後も尋問は続いた。
夜になっても終わらず、天幕から明かりが消えることはなかった。
やがて、捕虜の一人が張角の墓の場所を明かした。
広宗の外れにある丘の裏。
案内役の兵が決められ、すぐに墓を探す準備が始まった。
◇
その日の夕刻。
張角の墓を探すため、皇甫嵩の軍勢が広宗を出た。
凌天は同行しなかった。
自軍の兵糧や捕虜の整理、負傷兵の処置など、まだ片付けるべきことが残っていたからだ。
皇甫嵩が戻ってきたのは、それから二日後のことだった。
◇
皇甫嵩の陣を訪れた凌天は、戻ったばかりの皇甫嵩と顔を合わせた。
「皇甫嵩将軍」
「おお、凌天か」
「張角の墓は?」
「あった」
皇甫嵩は淡々と答えた。
「遺体も確認した。張梁の言った通り、病死だった」
「そうですか」
「ああ」
皇甫嵩は腰を下ろした。
「反乱を起こした首魁だ。死んでいたとしても、そのままにはできぬ」
「首級を洛陽へ?」
「うむ」
皇甫嵩は短く答えた。
「朝廷へ、張角が死んだことを知らせる」
そして部下へ命じた。
「張角の首を洛陽へ送れ」
「はっ!」
◇
翌日。
張角の首級を載せた使者が、洛陽へ向けて出発した。
広宗では、なお戦後の処理が続いていた。
しかし――黄巾の戦いは、まだ終わっていなかった。
同じ頃。
荊州南陽郡、宛城。
ここでも黄巾との戦いが続いていた。
宛城はすでに官軍の手に落ちている。
その際、孫堅と義勇軍の劉備は趙弘、韓忠を討ち取っていた。
だが、孫夏と共に行動しなかった黄巾の残党が、なお各地に残っていた。
そこで朱儁は、孫堅と劉備に残敵の掃討を命じていた。
二人が残敵を追っている間に、自らは孫夏の籠もる精山を攻略する。
孫夏を討ち取れば、自身も大きな戦功を立てられる。
朱儁はそう考えていた。
だが――
あと少しで山を攻略できるというところで、状況が変わった。
冀州から張宝が三万の兵を率いて現れたのである。
張宝は孫夏の軍と合流すると、精山の峡谷を利用して防衛線を築いた。
朱儁はすぐに攻撃を仕掛けた。
張宝を討てばいい。
そうすれば、張宝と孫夏の両方を倒した大功になる。
だが、現実は甘くなかった。
峡谷は狭く、大軍を送り込めない。
兵を進めれば、両側から攻撃される。
何度攻めても、黄巾軍の防衛線を崩すことができなかった。
今日も宛城では軍議が開かれていた。
朱儁は地図を睨みつける。
「……どうしたものか」
このまま張宝を倒せなければ、戦功を立てるどころか、自らの立場まで危うくなる。
その時だった。
「申し上げます!」
一人の兵が軍議の場へ駆け込んできた。
「只今、黄巾党の残敵掃討を終えた孫文台様並びに、義勇軍の劉玄徳殿が戻られました!」
「なにっ!」
朱儁が立ち上がる。
「孫堅と劉備が来たと!」
その顔に、喜びが広がった。
「はっはっは! 良いところに来てくれた!」
朱儁は大きく笑った。
「孫堅とあの義勇軍が来てくれれば、勝機はある!」
すぐに兵へ命じる。
「良し。直ちに二人を通せ」
「はっ!」
「丁重にな」
「はっ!」
「それから、酒と肉を大量に用意しろ。孫堅の軍にも、義勇軍にも振る舞うのだ」
「はっ!」
ほどなくして、孫堅率いる軍と劉備の義勇軍が宛城へ入った。
用意された酒と肉を見た張飛は、明らかに目の色を変えた。
「おお……!」
張飛の視線が、並べられた肉から離れない。
関羽は周囲を見渡した。
これまでとは明らかに違う扱いだった。
何かある。
そう感じたのは、劉備も同じだった。
だが、劉備は孫堅と共に軍議へ来るよう命じられている。
「翼徳、雲長。ここは任せる」
「おう」
「承知しました」
劉備は孫堅と共に軍議の場へ向かった。
◇
「よく来てくれた、孫堅」
朱儁は孫堅の手を取り、労うように振った。
「君の活躍は、私の耳にも届いているぞ」
「ありがとうございます」
孫堅は頭を下げた。
「残敵の掃討も一段落しましたので、朱儁殿のお手伝いに参りました」
「おお、そうか!」
朱儁は満足そうに頷いた。
「実に良いところへ来てくれた。ちょうど君に任せたい仕事がある」
「何なりと」
「それは後ほど説明しよう」
朱儁は劉備へ目を向けた。
「劉備殿」
「は、はい!」
思いがけず声を掛けられ、劉備が姿勢を正す。
「貴殿も幾度もの戦で功を立てている。今や一廉の武人と言ってよい」
「恐れ入ります」
「どうか、その力を貸していただきたい」
「私でよろしければ、喜んで」
「そうか!」
朱儁の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがたい。では、これより任せるところを説明しよう」
朱儁は二人へ席を示した。
劉備と孫堅が座る。
朱儁は地図を広げた。
「この先にある精山に、張宝と孫夏が籠もっている」
「張宝ですか」
孫堅が地図を見る。
「そうだ」
朱儁は峡谷を指した。
「奴はここに兵を置き、我らの攻撃を何度も退けている」
「そこで、貴殿らに先鋒を任せたい」
「承知しました」
孫堅が答える。
劉備も頷いた。
「私も従います」
「頼んだぞ」
朱儁は二人を見た。
「此度の戦で張宝を討てば、大きな戦功になる」
その言葉を聞き、劉備の表情が僅かに変わった。
そして朱儁は、もう一つの話を切り出した。
「それと、劉備殿」
「はい」
「貴殿の師、盧植殿のことだ」
劉備の目が見開かれる。
「盧植殿は罪人として捕らえられていると聞いた」
「……はい」
「此度の戦で功を立てれば、皇甫嵩殿とも話を通し、朝廷へ釈放を取り計らおう」
「本当ですか!」
「無論だ」
「それだけではない。相応の官職についても取り計らおう」
劉備は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
朱儁は満足そうに頷いた。
「では、頼むぞ」
「はっ!」
こうして、張宝討伐の軍議が決まった。
翌朝。
官軍は宛城を出発した。
先鋒は孫堅率いる三千。
その後ろに劉備率いる義勇軍千。
さらに朱儁から預かった五千が続く。
総勢九千。
後詰として、朱儁率いる二万の官軍も続いていた。
整然と並ぶ軍旗を振り返り、劉備は小さく息を吐いた。
「玄徳殿。どうされた?」
隣を進む孫堅が尋ねる。
「いえ……」
劉備は苦笑した。
「義勇軍の将となったものの、借りた兵とはいえ、これほどの兵を率いるのは初めてでして」
「そうか」
孫堅が笑う。
「だが、お主も天下に名を轟かせている豪傑だ。一万ほどの兵で感慨に耽っていてはいかん」
「そうでしょうか?」
「うむ」
孫堅は前を向いた。
「悲しいかな。この先も戦乱がなくなるとは思えん」
「いつの日か、お主も数十万の兵を率いることになるかもしれん」
「そういう時こそ、感慨に耽ればよい」
劉備は苦笑する。
「はぁ……出来ることなら、そうなってみたいものですな」
「その意気だ」
孫堅は劉備の背中を叩いた。
「お主は孟徳殿と同じく見込みがある」
「お主なら、我が娘を任せてもよいと思うぞ」
「……は?」
劉備が目を丸くする。
孫堅は豪快に笑った。
「はっはっは!」
劉備は何とも言えない顔をした。
ひとしきり笑った後、孫堅は真面目な顔に戻る。
「それに、此度の戦で勝てば、朱儁殿が貴殿の師を釈放するよう取り計らってくださるのだろう」
「はい」
劉備の表情が引き締まった。
「師匠を助けるためにも、何としても戦功を立てねばなりません」
「その心意気だ」
孫堅は頷いた。
「この孫文台も、及ばずながら力添え致す」
「ありがとうございます、文台殿」
劉備は前を向いた。
その先にあるのは、張宝が籠もる精山だった。
◇
宛城を出て二日。
劉備たちは精山へ到着した。
「ここが精山か」
劉備が山を見上げる。
「思ったより小さいな」
孫堅も目を細めた。
だが、山へ続く道の先には峡谷があった。
そこへ入った瞬間、戦場の跡が目に入る。
地面には黒く固まった血。
無数の矢。
折れた槍。
破れた旗。
石にまで血が付着している。
道の脇では、烏が何かを啄んでいた。
劉備は峡谷の奥を見た。
「……ここを正面から攻めたのですか」
「ああ」
孫堅が答える。
「そして、何度も退けられた」
劉備は峡谷を見渡した。
「これでは大軍を展開できませんな」
「うむ」
「ならば、別の道を探すしかありません」
その時だった。
「兄者!」
張飛が声を上げた。
「俺に考えがある!」
劉備と関羽が顔を見合わせる。
張飛がこういうことを言い出すのは珍しかった。
「何だ?」
「この峡谷を通れば攻撃されるんだろ?」
「ああ」
「だったら、通らなきゃいい!」
関羽が眉を寄せる。
「……どういう意味だ?」
張飛は峡谷脇の崖を指差した。
「ここを登るんだ!」
「崖を?」
「ああ!」
張飛は胸を張る。
「敵は峡谷から来ると思っている。なら、崖を越えて後ろから攻めればいい!」
孫堅が崖を見上げた。
ほぼ垂直の絶壁だった。
「なるほど」
孫堅は笑う。
「確かに正面よりは勝機がある」
「では、この策で参りましょう」
劉備も頷いた。
孫堅はすぐに兵を分けた。
「大栄」
「はっ」
「千の兵を率いて玄徳殿に従え」
「承知しました」
こうして劉備たちは崖を登ることになった。
◇
官軍五千を峡谷の入口に残し、時折、鬨の声を上げさせる。
その間に、劉備たちは崖へ取り付いた。
だが――
「う、うわああああっ!」
一人の兵が足を滑らせた。
身体が崖から離れ、そのまま落下する。
ドサッ。
地面に叩きつけられ、動かなくなった。
登っていた兵たちの顔が強張る。
「気を抜くな!」
劉備が声を掛ける。
「足場を確かめろ!」
それでも、犠牲は続いた。
足を滑らせる者。
崩れた岩に巻き込まれる者。
途中で動けなくなる者。
それでも劉備たちは登り続けた。
そして、ようやく崖の上へ辿り着く。
張飛が息を切らしながら笑った。
「どうだ、兄者! 俺の策も捨てたもんじゃねえだろ!」
関羽が呆れたように見る。
「たまにはな」
「たまにはって何だよ!」
周囲から小さな笑いが起きた。
その時、祖茂が姿を現した。
「玄徳殿」
「大栄殿!」
「無事で何より」
祖茂は劉備たちを見渡した。
「さて、ここからだ」
劉備が頷く。
「敵陣を挟撃するのですな」
「その通り」
祖茂は前方を指した。
「我らが後方を攻める。玄徳殿は正面へ回り、張宝を狙われよ」
「分かりました」
「では、火を上げる」
祖茂は兵を率いて離れていった。
◇
数刻後。
劉備たちは林の中に身を潜めていた。
目の前には黄巾軍の陣地がある。
張飛が矛を握りしめる。
「まだか……」
「落ち着け、翼徳」
関羽が制する。
「合図を待て」
その時だった。
遠くで火の手が上がった。
続いて、怒号が響く。
「今だ!」
劉備が立ち上がる。
「全軍、攻撃!」
「おおおおおおお!」
張飛が真っ先に飛び出した。
「義勇軍の張飛翼徳、ここにあり!」
矛を振るい、黄巾兵を次々と打ち倒していく。
劉備たちも続く。
後方からは祖茂の軍が襲いかかっている。
挟撃された黄巾軍はたちまち混乱した。
「敵はどこから来た!」
「後ろだ!」
「正面にも敵がいるぞ!」
指揮系統が乱れ、兵たちが右往左往する。
その中を、張宝が馬上から見渡していた。
「くっ……!」
張宝が歯を食いしばる。
「何故、ここまで入り込まれた!」
その時。
ヒュッ!
一筋の矢が飛んだ。
馬の首に突き刺さる。
「ヒヒィィン!」
馬が倒れ、張宝は地面へ投げ出された。
「ぐっ!」
腰を強く打つ。
それでも張宝は立ち上がり、剣を抜いた。
その前に、劉備が立つ。
「黄巾の将か!」
「如何にも!」
張宝が叫ぶ。
「我こそは地公将軍、張宝!」
「ならば名乗ろう」
劉備は剣を構えた。
「義勇軍の将、劉備玄徳!」
「義勇軍だと?」
張宝が睨む。
「何故、我らと戦う!」
「貴様らが民を巻き込み、村を焼き、田畑を荒らしたからだ!」
「何を!」
張宝が斬りかかる。
劉備も剣を合わせた。
剣戟が響く。
幾度も刃が交わる。
だが、張宝は腰を打った痛みに顔を歪めた。
一瞬。
動きが止まる。
劉備はその隙を逃さなかった。
「そこだ!」
剣を突き出す。
刃が張宝の身体を貫いた。
「ぐっ……!」
張宝は血を吐いた。
劉備が剣を引き抜く。
張宝は数歩よろめいた。
そして、そのまま地面へ倒れた。
動かない。
関羽と張飛が駆け寄る。
「やったな、兄者!」
「兄者、勝ち名乗りを!」
劉備は血の付いた剣を見つめた。
そして、顔を上げる。
「敵将、張宝!」
剣を掲げる。
「劉備玄徳が討ち取った!」
「おおおおおおお!」
義勇軍から歓声が上がった。
ほどなくして黄巾軍の掃討も終わった。
張宝。
そして、その配下で精山を守っていた孫夏。
二人の首級が取られ、残った黄巾兵も多数が捕虜となった。
◇
宛城。
朱儁のもとへ、戦場からの報告が届いた。
「申し上げます!」
「張宝は討ち取られました!」
朱儁が立ち上がる。
「何だと!」
「討ち取ったのは劉備玄徳殿!」
朱儁の顔に笑みが広がった。
「そうか……!」
張宝の首級を確認すると、朱儁はすぐに使者を呼んだ。
「これを洛陽へ届けよ」
「張宝の首級を?」
「そうだ」
朱儁は頷いた。
「我らが南陽を平定し、張宝を討ち取ったと報告せよ」
「はっ!」
使者は張宝の首級を携え、洛陽へ向かった。
◇
その報告が届いたのは、それから間もなくのことだった。
「張宝討伐の報告が入りました!」
広宗の皇甫嵩の陣にも、その知らせが届く。
皇甫嵩は報告を聞き、短く頷いた。
「そうか」
陳玄もその場にいた。
「これで張氏三兄弟は、すべて倒れましたな」
皇甫嵩は頷く。
「だが、黄巾の残党が消えたわけではない」
「各地の掃討には、まだ時間がかかろう」
陳玄は頷いた。
広宗の戦いはすでに終わっている。
あとは戦後の処理と、各地に散った黄巾の残党への対応が残されていた。