キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第一話 かなりうざい男

 

 百鬼夜行連合学院のメインストリートは、今日も無責任なほどに賑わっていた。

 

 石畳の通りにはカラン、コロンと軽やかな下駄の音が響き、頭上には赤や白の提灯が連なって晴天の空を彩っている。

 

 風が吹き抜けるたびに、どこからか舞い込んできた桜の花びらが視界を横切り、軒先に吊るされた風鈴が涼しげな音を立てていた。

 

「あ、あそこの屋台の新作スイーツ、もう食べた?」

 

「まだ! この後一緒に行こうよ!」

 

「次のお祭りの準備、どうする? うちの部活、今年は出店しようって話になっててさ」

 

 色鮮やかな和傘を広げた茶屋、狐のお面を並べた土産物屋、そして甘辛いみたらし団子や香ばしい焼き鳥の匂いが、通り全体を熱気とともに包み込んでいる。

 すれ違う生徒たちの他愛のない会話や笑い声は絶えることがなく、まるでこの街のすべてが、永遠に続くお祭り騒ぎの中にあるようだった。

 

「……平和なものね」

 

 私は、通りから少し外れた路地の入り口で、その喧騒を冷ややかに見つめていた。

 百花繚乱紛争調停委員会──この学院の治安維持を担うはずの私たちの組織は、今、事実上の解散状態にある。委員長は姿を消し、メンバーは散り散りになり、私自身も作戦参謀としての居場所と役割を失っていた。

 

「ねえ、そういえば最近、調停委員会の人たち見なくない?」

 

「えー、そう? まあ、平和だから出番がないだけでしょ。それより聞いてよ、この前の小テストがさ……」

 

 遠くから風に乗って聞こえてきた何気ない会話の切れ端が、私の耳に鋭く突き刺さる。

 街は何も変わらない。誰も百花繚乱の喪失に気づいていないどころか、私たちの存在すらも日常の端へと追いやられているかのようだった。

 

 論理的に考えれば、外部の生徒が裏事情を知らないのは当然だ。だが、それでも──私たちが誇りを持って守ってきたものが、実は誰にも必要とされていなかったのではないかという錯覚が、胸の奥を冷たく締め付けている。

 煌びやかな街の光が強ければ強いほど、日陰に立つ私の影は、ひどく孤独に、そして暗く沈んでいくようだった。

 

「……」

 

 その場に立ち尽くしているのにも耐えきれなくなり、私は賑やかな大通りに背を向けた。

 

 入り組んだ裏路地を抜け、さらに奥へ。喧騒が遠ざかった先に、古びた空き家がひっそりと佇んでいる。

 手入れもされず放置された廃屋だが、南向きの縁側にはぽっかりと、周囲の建物から切り取られたように暖かな陽の光が降り注ぐのだ。

 

 誰にも見向きされない、私だけの秘密の場所。……のはずだった。

 

「……え?」

 

 縁側に近づいた私は、思わず足を止めた。

 そこには、見知らぬ大人の男が地面にごろんと大の字になって寝転がり、私より先に気持ちよさそうに眠っていたのだ。

 

 百鬼夜行には似つかわしくない、ラフな出で立ち。後ろに感じる二本の尻尾が警戒で不機嫌に揺れる。

 私が追い払うべきか迷っていると、男は「んぁ……」と気の抜けた声を漏らし、ゆっくりと身を起こした。

 

「──おや。いい日差しだね」

 

 男は私と目が合うなり、人目のつかない裏路地の空き家だというのに、まるで満開のヒマワリのような屈託のない明るい笑顔を浮かべた。

 絶妙にパーソナルスペースには踏み込まない、それでいて壁を感じさせない距離感。

 

「……誰……? ここは立ち入り禁止区域のはず」

 

「あはは、ごめんごめん。あまりにもポカポカしてたから、ついお昼寝しちゃってたよ」

 

 男は太陽のような笑みを浮かべたまま、私の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。

 

「……おや。……君、何か『大切なもの』を落としたんじゃないか?」

 

 その言葉に、私の思考が一瞬フリーズした。

 

「(……落とし物?)」

 

 私は論理的な思考をすぐに再起動させ、自分のポケットや持ち物を素早く確認する。財布、銃の手入れ道具。何一つ欠けていない。

 

「……何を言ってるの。私は何も落としてない」

 

「いやいや、物理的なものじゃないよ。財布とか鍵とかじゃなくてさ」

 

 男は自分の胸のあたりをトントンと指先で叩いた。

 

「もっとこう、目に見えないけど、君を形作っていた大事なもの。君の顔、すごく寂しそうだったからさ」

 

 図星を突かれたような感覚に、息を呑む。

 百花繚乱という居場所。作戦参謀という誇り。そういった「目に見えないもの」を失って途方に暮れていた内面を、初対面の男に一瞬で見透かされたような気がした。

 見透かされたことへの動揺と嫌悪感を隠すように、私は冷たく言い放った。

 

「……気持ち悪い……」

 

「一球で三振取れそうなくらい鋭いストレートだね……」

 

「球は一つしか飛んできてないのにバットを3回も振る方がおかしいと思うけど?」

 

「9回振れば一球でチェンジだね」

 

「私が監督なら、そんな選手はすぐにチームを脱退させる」

 

「ちなみに始球式のゲストだから脱退はさせられないかな」

 

「……」

 

 沈黙。この男、何を言っても暖簾に腕押しだ。

 常に論理で相手を詰める私の言葉を、男は太陽のような明るさと適当さでふわりと受け流してくる。私の計算が、完全に狂わされていた。

 

「あ、自己紹介がまだだったね。俺は向井(むかい) 陽介(ようすけ)。ここからもう少し東の方で『遺失物預り場』をやってるんだ」

 

「……桐生キキョウ。遺失物預り場って何? 聞いたことないけど」

 

「落とし物を預かったり、逆に無くしたものを一緒に探したりするお仕事! だから、君の落とし物も俺が一緒に探してあげるよ」

 

「……結構。私には必要ないから」

 

 これ以上、この男のペースに巻き込まれるのは危険だ。参謀としての直感がそう告げている。

 私は面倒になり、休むことも諦めて空き家を後にした。

 だが。

 

「あ、待ってよ! せめて何系の落とし物かヒントだけでも! 夢? 目標? それともお昼ご飯のメニュー!?」

 

 背後から、彼が楽しげな声でついてくる。

 私は振り返らず、さらに歩くペースを上げた。

 

「……ついてこないで。うざい」

 

「うざいだなんてつれないなぁ! 俺、探し物にはけっこう自信があるんだけど!」

 

 耳を伏せ、尻尾の毛を少し逆立てながら、私は百鬼夜行の路地を早歩きで進む。

 失ったものを「落とし物」と呼んで、笑いながら一緒に探そうとするお節介な男。

 

 向井陽介。

 

 その眩しすぎる残像と、決して自分のペースを崩さない大人の余裕に、私はかつてないほどの調子の狂いを感じていた。

 

 ■■■

 

「ちょっと待ってよ! ねえってば!」

 

 私の足は自然と早歩きになっていた。だが、背後からついてくる足音は一向に離れる気配がない。

 大人の男である彼と私とでは、そもそも歩幅が違う。私が小走りに近い速度で路地を曲がっても、彼は息一つ乱さず、隣に並ぶような位置をキープしてくる。

 

「無視は傷つくなぁ。俺、これでも百鬼夜行じゃ結構腕のいい探し物屋なんだよ? 君が落としたのが『素直な心』でも『やる気』でも、俺ならきっと見つけてみせるから!」

 

「……あんた、本当に実力行使に出るよ」

 

 私は立ち止まらずに、声のトーンだけを限界まで下げて威嚇した。

 

「え、怖いな。でも、今の百鬼夜行で俺みたいな無害な一般市民を捕まえてくれる組織なんて、あるのかな?」

 

「ッ……!」

 

 無自覚なのか、それともわざとなのか。彼の言葉は、機能不全に陥っている百花繚乱を的確にえぐってきた。

 私はピタリと足を止め、彼を鋭く睨みつけた。

 

「……いい加減にして。私には落とし物なんてないし、あなたみたいな胡散臭い『探し物屋』に関わってる暇もないの」

 

「胡散臭いなんてひどいなぁ。俺の目はごまかせないよ。君の尻尾、さっきからずっと落ち着きなくプルプルしてるし」

 

「これはあなたがうざいから……ッ!」

 

 言い返しそうになって、ハッと口をつぐむ。これ以上言葉を交わせば、完全に相手のペースに飲まれてしまう。

 論理的じゃない。こんな得体の知れない大人に構うメリットは一つもないのだ。

 

「……勝手に言ってなさい」

 

 私は再び前を向き、今度こそ彼を振り切るために足を速めた。

 

「あ、逃げた! 待ってってば! 俺が必ず君の『落とし物』を見つけてみせるから!」

 

 迷路のような路地を足早に抜け、少し開けた広場に出たときだった。

 

「ひぐっ……うぅ……」

 

 広場の片隅にあるベンチで、百鬼夜行の制服を着た低学年の生徒が一人、顔を覆って泣きじゃくっていた。

 

 普段の私なら、すぐさま状況を確認し、適切な対処を取る。百花繚乱の作戦参謀として、街のトラブルを放置することは私の主義に反するからだ。

 だが、今は背後に面倒な大人がへばりついている。ここで足を止めれば、また彼のペースに巻き込まれるのは目に見えていた。

 

「(……見なかったことにしよう)」

 

 私は冷たく視線を逸らし、そのまま通り過ぎようとした。百花繚乱は今、彼女を助けられるような状態じゃない。私にはもう、その権限も義務もないのだから。

 

 ……なのに。

 三歩、四歩と進んだところで、私の足は鉛のように重くなった。

 背後から聞こえる、しゃくりあげるような泣き声。それが、見えない糸のように私の尻尾を引っ張るのだ。

 

「……あーあ。冷たいふりしても、結局放っておけないんだね。君のそういうところ、すごくいいと思うよ」

 

 隣に並んだ彼が、感心したような、それでいてどこか嬉しそうな声で言った。

 

「……黙って」

 

 私は忌々しげに彼を睨みつけ、大きくため息をついた後、きびすを返して泣いている生徒の元へと歩み寄った。

 

「あなた。こんなところでどうしたの」

 

「ひっ……えっ……?」

 

 泣いていた生徒は、私が声をかけるとビクッと肩を震わせ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 

「あ、あの……なくしちゃったんです……」

 

「なくした?」

 

「はい……広場にある射的屋さんの前で遊んでたんですけど、ベンチに荷物を置いたまま夢中になっちゃって……。気づいたら、一番大切にしてたトレーディングカードだけが、なくなってて……」

 

 生徒はそう言うと、再びポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。状況は理解した。置き引きか、あるいは風で飛ばされたか、誰かが誤って持っていったか。

 論理的に考えれば、現場周辺の捜索と、近隣店舗への聞き込みが最優先だ。

 

「……分かった。とりあえず、その射的屋の周辺を──」

 

 私が参謀としての思考を回し、指示を出そうとしたその時だった。

 

「なるほど! それは大変だ!」

 

 突然、彼が私の横からひょいと顔を出し、泣いている生徒の前にしゃがみ込む。

 

「え、えっと……?」

 

「はじめまして! 俺は向井陽介。遺失物預り場の店主、つまり『探し物のプロ』さ! 君の大切なカード、俺たちが必ず見つけ出してあげるから、もう泣かなくていいよ!」

 

 彼はヒマワリのような満面の笑みで、生徒の頭をポンポンと優しく撫でた。その大人の温かさと絶対的な自信に当てられたのか、生徒の泣き声がピタリと止まる。

 

「ほ、ほんとですか……?」

 

「もちろん! ね、キキョウちゃん?」

 

 彼は私を振り返り、悪びれもせずにウインクをしてきた。

 普通にちゃん付けで呼んでくるあたりが本当に軽そうな男だ……。いや、それよりも問題なのは、彼が勝手に「俺たち」と私を巻き込んでいることだ。

 

「……ちょっと。誰が手伝うと」

 

「おや、見捨てるの? せっかく君が声をかけたのに?」

 

「ッ……!」

 

 痛いところを突かれ、私はぐっと言葉を飲み込んだ。

 確かに、声をかけた以上、解決まで見届けるのが筋だ。だが、この得体の知れない探し物屋と行動を共にするのは、計算外にもほどがある。

 

「さあ、相棒! 初仕事と行こうか!」

 

「……誰が、相棒」

 

 私は不機嫌に尻尾を揺らしながらも、生徒を案内して広場へと向かう彼の背中を、しぶしぶ追いかけることになった。

 

 ■■■

 

 泣いていた生徒を少し離れた日陰のベンチで休ませ、私たちは現場である射的屋の前へとやってきた。

 

 お祭りのように装飾された店舗の正面には、客が休憩するための赤い長椅子がいくつか並べられている。私はその周囲をぐるりと見渡し、小さく息を吐いた。

 

「……見晴らしが良すぎる」

 

「うん、死角がまったくない。これだけ開けた場所なら、ぽつんと置かれたカードなんて嫌でも目立つはずだね」

 

 彼も顎に手を当てながら、長椅子とその周辺の地面を注意深く観察している。

 確かに、長椅子の下や周囲の地面にはカード一枚すら隠れられそうな障害物はない。仮に生徒の言う通り「ここに置いたまま目を離した」のだとすれば、忽然と姿を消すのは不自然だった。

 

「考えられるケースは大きく分けて三つ」

 

 私は作戦参謀としての思考回路をトップギアに入れ、彼に向けて論理を展開する。

 

「ケース1、環境要因。風で飛ばされた可能性。……でも、今日はそこまで強い風は吹いていないし、周囲の地面は石畳で引っかかるような茂みもない。もし飛んでいったなら、この広場のどこかに落ちているのが見えるはず」

 

「となると、人為的な要因か。ケース2は?」

 

「第三者による『無自覚な』持ち去り。例えば、カードに気づかず長椅子に座った誰かの服に張り付いてしまった。あるいは、ゴミと勘違いした清掃員や一般生徒が、善意で屑籠に捨ててしまったケース」

 

「なるほどね。でも、ここ最近のカードゲームの裏面って結構派手だし、ゴミと間違えるかな? それに、服にくっついたとしても、数歩歩けばひらひらと落ちそうだけど」

 

 彼は私の推論の穴を的確に指摘してくる。ただ能天気なだけの大人ではない。状況を俯瞰する能力は、確かに持っているようだ。

 

「……そう。だから一番確率が高いのは、ケース3。悪意を持った第三者による『窃盗』」

 

「価値のあるレアカードだと知っていて、持ち主が目を離した隙にポケットに入れた……ってことだね」

 

「それが一番理にかなっている。もしそうなら、犯人はもうこの広場にはいない。探し出すのは困難」

 

 私が冷徹な結論を突きつけると、彼は「うーん」と困ったように笑いながら首を傾げた。

 

「君の推理は完璧だ。でも、もう一つだけケースを追加してもいいかな?」

 

「……何?」

 

「ケース4、『親切な誰かが拾って、どこかに届けてくれた』。これなら、現場にカードがないのも、悪意がないのも説明がつく」

 

「……」

 

「特に遺失物預り所ってところに☆」

 

 私は呆れて、ため息をついた。

 

「それは推論じゃなくて、ただの願望。百鬼夜行の生徒全員が善人だとでも思ってるの? そんな希望的観測を前提に捜査を組み立てるなんて、素人のすること」

 

「あはは、厳しいなぁ。でも、可能性を最初から切り捨てるのはもったいないと思うけど」

 

 彼と意見を交わしながら、私は再び周囲の構造物を目で追っていた。

 風の通り道、人の流れ、死角の有無。窃盗だった場合、犯人がどのルートで逃走し、どこから長椅子を狙っていたのか。

 視線を射的屋の屋根から、隣接する店舗の軒先へと移し──ふと、ある一点でピタリと止まった。

 

 装飾用の提灯の陰。見えにくい高い位置に、黒い半球状のレンズがこちらを向いている。

 

「(……ビンゴ)」

 

 私は小さく口角を上げ、彼の言葉を遮るように言った。

 

「あんたの言う通り、希望的観測を捨てる必要はないかもしれない」

 

「お、珍しく意見が合ったね。何か見つけたの?」

 

 私は視線だけで、軒先の暗がりを指し示した。彼の目がそれを追い、すぐに「あぁ」と感嘆の声を漏らす。

 設置されているのは、百鬼夜行の防犯用に置いている監視カメラだった。そしてそのレンズは、私たちが立つ長椅子周辺の様子を、見事なまでに画角の中心に収めていた。

 

 あのカメラの映像を解析すれば、ケース1から4のどれが正解なのか、一瞬で答えが出る。

 

「あの子、幸運だったね」

 

 ■■■

 

「では、該当の映像だけ抽出しますので、少々お待ちください」

 

 店舗管理組合の事務所に交渉に出向くと、職員の恩情により防犯カメラの映像はあっさりと開示されることになった。

 

 データが抽出されるまでの間、私たちは事務所の隅にある長椅子で待機することになった。

 殺風景な空間。気まずい沈黙が流れる中、隣に座っていた彼──陽介が、ふと静かな声で口を開いた。

 

「ねえ。本当に……何か、落とした心当たりはないの?」

 

 その言葉に、私の肩がピクリと跳ねた。

 まただ。この男は、どうしてこうも無遠慮に人の内側に踏み込んでくるのか。

 

 落とし物。心当たり。

 

 そんなもの、あるに決まっている。事実上解散してしまった百花繚乱。作戦参謀としての私の存在意義。共に背中を預け合った仲間たち。誇り。居場所。……明日への希望。

 すべてが指の間からこぼれ落ちて、今はもう何も残っていない。

 そんな私が抱える泥沼のような現状を何も知らないくせに、彼はまるで迷子の持ち主を探すような気軽さで、私の心の一番脆い部分をノックしてくる。

 

「……あなたには関係ない」

 

「関係なくはないよ。俺は探し物屋だからね。君みたいな顔をしてる人を、放っておけない」

 

 ヒマワリのように明るかった彼の声から、おどけた響きが消えていた。

 真剣な響き。それが余計に、私の苛立ちを煽る。

 

「一人で抱え込むには、ちょっと重すぎるものを無くしちゃったんじゃない?」

 

「……っ!!」

 

 ──プツン、と。

 自分の中で、何か細い糸が切れる音がした。

 

 視界が赤く染まる。反射的に立ち上がり、私は右手を大きく振り上げていた。

 こんな得体の知れない部外者に、私の、私たちの痛みが分かってたまるか。同情するようなその目が、土足で踏み込んでくるその無神経さが、たまらなく許せなかった。

 

 空気を裂く鋭い音。

 だが、私の手のひらは彼の頬を打つ寸前で、ピタリと止まった。

 

「……っ」

 

 息を呑んだのは私の方だった。

 

 彼は、避けなかった。目を瞑ることもなく、身をよじることもなく、ただ真っ直ぐに私を見上げていたのだ。

 その瞳に宿っていたのは、怯えでも反抗でもない。自分の不用意な言葉が私を深く傷つけ、激しく怒らせてしまったことを、静かに反省し、受け止めようとする色だった。

 

「……」

 

 振り上げた右手が、行き場を失って微かに震える。

 彼のその真っ直ぐで嘘のない視線を受けていると、自分がひどく感情的で、惨めな子供のように思えてきた。論理を見失い、ただ八つ当たりをしているだけだ。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 私は大きくため息をつき、空を切った右手を力なく下ろした。そして、彼の顔からスッと視線を逸らす。

 

「……次は、ない」

 

「うん。ごめん」

 

 彼は短く謝罪し、それ以上は踏み込んでこなかった。

 気まずい沈黙が再び落ちる。だが、少しの間の後、彼はいつもの調子を取り戻したように、ふわりと柔らかい声で言った。

 

「また、遺失物預り場に来てよ。必ず君の落とし物を見つけるから」

 

 呆れるほどのポジティブさ。私は彼を一瞥もせず、冷たく吐き捨てた。

 

「……絶っ対に行かない」

 

 私がそう言い切った直後だった。

 

「お待たせしました、映像の抽出が終わりましたよ」

 

 タブレット端末を手にした組合の職員が、事務所の奥から姿を現した。

 

 組合の職員から受け取ったタブレット端末をテーブルに置き、私はすぐさま動画の再生ボタンを押した。

 画面の中、広場の長椅子で遊んでいたあの生徒が、不意に立ち上がって走り去っていく様子が映し出される。ベンチの上には、ポツンと一枚のトレーディングカードが取り残されていた。

 

 それから数分後。

 無防備に置かれたそのカードに近づく、一つの不審な影があった。

 

「魑魅一座……じゃない。ヘルメット被った生徒……?」

 

 私が画面を拡大しながら訝しげに呟くと、横から画面を覗き込んでいた彼が同意するように頷いた。

 

「百鬼夜行にしては珍しいね。たしかヘルメット団とか言ったっけ」

 

 映像の中のヘルメットを被った生徒は、長椅子の前で足を止めると、大げさなほどきょろきょろと周囲を見回した。そして、誰も自分に注目していないことを確認すると、素早い手つきでカードを掴み取り、足早にその場を立ち去っていく。

 

 誰がどう見ても、落とし物を拾って交番や組合に届けるような空気ではない。明らかな悪意を持った「持ち去り」の瞬間だった。

 

「なるほどね」

 

 彼は腕を組み、いつものおどけた調子を少しだけ潜めて言った。

 

「百鬼夜行で『落とし物を預かる場所といえば遺失物預り場』っていう当たり前みたいなのは、結構浸透してるって自負してるんだ。でも、今日俺のところにカードは届いてないはず。って言うことは……」

 

 私はタブレットの電源を落とし、冷徹に事実だけを口にする。

 

「明らかな窃盗。答えが見えた」

 

 希望的観測は完全に消えた。

 

 ケース3。悪意を持った第三者による窃盗。

 犯人の容姿と逃走ルートの初動は掴めた。作戦参謀として、あとは最短かつ最も効率的な「制圧と奪還」のプランを構築するだけだ。

 

「ヘルメット団か……えっと、どんな組織だったっけ……たしか……」

 

 横で彼が呑気に記憶を探り始めたが、私はそんな冗長な思考に付き合うつもりはない。彼の独り言をそっちのけにして、脳内で即座に追跡と制圧のプランを組み上げていった。

 

 映像に映っていた初動の逃走ルートと、百鬼夜行の複雑な地理を照らし合わせる。

 ターゲットの足取りから予測される潜伏先は、人目のつかない路地の奥か、あるいは使われていない旧市街の空き店舗周辺。

 

「……ターゲットの逃走経路を先回りして塞ぎ、袋小路に追い詰める。抵抗される可能性が高いから、問答無用で一気に拘束する」

 

 私が手短に作戦の概要を説明すると、彼は「ふむふむ」と相槌を打った。だが、その視線はどこか虚空を彷徨っていて、私の話を聞きながらも、明らかに別の何かを考えているようだった。

 

「ヘルメット団って結構集団で動くタイプだよね?」

 

 唐突な問い。私は思考のペースを崩さずに短く答える。

 

「……知らないけど、多分。逆に包囲される可能性も考えて、閃光弾を持っていく必要がある」

 

 常に最悪のシミュレーションを回すのが、私のやり方だ。相手が徒党を組んでいる前提で動くのは、作戦の基本中の基本。

 すると、彼は何か納得したように小さく頷き、ポンと軽く手を叩いた。

 

「俺はちょっと気になることがあるから一旦ここはまかせるね!!」

 

「……は?」

 

「じゃ、そういうことだから、あとはよろしく~~っ!!」

 

「ちょ、あんた。……ねぇ、ヘルメット団は!? ねぇ!!」

 

 私の怪訝な声など聞こえなかったかのように、彼はそのヒマワリのような笑顔を残し、ひらひらと手を振りながら足早に事務所を出て行ってしまった。

 

 残されたのは、私一人。

 

「……何。なんなの……」

 

 苛立ちと呆れが混ざったため息が漏れる。

 

 一緒に落とし物を探すと言い出したのは彼の方だというのに、こんな作戦の肝心なところで勝手にいなくなるなんて。

 

 ……所詮は、その場しのぎの言葉を吐く無責任な大人だ。私の内側に土足で踏み込んできたことも含め、やはり関わるべき人間ではなかった。

 

「……別にいい。どうせ最初から一人でやるつもりだったし」

 

 私は不機嫌に尻尾を揺らしながら、頭の中から彼の存在を完全に抹消した。

 思考を目の前のタスクのみに切り替え、懐の中の閃光弾と手持ちの装備を確認する。

 

 そして、カードを盗んで逃げたヘルメット団の生徒を制圧するため、たった一人で追跡を開始した。

 

「私一人なら、拘束まではできそうにないかな……」

 

 ■■■

 

 ターゲットの足取りは、私の予測通りだった。

 

 祭りの熱気が残る大通りから一本、また一本と裏路地へ入るにつれ、喧騒は遠ざかり、代わりに湿ったカビの匂いと廃材の山が目立ち始める。治安が悪化しているエリアだ。

 

 私は気配を殺し、犯人の足音を正確に拾いながら、先回りするように入り組んだ路地を移動した。

 無闇に追い立てれば見失うリスクがある。だからこそ、特定のルートしか通れないように背後から圧をかけ、追い詰めるための「舞台」へと誘導する必要があった。

 

 ターゲットが、空き家の立ち並ぶエリアの十字路に差し掛かった瞬間。

 私はあえて足音を立て、背後から冷たい声を浴びせた。

 

「……そこまで」

 

「ッ!?」

 

 ターゲットがビクッと肩を揺らして振り返る。私の姿を認めた瞬間、彼女は弾かれたように路地の奥へと駆け出した。

 

 だが、それも計算通りだ。私はすぐさま後を追い、分かれ道に差し掛かるたびに彼女の視界の端に姿を見せ、右側の退路を意図的に塞いでいく。

 焦ったターゲットは、私が空けておいた道へと無意識に逃げ込んでいく。そして──高い壁に囲まれた、完全な袋小路へと自ら飛び込んだ。

 

「(……王手)」

 

 私は行き止まりにぶつかって足を止めたターゲットの背後、路地の入り口に立ち、唯一の退路を完全に塞いだ。

 だが。

 

「……ヒハッ、追い詰めたつもりかよ」

 

 ターゲットは振り返ると、ヘルメットの奥で下卑た笑いを浮かべた。

 その言葉を合図にするかのように、周囲の廃材などの陰から、同じヘルメットを被った生徒たちがぞろぞろと姿を現す。

 

 逃走しながら、あらかじめ仲間を呼んでいたらしい。ざっと見積もって、5対1。完全な包囲網だ。

 

「警察のお出ましかと思ったが、一人かよ。わざわざご苦労なこった。お前の持ってるその装備、高く売れそうだな。全部置いてってもらおうか!」

 

 安い挑発。だが、私の思考は極めて冷静だった。

 

 多対一の状況は想定内。作戦参謀としての私の計算は揺るがない。この戦闘における「勝利条件」は、敵の殲滅ではなく「カードの奪還」だ。無駄な戦闘を避け、目的の物だけを回収して離脱する。

 

「……無駄口が多い。三秒で終わらせる」

 

 私は静かにポーチから閃光弾を抜き取ると、躊躇なく敵陣の中央へ叩きつけた。

 

「あ?」

 

 強烈な炸裂音と共に、目が眩むほどの白い閃光が薄暗い路地裏を瞬時に呑み込む。

 

 ヘルメット団の中には、遮光バイザー付きの装備を持つ者もいるはずだ。だが、肝心のカードを盗んだあのターゲットのヘルメットが、光を一切防げないただのクリアバイザーであることは、先ほどの監視カメラの映像で確認済みだった。

 

「目がぁッ!?」

 

「くそっ、見えねえ!」

 

 ターゲットを含め、遮光対策をしていなかった数人が悲鳴を上げてしゃがみ込む。

 

 私は視界を伏せて閃光をやり過ごすと、その一瞬の隙を見逃さず、地を蹴った。最短距離でターゲットに肉薄し、無防備な上着のポケットから目的のカードを確実に取り上げる。

 

 奪還成功。後は包囲陣が崩れている間に、この場を離脱するだけだ。

 私は路地の出口へ向けて駆け出そうとした。

 

 ──その瞬間。

 

「甘いんだよ!!」

 

 頭上から、鋭い声が降ってきた。

 閃光弾の効果範囲外、頭上の死角となる影の部分。そこから、もう一人のヘルメット団の生徒が飛び出してきた。

 彼女は遮光対策をしていたわけではない。最初から私が閃光弾などの目眩ましを使うことを警戒し、光の届かない場所に身を潜めていた『伏兵』だった。

 

「(……ッ!?)」

 

 完全に私の虚を突くタイミング。

 無防備な私にすでに銃が向けられている。

 

 迎撃は間に合わない。避けるには、姿勢が前のめりになりすぎだ。

 

「(……しまった)」

 

 私は反射的に強く目を閉じ、衝撃に備えた。

 

 ──しかし、いつまで経っても痛みは訪れなかった。

 

 代わりに耳を劈いたのは、本来なら何もないはずの『行き止まりの壁』の向こう側から響く、鼓膜を震わせるような重低音だった。

 

「失礼しまーす!!」

 

 直後、轟音と共に背後の壁が派手に砕け散った。

 土煙と破片を撒き散らしながら、分厚い壁を物理的にぶち破って路地に突っ込んできたのは──巨大な黄色い重機、ブルドーザーだった。

 

「な、なんだぁ!?」

 

「うわあっ!?」

 

 突然の壁の崩壊と鉄の塊の突撃に、私を狙っていた伏兵も、取り囲んでいたヘルメット団の生徒たちも、悲鳴を上げて反射的に後方へと飛び退いた。

 飛んでくるはずだった弾丸は無く、銃すらも落として包囲網が瓦解する。

 

 もうもうと舞う砂埃の中から現れたブルドーザーの運転席には、どこから調達したのか、呑気にレバーを握る彼の姿があった。

 

「お待たせキキョウちゃん! お迎えにあがりました!」

 

「あんた……や、これ、どういう……はっ……?」

 

 呆気にとられる私に、彼は満面の笑みでウインクを飛ばす。

 さらに彼の狙いは最初から、ヘルメット団への攻撃などではなかった。

 

「ほら、早く掴まって!」

 

 この規格外の奇襲は、退路を塞がれた私を『壁の向こう側』から回収するための方法のようだった。

 状況の異常さに頭痛がしそうだったが、ここで立ち止まっていればすぐに敵は態勢を立て直す。思考を挟む暇はない。

 私は舌打ちを一つ飲み込み、土埃を蹴ってブルドーザーの前面──巨大なプレートに飛び乗り、振り落とされないようしっかりと掴んだ。

 

「よし、回収完了! それじゃあ皆さん、お邪魔しゃっしたー!」

 

 彼が陽気にアクセルを吹かすと、ブルドーザーはキャタピラの重々しい音を立てながら、自ら開けた大穴を通って一気に後退していく。

 

「あ、待てコラ! 逃がすか!」

 

「ゲホッ、ゴホッ! 砂埃で前が見えねえ!」

 

 唖然と立ち尽くし、砂埃に咳き込むヘルメット団の怒声が遠ざかっていく。

 私は奪還したカードをしっかりとポケットの奥に押し込みながら、土煙と共にその場から立ち去った。

 

 ■■■

 

 ひとしきり現場から離れ、安全圏まで逃げ切ったところで、ようやくブルドーザーの重々しいエンジン音が止まった。

 私は排土板から飛び降り、制服についた土埃を軽く払ってから、運転席から降りてきた彼に歩み寄った。

 

「……読んでたんだ、私が追いつめられる事」

 

 私が鋭い視線を向けて問うと、彼はあははと笑って後頭部を掻く。

 

「いや全然! ……なんていうか、ヘルメット団が何人いるかを考えるより、無理やり逃げ出す方法を考える方が楽かなって思って」

 

「……」

 

 その答えに、私は絶句した。

 あまりにも破天荒で、作戦と呼ぶのも烏滸がましい荒業。だが、不確定要素である敵の数や配置を一切無視し、強引に脱出経路を確保するという点においては、ある種の合理性が通っていた。

 

 私の完璧なはずだったシミュレーションが伏兵一人によって崩されかけたのに対し、彼の無茶苦茶な手法が結果的に私を救った。その事実が突きつける自身の力不足に微かな苛立ちを覚えつつも、やはり彼のやり方は、作戦参謀として到底納得できるものではなかった。

 

「そういえばカードは?」

 

「……この通り。土煙一つ付けてない」

 

 私は懐から奪還したばかりのカードを取り出し、彼に見せつけるように掲げた。

 

「おぉ、さすが! じゃ、あの子に返しに行こうか!」

 

「ちょっと待って」

 

 明るく背を向けようとした彼を、私は冷たい声で引き留める。

 

「ん?」

 

「……私は、あんたのやり方を認めない。それに無くしたものもない」

 

 強がりでも何でもない。彼の手を借りる義理も、これ以上踏み込ませる理由もない。私は一人で立っていられる。

 その明確な拒絶の言葉を受けた彼は、きょとんとした顔で首を傾げた。

 

「えー、あんなにスタイリッシュな救出劇だったのに? 普通ならここで『助けてくれてありがとう、私……ちょっと見直したかも』って好感度が上がるイベントじゃないの?」

 

「頭がどうかしてるの? 壁をぶち破る重機にときめく神経なんて持ち合わせてない。だいたい、そのブルドーザーはどうしたの」

 

「あぁ、これ? さっきそこの工事現場で、おじさんに『ちょっと人命救助に使わせて!』って熱く語ったら、親指を立てて貸してくれたんだ!」

 

「……本当に?」

 

「キーが刺さってたのを見て勝手に乗ってきたから、事後承諾だけどね!」

 

「……それ、ただの窃盗。あんたが一番の犯罪者じゃない。今すぐ出頭して」

 

「あはは、人命救助のための緊急避難だよ!」

 

「黙秘権をあげるから、もう喋らないで」

 

 呆れ果ててため息をつき、私が冷たく言い放つと、彼は「厳しいなぁ」と苦笑いをした。

 だが、次の瞬間。彼はおどけたような軽い笑顔をスッと消して、静かな瞳で私を見据えた。

 

「……キキョウちゃん。ついてきて」

 

 ■■■

 

 無事に広場へ戻り、彼がカードを差し出すと、ベンチで待っていた生徒の顔がパァッと明るくなった。

 

「ああっ! 私のカード! ありがとうございます、ありがとうございます!」

 

 生徒はカードを両手で大切そうに抱え込み、満面の笑みで何度も頭を下げた。そして、スキップのような足取りで広場を後にし──数歩進んではこちらを振り返り、「ありがとー!」と大きく手を振った。

 

 また数歩進んで、振り返り、「ありがとー!」。

 

 さらに角を曲がる寸前にもう一度振り返り、「本当にありがとー!」。

 

「すごいねあの子、喉大丈夫かな」

 

「……」

 

 彼が冗談めかして笑う横顔をよそに、私は小さく息を吐いた。

 

 本来なら、百花繚乱の作戦参謀として生徒の平和を守るのは当然の義務だ。そこに特別な感情を挟むべきではない。……けれど、一切の曇りもなく、ただ純粋な感謝をぶつけてくるあの子の笑顔は、冷え切っていた私の心の奥底に、ほんの少しだけ温かい灯りを点してくれたような気がした。

 

「……どう? 良かったでしょ?」

 

 ふいに、彼が優しい声で問いかけてきた。

 

「……」

 

「こうして感謝されるの、悪くないでしょ?」

 

 図星だった。私は視線を少しだけ泳がせ、不本意ながらも小さく頷いた。

 

「……そう、ね」

 

 私のその掠れた返事を聞いて、彼は満足そうに微笑むと、いつものような軽やかな口調に戻って言う。

 

「明日また、遺失物預り場に来てよ。時間があれば」

 

 強引な彼にしては、珍しく一歩引いた、選択を委ねるような言い方だった。

 私は彼から視線を逸らし、尻尾の先を微かに揺らしながら答えた。

 

「……考えておく」

 

「やった! それじゃあ! また!」

 

 彼は満開のヒマワリのような笑顔を残し、軽く手を振って大通りへと消えていった。

 

 一人残された私は、ゆっくりと百鬼夜行の街並みを歩き始めた。

 不思議なことだ。数時間前まで、永遠に続くお祭り騒ぎのように無責任で、冷たく孤独に感じられていたこの街の喧騒が、今はまったく違って見えた。

 

 軒先に揺れる赤や白の提灯はどこか温かみを帯び、すれ違う生徒たちの他愛のない笑い声は、私たちが守りたかった『平和な日常』そのものとして、耳に心地よく響いている。空を染め始めた夕暮れの朱色すら、今日の私にはとても優しく、美しく感じられた。

 

「(もしかしたら、明日遺失物預り場に行けば……私の落とし物が……)」

 

 胸の奥で燻っていた焦燥感と孤独が、少しだけ和らいでいるのを感じる。

 

 明日になれば、またあの胡散臭い探し物屋に調子を狂わされるのだろう。それでも──悪くないのかもしれない。

 私はそう思いながら、まだ見ぬ明日へと静かに思いを馳せた。

 

 その時だった。

 

「……」

 

 ふと、私のすぐ隣を、工事現場の作業着を着た人が、重い足取りですれ違っていった。

 真っ赤に燃え上がった怒りの顔。その顔はまるで般若のそれだった。

 

「FATALITY……」

 

 地獄の底から響くような、鬼のようなうわ言を聞いて、私の歩みはピタリと止まった。

 頭の中に、物理的にぶち破られた分厚いコンクリート壁と、事後承諾で乗り回されたあげく乗り捨てられたブルドーザーの光景がフラッシュバックする。

 

 私は夕暮れの空を仰ぎ見ながら、感情の抜け落ちた声でぽつりと呟いた。

 

「……遺失物預り場、明日までに残ってるといいけれど」

 

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