キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
俺がいた世界には、透き通るような青空も、銃声の飛び交う日々もなかった。
ただ、息が詰まるような灰色のビル群と、絶え間なく降る冷たい雨、そして金と暴力が支配する、泥臭くてどうしようもない『現実』だけがあった。
「……ん」
薄っぺらい布団の中で目を覚ますと、トタン屋根を叩く重い雨の音が鼓膜を揺らした。
湿気と、染み付いたタバコの匂いが混ざる、万年日陰の安いアパート。枕元の目覚まし時計は、とっくに設定した時間を30分も過ぎている。
「あー……やっべ。寝坊した」
気怠い体を無理やり起こし、乱れた頭を掻き毟りながらリビングへのふすまを開ける。
そこには、すでに制服に着替え、キッチンでフライパンを振るう娘の姿があった。
「……やっと起きた。いくら昨日の帰りが遅かったからって、だらしなさすぎる。朝ごはん、もう冷めてるんだけど」
ジロリと、少し吊り上がった切れ長の目が俺を睨む。
妻が出て行ってから、男手一つで育ててきた俺のたった一人の娘だ。
少し癖のある黒髪に、利発そうな顔立ち。口を開けば文句ばかりだが、エプロン姿で朝食の目玉焼きを皿に移すその手つきは、俺なんかよりもよっぽど堂に入っている。
「悪い悪い。いやぁ、昨日の浮気調査の対象者が、深夜になっても中々ホテルから出てこなくてさ。お父さん、車の中で腰痛めちゃったよ」
「言い訳はいいから、早く顔洗ってきて。あと、その無精髭もちゃんと剃って。今日は依頼人と会うんでしょ」
「へぁーい」
俺は洗面台に向かいながら、鏡に映る自分のくたびれた顔に苦笑した。
探偵まがいの、泥臭くて底辺を這いずるような仕事。いつだって危険と隣り合わせで、大人の汚い部分を嫌というほど煮詰めたような毎日。
それでも、こうして家に帰れば、文句を言いながらも俺の世話を焼いてくれる『春』がいる。この狭いアパートの食卓だけが、俺の人生で唯一の光だった。
「ほら、お醤油。……言っておくけど、かけすぎないで。血圧上がるから」
「はいはい。……うん、今日の目玉焼きは半熟でいい感じだな」
二人で向かい合って座る、小さなちゃぶ台。
朝のニュース番組が、どこかの政治家の汚職や、株価の乱高下という無機質な話題を淡々と垂れ流している。
トーストをかじりながら、春がふと、思い出したように口を開いた。
「ねえ、お父さん。今日、学校で三者面談の希望調査票出さなきゃいけないんだけど。プリント、机の上に置いといたからサインして」
「ん? ああ、そういえばそんな時期か。お前、進路どうすんの」
「とりあえず近くの公立。うち、お金ないでしょ。私立なんてどう考えても無理」
「……」
あっけらかんと言う娘の言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。
親がこんな甲斐性のない仕事をしているせいで、この子にはいらぬ気遣いばかりさせている。
「気にすんな。お前が行きたいとこなら、お父さんがなんとかしてやるって。それより、学校はどうだ? 楽しくやってるか? 最近、数学の小柳だっけか、あのネチネチした先生」
「……最悪。昨日も、私悪くないのに連帯責任で怒られたし。本当に理不尽」
口を尖らせて不満を漏らす春に、俺はコーヒーを啜りながら、いつもの調子でヘラヘラと笑いかけた。
「ま、そういう時は適当に『はいはい』って頷いて、やり過ごせばいいんだよ。正面からぶつかったって疲れるだけだろ? 70点くらいで適当に息抜いて、大人の余裕ってやつを見せてやれ」
「……出た。お父さんの『適当にいなせ』理論。言っておくけど、学校じゃそんな風車みたいなやり方、通用しないから」
春は呆れたようにため息をつきながらも、どこか可笑しそうにクスリと笑った。
「大体、お父さんは何でもかんでも適当にやり過ごそうとしすぎ。たまには100%で本気出すところ、見せてほしいんだけど」
「おっ、言うねえ。これでもお父さん、やるときはやる男なんだけどな。……ほら、サイン書いたぞ」
俺はボールペンで汚い字のサインを書き殴り、プリントを春に渡した。
「……ありがと。それじゃ、行ってくる」
「おう。あ、帰り遅くなるなら連絡しろよ。気をつけてな!」
春はカバンを背負い、玄関で少し大きめの傘を手に取った。
ドアノブに手をかけた彼女が、ふと振り返る。
「あ、そうだ。今日、駅前のケーキ屋寄って帰るけど……お父さん、モンブランでいい?」
「おっ、マジか。ありがとう、仕事頑張れそうだ!」
「……単純。じゃあね」
バタン、と。
錆びた鉄扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
俺は残された少し冷めたコーヒーを飲み干し、ふう、と息を吐いた。
理不尽な教師も、面倒な依頼も。
真正面から受け止めず、70%の力で適当にやり過ごしていれば、きっと上手くいく。そうやって角を立てずに生きていけば、このささやかで温かい日常だけは、ずっと守っていけるはずだ。
■■■
休日の昼下がり。
狭いアパートのリビングには、テレビのバラエティ番組の呑気な笑い声と、パチン、パチンと木駒を盤に打ち付ける小気味良い音だけが響いていた。
「……はぁ。お父さん、またその陣形?」
ちゃぶ台の上に置かれた年季の入った将棋盤。
その向かいで、春が腕を組みながらジト目で俺の盤面を睨みつけていた。
「また、とは失礼な。これは『風車』っていう立派な戦法だぞ。隙がないでしょ?」
「隙がないっていうか、自分から攻める気がないだけでしょ。のらりくらり逃げ回って、こっちの攻め疲れを待ってるだけ。……ほんと、お父さんの性格そのもの」
「ははっ、褒め言葉として受け取っておくね」
俺はヘラヘラと笑いながら、熱いお茶を啜った。
玉を盤面の中央付近に置き、飛車を下段で左右に転回させながら、相手の攻撃をひたすら受け流す。それが俺の得意とする『風車』だ。
人生と同じ。100%の力で真正面からぶつかり合うのではなく、70%の力で適当にいなし、相手が勝手に自滅するのを待つ。大人の余裕ってやつだ。
『──続いて、プロ野球の結果です。本日のデーゲームは──』
ふと、テレビのチャンネルがニュースに切り替わり、スポーツコーナーのアナウンサーの声が流れた。
盤面を睨んでいた春の視線が、スッとテレビの画面へと移る。
「……あっ」
画面に映し出された地元球団のサヨナラ勝ちの映像を見て、春は小さく息を呑むと、無意識のうちにギュッと拳を握りしめた。口元が、隠しきれないほど嬉しそうに綻んでいる。
普段は大人びて冷めたようなことを言うくせに、昔からこの贔屓のチームの勝敗にだけは、コロコロと表情を変えて一喜一憂するのだ。
「おっ、勝ったみたいだな。機嫌が良いところ悪いけど、お前の番だぞ」
「……別に、機嫌なんて普通だし。早く指せって言うなら、遠慮なくそうさせてもらうから」
春が将棋に興味を持ち始めたのは、中学生の頃だったか。
俺が暇つぶしに教えてやったのがきっかけだが、元々頭の回転が速いこの子は、スポンジが水を吸うように定跡を覚え、めきめきと腕を上げていった。
「言っておくけど、今日の私は一味違うから。お父さんがいつも言ってる『風車』の弱点、ちゃんと勉強してきたし」
春の瞳に、勝負師のような鋭い光が宿る。
少し癖のある黒髪が揺れ、彼女の白魚のような指が、迷いなく盤上の駒を掴んだ。
「……角打ち。これで、お父さんの飛車は身動きが取れない。さらに次、こっちの銀が出れば、その自慢の風車は完全に崩壊する」
「なっ……」
盤面を見下ろし、俺は思わず息を呑んだ。
俺がのらりくらりと躱し続けていた隙を突き、春の駒が見事に連携して、俺の陣形の急所を正確に抉り出していた。
受け流すことしか考えていなかった俺の『70%』の陣形が、春の『100%』の真っ直ぐで鋭い攻撃の前に、完全に機能不全に陥っている。
「……王手、飛車取り。どう、お父さん?」
春が、してやったりのドヤ顔で俺を覗き込んでくる。
どう足掻いても、ここから逆転する手は俺の頭には浮かばなかった。完全に詰みだ。
「……あー、くそっ。負けた、負けだ! 参りました!」
俺が頭を掻き毟りながら頭を下げると、春はフッと口角を上げ、満足げに腕を組んだ。
「……ふふっ。ついに勝った。お父さんの風車、ついに破った」
「いやあ、恐れ入った。あの角打ち、完璧だったぞ。俺の教え方が良かったとはいえ、まさかここまで強くなるとは!」
負けたというのに、俺の胸の中には悔しさなど微塵もなく、ただ温かくて誇らしい感情だけが満ちていた。
俺が教えた将棋。俺が教えた戦法。それを、自分の頭で考え、乗り越えていく娘の姿。
大人の汚い世界ばかりを見てきた俺にとって、盤面を見つめて真剣に考え込む彼女の横顔は、見ているだけで涙が出そうになるほど眩しい『成長の証』だった。
「……これで私の方がお父さんより強いって証明された。今度から、何か決める時は私に決定権があるから。勘違いしないでね」
「おいおい、将棋一回勝っただけで調子に乗るなよ~。人生の盤面じゃ、まだまだお父さんの方が一枚上手」
俺は笑いながら、春の頭をポンポンと撫でた。春は「……子供扱いしないで」と口を尖らせながらも、どこか嬉しそうに目を細めている。
俺の得意な『風車』は破られた。
だが、盤上の外──この現実世界においては、やはり『風車』のように適当に受け流して生きるのが一番安全なのだ。
■■■
その『影』が俺たちの日常に滑り込んできたのは、数週間が過ぎた頃だった。
「……ごちそうさま。私、もう部屋に戻る」
夕食のハンバーグを半分以上残したまま、春がぽつりと呟いた。
ここ最近、彼女は明らかに様子がおかしかった。朝は目の下に薄くクマを作り、いつもなら口うるさく俺の身だしなみを注意してくるのに、それすらしない。
そして何より、些細な物音──例えば外を走る車のエンジン音や、ドアポストにチラシが投函される音に、ビクッと肩を震わせて怯えるようになっていた。
「どうしたの春。今日は春の好きなチーズインハンバーグだよ? 具合でも悪いの?」
俺がビールの缶を置き、心配して声をかけると、春は立ち上がりかけた姿勢のまま、ギュッと自分のエプロンの裾を握りしめた。
しばらくの沈黙。やがて、彼女は消え入りそうな声で口を開いた。
「……お父さん」
「ん?」
「……最近、学校の帰りに、ずっとついてくる人がいる」
ドクン、と。俺の中で、探偵としての嫌な勘が警鐘を鳴らした。
「ついてくる? ストーカー? 同じ学校の?」
「……一個上の先輩。私、学校で落とし物管理の委員をやってるでしょ。友達の探し物を手伝ってたら、偶然……その人が隠してた『ヤバいもの』を見つけちゃって。……それからずっと、睨まれて、後をつけられてる」
春の顔は蒼白だった。
ただの思春期の拗らせた恋愛感情なら、ここまで怯えるはずがない。俺が表情を引き締めると、春は震える唇で決定的な事実を口にした。
「……その人、地元のヤクザの組長の息子。学校でも有名で、先生たちも逆らえないような人……」
ヤクザの、組長の息子。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳内で急速に事態の『計算式』が組み上がっていく。
この街の裏社会でそれなりに顔が利くヤクザ。そのドラ息子が、自分の致命的な秘密を知った一般人の女子高生を疎ましく思い、口封じのために嫌がらせをしている。
なるほど、確かに面倒な話だ。普通の親ならパニックになり、学校や警察に泣きつくところだろう。
だが、俺からしてみれば、相手がプロの極道ならともかく、親の威光を借りて粋がっているだけのガキの執着など、対処法はいくらでもあった。
「(なんだ。仕事がらみで俺が恨みを買ったとかじゃないのか。……なら、まだどうとでもなる)」
俺はホッと息を吐き、いつもの『大人の余裕』の笑みを顔に貼り付けた。
「なんだ、そういうことか。お前が最近暗い顔してるから、てっきり深刻な病気にでもなったのかと焦ったぞ」
「……お父さん? 私、ヤクザの息子に狙われてるんだよ……?」
「ああ、分かってる。でも大丈夫だ、安心しろ」
俺はちゃぶ台越しに手を伸ばし、不安げに見つめてくる春の頭をポンポンと撫でた。
「警察や学校に言っても、そういう連中は余計に意地になるだけだ。だから、お父さんが直接そいつに会って、上手いこと話をつけてきてやるよ。誰も言いふらしたりしない、俺も大人だから黙っててやるって約束して、適当に手打ちにしてやる」
「……ほんとに?」
「ああ。こういうのはな、真正面から喧嘩しちゃダメなんだ。相手のメンツを潰さないように、70%くらいの力で適当にいなして、風車みたいに受け流す。それが大人の処世術ってもんだ」
俺は「任せとけ」と胸を叩いた。
俺にとっては、それは娘を安心させるための、心からの励ましのつもりだった。
相手の親がヤクザでも、お前のお父さんは余裕で対処できるんだぞという、頼れる父親としての姿を見せたかったのだ。
だが、春の瞳に浮かんでいたのは、安堵ではなかった。
「……適当に、いなす?」
彼女は、俺の手をそっと避けるように一歩下がった。
「……お父さんには、私が毎日どれだけ怖い思いをしてるか、分からないの? 帰り道、後ろを振り返るたびにあの先輩が立ってて……スマホには、知らない番号から『誰かに言ったら殺す』ってメッセージが何十件も来る。今日だって、家の近くの電柱の陰に……黒い服を着た大人が、ずっとこっちを見てたんだよ……?」
春の声が、徐々に悲鳴のような震えを帯びていく。
「それなのに、適当に話をつけるって……どうやって。相手の親は本物のヤクザなんだよ……? もし、お父さんが殺されたらどうするの……!」
「おいおい、声が大きいぞ。だから言ってるじゃん、そんなドラマみたいなことにはならないって」
俺は苦笑しながら、宥めるように両手を広げた。
「いいか、春。相手の親がヤクザだって言っても、本人はただの高校生だ。たかがガキの隠し事くらいで、一般人を殺すようなリスキーな真似はしない。同じ男同士、大人の俺が適当に宥めれば済む話だ。だから──」
「……お父さんはっ、私の怖さが、全然分かってない……!!」
バンッ! と、春がちゃぶ台を強く叩いた。
そのまま彼女は顔を覆い、ポロポロと涙をこぼしながら、自分の部屋へと走り去ってしまった。
「あ……おい、春!」
バタン、と乱暴に扉が閉まる音が、狭いアパートに響き渡る。
俺は伸ばしかけた手を下ろし、大きくため息をついた。
「まったく……思春期の女の子は難しいな。まあ、明日には俺がケリをつけて、安心させてやるさ」
■■■
翌日の夕方、俺は春の通う高校の近くにあるコンビニの前で、一人の男子生徒を待ち伏せていた。
「よお。お前が、うちの春につきまとってるっていう先輩くんだね?」
取り巻きらしき数人のガキを連れて歩いてきたそいつは、俺に声をかけられると、面倒くさそうに顔をしかめた。
ブランド物のスニーカーに、着崩した制服。地元のヤクザの組長の息子だという話だが、俺から見ればただのイキったガキにしか見えない。
「あ? 誰だよおっさん」
「春の親父だよ。……まあ、立ち話もなんだし、これでも飲んで」
俺はヘラヘラと笑いながら、買っておいた缶コーヒーをそいつの胸元に軽く放り投げた。
親がヤクザだろうと何だろうと、所詮は思春期の高校生だ。大人がいきなり警察や学校に怒鳴り込むのではなく、こうして『同じ男同士』としてフランクに、かつ適当に宥めてやれば、案外すんなり引くものだ。それが俺の信じる『大人の余裕』だった。
「うちの娘が、お前の見られたくない『秘密』を知っちまったみたいで悪かったな。でも春は誰にも言わないし、俺も大人だから黙っててやる。だから、ここらで手ぇ引いてくれない?」
俺がそう言って肩をすくめると、そいつは手の中の缶コーヒーをじっと見つめ、やがて冷たく歪んだ笑みを浮かべた。
「……へぇ。人の秘密を見ておいてねぇ? ふざけんじゃねぇぞクソ野郎」
「……」
「……チッ」
そいつは舌打ちをすると、手の中の缶コーヒーを足元のゴミ箱へ乱暴に投げ捨てた。
ガシャン、と鈍い音が響く。
「……はいはい、わかりましたよ、お父さん。誰にも言わないなら、それでいいんじゃないッスか」
「ははっ、分かってくれりゃいいんだよ。じゃあな、気をつけて帰ってね」
俺は軽く手を挙げ、背を向けた。
これでいい。真正面から喧嘩などしなくても、大人の70%の交渉で事態は丸く収まるのだ。
「よし、これで春も安心するだろ。今日はあいつの好きなショートケーキ、買って帰るか」
足取り軽く、夕暮れのアパートへ帰る。
だが、俺のその中途半端な『大人の交渉』が、相手の口封じへの焦りと歪んだプライドを致命的に逆撫でしてしまったことに気づくのに、時間はかからなかった。
アパートの階段を上り、自分の部屋の前に着いた瞬間、俺は息を呑んだ。
玄関のドアには、赤いスプレーで汚い卑猥な文字が乱書きされ、郵便ポストからはみ出すほどの赤い封筒が吐き出されていた。
「……おい、嘘だろ」
血の気が引くのを感じながら、急いで鍵を開けて部屋に飛び込む。
「春! 春、いるか!?」
薄暗いリビング。電気が消えた部屋の隅で、春は膝を抱えてうずくまっていた。
その足元には、ポストから投げ込まれたらしい赤い手紙の残骸が散らばっている。中身は全て、通学路や家の窓から隠し撮りされた春の写真だった。
「……お、お父さん」
俺の顔を見るなり、春は縋り付くように立ち上がった。その目は恐怖で見開き、異常なほど充血している。
「来たの、さっき……! 何人もでドアをガンガン叩いて、『春ちゃん、いるんでしょ』って、ドアノブをずっとガチャガチャ回して……っ!」
「落ち着け、春! 怪我はない!?」
「怪我なんか問題じゃない! 殺される、私、このままじゃ連れ去られる……っ!」
パニックに陥り、過呼吸のように肩を上下させる娘。
俺は激しい後悔に一瞬だけ頭を抱えたが、すぐにいつもの『余裕のある父親』の顔を繕った。
「大丈夫だ、春。お父さんが今日、直接あいつに話をつけてきたんだ。これはただの、最後の腹いせみたいなもんだよ。もうあいつらは来ない」
俺は散らばった写真を足で端に除け、震える春の肩に手を伸ばした。
「ドアの落書きなんて、明日お父さんがペンキで綺麗に塗り直してやる。警察にもちゃんと巡回するように言っておくからさ。ここは安全だ。だから、もう心配──」
「……触らないで!!」
バシッ、と。
俺の伸ばした手は、春によって鋭く弾き払われた。
「……え」
「適当なことばっかり言わないでよ! お父さんが話をつけてきた結果がこれなの!? お父さんが中途半端に刺激したから、あの人たち怒って、お父さんがいない時間を狙って来たんじゃない!」
春の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。
俺を見据えるその目には、娘としての甘えも、頼りがいのある父親への期待も、もう一切残っていなかった。
「お父さんは、現実から逃げてるだけじゃない! 相手が本物のヤクザで怖いから、適当に誤魔化して、私がどれだけ怖い思いをしてるか見ないフリをしてるだけだ!!」
「ちがっ、春、お父さんはお前を──」
「嘘つき!! お父さんなんか……もう信じないっ!!」
春は血を吐くように叫ぶと、俺の胸を思い切り突き飛ばした。
不意を突かれた俺がたたらを踏んだ隙に、春は錯乱したようにリビングを飛び出し、そのまま玄関へと走った。
「ここにいたら、殺される……っ! 嫌だ、嫌だぁっ!!」
「おい、春!? どこに行くんだ、外は──」
バンッ!!
俺が止める間もなく、春は傘もささずに鉄扉を開け放ち、土砂降りの雨が降る夜の街へと飛び出していった。
「春っ!!」
慌てて玄関に駆け寄るが、薄暗い階段に彼女の姿はもうない。
冷たい雨風が、開け放たれたドアから吹き込んでくる。足元には、ヤクザの息子が送りつけてきた不気味な赤い手紙が、雨水に濡れて散らばっていた。
俺は、自分の70%の甘えが、たった一人の娘を『安全な家』から恐怖のどん底へ、そして文字通り最悪の『狼の群れ』の中へと追いやってしまったことを、この瞬間ようやく理解した。
「……くそっ!!」
俺は上着も着ずに、春を追って土砂降りの雨の中へと飛び出した。
「春っ! 春!! どこだ!!」
傘もささず、泥水に足を取られながら、手当たり次第に路地裏や駅前を探し回る。しかし、残酷なほど冷たい雨音だけが、俺の声を無情にかき消していった。
どれくらい走り回っただろうか。肺が破れそうになり、絶望で足が止まりかけたその時──。
ポケットの中のスマホが、無機質な着信音を鳴らした。
画面に表示されたのは『春』の文字。
俺は縋るような思いで通話ボタンを押し、ビデオ通話の画面を耳ではなく、目の前にかかげた。
「春!? ごめん、お父さんが──」
薄暗い路地裏でスマホの画面を覗き込んだ瞬間。
俺の心臓は、完全に凍りついた。
画面の向こうに映っていたのは、両手を乱暴に縛られ、半裸にされた春の姿だった。
薄汚れたコンクリートの床に転がされ、その肌には生々しい痣や傷がついている。俺がどんなに目を背けようとしても、彼女がすでに『凄惨な暴力』を受けた後であることは、誰の目にも明らかだった。
『あー、もしもし? お父さん?』
画面の端から、ひどくヘラヘラとした、耳障りな声が響いた。
あのコンビニの前で俺が適当に宥めたはずの、ヤクザのドラ息子だった。
そいつは、涙と恐怖でぐしゃぐしゃになった春の髪を乱暴に掴みながら、カメラに向かって醜悪な笑みを浮かべた。
『いやー、お父さんが余計なちょっかい出すからさぁ。このビッチがどこかに俺の秘密をバラす前に、たっぷりと『口封じ』させてもらったよww 感謝してよね、お父さんww』
「……っ……っっ……!」
声が、出なかった。
今まで生きてきて、一度だって本気で感情を爆発させたことのない俺は、怒り狂うことすらできなかった。
ただ言葉が出ず、頭が沸騰したように熱くなり、意識が白く飛びそうになる。スマホを持つ手が、痙攣したようにガタガタと震えていた。
目が焼けるように熱く、喉が干からびたように渇く。爪が指の肉から浮き上がるほどの力で拳を握りしめ、全身の血液が異常な速度で巡る音が、耳の奥でガンガンと鳴り響いていた。
画面の向こうで、そいつは自分の勝利と絶対的な優越感に浸りきっていた。
──だが、春は違った。
『……っ、ふざけんな……っ!!』
ただされるがままの弱い少女ではなかった。
縛られた身体を必死に捩り、春は馬鹿みたいに笑うそいつの腕に、獣のように食らいついたのだ。
ブチィッ、と。
肉を千切る生々しい音が、スピーカー越しに響く。
『痛ぇッ!? てめぇ、このビッチが!!』
先輩の顔から薄ら笑いが消え、醜い怒りが露わになる。
そいつが顔を真っ赤にして懐から取り出したのは──鈍い鉄色の、本物の拳銃だった。組の事務所から、親の目を盗んで持ち出してきたのだろう。
チャカッ、と。
冷たい銃口が、春の頭に突きつけられた。
その瞬間。俺の全身を支配していた沸騰するような怒りは、嘘のように消え失せた。
代わりに、バケツで氷水を被ったように一気に体温が下がり、絶望的な恐怖が全身を縛り付ける。
「待てっ……! 待ってくれ!! 頼む、やめてくれ!!」
俺は路地裏の泥水の中に膝から崩れ落ち、スマホの画面に向かって、なりふり構わず命乞いをした。大人の余裕も、プライドも、何もかもを投げ捨てて。
「俺が悪かった! なんだってする、お前の靴だって舐める! だから、春だけは……春だけは助けてくれ!!」
銃口を突きつけられた春も、目の前まで迫った死の恐怖に顔を歪め、泣き叫んでいた。
『お父さん、助けて……っ! 嫌だ、死にたくない……っ、お父さんっ!!』
「春っ!! 今行く、絶対に行くから──!!」
だが、自分の歪んだ優越感と暴力に脳を完全に焼かれたそいつは、もはや人間の言葉など聞いてはいなかった。
俺の無様な命乞いも、春の絶望の悲鳴も、そいつにとっては最高のエンターテインメントでしかなかったのだ。
『ギャハハハハハッ!! 傑作!! マジでウケる!!』
壊れたような高笑いが、雨音を切り裂く。
そして。
『じゃあね、お父さん』
『やだっ……助けて!! お願い助けて!!! お父さん!!! お父さ──』
乾いた破裂音が、通話を強制終了させた。
■■■
気づいた時には、両腕を屈強な男たちに強く掴まれていた。
「おい、しっかりしろ! わかるか!」
顔に容赦なく冷たい雨が打ち据え、ぼやけた視界に警察官の制服が映り込む。
俺は路地裏の泥水の中に倒れ伏していた。落としたスマホは、真っ暗な画面のまま水たまりに沈んでいる。
……あまりのショックに脳が耐え切れず、俺はあの暗転した画面を見た直後、そのまま意識を飛ばしてしまっていたらしい。
「あ……」
空白だった脳裏に、数分前、いや数十分前の映像がフラッシュバックする。
縛られた春。響き渡る高笑い。銃口。そして、全てを終わらせた乾いた破裂音。
「は、春……っ! 春!!」
俺は弾かれたように跳ね起き、腕を掴む警察官たちを乱暴に振り解こうとした。
「落ち着け! 君、こんな所で何をして──」
「離せッ!! 春のところに行かせろ!! あいつが、俺の娘が撃たれたんだ!! 早く行かないと!!」
泥まみれになりながら、獣のように暴れ狂う俺を、数人の警察官がかりで押さえつける。
大人の余裕も、冷静な計算も、そこには微塵もなかった。ただ、娘の名前を絶叫し、血が滲むほど地面を掻き毟って前へ進もうとする惨めな父親がいただけだ。
だが、そんな俺の抵抗も空しく、結局俺は腕を後ろ手に固められ、サイレンを鳴らすパトカーの後部座席へと力ずくで押し込まれた。
無機質な蛍光灯が照らす、警察署の取調室。
用意されたパイプ椅子に座らされ、タオルを渡されても、俺はひたすらガタガタと震えながら「春はどこだ」と虚ろな目で繰り返し続けていた。
やがて、分厚いファイルを持った初老の刑事が部屋に入ってきた。
彼はひどく沈痛な面持ちで俺の前に座り、静かに口を開いた。
「……向井さん。落ち着いて聞いてほしい」
刑事の口から語られたのは、俺にとって何の意味も持たない『事後報告』だった。
俺が泥水の中で気絶している間に、事件はすでに『解決済み』になっていたのだ。
当然といえば当然だった。
住宅街に近い裏路地で実弾が発砲されれば、即座に通報が入る。
駆けつけたパトカーのサイレンを聞いて逃げ出そうとしたあのドラ息子は、あっけなく取り押さえられ、現行犯で逮捕されたという。
「……で?」
俺は、カラカラに乾いた喉から、掠れた声を絞り出した。
「春は。俺の娘は、どこにいるんだ」
「……」
刑事が重苦しい沈黙と共に伏せた目で、全てを悟った。
俺の、たったひとつの日常は、もうどこにも存在しないのだ。
「……犯人に、会わせろ」
気づけば、俺は立ち上がっていた。
パイプ椅子が後ろに倒れ、けたたましい音を立てる。
「あのガキをここに連れてこい!! 俺に殴らせろ!! ぶっ殺してやる、俺の春を……春を返せェッ!!」
「向井さん! やめなさい、落ち着くんだ!」
初老の刑事が慌てて立ち上がり、俺の肩を掴んで止めようとする。だが、完全に正気を失っていた俺の力は、刑事一人の手には負えなかった。俺は刑事の腕を乱暴に振り払い、取調室のドアへと向かって突進した。
「おい、誰か来てくれ! 押さえろ!」
刑事の怒声に呼応するように、ドアが勢いよく開き、待機していた警官たちが雪崩れ込んできた。
「離せッ!! 離せェ!! あいつだ、あいつが春を殺したんだぞ!? なんで俺が止められなきゃならないんだ!!」
俺は喉が裂けるほど叫び、立ちはだかる警官たちを力任せに殴り飛ばそうと暴れ狂った。しかし、一人、また一人と腕や胴体に組み付かれ、到底一人では抗いきれない重みがのしかかる。
合計4人がかりの屈強な警官たちに完全に押さえ込まれ、俺は取調室の冷たい床へと力ずくで引き倒された。
「ぐっ……!!」
両腕を背中で捻り上げられ、頭を硬い床材に強く押し付けられる。
それでも俺は、血が滲むほど歯を食いしばり、床を蹴って這いずろうとした。だが、4人の大人の体重で完全に固定された身体は、もうピクリとも動かなかった。
警察が被害者の遺族に加害者を会わせるわけがない。そんな法治国家の当たり前のルールすら、今の俺にはただの理不尽な暴力でしかなかった。
大人の余裕だの、交渉だの、適当にいなすだのと偉そうに嘯いておきながら、結局俺は、最愛の娘の復讐のためにこの薄暗い部屋のドア一枚すら開けることができない。ただの無力で惨めな父親なのだ。
全身から力が抜け、限界まで張り詰めていた怒りの糸が、ぷつりと切れた。
「頼むよ……」
床に顔を押し付けられたまま、俺の口から情けない声が零れ落ちた。
「俺が悪かったから……。でも、お願いだから……あいつを……殴らせ、てくれよ……」
ボロボロと溢れ出した涙が、取調室の冷たい床にシミを作っていく。
もう二度と返事をしてくれない娘の名前を呼びながら、俺はただ地面に顔を擦り付けて、惨めに泣き続けることしかできなかった。
数時間後。
すっかり力が抜け、抜け殻のようになった俺は、警察署の正面玄関から外へと出された。
地面に寝転がっていたただの不審者としてではなく、『家族を殺された哀れな遺族』という、一生消えることのない残酷な肩書きを背負わされて。
自動ドアが閉まる音が、背後で冷たく響いた。
外はまだ、絶え間なく雨が降り続いている。
俺は、もう帰るべき理由も、守るべき光もなくなった灰色の街の風景を、ただ焦点の合わない目で見つめていた。
■■■
時間は、あっという間に過ぎていった。
まるで自分だけが現実から切り離され、水中を漂っているかのような、ひどく曖昧で無機質な時間。
警察病院の霊安室で、白い布を被せられた冷たい『ホトケ』と対面した時も。
そのあまりにも現実離れした光景のまま、事務的に葬式の日程が組まれていく時も。
俺の頭の中は、白く靄がかかったように何も機能していなかった。
通夜の席には、すっかり連絡を取らなくなっていた母親──俺の元妻や、その親戚たちがこぞってやって来た。
彼女たちは、遺影の前で泣き崩れ、そして振り返りざまに、俺に憎悪の満ちた視線を突き刺した。
「あなたがついていながら、どうして……!」
「どうして春を守れなかったの! どうして、あの子のSOSを察してやれなかったのよ!」
胸ぐらを掴まれ、罵倒され、平手打ちを食らった。
周囲の親戚たちも、ヒソヒソと俺を責め立てていた。父親失格。人間のクズ。自分の娘を見殺しにした男。
だが、俺の心には何の波風も立たなかった。悲しいとも、悔しいとも思わなかった。
そんなもの、俺が一番わかっている。
他ならぬ俺自身が、あの日、大人の余裕などというくだらない甘えで、娘の命を切り捨てたのだ。
あの罵声も、涙も、俺が彼女たちから浴びせられる程度の罰では生温いくらいだ。俺は、この世の誰よりも無能で、傲慢で、醜悪な父親だった。
──そして、春の葬式がある日の朝。
「……」
俺は、薄暗い自室のベッドに腰掛けていた。
時計の針は、もうすぐ葬式の開始時刻を告げようとしている。
だが、俺は喪服に着替えることもせず、ただ呆然と、手の中にある冷たくて重い『鉄の塊』を見つめていた。
リボルバー式の拳銃。
裏社会の探偵まがいをしていた時に護身用として手に入れたものだったか、あるいは春が殺された後に狂ったようにツテを辿って手に入れたものだったか。
もう、どこでどうやって手に入れたのかすら、記憶がひどく危うかった。
カチャリ、と。
無意識にシリンダーを振り出し、実弾が一発だけ込められているのを確認する。
そろそろ、時間だ。
喪主である俺が仮に葬式に行かなかったとしても、元妻や親戚たちが勝手に、滞りなく進めてくれるだろう。
そもそも、70%の力で事態から目を背け、春を地獄へ突き落とした俺なんかが、今さら父親面をして遺影の前に座っている資格など、どこにもないのだ。
「……ごめんな、春」
カラカラに乾いた声が、静まり返った部屋に落ちる。
俺は、冷え切った銃口を、自分のこめかみへとゆっくり押し当てた。
鉄の冷たさが、皮膚越しに骨へと伝わってくる。
怖いという感情すら湧かなかった。ただ、これでようやく、あの重苦しい雨の音と、娘の最期の悲鳴から解放されるのだという、奇妙な安堵だけがあった。
俺が、100%でこの現実と向き合う日は、もう二度と来ない。
俺の人生は、あの日、春と一緒に死んだのだから。
目を閉じる。
そして俺は、一切の躊躇いもなく。
ゆっくりと、その引き金を引いた。