キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
私はゆっくりと窓から離れ、スズへと向き直った。
作戦参謀としての私の役割は、事実を明らかにし、論理的な結論を突きつけること。この不自然な状況が示している『真実』を、情を交えずに暴き出すことだ。
「スズ」
「は、はい……」
私の静かな、けれどひどく冷たい声に、スズがビクッと肩を震わせる。
「ノートは、空き巣に盗まれてなんかいない」
「……え?」
その言葉に、陽介が目を丸くした。スズは息を呑み、血の気を引かせて私を見つめ返している。
「同業他社か何かにノートを持ち去られた……その事実はおそらく本当でしょう。でも、問題はそのあと。あなたは、その事実を利用した。……自らこの裏口の窓を内側から割り、わざと足跡をつけ、さも『空き巣の被害に遭った』かのように偽装工作を行った」
沈黙が工房に降りた。
火薬の匂いだけが、重く漂っている。
「証拠ならある。窓ガラスの破片の散らばり方、足跡の上書き。少し調べても分からないくらいの偽装」
「……」
「そして『遺失物預り所が探して見つからなければしょうがない』というお墨付きが欲しくて私たちに助けを求めた。誤算は遺失物預り所の洞察力を甘く見ていたこと」
「くっ……」
「私がそのことに気付いた決定的な矛盾は現場の証拠じゃない。あなた自身の言葉」
私は逃げ場を塞ぐように、彼女の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたは先ほど、『ノートの内容は一言一句、完璧に暗唱できる』と言った。それなら、仮にノートがなくても、あなたの記憶を頼りに今夜の花火は作れるはず。物理的に不可能な状況じゃない」
スズがギュッと唇を噛み締める。その小さな体が、小刻みに震え始めていた。
「ねえ。……なぜあなたは、『ノートがないから花火が作れない、可哀想な被害者』になりたがるの?」
その一言は、プレッシャーに怯える少女の急所を、最も残酷な形でえぐり出していた。
数秒の、息の詰まるような静寂。
やがて、スズは顔を真っ赤にして立ち上がった。彼女の中でパンパンに膨れ上がっていた重圧と恐怖が、ついに限界を迎えて破裂したのだ。
「部外者に……っ、部外者に何が分かるんですか!!」
スズの悲痛な叫びが、薄暗い工房の中に響き渡る。
彼女は涙をボロボロとこぼしながら、私を強い力で睨みつけた。
「私がどんな思いで、毎日毎日あのノートを読んでたか! 作り方が頭に入ってても、それだけじゃダメなんです! 師匠の字で書かれた、師匠の想いが詰まったあのノートを見ながらじゃないと、私には作れないんだあああっ!!」
半狂乱になった彼女は、両手で私と陽介の胸を乱暴に押し退けた。
「出てって! もういい、あなたたちなんか頼みません! 出ていけぇっ!!」
「ちょっ、スズちゃん!? 待って、ちゃんと話を……」
陽介の静止も虚しく、私たちは力任せに裏口のドアから外へと押し出された。
バタン! と重い扉が閉められ、内側からガチャリ、ガチャリと二重に鍵をかけられる音が無情に響く。
「……あーあ。完全に閉じこもっちゃったね」
放り出された路地裏で、陽介が困ったように後頭部を掻いた。
私は閉ざされた木の扉を静かに見つめながら、作戦参謀としての分析を淡々と口にする。
「彼女は、マニュアルが持ち去られたことを『言い訳』にして、花火を作るプレッシャーから逃げようとしてる。たった一人で二十年ぶりの復活祭、その前夜祭を成功させなきゃいけない……その期待を背負って失敗するくらいなら、最初から『ノートがないから作れない』という理由があった方が、彼女にとっては楽だから」
「……」
「でも、あんな風に自分に嘘をつき続けても、最終的に待っているのは自己嫌悪と深い後悔だけ。……あのままじゃ、あの子は一生、自分の手で花火を作れなくなる」
私が冷たく言い放つと、陽介は少しだけ目を伏せ、路地裏のブロック塀に背を預けた。
いつもの呑気な顔はない。そこにあったのは、どこか遠くを見るような、痛ましげな大人の横顔だった。
「……100点を出せないと分かっている舞台に立つのは、死ぬほど怖いよな」
「え?」
「完璧な結果を出さなきゃいけない。みんなの期待に応えなきゃいけない。でも、自分にはまだその実力がないかもしれない。……そういう時、大人はよく『自分は悪くない、もっともらしい言い訳』を作って、逃げようとするんだ」
陽介の瞳の奥に、取り返しのつかない後悔を背負うことになった、彼自身の過去の影がよぎったのが分かった。
彼は、言い訳をして逃げようとするスズの弱さを、軽蔑するでもなく、誰よりも痛いほど理解し、深く共感していたのだ。
「ただノートを取り返して『はい、どうぞ』って渡すだけじゃ、きっとスズちゃんは救われない。根本的な恐怖を取り除いてあげないと、彼女はまた別の言い訳を探して逃げ出してしまう」
陽介は壁から背中を離し、私を真っ直ぐに見た。
「なんか、無いかな」
「……陽介、スズが心から慕ってる、師匠の『ゲン』さんが入院してる病院、今から行ってみよう。彼女を真に立ち直らせるための手がかりが、きっとそこにあるはず」
私が即答すると、陽介は緊張を解いたように少しだけ目を丸くした。
「あれ? スズちゃん、師匠の名前なんて言ってたっけ? なんでキキョウちゃん、師匠の名前や入院先を知ってるの?」
「立派な参謀は、どんな些細な情報も見逃さないの」
私は自慢げに小さく鼻を鳴らした。
「さっき工房の中で、壁に掛かっていた賞状に『花火師・ゲン』って書いてあったのと、机の上に近所の総合病院の診察券が出しっぱなしになってたのを見たの。そこから導き出しただけ」
「さっすが作戦参謀! そういうところ、本当に頼りになるなぁ!」
陽介がいつものようにニカッと笑う。
その笑顔に少しだけ毒気を抜かれながら、私たちはスズの師匠が入院しているという総合病院へ向けて、路地裏を歩き出した。
■■■
パチリ、と。
消毒液の無機質な匂いが漂う病室に、小気味良い将棋の駒の音が響いた。
「……そうか。あの馬鹿弟子、やっぱり重圧に潰されちまったか」
病室のベッドの上。上半身のあちこちに分厚い包帯を巻いた初老の男──師匠のゲンは、盤面を見つめながら重いため息をついた。
職人らしい筋骨隆々の身体には火薬の暴発事故による生々しい火傷の痕が残っているが、その目は鋭く、ベッドに用意された将棋盤を挟んで向かい合う陽介へと的確な一手を指し下ろす。
「うわっ、そこ来る!? いやいや、ちょっと待って……」
陽介は頭を抱えながら、盤面と睨めっこをしている。スズを立ち直らせる手がかりを探しに来たはずなのだが、なぜか成り行きで、この偏屈な職人と将棋を指すことになってしまっていた。
「薄々、こうなるんじゃないかって嫌な予感はしてたんだ」
ゲンは陽介の次の一手を待ちながら、窓の外の百鬼夜行の景色を見上げてポツリと語り始めた。
「お前さんたちも知っての通り、この百鬼夜行で生徒が何か活動をするなら、『お祭り運営委員会』や『修行部』といった部活動という安全な枠組みに所属するのが普通だ。……あいつが、なんでそんなもんを選ばず、わざわざ俺みたいな偏屈な職人に直接弟子入りしたか分かるか?」
ゲンの問いかけに、陽介が「うーん」と唸りながら歩の駒を進める。
「……純粋に、花火の技術を一番近くで極めたかったから、とかですか?」
「それもあるが、根っこはもっと単純なことさ」
パチリ。ゲンが迷いなく桂馬を跳ねる。
「あいつはな、『人の心を惚れさせるような、綺麗な花火を作りたい』って言ったんだ。部活のお遊びや、安全なマニュアル通りに作る花火じゃねぇ。本物の職人が命を懸けて泥水すすって作った花火で、夜空を見上げる奴らの心を震わせたいってな。……あいつは、そういう本気の熱を持ったガキなんだよ」
師匠の口から語られるスズの情熱。
先ほど工房で泣きじゃくっていた弱々しい彼女の姿とは結びつかないその熱量に、壁際で話を聞いていた私は黙って耳を傾けていた。
「あんたら、気づいたか?」
ふいに、ゲンが鋭い視線を将棋盤から上げ、私と陽介を交互に見た。
「スズの馬鹿は、銃を持ってねぇんだ」
「……え」
その事実を言葉として突きつけられ、私はハッと息を呑んだ。
言われてみれば、そうだ。工房で這い蹲っていた時も、私たちを部屋から追い出した時も、彼女の身の回りには『生徒の分身』であるはずの銃が一切見当たらなかった。
銃を持たないことが、裸で歩くよりも恥ずかしいとされるこのキヴォトスにおいて。
一人の少女が、丸腰で生きることを選ぶという意味。
「(……そうか。それほどまでに)」
私の胸の奥で、静かな衝撃が広がっていく。
自らの身を守るための最低限の武装すら手放し、両手を完全に空けているのは、彼女の心と身体のすべてが『花火を作る』というただ一つの目的に完全に奪われている何よりの証拠だった。
そこには、少しの余白も、中途半端な妥協もない。
だからこそ、彼女は潰れてしまったのだ。
100%の情熱を注いでいるからこそ、それが他人の期待に応えられず、失敗に終わるかもしれないというプレッシャーが、彼女のキャパシティを限界まで超えてしまった。
「あいつの心には、誰よりもでけぇ火薬が詰まってる。だからこそ、今あいつに生優しい慰めを与えちゃならねぇ」
ゲンは厳しい職人の顔で、小さく息を吐いた。
「(……なら、言葉だけで説得するのは無意味)」
私は作戦参謀としての思考を切り替えた。
言い訳をして逃げ込んだ殻を内側から破らせるためには、甘い同情ではなく、彼女自身の中にある『本気の熱』をもう一度爆発させるための、強烈な起爆剤が必要不可欠だ。
私はベッドの傍らまで一歩踏み出し、ゲンを真っ直ぐに見据えた。
「……ねぇ。何か、彼女との思い出の品は無いの?」
私の唐突な問いに、ゲンは一瞬だけ怪訝な顔をした。だが、私の瞳の奥にある冷徹な、しかし確かな覚悟の色を読み取ったのだろう。
「……」
ゲンは無言のまま、健康な右手を伸ばし、ベッドサイドの引き出しを開けた。
そこから取り出されたのは、革で覆われた『分厚い一冊の束』だった。火薬の粉や煤で黒く汚れ、年季が入っているのが一目でわかる。
中身が何であるかはあえて問わない。だが、表紙越しにも、それに詰まった月日の重さと、師匠の不器用な愛情が伝わってくるようだった。
「あいつが弟子入りしてからの、不細工な成長記録だ」
ゲンはそう言って、それを私に向けて差し出した。
私は両手で受け取り、その重みを確かめながら静かに、けれど断固たる口調で告げた。
「……これ。少しだけ、乱暴に扱っても構わない?」
「キキョウちゃん?」
盤面から顔を上げた陽介が、驚いたように私の顔を見る。
しかし、私は彼の方を見ず、ただゲンの顔だけを見つめ続けた。
「悪いようにはしない。彼女の心にもう一度、火をつけるために必要なの」
私の意図を完全に察したわけではないだろう。だが、ゲンは小さく鼻を鳴らし、職人らしい不敵な笑みを浮かべた。
「フン。あいつの目が覚めるなら、煮るなり焼くなり好きに使いな」
「ええ。任せて」
私はその煤けた束をしっかりと小脇に抱え、病室を後にするため踵を返す。
これで、盤面をひっくり返すための起爆剤は手に入った。
その背後で。
バチィッ! と、一際力強い駒の音が病室に響き渡る。
「王手。こっから詰みだ、兄ちゃん」
「えっ、あっ……」
ゲンの容赦のない宣告。
それを聞いた陽介は、信じられないものを見るように盤面を凝視し──やがて、頭をガシガシと掻き毟りながら天を仰いだ。
「……あ──っ! くそぉぉっ! 投了、投了! ゲンさんあんた強いね!!」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
薄暗い花火工房の中には、硝石と硫黄の混ざった、鼻を突くような火薬の匂いだけが重く淀んでいた。
作業台の前の丸椅子に膝を抱えて座りながら、私はじっと、黒い粉が散らばった床を見つめていた。
「(……これで、よかったんだ)」
心の中で、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
私が花火を作れないのは、大事なレシピが書かれたノートが盗まれてしまったから。
悪いのは泥棒で、私はそのせいで花火を作れなかった可哀想な被害者。そう演じていれば、誰にも非難されない。二十年ぶりの復活祭という、途方もないプレッシャーに怯えることもない。
『ノートがないから花火が作れない、可哀想な被害者になりたがるの?』
先ほど、百花繚乱の制服を着たあの冷たい目の人に突きつけられた言葉が、胸の奥でチクリと痛む。
図星だった。
ノートの内容なんて、本当は隅から隅まで全部頭に入っている。目を閉じれば、火薬の配合比率も、星を乾燥させる時間も、すべて完璧に思い出せる。
だけど、ダメなのだ。師匠のあの力強い字で書かれたノートが手元になければ、私なんかが作った花火で、みんなの期待に応えられるわけがない。失敗して、お祭りを台無しにしてしまうのが、死ぬほど怖かった。
「……私は、悪くないもん……っ」
誰に言うでもなく呟いた言い訳は、静まり返った工房の空気に虚しく吸い込まれて消えた。
「ひっ!?」
不意に、工房の裏口の方向から鈍い音が響いた。
ビクッと肩を跳ね上げて振り返ると、私が自分で割った窓ガラスの隙間から、何かが室内へと投げ込まれていた。
それは、緩衝材代わりの布にぐるぐると包まれた、四角くて重たい物体だった。床に積もった火薬の粉を少しだけ巻き上げて、静かに転がっている。
「な、なに……?」
おそるおそる丸椅子から降りて、その物体に近づく。
泥棒が戻ってきたのかと身構えたが、窓の外からは誰の足音も聞こえない。私は震える手で、その布の結び目を解いた。
中から出てきたのは、火薬の煤で薄汚れ、あちこちが擦り切れた革張りの分厚い本。
「……これ」
見覚えがあった。
師匠がいつも、誰にも触らせないように大切に持っていたものだ。
私はゆっくりとその表紙を開き、硬いページをめくった。
そこに貼られていたのは、花火の製法やレシピではない。
一枚目の写真。
まだツナギもブカブカだった頃の私が、顔を火薬で真っ黒に汚しながら、いびつな形をした小さな線香花火を手に持って、満面の笑みを浮かべている一枚。初めて、自分の手で火薬を調合して光を作った、あの日だ。
「あ……」
ページをめくる。
次の写真は、私が調合の分量を間違えてボヤ騒ぎを起こした時のもの。
前髪をチリチリに焦がして大泣きしている私、そしてカメラを持っているであろう師匠が、空いた手で私の肩に手を置いている。写真の中の師匠のゴツゴツとした大きな手は、私が火傷をしていないか確かめるように、私の小さな肩をしっかりと庇うように抱いていた。
さらに、ページをめくる。
すごく前、師匠に連れられて、トリニティ総合学園の花火イベントを見に行った時の写真だった。
夜空いっぱいに広がる、大きくて、色鮮やかで、息を呑むほどに美しい大輪の花火。
その光に照らされながら、私はバンザイをするように両手を大きく広げ、まるで夜空の星を全部抱きしめようとするかのように、キラキラと目を輝かせて夜空を見上げていた。
「あ……ぁ……っ」
胸の奥が、ギュッと締め付けられた。
アルバムを持つ手にポタリ、ポタリと温かい雫が落ちる。
私は、何を見失っていたのだろう。
私が花火を作りたかったのは、師匠の完璧なレシピを間違えずに再現するためじゃない。
誰かの期待に応えられなくて、怒られるのが怖いからでもない。
ただ、あの空に咲く美しい光が好きだったからだ。
自分が作った花火で、あの日の私みたいに、夜空を見上げた人たちに両手を広げて笑ってほしかったからだ。
「……師匠……っ」
アルバムを胸に強く抱きしめ、私は声を上げて泣き崩れた。
泥棒のせいにして逃げようとした自分が、情けなくて、恥ずかしかった。
怖いからといって、私が一番大好きだった『花火』を、自分自身の保身のための言い訳の道具にしてしまったことが、何よりも許せなかった。
「……取り返さなきゃ。取った人たちの目星はついてる」
私は乱暴に袖で涙を拭い、顔を上げた。
同業他社に持ち去られた、師匠の本当のノート。
あれが手元になくたって、花火は作れる。だけど、あれは師匠が私のために残してくれた、大事な想いが詰まった大切なノートなのだ。
嘘をついて逃げたままじゃ、私は二度と、胸を張ってあの綺麗な花火を夜空に打ち上げることなんてできない。
「(……逃げない。もう絶対に、花火から逃げない!)」
私はアルバムを置いて、勢いよく立ち上がった。
丸腰のまま工房の扉を蹴り開け、私は自分の足で、外の光の中へと全力で駆け出していった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
薄暗い路地裏の物陰から、私たちはその光景を静かに見守っていた。
勢いよく工房の扉が開き、スズが飛び出してくる。胸にアルバムをしっかりと抱え込んだその小さな背中は、もう震えていなかった。
涙を拭い、迷いなく真っ直ぐに路地の先へと駆け出していく。
「追わなくていいの? キキョウちゃん」
隣で様子を伺っていた陽介が、心配そうに身を乗り出した。
「……彼女、大丈夫かな。銃も持たずに」
「いいの」
私は、走り去るスズの背中から目を離さないまま、短く答えた。
「私たちの探していた『遺失物』は、もう見つけたでしょ? ……それに」
丸腰のまま、大人たちの元へ一人で乗り込もうとする無謀な少女。
本来なら、作戦参謀として即座に制止し、安全な盤面を構築し直すべきところだ。しかし、今の彼女を止めることは、誰にもできないと確信していた。
「銃なんてなくても、いいの。……彼女の心には、誰よりも立派な火薬が眠ってるんだから」
言い訳の殻を破り、自らの足で立ち向かう決意をした職人の背中。
私は百花繚乱の作戦参謀として、そして同じキヴォトスを生きる一人の少女として、彼女の気高い覚悟を信じ、その背中を静かに見送った。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
百鬼夜行の郊外、うらぶれた工業地帯。
同業他社『フラワーバーニング』の資材倉庫の前に立った時、私の両足はガタガタと情けなく震えていた。
キヴォトスにおいて、生徒の分身たる銃を持たずに大人の陣地へ乗り込むことが、どれほど恐ろしいことか。頭ではなく、身体の防衛本能が警鐘を鳴らして足をすくませる。
だけど、胸の奥で燃える熱が、私を突き動かしていた。あの写真アルバムを見て気づいた、私の本当の気持ち。絶対に逃げちゃいけないという覚悟。
「(……行くんだ、私!)」
私は震える両手で、重い鉄扉を力任せに押し開けた。
バンッ!! という音と共に、倉庫の中の空気が流れてくる。
薄暗い室内では、数人の大人の職人たちが作業台を囲み、下品な笑い声を上げていた。その中心には、見間違えるはずもない、師匠の大切なノートが広げられていた。
「おや、あそこの逃げ出したお弟子さんじゃないか。わざわざこんな所まで何しに来たんだ?」
丸腰の私を見て、大人たちは余裕の笑みを浮かべる。
怖かった。今すぐ逃げ出してしまいたかった。だけど、私は両手を強く握り込み、彼らを真っ直ぐに睨みつけた。
「返して……っ!」
「ははっ、何を言ってるのか分からねぇな。これは俺たちが『拾った』もんだ。返してほしけりゃ、それなりの誠意ってもんが──」
「私は……!」
私は大人の言葉を遮り、腹の底から、自分でも驚くような大声を張り上げた。
「私はそのノートを取り返さないと、二度と花火なんて作れないから……! 作っちゃ、ならないから……! だから死んでも取り返すんだあああああぁぁぁぁ!!」
声を出した瞬間、恐怖は消し飛んでいた。
私は弾かれたように地面を蹴り、大人たちのいる作業台へと飛びかかった。
銃の構え方なんてとっくに忘れた。私の武器は、絶対にこれを取り返すという意地だけ。虚を突かれた大人たちの隙を突き、私は机の上のノートに手を伸ばし、力いっぱい両手で抱え込んだ。
「なっ!? おいクソガキ、何しやがる!!」
我に返った大人たちが、怒号を上げて私に掴みかかってくる。
ドンッ、と強い力で肩を突き飛ばされ、私は冷たいコンクリートの床に無様に転がった。
「痛っ……あぅっ……!」
身体中が擦りむけて痛い。だけど、私は絶対にノートから手を離さなかった。
身体を丸め、自分の一番大切な宝物を守るように胸に抱きしめたまま、一目散に出口へと向かって這いずろうとする。
しかし、私の細い足で、大人の力から逃げ切れるはずもなかった。
「ああっ……!」
背後からツナギの襟首を乱暴に掴み上げられ、私は宙吊りにされた。
首が締まり、息が詰まる。
「畜生! このガキ……とっ捕まえてヴァルキューレに引き渡してやる!」
男が怒りに顔を歪め、私を怒鳴りつけた。
絶体絶命。大人の圧倒的な暴力の前に、私は為す術もなくギュッと目を閉じ、ただノートだけをさらに強く抱きしめた。
──その瞬間だった。
「引き渡されるのはどちらか、確かめてみる?」
氷のように冷たくて、凛とした声が倉庫内に響き渡った。
パンッ! と鋭い破裂音が鳴り、私を掴み上げていた大人の足元スレスレの床で火花が散る。
「ひっ!?」
驚いた大人が手を離し、私は尻餅をつきながら床に落ちた。
ゲホゲホと咳き込みながら顔を上げると、倉庫の入り口に、ゆっくりと歩み出てくる二つの影があった。
百花繚乱の制服を着た人と、遺失物預り所の所長さんだった。
「百花繚乱……!? なんでこんな所に!」
「ただの迷子探し。……でも、ずいぶんと面白い現場に出くわしたものね」
彼女は手元に持っていた資料を地面に投げ捨てる。それを見たフラワーバーニングの人たちは青ざめていった。
「他社の工房に不法侵入し、機密情報であるレシピを盗み出した窃盗の証拠。現場に残されたあなたたちの足跡と、周辺の防犯カメラに映っていた逃走車両の映像で、すでに完全に押さえてある」
「な、なんだと……っ!」
冷徹な事実を突きつけられ、さっきまで私を嘲笑っていた大人たちが、見る見るうちに顔面を蒼白にして後ずさっていく。
「産業スパイに窃盗、おまけに暴行未遂。……ヴァルキューレの特別房がお望みなら、今すぐ手配してあげるけど。それとも、ここで私が直接、あなたたちを沈黙させた方が話が早いかも」
彼女が銃を構え、銃口を真っ直ぐに向ける。
その圧倒的な迫力と証拠を前にして、大人たちは完全に戦意を喪失し、両手を上げて倉庫の奥へと逃げるように退いていった。
「スズちゃん、怪我はない?」
大人がいなくなった床で、所長さんが私の目の前にしゃがみ込み、震える私の頭を優しく撫でてくれた。
「あ、あの……」
「よく頑張ったね。一人で取り返しに行くなんて、すっごくかっこよかったよ」
所長さんの温かい声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
怖かった。痛かった。でも、私は自分の手で、一番大事なものを取り返せたんだ。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
総合病院の病室。
夕暮れの西日が差し込む中、ノートを胸に抱きしめたスズは、ベッドに横たわる師匠・ゲンの前に立っていた。
「師匠……」
スズは震える声で口を開くと、ポロポロと涙をこぼしながら、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……っ。私、怖くて……期待に応えられないのが怖くて、ノートが盗まれたことにして、花火から逃げようとしました……っ」
絞り出すような、痛切な懺悔。
病室の入り口からそのやり取りを見守っていた私は、小さく息を吐いた。自分の弱さを認め、言葉にして謝罪するのは、簡単なことじゃない。ましてや、一番尊敬する師匠に対してはなおさらだ。
ゲンは静かにスズの言葉を聞いていた。
そして、火傷の痕が残る大きな右手を伸ばし、頭を下げて泣きじゃくる小さな弟子の頭を、ポンと無骨に叩いた。
「……馬鹿野郎」
それは、怒声ではなく、不器用な職人なりの、どこまでも温かい響きを持った声だった。
「逃げたことより、自分の足で戻ってきた覚悟を誇りに思え。……で? やれるのか、スズ」
ゲンの問いかけに、スズは袖で乱暴に涙を拭い、真っ赤になった目で師匠を真っ直ぐに見つめ返した。
丸腰のまま大人たちに立ち向かい、大切なものを取り返した小さな職人。その目にはもう、プレッシャーに怯える弱々しい光はなかった。
「やります。前夜祭の数日間……逃げずに、絶対に花火を作り上げます」
スズは胸に抱いていたノートを、まるで自分の心臓に誓うように強く抱き直した。
「師匠の完璧な出来は、私には再現できないかもしれない……。でも、私にできる全部を出し切って、私だけの立派な花火を打ち上げてみせます!」
力強い宣言だった。
病室に夕日が差し込み、火薬と泥にまみれた彼女の小さな背中を、誇り高く照らし出している。
「……フン。言うようになったじゃねぇか」
ゲンは満足そうに口角を上げ、ベッドの上から深く頷いた。
「なら、四の五の言ってねぇで工房に戻りな。本番まで時間がねぇぞ、スズ」
「はいっ!!」
スズが元気よく返事をしたのを見て、隣に立っていた陽介がホッと肩の力を抜いたように微笑んだ。
「よかったね、キキョウちゃん」
「……ええ。見事な引火だった」
作戦参謀としての計算式ではない。彼女の心に眠っていた本気の熱が、自分自身の殻を内側から吹き飛ばしたのだ。
陽介は私の方を向き、いつものようにニカッと笑った。
「よし、じゃあ俺たちも前夜祭を楽しむ準備をしようか! スズちゃんの花火、特等席で見なきゃね」
「……仕方ないから、付き合ってあげる」
私は少しだけ素っ気なく返しながらも、自然とこぼれそうになる笑みを隠すように、そっと視線を逸らした。
病室の窓の外では、百鬼夜行の空がゆっくりと夜の帳を下ろし、お祭りの始まりを告げる提灯の明かりが、あちこちで灯り始めていた。
■■■
「たあああぁぁぁまやああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うるさい……!!」
空気を震わせる重低音と共に、百鬼夜行の夜空に色鮮やかな大輪の華が咲き誇った。
続いて、赤、青、緑と、色とりどりの光が次々と打ち上げられ、お祭りの夜を煌びやかに彩っていく。
熟練の職人が作るような、真ん丸で完璧な形とは言えないかもしれない。少し形は歪で、いびつな花火。
けれど、夜空を見上げる人々の心を打つには十分すぎるほど、力強くて、美しくて、作り手の『熱』が真っ直ぐに伝わってくるような花火だった。
「いやぁ……すごいね、スズちゃん。本当に一人で作っちゃうなんてさ」
お祭りの喧騒から遠く離れた、百鬼夜行の郊外を流れる静かな川辺。
土手の草むらに並んで座りながら、陽介が夜空を見上げて感嘆の声を漏らした。
「ええ。立派な職人の仕事」
私も夜風に髪を揺らしながら、空に咲いては消える光の余韻を見つめていた。
川の水面に花火の光が反射して、キラキラと揺れている。出店が並ぶ大通りの賑やかさとは無縁の、風の音と虫の音だけが聞こえる、私たちだけの特等席だ。
ふと、陽介が思い出したように首を傾げた。
「ところでさ、前夜祭って言うけど、数日間もぶっ通しで行うのに『前夜』祭って言い方、なんかおかしいよね」
百鬼夜行の豪快すぎるスケジュール設定に対する、真っ当すぎるツッコミ。
私は少しだけ目を瞬かせ、やがて小さく吹き出した。
「……確かに」
「でしょ? 前夜が何日もあるって、どういうカレンダーしてんのかなぁ」
陽介はクスクスと笑いながら、ポケットからガサゴソと細長い紙の束を取り出した。
事件解決のお礼にと、スズが私たちにこっそり持たせてくれた『線香花火』だ。
「キキョウちゃんも、やる?」
「……仕方ないから、付き合ってあげる」
私は陽介から一本受け取り、彼が差し出したライターの火で、紙の先端にそっと火を灯した。
小さな火種が丸く膨らみ、そこから松葉のような繊細な火花がパチパチと四方へ弾け飛ぶ。
上空では、スズの打ち上げた大花火が「ドーン!」と夜空と鼓膜を大きく震わせている。それとは対照的に、私たちの手元では、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど小さな光が、儚く、静かに燃えていた。
私はその小さな火花を見つめながら、昼間の工房での出来事を思い出していた。
「(……あのノートがないと作れない、か)」
スズは最初、師匠の字で書かれた実物の『ノート』が手元になければ、花火を作ることはできないと泣き叫んでいた。
形あるものに縋らなければ、前に進めなかったからだ。
でも、本当に彼女を突き動かした原動力は、ノートという『物』そのものではなかった。
自分の中に蓄積された知識、泥水すすって頑張ってきた日々の記憶、そして、師匠との温かい思い出。
物理的なノートが手元になくても、彼女の脳裏に焼き付いていた『記憶と思い出』こそが、彼女の心にもう一度火をつけ、あの見事な大花火を打ち上げる原動力になったのだ。
人と物を、簡単に比べることはできないけれど。
ふと、私は隣で線香花火を見つめる陽介の横顔を盗み見た。
「(……この人は、どうなんだろう)」
陽介はかつて、失った娘の面影を私に重ねていた。
どうしようもない過去の記憶から逃げるため、目の前にいる『桐生キキョウ』という存在を、ノートのような『代用品』として──過去と繋がるための形あるものとして扱っていた。
彼にとっての私は、過去の記憶を繋ぎ止めるための物に過ぎなかった。
じゃあ、今は?
「おっ、俺の火、けっこう長持ちしてるぞォ」
オレンジ色の小さな火花に照らされる、彼の穏やかな横顔。
昨晩の路地裏で見たような、過去の亡霊に怯える虚ろな目はもうない。
彼はもう、私という形を通して『過去の記憶』を見ようとはしていない。過去の記憶は記憶として胸の奥にしまい込み、今はただ、隣で一緒に火花を見つめている『今の私』を、真っ直ぐに見つめてくれている。
「(……私にとっても、同じ)」
彼が過去にどんな絶望を抱え、どんな傷を負ってきた大人なのか、私は知っている。
だけど、私が惹かれているのは、その悲惨な過去の記憶そのものじゃない。今、こうして不器用に笑いながら、私と一緒に線香花火をしてくれている『今の彼』自身だ。
積み重ねた記憶と思い出は、確かに人を動かす原動力になる。
でも、今を生きるための本当の熱は、過去の中じゃなく、こうして目の前でチリチリと燃えている、この瞬間の中にしかないのだ。
ポトリ、と。
限界まで燃え尽きた線香花火の赤い火の玉が、川辺の草むらへと落ちて消えた。
だけど、私の胸の奥に灯った小さな温もりは、消えることなく確かな熱を持ったまま燃え続けている。
「あ、落ちちゃった。キキョウちゃん、もう一本やる?」
「……ええ。お願い」
再び火を分け合いながら、私はそっと目を細めた。
夜空に響く花火の音と、静かで温かい余韻に包まれながら、私たちの長く慌ただしいお祭りの前夜は、ゆっくりと幕を下ろしていった。