【完結】キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第十二話 額縁の『内』、殻の『外』

 

 静寂が、狭い遺失物預り所の中に重くのしかかっていた。

 

 ちゃぶ台を挟んで向かい合う私たちの間に、言葉はない。

 外から聞こえる夜風の音すらも遠く感じられるほどの、息の詰まるような沈黙。

 

 陽介の口から絞り出すように語られた、あまりにも重く、凄惨な過去。

 自分の傲慢さから最愛の娘を理不尽な暴力で奪われ、自ら命を絶ったという、どす黒い真実。

 

 私は、膝の上でギュッと両手を握りしめていた。

 

 作戦参謀としての私の脳髄は、彼の語った事実を完璧に処理し、理解していた。彼がなぜキヴォトスで異常なほどの自己犠牲を払うのか。なぜ、私に対してあんなにも過保護で、狂気的なまでの優しさを向けていたのか。

 すべては、彼の深い後悔と贖罪のためだ。

 

 だが。

 

「……それで?」

 

 絞り出した私の声は、ひどく冷たく、そして震えていた。

 

「結局、娘を私に重ねてたんだ」

 

「……キキョウちゃん」

 

 陽介が悲痛な顔で私を見る。その目には、隠しきれない罪悪感が浮かんでいた。

 

「違う。最初はそうだったかもしれない……でも今は違う。俺は、君に春の影を重ねてなんかいない。俺は今、桐生キキョウという一人の生徒をちゃんと見ている」

 

 弁解するように早口で紡がれた言葉。

 しかし、その声はひどく空虚で、何一つ私の心には響かなかった。

 

「……嘘つき」

 

 ギリッ、と奥歯を噛み締める。

 胸の奥で、ドロドロとした黒い感情が渦を巻いてせり上がってくる。

 悲しみ、絶望、そして──抑えきれないほどの、激しい怒り。

 

「確かに、その話には同情する。キヴォトスで聞いたこともないくらいどす黒くて、とんでもない出来事。……胸が痛くなるくらい、悲惨な過去だと思う」

 

 私はちゃぶ台に身を乗り出し、陽介を強く睨みつけた。

 

「だけど……今まで私と過ごしてきた時間は、すべてハリボテだったの……?」

 

 深夜に二人でちゃぶ台を挟み、将棋を指した時間。

 他愛のない冗談を言い合って、一緒にカップ麺をすすった時間。

 私が危機に陥った時、彼が身を呈して私を守ろうとしてくれた、あのどうしようもなく暖かくて不器用な優しさ。

 

 あれはすべて、『桐生キキョウ』に向けられたものではなかったのか。

 ただ、彼が過去の幻影を宥めるための、おままごとだったのか。

 

 なんで自分でもこんなに怒っているのか、分からなかった。

 感情を殺し、盤面を俯瞰する『作戦参謀』でいるはずの私が。どうしてこんなにも、怒りと、どうしようもない無力感に全身を包まれているのか。

 

「私は……あんたの言う通り、自分の落とし物を見つけたくてここに来た」

 

 声が震える。喉の奥が熱く焼け付くように痛い。

 

「なのに……私は、あんたの落とし物の『代わり』にされてた」

 

 その言葉は、鋭い刃となって陽介の胸を正確に抉ったようだった。

 陽介はハッと息を呑み、何かを言い返そうと口を開く。

 

「それは……ちが……っ」

 

 だが、彼の言葉はそこで途切れた。

 否定しきれなかったのだ。どんなに取り繕おうと、私に近づき、私に優しくした最初の理由が『亡き娘と瓜二つだったから』という事実は、決して消えない。

 

 自分の中にあるずるさに思い当たる節があったのか、彼は言葉を濁し、痛ましげに目を伏せた。

 

「図星」

 

 私は、自嘲するように短く吐き捨てた。

 

「……最低だね、アンタ」

 

 その瞬間、陽介は弾かれたように顔を上げ、目を丸くして私を見た。

 暗い預り所の明かりの下で、彼が呆然と見つめる私の顔。

 

 ぽたり、と。

 ちゃぶ台の上に、温かい水滴が落ちた。

 

「……え」

 

 私はそこで初めて、自分が泣いていることに気がついた。

 冷静沈着で、いつだって感情を排して盤面を支配していたはずの作戦参謀が。

 ただひたすらに、子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼしていたのだ。

 

「なんで……っ、なんで、こんな……」

 

 乱暴に袖で涙を拭うが、後から後から溢れてきて止まらない。

 悔しかった。惨めだった。

 

 身代わりだったと分かってもなお、彼と過ごした時間を『嘘だった』と切り捨てられない自分が、腹立たしかった。

 

「私は、アンタのことが……っ」

 

 口から飛び出しかけたその言葉を、私は必死に噛み殺した。

 言ってはいけない。これ以上、惨めな思いなんてしたくない。

 

 私はバンッとちゃぶ台に手をついて立ち上がると、振り返ることなく遺失物預り所の引き戸へと走った。

 

「キキョウちゃん!! 待って、キキョウちゃん!!」

 

 背後から、陽介の焦燥に満ちた叫び声が響く。

 だが、私の足は止まらない。

 

 乱暴に引き戸を開け放ち、私は夜の百鬼夜行の街へと飛び出した。

 冷たい夜風が、涙で濡れた頬を切り裂いていく。

 

 どこに行くあてもない。ただ、今は一秒でも早く、あの息の詰まるような彼の優しさから逃げ出したかった。

 

「……馬鹿」

 

 誰もいない暗い路地裏を歩きながら、私は誰に言うでもなく呟いた。

 

 感情を殺すための穴熊は、もうとっくの昔に、跡形もなく崩れ去っていた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 キキョウちゃんが飛び出していった後の遺失物預り所には、乱暴に閉められた引き戸の音だけが虚しく響き渡っていた。

 

 誰もいなくなった薄暗い空間。ちゃぶ台の上には、さっきまで彼女が座っていた座布団と、ポツリと落ちた涙の染みだけが残されている。

 

「……」

 

 俺はちゃぶ台の前に座り込んだまま、ただ力なくうつむいていた。

 追わなければ。そう頭では分かっているのに、足が鉛のように重くて動かない。

 

『私は、あんたの落とし物の代わりだった』

 

 血を吐くような彼女の言葉が、脳内で何度もリフレインし、俺の心を物理的に縛り付けていた。俺の身勝手なエゴが、あんなにも気高く、誰よりも不器用で優しい女の子を壊してしまったのだ。

 

「追わなくていいのか」

 

「うぉぉぉああああ!?」

 

 不意に、背後から声をかけられ、俺は心臓が口から飛び出そうになるほど驚いて振り返った。

 

「ミ、ミノリちゃん……!? い、いつからいたの!」

 

 そこには、ヘルメットを小脇に抱え、腕を組んだミノリちゃんが仁王立ちしていた。

 彼女は俺の動揺など意に介さず、ジト目で呆れたように息を吐く。

 

「『君の計算式は完璧だ。……でも、一つだけ間違ってる』とスカして言っていたあたりからだな」

 

「ん最初からァ!!」

 

 俺が一番、過去のトラウマを乗り越えたカッコいい大人の顔をして話し始めた瞬間ではないか。

 思わずツッコミを入れてしまったが、ミノリちゃんの顔にいつもの威勢の良さはなかった。普段なら「労働者の権利が~!」と息巻いて一生でも演説をぶち上げているはずの彼女が、今はひどく冷静に、そして真剣な眼差しで俺を見下ろしている。

 

 彼女は、俺の過去の話をすべて聞いていたのだ。その上で、茶化すことも糾弾することもなく、ただ俺たちのことを心底心配して、ここで見守ってくれていた。

 

「……さしづめ、その春という娘が飛び出して行ったときと、同じ光景ではなかったのか?」

 

「……っ……」

 

 心臓を素手で鷲掴みにされたような衝撃だった。

 図星だ。どうしてこう、俺の周りの女の子たちは、俺の隠したい急所をこうも的確に抉ってくるのだろうか。そんなにも、俺は分かりやすい男なのだろうか。

 

「……また、間に合わなくなるぞ」

 

「……」

 

「娘の命の次は、一人の生徒の心を壊すことになるんだぞ」

 

「……分かってる」

 

 分かっている。分かっているんだ。

 あの日、雨の中で春が飛び出していった時、俺は中途半端な大人の余裕からすぐに追いかけず、取り返しのつかない悲劇を招いた。

 今、あの扉の向こうの暗闇に飛び出していったキキョウちゃんを一人にすれば、彼女の心は完全に孤立し、二度と修復できないほどに砕け散ってしまう。

 

 分かっているのに。俺の中の『自分が彼女を傷つけた』という罪悪感が、足を縫い留めて離さない。

 

「ぐほぉッ!?」

 

 俺がなおも動けずにいると、視界が唐突に弾け飛んだ。

 頬に走ったのは乾いた破裂音ではなく、鈍い衝撃。ミノリちゃんが、躊躇いの一切ないフルスイングのビンタ……いや、もはやただの『ストレートパンチ』を、俺の顔面に容赦なく叩き込んだのだ。

 

「ならどうして動かない!!」

 

「……い、痛すぎるよ、ミノリちゃん……口の中切れたし……」

 

 床に転がり、痺れる頬を押さえながら呻く俺を、ミノリちゃんは胸ぐらを掴んで強引に引きずり起こした。その瞳には、かつて見たことがないほどの激しい怒りの炎が燃えたぎっていた。

 

「あたしが今、何に怒ってるか分かるか、陽介!」

 

「……」

 

「娘を助けられなかった過去の傲慢さの事でも、娘のことをキキョウに重ねていたことでもないぞ!」

 

 ミノリちゃんは、俺の胸ぐらを掴んだまま、吠えるように叫んだ。

 

「あたしの知っている陽介は、生徒が困っている時、悲しんでいる時は、自分の身の危険なんて顧みずに『誰よりも早く突っ走る男』だ!!」

 

「……ッ」

 

「それなのに今、今の陽介はどうなんだ!! 過去の亡霊に怯えて、傷つくのが怖くて、大事な生徒が泣きながら飛び出していったのに、ウジウジと座り込んでいるだけじゃないか!!」

 

 彼女の怒声が、狭い預り所の空間にビリビリと反響する。

 それは、過去の絶望に再び囚われかけていた俺の目を覚まさせる、何よりも強烈な『檄』だった。

 

「娘のことを思い出し、悲しみにふけるのは誰にも咎められる事じゃない。その重い過去を背負って生きるのは、どうしようもなく苦しいだろう。……けれど!」

 

 ミノリちゃんは俺を突き飛ばすようにして手を離し、真っ直ぐに俺を指差した。

 

「まずは、目の前の『悲しんでいる生徒』を助けるのが、陽介の……大人のするべきことだろう!!」

 

「……ミノリ、ちゃん」

 

「あたしは追う」

 

 ミノリちゃんは踵を返し、開け放たれた引き戸の方へと向かった。

 そして、夜風の吹き込む出入り口で一度だけ立ち止まり、背中越しに俺へと言い放った。

 

「ついてこようが、ここで罪悪感に浸って待っていようが、強制するつもりはない。……だが」

 

 彼女の声は、冷たく、そして絶対的な意志を孕んでいた。

 

「……もし追ってこなかった場合。もう二度と、あたしたちの目の前に姿を現すんじゃない」

 

 それは、最後通牒だった。

 キヴォトスの生徒たちを守る『大人』であることを放棄するなら、もう二度と生徒には関わるなという、彼女なりの最大限の叱咤激励。

 

 バタン、と。

 今度こそ静かに引き戸が閉まり、ミノリちゃんの気配が遠ざかっていく。

 

「……ははっ」

 

 俺は、ジンジンと痛む頬を押さえながら、小さく笑いをこぼした。

 本当に、敵わないな。この世界の生徒たちは。みんな真っ直ぐで、不器用で、どうしようもなく眩しい。

 

「……動けよ、俺」

 

 両手で自分の頬を強く叩き、気合を入れる。

 もう、あの雨の夜のようにはさせない。俺は立ち上がり、上着を引っ掴むと、彼女たちの待つ夜の街へと駆け出した。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 日が消え、すっかり冷たくなった風が私を押し返すように吹いている。

 遺失物預り所から飛び出した私は、冷たい夜風に吹かれながら、あてもなく百鬼夜行の路地を歩いていた。

 

「……っ、馬鹿みたい」

 

 袖口で何度も目元を拭うが、一度堰を切った感情はなかなか収まってくれない。

 彼が私のことを『身代わり』として見ていたこと。そして、そんな彼を拒絶しきれなかった自分の弱さ。すべてがぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸の奥でひどく渦を巻いていた。

 

 その時だった。

 

「おっと、見つけたぜ。泣きっ面晒してどこ行くんだよ、お嬢ちゃん」

 

 前方の暗がりから、下品な笑い声が響いた。

 同時に、背後や左右の路地からも、足音を立てて数人の影が這い出してくる。

 見覚えのある代紋。そして、昼間路地裏で泥だらけのぬいぐるみを蹴り飛ばしていた、あの下っ端の顔があった。

 

「おいクソガキ、さっきは良くもやってくれたな」

 

 銃を構え、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる男たち。セリサワ組のチンピラだ。

 

「……あんたたち、一体何が目的なの?」

 

 私はゆっくりと息を吐き、涙の余韻を無理やり思考の奥底へ沈めた。作戦参謀としての冷徹な回路を、強制的に起動させる。

 

「私も百鬼夜行にずっといるけど、あんたたちの姿をよく見るようになったのはここ最近。……ただの小遣い稼ぎや縄張り争いにしては、動きが組織立ちすぎてる。何か企んでるの?」

 

「あぁ? 話す必要はねぇな!」

 

 男の一人が、唾を吐き捨てるように叫んだ。

 

「お前はここでボコボコにさせてもらうからな!」

 

 言い終わるが早いか、男たちが一斉に引き金を引いた。

 私は最小限の動きで路地の壁際に跳び退き、弾幕を躱しながら自らの銃を構える。

 

「チッ……!」

 

 反撃の数発を撃ち込んで気づいた。昼間の小競り合いの時とは違う。

 

 奴らの持っている銃器が、キヴォトスの裏社会に流通している安物の規格ではないのだ。火力も連射性能も、明らかに底上げされている。

 少しだけ苦戦を強いられる展開。だが、私にとっては所詮『少し大きめの石』が転がってきた程度の障害でしかない。

 

「……そこを退いて」

 

 私は冷静に射線を読み切り、二人の足元を撃ち抜いて体勢を崩させると、そのまま踏み込んで銃身で鳩尾を的確に打ち据えた。

 

「がはっ!?」

 

「ひぃっ、こ、この女、やっぱりおかしいぞ!?」

 

 悲鳴を上げて浮足立つ組員たち。

 あと数秒で全員の武装を解除し、完全に蹴散らす。そう計算式を立てた、次の瞬間だった。

 

「(……爆発……ッ!? いや、それにしては……!)」

 

 鼓膜を劈くような轟音。

 だが、それは手榴弾や爆薬の類ではない。私のすぐ後ろにあった頑丈な壁が、たった一発の『射撃』によって、綺麗に粉々に粉砕されていたのだ。

 

 風圧に煽られ、私は咄嗟に身を低くして後方に跳ぶ。

 粉塵が晴れた先、月明かりに照らされた路地の入り口に、一つの影が立っていた。

 

「く、組長……!」

 

 私を囲んでいた組員たちが、まるで自分の死刑を宣告されたかのように顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら道を開けた。

 そこに立っていたのは、一見するとどこにでもいるような、ただ平凡な少女。

 だが、その身体の至る所に刻まれた生々しい傷や火傷の跡が、彼女が『普通の生徒』の枠組みから大きく外れた異常な存在であることを物語っていた。

 

「……シオリが言ってたのはてめぇか」

 

 ドス黒い、血の匂いが染み付いたような低い声。

 彼女の手には、無骨で異様なまでに銃身の太い、ひどく改造された見慣れないアサルトライフルが握られていた。

 

「……ずいぶんなご挨拶。連邦生徒会の認めた弾丸じゃないでしょう、それ」

 

 私は背中に冷たい汗をかきながらも、作戦参謀としての虚勢を張り、冷ややかな声で返した。

 

「ほー」

 

 少女の目に、僅かに凶悪な光が宿る。

 

「普通の奴は、先の一撃で怯えてそんなことすら考えられねぇんだが。さすがはシオリを退けるだけあるな、『百花繚乱の作戦参謀』は」

 

「……」

 

「セリサワ組の組長、芹澤だ」

 

 その名乗りに、場の空気が一段と冷たく張り詰めた。

 これが、最近百鬼夜行の裏で急速に勢力を拡大しているというヤクザのトップ。

 

「組長の下の名前はアキコだぜ! 恐れおののけこのクソガ──。 ぎゃああ!?」

 

 空気を読まずに叫んだ組員の一人が、芹澤の放った凶弾によって真横に吹き飛ばされ、路地の壁に勢いよく叩きつけられた。

 

「下の名前は言うなって、何度も言ってんだろうが!!」

 

 芹澤が苛立たしげにアサルトライフルの銃口から立ち上る煙を吹き飛ばす。どうやら自分の名前にコンプレックスを抱えているらしい。

 味方すら容赦なく撃ち抜くその狂気的な振る舞い。だが、私はあえて口角を少しだけ上げ、挑発するように言った。

 

「へぇ、恐れられる組長さんが、ずいぶん可愛い名前してるんだ」

 

「黙りな」

 

 芹澤の目が、スッと細められた。殺意が、物理的な重さを持って私の肌を撫でる。

 

「……で? なんで最近うちの組に喧嘩売ってくんだよ」

 

「そっちが売ってるんでしょう? そもそも百鬼夜行の平和を乱す時点で、私との戦闘は免れない。話す意味もない事」

 

 口では強気を崩さないが、私の内心は激しい焦燥に駆られていた。

 

「(……勝てない)」

 

 作戦参謀としての冷徹な計算式が、即座に敗北の確率を弾き出している。

 

 あの異常な銃と正面から撃ち合えば、百花繚乱での戦闘経験値など度外視して力押しで負ける。さっきの弾丸は、おそらく限界まで火薬の量を増やし、特殊な弾頭を組み合わせた、なまじ爆弾のような改造弾だ。

 それに加えて、芹澤の持っているあの異形のアサルトライフル。銃火器に特別詳しいマニアというわけではないが、見ただけで分かる。

 

 とてつもなく『ヤバい』。

 

 そんな稚拙な語彙で片付けたくはないが、今の私の脳内を占めている警報は、その一言に尽きた。

 

「売られた喧嘩は、見逃したら舐められるのがうちの業界なんでな。……ここで、きっちり落とし前をつけさせてもらうぜ」

 

 ガチャッ、と。

 芹澤が、その凶悪なアサルトライフルのチャージングハンドルを荒々しく引き、初弾を薬室に装填した。

 

「くっ……」

 

 私は銃を構え直し、奥歯を強く噛み締めた。

 逃げ道はない。感情の波に溺れていたせいで、最悪の盤面に自ら足を踏み入れてしまったのだ。

 

 これまで幾度となく突破口を導き出してきたはずなのに、作戦参謀としての冷徹な計算式は、即座に『生存確率ゼロ』を弾き出している。

 

 芹澤の持つ異形のアサルトライフルが火を噴いた瞬間、世界が泥のように重く、スローモーションになったように感じた。

 迫り来る死の弾道を前にして、私の足は竦んで動かなかった。逃げ場がないという絶望よりも、先ほどの陽介への怒りと自身の惨めさで心がぐちゃぐちゃになっていたことが、私の思考をひどく鈍らせていたのだ。

 

 あぁ、こんな無様な路地裏で終わるのか。

 そう直感し、思わず目を閉じかけた、その時だった。

 

「──伏せろ、キキョウ!!」

 

 真横から飛び出してきた小さな影が、私の身体に猛タックルをかましてきた。

 

「えっ……!?」

 

 息が詰まるほどの衝撃。弾き飛ばされるようにして、私たちは冷たいアスファルトの上を無様に転がった。

 直後、私がさっきまで立っていた空間を、鼓膜を破るような轟音と共に凄まじい熱量が通り過ぎた。背後にあった分厚い木製の壁が、まるで飴細工のように粉砕され、パラパラと瓦礫の雨が降り注ぐ。

 

「ミノリ部長……!? どうしてここに」

 

「説教は後回しだ! 来るぞ!!」

 

 全身をアスファルトに打ち付けた痛みにも顔を歪めず、ミノリ部長は土埃にまみれながら素早く跳ね起きた。

 

 どうして、なんでレッドウィンターに帰ったはずのミノリ部長がここにいるのか。

 

 そんな疑問が胸の奥で渦巻くが、目の前の理不尽な殺意が感傷を許さない。

 私も即座に体勢を立て直し、彼女と横並びになって愛用の銃を構える。

 

「撃てッ!!」

 

 ミノリ部長の号令と共に、私たちは同時に引き金を引いた。

 私の計算式は完璧だった。二人の弾幕は一切の無駄なく、芹澤の急所を正確に捉えて殺到した。

 だが。

 

「……ハッ。小賢しいハエが、一匹増えただけじゃねぇか」

 

 芹澤は薄気味悪い笑みを浮かべたまま、一歩も退かなかった。

 雨のように降り注ぐ私たちの弾丸を、鬱陶しい羽虫でも払うかのように無造作に受け止め、真正面からアサルトライフルの銃口をこちらへと向けてくる。計算など及ばない、圧倒的な暴力の差。

 

「くぅッ!?」

 

 大気を震わせる異質な銃声と共に、鈍い苦悶の声が隣から響いた。

 見ると、芹澤の放った凶弾の一つが、ミノリ部長の左腕に直撃していた。

 

 本来、キヴォトスの生徒であれば、弾丸が当たっても弾かれるような衝撃があり「痛い」で済むはずだ。

 しかし、ミノリ部長の様子が明らかにおかしかった。

 

「ミノリ!? 左腕が……」

 

「……っ、なんだ、これ……! 痺れて、感覚が……動か、ない……っ!」

 

 ミノリ部長が顔を激しくしかめ、だらりと力なく垂れ下がった左腕を右手で押さえている。

 何か特殊な毒や仕掛けがあるわけではない。ただ純粋に、規格外の火薬量と銃身が生み出した『あまりの威力』。その暴力的なまでの運動エネルギーが、頑強な肉体すらも凌駕し、凄まじい衝撃となってミノリ部長の腕の神経を完全に麻痺させてしまったのだ。

 

「へぇ、その細腕でよ~く一発耐えるじゃねぇか。なら、次だ」

 

 芹澤が一切の容赦なく二発目を放つ。

 動かない左腕を庇い、回避行動をとれないミノリ部長は、咄嗟に右手に持っていた自身の銃を盾にしてその凶弾を受け止めた。

 

 ガァンッ!!! と、脳髄を揺らすような甲高い金属音が響き渡った。

 

「あ……っ!」

 

 すさまじい衝撃でミノリ部長の小さな身体が大きく後方へと弾き飛ばされ、地面に倒れ込む。

 

 彼女の身を守った愛用の銃は、弾丸の直撃を受けた中央の機関部がひしゃげるように大きく凹み、スプリングや撃鉄の部品がバラバラと宙に飛び散っていた。

 生徒にとって分身とも言える銃が、たった一発の威力で完全なスクラップへと変えられてしまったのだ。

 

「終わりだ、お前ら」

 

 丸腰になり地面に這いつくばるミノリ部長。

 私は作戦参謀でありながら、身を挺してくれた彼女を守るための有効な手立てを何一つ導き出せないまま、完全に防戦一方に追い込まれていた。

 

 絶対的な死神として君臨する芹澤は、容赦なくその凶悪な銃口を私たち二人の中心へと向ける。

 とどめとなる立て続けの攻撃を浴びせようと、彼女の指がゆっくりと引き金にかけられる。

 

「(……陽介……)」

 

 致死量の凶弾が、私たち二人を無慈悲に引き裂こうとした──次の瞬間。

 

「桂馬の高飛び歩の餌食!」

 

 絶望に染まりかけていた夜の路地裏に、その声は場違いなほど真っ直ぐに、そして力強く響き渡った。

 

「え……」

 

 その言葉を聞いた瞬間、恐怖と混乱でフリーズしかけていた私の思考回路が、嘘のように一気に高速回転を始めた。

 

 将棋の格言。

 調子に乗って単騎で敵陣に攻め込みすぎた桂馬は、ちょっとした歩兵の反撃にすら簡単に取られてしまうという戒め。

 

 今の芹澤は、まさにそれだ。

 己の圧倒的な暴力に驕り、味方すら無造作に吹き飛ばして、たった一人で私たちの目の前まで距離を詰めすぎている。

 

 

 なら、この盤面における『歩』とは? 

 

 

 視線を走らせる。

 コンマ数秒の世界。私の目は、先ほど芹澤自身が壁に吹き飛ばし、気絶している組員の腰を正確に捉えていた。

 未使用の閃光弾。

 

「──ッ!!」

 

 私は地面を蹴った。

 芹澤の指が引き金を引くより僅かに早く、気絶した組員の腰から閃光弾をむしり取り、ピンを抜いて芹澤の足元へと投げ込む。

 

「あぁ?」

 

 路地裏に、目を焼くような強烈な閃光と、三半規管を狂わせる轟音が炸裂した。

 間一髪。私が腕で目を覆いながら横へと転がった直後、視界と平衡感覚を奪われた芹澤の銃口から放たれた弾丸は、見当違いの夜空へと逸れていった。

 見事、詰みの一手を回避したのだ。

 

「チッ、目が……! 誰だてめぇ!」

 

 苛立たしげに叫ぶ芹澤の怒声。

 その向こう側、硝煙と土埃が舞う路地の入り口に、息を切らしながら立っている一つの影があった。

 

「陽介……」

 

 呆然と呟く私の声に、彼はいつもの、どこか飄々とした、けれど今は確かな熱を帯びた笑みを向けてきた。

 

「分かってる。この盤面における王将は俺。殺られてはいけないからね」

 

 彼はゆっくりと歩み寄り、ミノリ部長を庇うようにして私の隣へと並び立った。

 

「……キキョウちゃん、ごめん」

 

 その声には、先ほどまでの過去の亡霊に怯えるような響きはなかった。

 まっすぐに私を見つめる、大人の目。

 

「今ようやく、透き通るほど綺麗にこの世界を見れてる」

 

「……」

 

「春のことを忘れるまではしなくていい。けれど、……しっかりと『今』を生きないとね」

 

 あぁ、ずるい。

 そんなに真っ直ぐな瞳で言われたら、さっきまであんなにドロドロに渦巻いていた怒りや惨めさが、嘘みたいに溶けていってしまう。

 彼はもう、私の中に『別の誰か』を見ていない。

 

 ただ一人の生徒である、私自身を見てくれている。それが、痛いほどに伝わってきた。

 

「俺は、ちゃんと生徒たちと向き合う。遺失物預り所の所長としてね!」

 

 陽介はそう宣言すると、パチン、と指を鳴らし、わざとらしく口角を吊り上げてみせた。

 

「どうしたの? 『百花繚乱の作戦参謀』は、この程度で思考がパンクする?」

 

「……バカにしないで」

 

 私は小さく息を吐き、口元を隠すようにして立ち上がった。

 いつもの私を取り戻すための、強がりの言葉。作戦参謀としての誇りが、再び私の背筋をピンと伸ばさせる。

 脳内の計算式から『ノイズ』は完全に消え去っていた。

 

「俺も戦わせて、後衛(スペシャル)として」

 

 陽介の言葉に、私は愛用の銃を構え直し、静かに頷いた。

 

「ええ。……王将は一番奥で、どっしり構えて指揮を執っていなさい」

 

 視界が回復し始め、再び凶悪な殺意を放ち始めた芹澤を真っ直ぐに見据える。

 盤面は整った。

 

「ミノリちゃん! 今日は前衛を頼める!?」

 

「構わない!! 左腕はダメだが右腕がある!! それも駄目なら左足!!」

 

 頼もしいレッドウィンターの生徒の声に、陽介が力強く頷く。

 

「キキョウちゃんはあいつをひたすら削ることを考えて!」

 

「了解」

 

 作戦はシンプルだ。だが、一度は絶望に沈みかけた今の盤面において、これほど明確で心強い指示はない。

 

 大気を震わせる銃声が再び路地裏に轟く。

 

「ハッ、ちょこまかと……!」

 

 芹澤の放つ異常な威力の弾丸が、ミノリ部長の足元や背後の壁を次々と粉砕していく。

 だが、ミノリ部長は左腕がだらりと垂れ下がったままのアンバランスな状態でありながら、驚異的な身のこなしで凶弾をかいくぐっていた。時には瓦礫を蹴り、時には地面を転がり、芹澤の意識とヘイトを己に完全に釘付けにして時間を稼ぐ。

 

 その僅かな隙を縫って、私が芹澤の死角から正確な射撃を叩き込む。

 

「チッ……鬱陶しい……!」

 

 芹澤が苛立ちの声を上げる。私の放つ弾丸は彼女の硬いガードや装甲に阻まれ致命傷には至らないものの、確実に彼女の体力と精神を削り取っていた。

 

「(……いける。これなら)」

 

 そう思考を巡らせながら立ち位置を変えようとしたその時、私の視界の端に信じられないものが映り込んだ。

 激しい銃撃戦の背後、暗がりの中で、陽介が音もなく民家の壁をよじ登っていたのだ。

 

「(……陽介?)」

 

 一瞬目を疑ったが、すぐに彼の意図を察知した。王将は後衛でどっしり構えていると言ったはずなのに、自ら敵陣の背後へと回り込もうとしている。

 本当に、無茶苦茶な大人。だけど──だからこそ、信じられる。

 私は彼の気配を芹澤に悟らせないよう、さらに激しく、執拗に芹澤の顔面や手元を狙って牽制射撃を浴びせ続けた。

 

 しかし、芹澤もただ裏社会でふんぞり返っているだけのヤクザではない。

 

「ちょこまか逃げ回るだけのネズミが……これで終わりだ!!」

 

 苛立ちを極限まで高めた芹澤の猛攻が、さらに激しさを増す。ミノリ部長の回避もいよいよギリギリになり、盾代わりにしていたドラム缶やブロック塀も完全に粉砕され、周囲の障害物が底を突いた。

 

 そして。

 

「くっ……!」

 

 逃げ場を失い、体勢を崩したミノリ部長の額に、芹澤の凶悪なアサルトライフルの銃口がピタリと押し当てられた。

 

「チェックメイトだ、ハエ共」

 

 芹澤が歪んだ笑みを浮かべる。

 だが、私はその瞬間、ピタリと応戦をやめ──ふっ、と余裕の笑みを浮かべて芹澤を見据えた。

 

「……何がおかしい?」

 

 訝しむ芹澤に対し、私は静かに、将棋の格言を口にした。

 

「……入玉、かな」

 

 王将が敵陣の奥深くまで入り込むこと。それは本来、守りが薄くなる危険な手だが、同時に相手にとって最も捕まえにくく、予測不能な盤面を作り出す最強の攪乱でもある。

 

「あ……?」

 

 芹澤が怪訝な顔をして上空を見た、その時。

 

「うおおおおおおおおお!!!」

 

 近くの民家の屋根の上から、月明かりを背にして巨大な影が降ってきた。

 陽介だ。

 彼の手には、屋根から引っぺがしたであろう数枚の分厚い『瓦』が、ミルフィーユのように重ねて固く握りしめられている。

 

「なっ──」

 

 芹澤が銃口を上に向けようとした時には、もう遅かった。

 

「これで、王手だァッ!!」

 

 重力と落下の勢いを限界まで乗せた陽介の瓦スマッシュが、芹澤の脳天へと容赦なく叩き込まれた。

 

 鈍い衝撃音が響き、重ねられた瓦が粉々に砕け散る。いくら生徒の肉体が頑強でも、これほどの不意打ちの大質量を頭部からまともに浴びてはひとたまりもない。

 

「ぐあぁぁッ!?」

 

 粉々に砕け散った瓦の破片が、パラパラと冷たいアスファルトに降り注ぐ。

 陽介は着地の衝撃で少しふらつきながらも立ち上がり、服についた土埃をパンパンと払い落とした。

 

「いてて……足がジンジンする。それにしても」

 

 彼は倒れ伏した芹澤を一瞥し、どこか呑気な声で振り返った。

 

「やれやれ。俺は遅れてきたから状況がイマイチわかってないんだけど、事の発端は何なの?」

 

「……まぁ、いざこざ?」

 

 私は少しだけ視線を逸らし、短く答えた。

 まさか『陽介のことで我を忘れて泣きながら飛び出してきたところを絡まれた』なんて、死んでも言えるわけがない。

 

「いざこざねぇ。随分と派手な装備を持ったヤクザだけど……」

 

 陽介が首を傾げた、その時だった。

 

「……ッ、クソが……!」

 

 芹澤が、唸り声を上げながらゆっくりと身を起こした。

 頭から一筋の血を流し、足元をふらつかせながらも、その手にはしっかりとあのアサルトライフルが握られている。やはり、耐久力は常軌を逸している。大の大人による渾身の奇襲を受けてなお、彼女の意識は完全に刈り取られてはいなかった。

 

 だが、芹澤は私たちへ銃口を向けることはせず、舌打ちをしながら後ずさり、路地の奥へと体を向けた。明らかな逃げの姿勢だった。

 

「逃げるんだ? 私はこのまま戦ってもいいけど」

 

 私はすかさず銃を構え直し、銃口を芹澤の背中へと向ける。

 ここで仕留めきれなくても、遺失物預り所の力で完全に制圧し、連行することはできる。

 

 しかし、芹澤は振り返ることなく、首だけを僅かにこちらへ向けて、歪んだ笑みを浮かべた。

 

「……殊勝って言葉があってな。今日のところは退いてやるよ」

 

「負け犬の遠吠え?」

 

「ハッ。吠えてるのはお前らの方だ。……どうせ近いうちに、この百鬼夜行は『終わる』んだからな」

 

「……何を、言ってるの」

 

 私の問いかけに、芹澤は答えない。

 彼女の目に宿っていたのは、単なる負け惜しみではなく、何か確信めいた『絶対的な悪意の計画』の存在を匂わせる暗い光だった。

 

 直後、芹澤は残っていた閃光弾を自身の足元に叩きつけた。

 

「くっ……!」

 

 再び路地を包み込んだ目眩しの光。

 私が腕で視界を庇い、光が収まった数秒後には、芹澤の姿は夜の路地裏から完全に消え失せていた。後に残されたのは、硝煙の匂いと、不吉な宣告の余韻だけだった。

 

 ■■■

 

 ボロボロになった身体を引きずって遺失物預り所に帰り着くと、私たちはさっそく救急箱を引っ張り出し、並んで座って互いのケガの手当てを始めた。

 ミノリ部長の左腕はまだ少し痺れが残っているようだったが、骨に異常はないようでホッと胸を撫で下ろす。

 

 そんな私たちの鼻腔を、奥の小さなキッチンスペースから漂ってくる『ジュージュー』という肉の焼ける暴力的にいい匂いがくすぐっていた。

 

「結局、陽介もしっかり前を向けるようになったようで何よりだ」

 

 包帯を巻きながら、ミノリ部長がふと満足げに頷いた。

 

「……私は最初から分かってた」

 

 素直に肯定するのがなんだか悔しくて、私はわざとツンとそっぽを向いて答えた。すると、ミノリ部長はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。

 

「嘘は良くないなキキョウ! ならなぜあんなに涙を流しながら出て行ったんだ?」

 

「……っっ、見てたの……」

 

 カァァッ、と顔中から火が出るほど熱くなる。この人はどこまで私の醜態を把握しているのだろうか。穴があったら入りたい。

 

「何の話?」

 

 奥のキッチンから、エプロン姿の陽介がひょっこりと顔を出した。

 その手には、熱々の鉄板に乗せられた分厚いチーズインハンバーグと、山盛りの白いご飯が乗ったお盆が握られている。

 

「手当て終わった? ほら、夜食。腹が減っては戦はできぬってね」

 

 ちゃぶ台の上に並べられたハンバーグにナイフを入れると、中からとろりとした濃厚なチーズが溢れ出してきた。

 促されるままに、ご飯と一緒に一口頬張る。

 手慣れた、そしてどこか懐かしいような、ホッと心が温かくなる家庭の味だった。空きっ腹に肉の旨味とチーズのコクが染み渡り、さっきまでの激戦の疲労が溶けていくのが分かる。

 

 美味しい。本当に、美味しいのだけれど。

 私はふと、ある嫌な予感に気がついてしまい、箸を止めた。

 

「……ねぇ、まさかとは思うけどこれって」

 

 私の問いかけに、陽介は全く悪びれる様子もなく、満面の笑みで答えた。

 

「え、うん。春が好きだったチーズインハンバーグ」

 

「……」

 

「……」

 

 ピタリ、と。

 遺失物預り所の中の空気が、文字通り完全に凍りついた。

 私とミノリ部長は無言で顔を見合わせ、そして、ゆっくりと陽介へ視線を戻す。

 

「そんなこと言われたら、気まずくなるでしょ!!」

「そんなこと言われたら、気まずくなるだろう!!」

 

 見事なまでに声が揃った。

 

「えっ!?」

 

「全く反省していない様子だな陽介!!! 表に出るがいい!!」

 

 ミノリ部長がバンッ! とちゃぶ台を叩いて立ち上がり、鬼の形相で陽介の胸ぐらを掴み上げる。

 

「呆れた。娘の好きだったもの食べさせて、その姿を楽しもうって? ほんと最低だね」

 

 私はゴミを見るような冷ややかな視線を浴びせながら、ハンバーグをもう一口口に運んだ。味は本当に美味しいから余計に腹が立つ。

 

「えええええぇぇぇぇぇ!? いまそういう流れだった!? 違うよね!? 絆深まったねー、美味しいねーの流れだったよね!?」

 

 状況が飲み込めずパニックになる陽介を、ミノリ部長が有無を言わさず玄関の引き戸へとズルズルと引きずっていく。

 

「え、やだミノリちゃん。俺の服掴まないで。どこ連れてくの、ねぇ。ミノリちゃん! ねぇ! やだ! あのパンチもう一回はやだあああああ!!!」

 

 情けない悲鳴が夜の百鬼夜行にこだまし、やがて『ドゴォッ!』という鈍い打撃音と共に静かになった。

 

 ……少しだけ前を向けるようになっても、この大人の根本的なデリカシーの無さは、どうやらまだまだ再教育が必要らしい。

 私は冷めたお茶をすすりながら、小さく息を吐いた。

 

 机の上にある『彼女』も、このハチャメチャな空気にいつもより微笑んでいる気がした。

 

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