キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
──これで、終わる。
そう、思っていた。
「……っ、ぁ……」
肺に冷たい空気が流れ込み、俺は激しくむせ返りながら目を開けた。
全身を泥水に浸したような重だるさはなく、むしろ異常なほど意識がはっきりとしている。
身を起こし、自分が倒れていた場所を見回して、俺は息を呑んだ。
「どこだ、ここ……?」
薄暗いアパートの自室でも、警察病院の霊安室でもなかった。
瓦屋根に木造の壁、軒先に吊るされた提灯。まるで時代劇のセットにでも迷い込んだかのような、古い和風の建物が立ち並ぶ見知らぬ街の路地裏。
混乱する頭を抱えようとして、俺は自分の手に違和感を覚える。
「……は?」
俺は自分の震える両手を見つめる。
長年の探偵稼業と不摂生でくすんでいたはずの肌が、妙に張りを取り戻していた。
立ち上がってみると、慢性的に痛んでいた腰の痛みもなく、身体が嘘のように軽い。
10代……とまでは言わないが、どう見ても20代の若さを取り戻していた。
それこそ、春がこの世に生まれ、俺が初めて『父親』になった、あの頃のような……。
「どうなってんだよ、これ……っ」
だが、自分の若返った身体に戸惑う暇など、今の俺には一秒たりとも与えられなかった。
鼓膜を破るような爆発音が響き、地面が激しく揺れる。
反射的に頭を抱え、路地裏から大通りへと視線を向けた俺の目に飛び込んできたのは、まさに『世界の終わり』と呼ぶにふさわしい絶望的な光景だった。
空は、おぞましいほどに赤く染まりきっていた。
血をぶちまけたような不気味な空の下、和風の街並みの至る所で火の手が上がっている。
そして、その炎の中でうごめいていたのは、人間の理解を拒むような異形の化け物たちだった。
「バケモノ……?」
現実には存在し得ない怪物どもが、建物を破壊し、街を蹂躙している。
だが、俺をさらに混乱させたのは、その化け物たちに立ち向かっている者たちの姿だった。
「いったいどんだけいるのよ!?」
「くそっ!!」
絶え間ない銃撃音。
怪物に向けて重火器をぶっ放し、爆発の中を駆け抜けているのは、どう見てもまだあどけなさの残る『普通の女の子たち』だった。
着物やどっかの制服に身を包んだ少女たちが、銃を構え、血を流しながらバケモノと死闘を繰り広げている。
「なんだよあれ……っ、どうなってんだよ!!」
俺は一歩後ずさり、背中の壁に強くぶつかった。
大人の男が、あんな少女たちを矢面に立たせて見ているだけなんて異常だ。俺の中に、ほんの僅かな大人のプライドが首をもたげかけた。
だが、現実は残酷だった。
路地裏の入り口に、一体の化け物が這い寄ってくる。
空っぽの手。武器もなければ、戦う術など何一つ持たない、ただの非力な男。俺が飛び出したところで、一秒足らずで肉塊に変えられるのは火を見るよりも明らかだった。
「……っ!!」
俺は這うようにして、その場から逃げ出した。
カッコつける余裕などない。誰かを助ける力なんてあるはずもない。
ただひたすらに路地裏の暗がりを駆け抜け、瓦礫の陰に身を隠し、化け物の足音が通り過ぎるのを息を殺して待つ。
通り過ぎれば、また別の安全そうな場所を探して泥にまみれながら這いずる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺が千切れそうなほど息を荒らげ、俺は逃げ惑うことしかできなかった。
春が生まれた頃の若い肉体を持っていようと、俺の中身は『娘を救えなかった無力で惨めな父親』のままだ。
赤く染まった空の下、少女たちの悲痛な叫び声と銃声を遠くに聞きながら、俺は暗い瓦礫の隙間でガタガタと震え、ただひたすらに逃げ隠れることしかできなかった。
■■■
瓦礫と土埃にまみれながら、逃げて、逃げて、ただあてもなく裏路地を走り続けた。
肺が血の味を帯び、足がもつれて転がり込んだ先の行き止まり。
「……ひぐっ、うぅ……っ」
そこで俺は、身を縮めるようにして泣いている一人の少女を見つけた。見慣れない桃色の着物に身を包んだ、まだ幼さの残る生徒だ。
こんな世界の終わりみたいな状況下で、彼女は一人きりで地面にへたり込んでいる。
遠くから、化け物の咆哮と建物の崩れる音が響いてきた。
逃げろ。早くここから離れろ。
俺の頭の中で、生存本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。俺は武器一つ持たない、無力で惨めな男だ。あのバケモノに見つかれば、今度こそ確実に死ぬ。
他人の子供にかまけている余裕なんて、どこにもない。
見捨てて逃げようと、俺は一度踵を返した。
だが──。
「……ぐすっ、うぅ……」
背中越しに聞こえるその小さな泣き声が、どうしても、あの雨の夜の春の悲鳴と重なって、俺の足を縫い留めた。
見捨てられない。もう二度と、子供のSOSから目を背けることなんてできない。
「……クソッ」
俺は自分を罵りながら踵を返し、泣いている少女のそばに片膝をついた。
「君。こんなところでどうしたの」
声をかけると、少女はビクッと肩を震わせ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
警戒心と不安の入り交じった瞳。俺はなるべく敵意がないことを示すように、両手を軽く上げて見せた。
「あ、あの……なくしちゃったの……」
「なくした?」
「うん……逃げる途中で、ころんじゃって……私の、大事な銃……っ」
少女はしゃくりあげながら、自分の手が空っぽであることを示すように力なく俯いた。
銃。
確かに、この異常な街を走り回っている少女たちは、全員が自分の背丈ほどもある重火器を当たり前のように持ち歩いていた。
だが、今はそんなものを探している場合じゃない。空は赤く染まり、そこら中で化け物が暴れまわっているのだ。命があってこその武器だろう。
「銃なんてまた買えばいいじゃないか。きっと、あー……この世界なら、まぁ、売ってるんじゃない、か……? 今は生き残るのを優先しよう。ほら、立って」
俺は手を差し出しながら、半ば強引に彼女を立たせようとした。
しかし、少女はその場でぶんぶんと激しく首を横に振った。
「違うの……! だって、銃を持ってないと、裸より恥ずかしいもん……っ」
「(そんなに!? そんなになの!?)」
俺は思わず、差し出しかけた手を空中でピタリと止めてしまった。
どういう教育を受けたらそんな倫理観に育つんだ。いや、そもそも女子高生くらいの年齢の子供たちが平然と銃火器を撃ち合っている時点で、この街の常識は俺のいた世界とは根底から狂っているらしい。
だが、少女の瞳は真剣そのものだった。
ここで無理やり引っ張って連れて行こうとしても、彼女は泣いて抵抗するだろう。この騒ぎの中で大きな声を出されれば、それこそ化け物に見つかってしまう。
「……はぁ」
俺は深いため息をつき、頭をガシガシと掻き毟った。
「分かった、分かったよ。おじさんが一緒に探してやるから、泣き止んでくれ。落としたのはどの辺りだ?」
「ほんとに!? ありがとう! ……ふふっ、でも、おじさんっていう年齢に見えないよ。私、フジタ」
涙と泥で汚れた顔を袖で乱暴に拭いながら、彼女は少しだけはにかんで名乗った。
「フジタ……ちゃんね。お世辞として受け取っておくよ。でも中身はおじさんかもよ?」
「そうなの? じゃあおじさん」
自分が、異形の化け物が跋扈するレッドゾーンのど真ん中で、手ぶらのまま『迷子の銃探し』に付き合おうとしている。
どう考えても自殺行為だ。70%の力で逃げ回るべき場面で、俺は完全に間違った選択をしている。
それでも、目の前で泣いているこの子を見捨てて逃げるくらいなら、化け物に食い殺された方がマシだと思える自分がいた。
■■■
「よし、行こう。落としたのはどっちだ?」
「あっち……逃げてきた道……」
俺は怯えるフジタちゃんの手を引き、赤く染まった空の下、今来たばかりの瓦礫の道を慎重に引き返し始めた。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が止まらない。丸腰のままレッドゾーンを逆走するなど、どう考えても正気の沙汰ではない。大人の賢い処世術なら、こんな無謀な真似は絶対にしない。
だが、俺の繋いでいるこの小さな手は、あの雨の夜に見失ってしまったあの時の手と同じくらい、温かくて、ひどく震えていた。
今度こそ、絶対に離さない。俺は100%の力で、この子の『落とし物』を見つけてやる。
「おじさん、武器もないのになんで一緒に来てくれるの……?」
「……おじさんもね、大事なものを見失って逃げちゃったダメな大人だからさ。せめて君の探し物くらいは、見つけてやりたいんだよ」
自嘲気味に笑いながら瓦礫の山を越えようとした、その時だった。
「ひっ……!?」
すぐ前方の路地から、建物の壁を砕きながら異形の化け物が飛び出してきた。
あまりの巨体とプレッシャーに、フジタちゃんが悲鳴を上げてその場にへたり込む。
化け物が、俺たちを完全に捉えていた。
「(逃げろ……! いや、間に合わない!)」
化け物がフジタちゃんへと襲いかかる。
俺は思考するよりも先に、フジタちゃんの前に立ち塞がり、その丸腰の身体を盾にしていた。
「ぐはぁッ……!?」
ダンプカーに撥ねられたような、圧倒的な衝撃。
たった一撃。防御姿勢をとることすら許されず、俺の身体はボロ屑のように宙を舞い、後方の瓦礫の山へと激しく叩きつけられた。
「ガハッ……! あぁっ……あぁぁぁっ!」
肋骨が数本、確実に折れた。全身の骨が軋み、口から赤黒い血がどっと吐き出される。
いくら若返ったとはいえ、俺はただの人間だ。銃弾を浴びても平気な顔をしているこの世界の生徒たちとは違う。このバケモノの攻撃をまともに受ければ、文字通りミンチになる。
「お、おじさん……っ!!」
フジタちゃんの悲痛な叫び声が聞こえた。
薄れゆく視界の中、化け物がゆっくりと、へたり込んでいるフジタちゃんへと距離を詰めていくのが見える。彼女は恐怖で腰が抜け、後ずさることしかできていない。
「ク、ソ……っ、動け、動けよ俺の身体……!」
激痛に霞む目を無理やり見開き、血反吐を吐きながら身をよじる。
その時、俺の視界の端──吹き飛ばされた先の瓦礫の陰に、鈍く光るものが見えた。
「(……あれはっ!)」
桃色に塗装された、可愛らしいアサルトライフル。フジタちゃんが落としたであろう銃だった。
化け物がフジタちゃんへと距離を詰め、その異形の身体を大きくのけぞらせた。
奴には腕がない。その代わり、ひび割れた頭部のような部位が不気味に発光し始め、そこへ周囲の空気を巻き込むようにして、どす黒いエネルギーの塊が急速に圧縮されていくのが見えた。
「(……撃つつもりか!)」
あれを食らえば、フジタちゃんは跡形もなく吹き飛ぶかもしれない。
俺は全身の激痛を無視して瓦礫の中から飛び出した。瓦礫の下敷きになっていた桃色の銃を掴み取り、それを上着の裏に隠すようにして抱え込む。
「うおおおおおおおッ!!」
獣のような咆哮を上げ、俺はエネルギーを充填していた化け物の側面に、渾身のタックルをぶちかました。
「逃げろ、フジタちゃん!!」
不意の質量をぶつけられ、化け物の体勢が大きく揺らぐ。
放たれたエネルギーの塊は射線から外れ、すぐ横の廃ビルの壁面を轟音と共に消し飛ばした。熱波が頬を焼き、バラバラと瓦礫が降り注ぐ。
標的を外した化け物が、苛立ちと共にその無機質な赤い眼球を俺へと向けた。
次の一撃を食らえば、間違いなく俺は死ぬ。恐怖で全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、足の震えが止まらない。あの雨の夜、ヤクザの銃口を前にして泥水に這いつくばった時と同じ、圧倒的な死の恐怖。
再び、化け物の頭部が発光する。
俺は地面を蹴り、無我夢中で横へと跳んだ。
さっきまで俺が立っていた場所のコンクリートが、エネルギー弾によってすり鉢状に抉り取られる。
爆風に煽られながらも、俺は地面を転がり、瓦礫と泥にまみれながら必死に立ち上がった。スマートな立ち回りなどできるはずがない。這いつくばり、全力でロールして射線を外し続ける。
「ハァッ……ハァッ……!!」
息が切れ、肺から血の味がする。
化け物が再びエネルギーを圧縮し始めるその僅かな隙を突き、俺は地面を蹴って再び化け物の懐へと突進した。
「死んで、たまるかァッ!!」
ドゴォッ、と肩から相手の巨体にぶつかり、強引に体勢を崩させる。
硬い外殻に弾かれ、すでに折れている肋骨が悲鳴を上げた。だが、ここで立ち止まればやられる。俺はすぐさま体を反転させて距離を取り、化け物が体勢を立て直して放ってきた追撃のエネルギー弾を、再び泥臭く地面を転がって回避する。
転がり、避け、そしてタックルを叩き込む。
三度、四度。
70%で受け流す大人の余裕なんて微塵もない。ただ己の命をチップにして、必死に削り合いを挑むだけの無様で泥臭い抵抗。
幾度ものタックルでバランスを崩され、化け物もいよいよ苛立ちの頂点に達したらしい。
奴は俺を確実に仕留めるため、至近距離まで肉薄し、これまでで最も巨大などす黒い光を顔面で膨張させた。
回避する隙はない。直撃コースだ。
だが。
「──開き王手。隙だらけだ、バケモノ」
俺はずっと上着の裏に隠していた右手を、勢いよく引き抜いた。
現れたのは、可愛らしい桃色のアサルトライフル。
「あっ、あれ、私の銃……」
化け物が発射の直前、予期せぬ武器の出現に僅かに怯む。
俺はその一瞬を見逃さず、エネルギーが臨界点に達しようとしている化け物の発光部へと、銃口を真っ直ぐに押し付けた。
「これで、終わりだ!!」
引き金を、限界まで引き絞る。
連続する激しい発砲音と強烈な反動が、俺の腕の骨をミシミシと軋ませた。この世界の生徒たちが平然と扱っているこの武器は、大人の男の腕力でも制御しきれないほどの暴れ馬だった。
至近距離から全弾を叩き込まれ、さらには自身の圧縮していたエネルギーを暴発させられた化け物は、断末魔の叫びを上げながらドロドロと崩れ落ち、やがて赤い霧となって完全に消滅した。
「はぁ……はぁ……っ……」
銃を取り落とし、全身の力が抜けた俺はその場に仰向けに倒れ込む。
全身が痛い。息をするだけで激痛が走る。
でも、俺は生きていた。今度こそ、逃げずに、命懸けで守り抜いたのだ。
仰向けに倒れ、荒い息を吐いていると、ふいに上空から、透き通るような音が響き渡った。
「あ……」
見上げた俺の視界で、信じられないことが起きていた。
街を不吉に染め上げていたあの禍々しい赤い空が、消えていく。
その向こう側から姿を現したのは、息を呑むほどに美しい、透き通るような満天の星空だった。
呆然とする俺の視界の遠く、美しい夜空を切り裂くように、一筋の『流れ星』がスッと流れていくのが見えた。
「おじさんっ!」
背後から駆け寄ってきたフジタちゃんの声にハッと我に返り、俺は軋む身体を無理やり起こす。
そして、自分の足元に落ちていた桃色の銃を拾い上げ、彼女へと差し出す。
「ほら……君の、落とし物」
「……うんっ!」
フジタちゃんは銃を大事そうに胸に抱きしめると、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔をほころばせた。
「ありがとう、おじさん! 私の大事なもの、見つけてくれて……本当にありがとう!」
暗い瓦礫の街を照らすような、満面の笑み。
──ドクン、と。
胸の奥で、小さく脈打つ音がした。
何なのだろう、この気持ちは。
春が死んだ日から、俺自身の心はずっと、完全に死んでいたはずだった。感情に蓋をして、絶望に沈み、ただ灰色の世界で息絶えるのを待っていただけだった。
なのになんでだろう。
どうしてこんなにも、胸の奥の冷たい空洞に、暖かい光が差したような気持ちなのだろう。
赤い空が晴れた美しい夜空の下で、失くした大事なものを取り戻した少女が、俺に向かって笑ってくれている。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、熱いものがこみ上げてくるのを止められなかった。
「(……もう少し、生きてみても、良いのかもしれない)」
俺の人生は、あの日終わった。
でも、ボロボロになったこの無様で惨めな命にも。もしこの狂った世界で、この子たちの『失くしたもの』を探し、笑顔を取り戻すという役割があるのなら。
「……ははっ」
俺は、キヴォトスの澄んだ星空を見上げながら、自分でも驚くほど穏やかに、心の底から笑っていた。
■■■
キヴォトスに訪れてから数週間。
すっかり俺は、この百鬼夜行という街の空気に馴染んでいた。
あちこちで持ち歩かれている銃を見ても、もう怖気づくことはない。もちろん生身の俺に弾丸が当たったら死ぬほど痛いだろうが、意外にも生徒たちは皆温厚で、理不尽に銃撃のトラブルに巻き込まれるようなことは今のところ無かった。
今日も日向ぼっこをしよう。
最近見つけた、静かでぽかぽかとした良いスポットがある。
あそこでしばらく休憩したら、また俺の立ち上げた『遺失物預り所』に戻ろう。
そう思っていた。
「……え?」
ふと、横の方から訝しげな声が聞こえた。
日向の暖かさで意識が飛びかけていた俺は、目をこすりながら声のした方角へ視線を向ける。
そこには、ひとりの少女が立っていた。
「(……春……?)」
ドクン、と心臓が跳ねた。
そこに立っていたのは、俺の娘──春にそっくりの少女だったからだ。
頭には猫のような耳が生えているし、背中にはふさふさとした尻尾も生えている。だが、少し癖のある黒髪も、切れ長の目も、どこからどう見ても春だった。
「(……俺がキヴォトスに訪れたのが、偶然ではないのだとしたら。もしかしたら、春はこうして生まれ変わったのかもしれない……)」
あり得ない奇跡にすがりつきたくなる。
しかし、この少女は春ではない。俺の顔を見ても何も反応していない、いや、むしろ地面で寝転がる不審な大人を見るような『ひどく嫌そうな顔』をしているのが、何よりの証拠だ。
彼女は春じゃない。全くの別人だ。
でも、それでも。
ああ、もう一度だけ。春じゃなくてもいいから。
やり直したかった。
ただの身勝手な自己満足でも、形だけでもいい。今度こそ、あんな切実な目をした子供を一人にはしない。
俺はゆっくりと身を起こし、服についた土埃を払いながら、彼女に向けて精一杯の柔らかい笑みを向けた。
「──おや。いい日差しだね」