キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
百鬼夜行の自治区を歩きながら、私は手元の小さな本にすっかり意識を奪われていた。
陽介からもらった、年季の入った詰将棋の本。ページをめくるたびに提示される複雑な盤面に、作戦参謀としての思考回路が心地よく刺激される。頭の中で駒を動かし、最短の手順を導き出そうと眉間に皺を寄せていた、その時だった。
「キキョウちゃん、前を向いて歩かないと危ないよ?」
隣を歩いていた陽介から、保護者のような呆れ声が降ってきた。
「……これくらい平気。百鬼夜行の道なら目を瞑ってても歩けるわ」
「そういう問題じゃなくてさ。ほら、人にぶつかったり、溝に落ちたりしたら……」
私が本から目を離さずに適当な返事をすると、陽介はさらに説教を続けようとして──。
「いっっっっっっっッッッッ!?」
私のすぐ隣で、ひどく鈍い音が鳴り響いた。
驚いて本から顔を上げると、私に注意を向けるために横を向いたまま歩いていた陽介が、見事なまでに真正面から電柱に頭を激突させ、うずくまっていた。
「……何やってるの」
「あ、頭が割れるかと思った……っ! 目から火花が出た……!」
「人に注意しておいて自分が電柱にぶつかるなんて、説得力の欠片もないね」
涙目で額を押さえる陽介に冷たい視線を送りながら、私は小さくため息をついた。
本当に、どうしてこうも締まらないのだろう。でも、昨日の夜の息の詰まるような重い空気は、もう彼のどこからも感じられなかった。
「……ん?」
額を擦る陽介を放って前を向いた私は、ふと、道の両脇や広場で慌ただしく作業をしている人たちの姿に気がついた。
木材を運ぶ者、色鮮やかな提灯を飾り付ける者、屋台の骨組みを組む者。あちこちから、トンカンという小気味良い金槌の音が響いてくる。
「なんか、すっごい活気だね。お祭りでもやるのかな」
痛みを堪えながら立ち上がった陽介が、珍しそうに周囲を見渡して言った。
確かに、お祭りや催し物が多い百鬼夜行において、こういった光景自体は決して珍しいものではない。記憶を素早く検索し、首を傾げた。
「(……おかしい。百花繚乱で把握している年間スケジュールの中に、この時期に開催される大規模な祭りの予定なんてなかったはずだけど)」
実は各商店街の小規模なイベントだろうか。それとも、急遽決まったゲリラ的な催し?
私が顎に手を当てて思考の海に沈みかけた、その時だった。
「考えるくらいなら、聞いた方が早い!」
「えっ、ちょっと陽介……!」
止める間もなく、陽介は私の横をすり抜け、近くで提灯の配線をしていた実行委員らしき市民に迷うことなく話しかけに行った。
「すみませーん! なんだかすごい準備してますけど、これって何のお祭りなんですか?」
「あ、これかい? これは『百鬼夜行灯篭祭』の前夜祭の準備だよ!」
「とうろう……?」
聞き慣れない単語に、陽介がオウム返しにする。
後ろから追いついた私は、その名前にハッと息を呑んだ。
「灯篭祭って……あの、二十年前に廃止されたっていう百鬼夜行の伝統行事の?」
「お嬢ちゃん、百花繚乱の子か! そうなんだよそうなんだよ!」
市民のおじさんは嬉しそうに頷いた。
「実は今年、各所からの協力もあって、二十年ぶりにその灯篭祭が復活することになったんでさぁ! それで、せっかくの復活なんだから前夜祭から盛大にやろうって話になってね」
聞けば『前夜祭』とは名ばかりで、本祭である灯篭祭が開催されるまでの数日間、この近辺の通りを歩行者天国にして、連日出し物や屋台を出して簡易的なお祭りをし続けようという、百鬼夜行らしいなんとも豪快な企画らしい。
「へえー! 二十年ぶりの復活祭! それはめでたいね!」
「おう! まだ準備中だが、昼から開けてる屋台もいくつかあるから、あんたたちも楽しんでいってくれよ!」
おじさんにお礼を言い、陽介はパッと明るい顔でこちらを振り返った。
「聞いた、キキョウちゃん? 二十年ぶりのお祭りだってさ。なんかワクワクしてこない?」
「……アンタのそういう、後先考えずに突っ込んでいくところ、本当に相変わらず」
私は呆れたふりをしながらも、本をパタンと閉じて懐にしまった。
二十年ぶりに復活する灯篭祭。お祭りの熱気と、新しく生まれ変わった遺失物預り所の所長との、なんてことのない昼下がり。
「それで? 昼からやってる屋台もあるらしいけど」
私が水を向けると、陽介は待ってましたとばかりにお腹のあたりをポンと叩いた。
「よし、じゃあ早速昼飯がてら屋台を探そう! 昨日の夜はあんなことがあったから、お腹ペコペコなんだよね。キキョウちゃんのおすすめの屋台、教えてよ!」
「……言っておくけど、私が食事をしたいだけだから」
私は小さく息を吐き、祭りの準備で賑わう通りへと足を踏み出した。
「はぐれないように、ちゃんとついてきてよ、陽介」
「了解! 作戦参謀殿の胃袋の導きに期待してます!」
額を赤く腫らしたまま笑う陽介と一緒に、私たちは昼食の屋台を求めて歩き始めた。
■■■
ソースの焦げる香ばしい匂いと、鉄板の上で弾ける油の音。
お祭りの準備で慌ただしい大通りには、すでにお昼前から店を開けている気の早い屋台がいくつも並んでいた。
私たちはそこを冷やかしながら、焼きそば、たこ焼き、それから少し季節外れのりんご飴と、目についたものを片っ端から買い込んで通りを歩いていた。
「いやぁ、食った食った。キキョウちゃんのおすすめ、全部美味しかったよ」
隣を歩く陽介は、すっかり機嫌を良くして笑っている。
だが、その手にあるりんご飴に悪戦苦闘したのか、彼の口の周りは少し赤く汚れ、なんとも締まらない顔になっていた。昨晩の、あの息が詰まるような重く暗い空気を纏っていた男と同一人物とは、到底思えない。
「……アンタがハイペースで食べ過ぎなだけ。ほら、口の周りベタベタ。みっともないから拭いて」
私は呆れたふりをして懐からウェットティッシュを一枚抜き出し、彼に押し付けようとした。
「っと、危ない」
ふいに、肩をグッと引き寄せられた。
私のすぐ横を、木材を山積みにした運営委員の台車が慌ただしく通り過ぎていく。
「お祭りの準備中は道が狭いから。ぼーっとしてるとぶつかるよ、キキョウちゃん」
すぐ頭上から降ってきた声にハッとして見上げると、至近距離に陽介の顔があった。
昨晩までの『父親』という重い仮面を脱ぎ捨てた今の彼には、ただ純粋に私を気遣う、一人の男性としての真っ直ぐな優しさがある。
トクン、と。
想定外の距離感に、心臓が小さく跳ねる。
「(……ちょっと、私。今、何をドキドキしてるの?)」
作戦参謀としての冷静な脳細胞が、突如として湧き上がった自らの感情を慌てて分析しようとフル回転を始める。
たしかに彼は少し抜けているけれど、いざという時は誰よりも泥臭く体を張れるし、何よりあの真っ直ぐな瞳で見つめられると、どうにも調子が狂うというか──。
……いや。
「(……よく考えたら、陽介から見た場合に私は娘の姿と瓜二つなわけで……)」
思考が、ピタリと止まった。
「(仮に、もし仮に私がこの感情を打ち明けたとして、陽介の立場からどう感じるかを考えた場合……)」
自分を庇って死んだ愛娘と全く同じ顔をした女から、急に女性としての好意を向けられる。
……ダメだ。どう客観的に分析しても、彼からすれば新種のサイコホラーでしかない。
その結末を実感すると、どこか私の気持ちはどこか冷えていった。……これで良かった。うん。
これ以上は考えないようにしよう。そう私は固く誓った。
「キキョウちゃん? どうかした?」
「……なんでもない。口元、ちゃんと拭いて」
私は顔に集まった熱を隠すようにパッと身を引き、彼にウェットティッシュを押し付けた。
「あ、ごめんごめん。ありがとう」
「ありがとうって言って受け取るなら拭いたらどうなの??」
私の葛藤など微塵も気づいていない陽介は、道の両脇でせっせと提灯を飾る市民たちへと耳を傾けた。
「そういえばさ、さっき屋台の親父さんたちが話してたのを聞いたんだけど。今夜の前夜祭の最大の目玉って、『花火』なんだってね」
「花火?」
「うん。あの『名工』って呼ばれてる職人の工房が、二十年ぶりの祭りの復活を祝って、特大のを打ち上げるらしいよ。みんなすっごい楽しみにしてた。せっかくだし、後でキキョウちゃんと一緒に見たいな」
「……どの名工?」
「……さぁ?」
陽介が屈託のない笑顔でこちらを見た。
先ほどの自己分析の結論が出た直後に「一緒に」などと言われると、どう反応していいか分からなくなる。
「……花火。仕事が片付いていれば、考えておいてあげる」
照れ隠しで冷たい声を作りながら、私は残っていたりんご飴の端をかじって誤魔化した。
「やった、約束ね。よし、じゃあ仕事なんて入らないように、今日は大人しくお祭りを楽しもうか!」
能天気に笑う陽介と一緒に歩き出し、私たちは大通りの喧騒を抜け、少しずつ人通りの少ない裏路地へと差し掛かっていった。
表通りの賑やかさが遠のき、日陰のひんやりとした空気が肌を撫でる。
その時だった。
「……ん?」
微かな、けれど私の記憶に深く刻み込まれている『匂い』が、ふわりと鼻腔を掠めた。
私はピタリと足を止め、匂いの元を探るように路地のさらに奥へ視線を向ける。
「どうしたの、キキョウちゃん? 落とし物?」
前を歩いていた陽介が、不思議そうに振り返った。
「……火薬の匂いがする」
「火薬? キヴォトスじゃ珍しくもないでしょ。そこら中で生徒がドンパチやってるんだから」
「違う。銃弾が弾けたあとの硝煙じゃない。もっと生々しくて、濃い……大量の硝石や硫黄そのものの匂い」
陽介の言う通り、キヴォトスにおいてうっすらとした火薬の匂いなど、街の環境音と同じくらい日常茶飯事だ。だが、銃撃戦の形跡もない路地裏に、ここまで濃密な匂いが立ち込めているのは明らかに異常だった。
ふと、昨晩の激闘の最中に、芹澤が吐き捨てた言葉が脳裏をよぎる。
『百鬼夜行は終わりだ』
まさか。
あの言葉がただの負け惜しみではなく、何かの計画の暗示だったとしたら?
もし、この薄暗い路地裏で、祭りの日に合わせて大規模な爆破テロでも企てられているのだとしたら──。
「……胸騒ぎがする。行くよ、陽介」
私は先ほどのバカみたいな葛藤を完全に脳の隅に追いやり、百花繚乱の作戦参謀としての顔で、薄暗い路地の奥へと足を踏み出していった。
■■■
路地裏のドン突き。表通りの華やかな喧騒からは完全に切り離されたようなその場所には、年季の入った古びた木造の建物がひっそりと建っていた。
引き戸の横には、『花火工房』と墨で書かれた木札が少し傾いてかかっている。
そして、その建物の前で。
「あ、ああっ……ない、どうしよう……どこにもない……っ!」
ツナギを着た一人の小さな生徒が、半泣きになりながら地面を這い蹲っていた。
道端の空き箱をひっくり返し、側溝の蓋の隙間を覗き込み、泥で膝を汚すことも厭わずに何かを必死に探している。ツナギのあちこちには小さな焦げ跡があり、彼女自身からは先ほど私が嗅ぎ取った強烈な火薬の匂いが漂っていた。
テロの準備といった危険な兆候ではなかったことに小さく息を吐いたものの、彼女のただならぬ様子に私はスッと眉をひそめた。
「どうしたの? 何か探し物?」
私より先に動いたのは、陽介だった。
彼は足早に駆け寄り、ゴミ箱の裏を探ろうとしていた彼女の肩にポンと触れる。その声は、つい数分前までりんご飴と格闘していたのんきな響きではなく、はっきりと『遺失物預り所の所長』としての、落ち着いた大人のそれに切り替わっていた。
まぁ、この調子で行くならいつも通りの落とし物探しだろう。
「えっ……?」
ビクッと肩を揺らして振り返った彼女は、顔をススと涙でドロドロに汚していた。指先には擦りむいたのか、微かに血が滲んでいる。
「手、怪我してるよ。そんなに慌てて探したら危ない」
陽介はポケットから、さっき私が無理やり押し付けた未使用のウェットティッシュを取り出すと、彼女の小さな手を優しく拭ってやった。
「あ、あの……」
「俺はね、『遺失物預り所』の所長をしてる者なんだ。君が探してるもの、俺たちにも手伝わせてくれないかな?」
陽介が屈み込み、目線を合わせて優しく問いかける。その真っ直ぐで温かい声に、生徒は張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「遺、失物……預り所……? なんで、そんな人が……」
「お祭りの通りを歩いてたら、ここまで火薬の匂いがしたから。放っておけなくてお節介を焼きに来たの。主にりんご飴で口元ベッタベタにしてるこの人が」
私が陽介の後ろから声をかけると、彼女は少しだけビクッとして私を見た。私の着ている百花繚乱の制服を見て、少しだけ安堵したような表情を浮かべる。
「一人で探すより、大人が手伝った方がきっと早く見つかる。だから、まずは深呼吸して、名前を教えてくれる?」
陽介が促すと、彼女はススで汚れた袖口で乱暴に涙を拭い、しゃくり上げながら口を開いた。
「私……スズ、って言います。ここの、花火工房で……師匠の下で、弟子として働いてて……」
スズと名乗った彼女の言葉に、私は少しだけ目を丸くした。
百鬼夜行で生徒が何かの活動をする場合、基本的には「お祭り運営委員会」や「修行部」といった部活動という形式をとるのが一般的だ。スズのように部活を介さず、街の職人に単身で直接弟子入りしているというのは、かなり珍しいケースと言える。
すると、隣で聞いていた陽介がポンと手を打った。
「あー! 花火工房ってことは、もしかして君が、今夜花火を打ち上げるっていう『名工』の人でしょ!!」
陽介は場の空気を和ませようとしたのか、ニカッと笑って見せた。こんな小さな女の子が、街中が噂する伝説の職人なわけないだろうという、明らかな冗談交じりのトーンだった。
しかし。
「……はい」
スズは弱々しく、しかしはっきりと頷いた。
「「えっ」」
私と陽介の声が、見事に重なった。
「いやいやいや、えっ!? ホントに!? いやごめん、冗談のつもりで言ったんだけど……え、君が一人で、あの前夜祭の目玉の花火を!?」
陽介が目を白黒させて驚いている。私も内心、彼と全く同じ気持ちだった。
しかし、彼女の火薬が染み付いたツナギや、あちこちに小さな火傷の痕がある手を見れば、彼女がどれだけ本気で花火と向き合ってきたかは火を見るより明らかだ。
「師匠さんは? 一緒に探してくれないの?」
「……いないんです」
スズは震える手でツナギの裾を強く握りしめ、俯いたままポツリポツリと事情を話し始めた。
「先月……師匠が花火の筒の暴発事故で大怪我をして、入院しちゃって。二十年ぶりの大事なお祭りなのに、工房には弟子である私しかいなくて……。だから、私が全部任されることになったんです」
その細い肩にのしかかっているプレッシャーの重さに、私は思わず息を呑んだ。
二十年ぶりに復活するお祭りの前夜祭。街中が期待を寄せる目玉イベントの成否を、たった一人の生徒がすべて背負わなければならないなんて。
「それは……大変だったね。でも、じゃあどうして外で探し物を? 大事なものを落としたの?」
驚きを隠しつつ、陽介が慎重に話を本題へ誘導する。
するとスズは、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「落としたんじゃないんです! さっき、私が少し火薬の買い出しに出ている間に、工房に泥棒が入ったんです!」
「泥棒?!」
「はい……っ。裏口の窓ガラスが割られて、鍵を開けられてて……。レジのお金や、他の高価な材料には目もくれず、机の上に置いてあった『秘伝の花火の作り方』を書いたノートだけが盗まれてたんです……っ!」
スズは陽介の袖を両手で掴み、すがるように顔を上げた。
「師匠が私なんかのために書き残してくれた、大事なノートなんです! あれがないと、私、今夜の花火が……っ」
言葉に詰まり、再び嗚咽を漏らすスズ。その小さな背中を、陽介はポンポンと優しく叩いた。
「……なるほど。状況は分かった。任せてよ、スズちゃん。そのノート、必ず俺たちが見つけてみせる」
「ほんと、ですか……?」
「うん。約束する。だから、泣かないで」
陽介は立ち上がると、キリッとした表情で私を振り返った。
「キキョウちゃん、泥棒が入ったってことは、事件だ。現場を見せてもらおう」
「……了解。泥棒が入ってから部屋の中は片付けた?」
「い、いえ……ノートがないことに気づいて、すぐに外へ飛び出したので、そのままです」
「上出来。現場保存としては完璧。案内して」
私は静かに頷き、スズに案内されるまま、薄暗い工房の中へと足を踏み入れた。
「……ところで、こちらの所長さんはなんで口元ベタベタなんですか……?」
「あ、やべ。りんご飴だこれ」
「……口元についてるって、私はさっきから言ってたけど?」
「お祭りが楽しすぎてつい……」
■■■
工房の中は、むせ返るような火薬の匂いと、独特の重苦しい緊張感に包まれていた。
薄暗い室内にぽつんと灯った裸電球の明かりが、作業台の上に散乱する様々なクラフト紙や竹筒、すり鉢といった花火職人の道具たちを頼りなげに照らし出している。床には黒っぽい粉が薄く積もり、一歩足を踏み入れるだけで僅かにジャリ、と鳴った。
「うひゃー、キヴォトスに来る前ですら花火の工房なんて見たことないや」
「えっ……キヴォトスに来る前……?」
「ごめんなんでもない! 忘れて……!」
だというのに。
……本当に、危なっかしいったらありゃしない。
私は、先ほどのスズの「泥棒に入られた」という言葉を頭の中で反芻しながら、小さく息を吐いた。
視界の端から余計な情報を削ぎ落とし、百花繚乱の作戦参謀としてのスイッチを完全に入れる。
まずは、彼女が泥棒の侵入経路だと主張する裏口の窓ガラスへと視線を向けた。
確かに、すりガラスの中央が拳大に割られ、そこから手を伸ばして内側の錠を開けた形跡がある。木枠には不自然な傷跡も残っていた。
一見すれば、典型的な空き巣の犯行現場だ。
私は靴底の感覚に神経を集中させながら、現場の痕跡を一つ一つ拾い上げ、頭の中で論理のパズルを組み立てていく。
床に落ちた粉の乱れ。窓から真っ直ぐに伸びる、スズのものとは違う大きめの足跡。
「泥棒か……。師匠のノートには、具体的にどんなことが書かれていたの? 少しでも特徴や内容が分かれば、俺たちも探しやすくなるからさ」
背後で、陽介がスズを落ち着かせるようにヒアリングを始めている。
大人の、それも『遺失物預り所の所長』としての頼もしい声色が、工房の張り詰めた空気を少しだけ和らげていた。私はあえて口を挟まず、窓枠の観察を続けながら彼らの会話に耳を澄ませる。
スズは少し鼻をすすりながら、先ほど地面を這い蹲っていた時のパニックが嘘のような、真っ直ぐな声で答えた。
「師匠の命とも言える、火薬の特殊な配合比率です。硝石、硫黄、木炭の細かな割合……それに、金属粉の混ぜ合わせるタイミングから、『星』と呼ばれる火薬玉の乾燥時間、打ち上げ時の筒の絶妙な角度まで、全部です」
スズの声には、花火作りへの並々ならぬ熱意がこもっていた。
ただの部活の延長ではない。職人の下で泥水に塗れながら培ってきた、弟子としての本気の声だ。
「へえ、すごいね。それを全部覚えてるの?」
「……はい。何度も何度も読み返しましたから。配合から手順まで、一言一句、すべて私の頭の中に入ってます」
ピタリ、と。
私の思考回路が、一瞬だけ完全に停止した。
振り返ると、スズは涙ぐみながらも、自分の知識に嘘偽りはないという強い誇りを持った目で、真っ直ぐに陽介を見つめていた。
「(……一言一句、完璧に覚えている?)」
だとしたら、おかしい。致命的な矛盾だ。
ノートの作り方を一言一句、完璧に頭に叩き込んでいるのなら、最悪ノートが手元になくても今夜の花火は作れるはずだ。
なのに彼女は、あれがないと花火が作れないと、文字通り泥に塗れて泣き叫んでいた。まるで、ノートがないこと自体が『花火を作れない正当な理由』であるかのように。
私は違和感の正体を物理的な証拠で裏付けるべく、再び裏口の窓ガラスへと向き直った。
割れた窓枠から顔を近づけ、薄暗い室内から『窓の外の地面』へと目を向ける。
一見すると、土が剥き出しになっただけの何の変哲もない地面。そこには何もないように見えた。
だが、角度を変えてよく見ると、初夏の僅かな日差しを反射して、キラキラと光るものがある。
──細かい、ガラスのクズだ。
泥棒が外から侵入するために窓を叩き割ったのだとしたら、ガラスの破片の大半は勢いよく『室内』に散乱していなければならない。
だが、室内の床には不自然なほど破片が少なく、代わりに『屋外』の地面に細かい破片が散らばっていた。
完璧な知識があるのに、ノートがないと作れないと泣く被害者。
外からの侵入に見せかけようとして、中から外へ向かって割られた窓ガラス。
頭の中で、カチリ、と。
すべての決定的なパズルのピースが、寸分の狂いもなく噛み合う音がした。