キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
遺失物預り所の薄暗い室内に、備え付けの小さなブラウン管テレビの音声が響いていた。
『──続いてのニュースです。先日、シャーレの先生が、またしても自治区の危機を救ったとの情報が入りました。現場の生徒の噂によれば、先生は降り注ぐ銃弾の雨を不思議な力で弾き返し、的確な指揮で敵陣を制圧したと……』
「すごいなぁ、シャーレの先生って」
ちゃぶ台に肘をつきながらテレビを見ていた陽介が、感心したように息を吐いた。
「キヴォトスの大人って、みんなあんなに不思議な力を持ってるの? なんかもう、映画のヒーローみたいじゃん」
「……いくらなんでも、噂に尾鰭がつきすぎ」
私は手元にあった書類から顔を上げ、呆れたように返した。
「シャーレの先生は、確かにキヴォトスのあちこちで問題を解決している唯一無二の凄い人だけど。……先生自身が頑丈なわけじゃない。当たれば普通に血を流すし、怪我もする。事実、エデン条約関連の時に一度狙撃を受けてる。私たち生徒と違って……ただの、生身の大人なんだから」
「だよねぇ。俺なんて、この前電柱にぶつかっただけで星が見えたもん。体にも弾丸何発も受けてるし。本当だったら死んでるよ、キヴォトス来た時に若返っててよかった」
「若返え……あぁ、そんなこと言ってたね」
陽介は自分の額をさすりながら、へらへらと笑った。
外からは、お祭りの前夜祭を楽しむ生徒たちや屋台の喧騒が、遠く微かに聞こえてくる。穏やかな昼下がりだった。
「でもさ」
ふいに、陽介がテレビの画面から視線を外し、手元にあった将棋の駒──『歩兵』を指先で弄りながら口を開いた。
「もし、このキヴォトス全体がひとつの大きな将棋盤だとしたら。そのシャーレの先生って人は、間違いなく『王将』だよね。全校の生徒たちが守り、そして導かれる中心」
「……そうね」
「そして、キキョウちゃんたち生徒は、その盤面を自由に駆け巡って未来を切り開く、強くてしなやかな『飛車』や『角』だ。それぞれに圧倒的な力があって、無限の可能性を持ってる」
陽介はそこで言葉を区切り、手の中の『歩』をちゃぶ台の上にコトリと置いた。
「……じゃあ、アンタは何なの?」
私が尋ねると、陽介はいつもの呑気な笑顔を浮かべて、私を真っ直ぐに見た。
「俺はね、ただの『歩』かもね」
「……歩?」
「そう。前にしか進めないし、一番弱っちい。でもね、歩には歩の立派な役割があるんだ」
陽介は人差し指で、盤面に見立てたちゃぶ台の上で『歩』の駒をスッと前に押し出した。
「飛車や角が存分に暴れられるように、一番最初に道を切り開くこと。そして、いざって時に王将や飛車を庇って、真っ先に矢面に立って盾になること。……それが、この盤面における俺の役割だと思ってる」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を、ぞくりとした冷たいものが駆け上がった。
彼の言っていることは、ヒロイックな大人の自己犠牲のように聞こえる。けれど……。
私は、彼の横顔をじっと見つめた。
以前のような、過去の亡霊に囚われた暗さはない。絶望に沈み、ただ死に場所を探しているような虚無の目でもない。
彼の目は、どこまでも澄んでいた。未来を見据え、キヴォトスの生徒たちが笑って生きていく明日を、本気で信じている大人の目だ。
だが、だからこそ怖いのだ。
彼は、その輝かしい未来の盤面に到達するためなら、自分の命という『歩』を、いともたやすく計算式の中に組み込み、盤上から切り捨てることを平然と受け入れているように見える。
「……アンタ、自分が何を言ってるか分かってるの?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「え? うん、まあ将棋の例え話だけどさ。俺も遺失物預り所の所長として、キキョウちゃんたちを守る盾くらいにはなりたいなって──」
「あのね」
私がさらに強い言葉で反論しようと身を乗り出した、その時だった。
「た、助けてくださいっ!!」
勢いよく遺失物預り所の引き戸が開け放たれ、前夜祭の法被を着た一人の生徒が、半泣きになりながら飛び込んできた。
私は先ほどの言い合いを一旦飲み込み、作戦参謀としての冷静な表情を顔に貼り付け直す。
「落ち着いて。何があったの?」
「お、落とし物をしちゃったんです……っ! 今夜の山車に飾る予定だった、特注の金属製の飾りが……運搬中に荷車から落ちて、大通りの排水溝の中に転がり落ちちゃって……っ!」
生徒は青ざめた顔で、パニックになりながら状況を説明した。
聞けば、その飾りは今回の前夜祭に合わせて、名工に特別に作ってもらった一点物らしい。パレードの目玉の一つであり、今夜の本番までにどうしても見つけ出さなければならないという。
「大通りの排水溝……。あそこは地下水路に直結しているから、もう流されてしまっている可能性が高い」
私が冷静な事実を口にすると、生徒は絶望したようにその場にへたり込みそうになった。
「そんな……どうしよう、私のせいでお祭りが……」
「大丈夫だよ、泣かないで」
その時、陽介が生徒の肩を優しく支え、いつもの安心させるような声で告げた。
「探し物を見つけるのが、この遺失物預り所の仕事だからね。……今夜のパレードには、絶対に間に合わせるよ。任せて」
陽介はそう言うと、立ち上がって袖をまくり上げた。
その背中を見て、私は小さくため息をつく。さっき「自分はただの歩だ」と言っていた彼の言葉が、嫌でも脳裏をよぎる。……本当に、誰かのために泥を被ることを少しもためらわないのだから。
「……仕方ない。闇雲に地下を探し回っても時間が足りないから……」
私は遺失物預り所の引き出しを開けて、百鬼夜行連合学院の地図を開く。
「落とした正確な時間と場所を教えて。……金属製の重量物なら、水の流れに乗ってもそう遠くへは行かないはず」
「えっと、今から大体二十分前で、場所は大通りの三番交差点の……」
生徒から情報を聞き出しながら、私は地下水路の図面も一緒に展開する。
現在の水流の速度、水路の傾斜角、障害物の位置。それらの数値を瞬時に計算式に叩き込み、落とし物が引っかかっている可能性が最も高いポイントを弾き出した。
「……普段こういう計算をしないから推定になるけど、ここから南西に三百メートル。旧市街へ抜ける地下水路の、第一合流地点の沈殿槽。……そこにある確率が一番高い」
「了解! さっすが、仕事が早いね!」
陽介は私の示した地図を一瞥すると、懐中電灯と網を引っ掴み、迷うことなく店を飛び出していった。
■■■
百鬼夜行の地下に広がる、古くて暗い水路空間。
ひんやりとした湿気と、泥やカビの混ざった独特の匂いが鼻を突く。私たちはマンホールから地下へと降り、懐中電灯の光を頼りに薄暗い通路を進んでいた。
「うわっ、けっこう深いな……よしっ」
陽介はズボンの裾を太ももまで捲り上げると、躊躇うことなく、泥水が膝まで浸かる水路の中へとジャブジャブと足を踏み入れた。
「ちょっと、陽介。足元が見えないんだから、気をつけてよ」
私は水路の縁のわずかな足場を歩きながら、タブレットの光で彼の周囲を照らす。
「大丈夫大丈夫! キキョウちゃんの計算通りなら、この辺りに……おっ!」
陽介が泥水の中に網を突っ込み、何か重たいものをすくい上げた。
泥にまみれてはいるが、それは確かに、生徒が言っていた山車用の特注の金属飾りだった。
「あった! ほら、キキョウちゃん、見つけたよ!」
陽介は顔に泥水を跳ね上げながらも、宝物を見つけた子供のようにニカッと無邪気な笑顔を向けた。
その顔を見て、私は小さく息を吐きながらも、自然と口角が上がってしまうのを止められなかった。
「……ほら、早く上がってきなよ。泥だらけだから……」
私は彼を引っ張り上げるために、手を伸ばそうとした。
──その時だった。
「(……ん?)」
不意に、鼻腔をひどく不穏な『匂い』が掠めた。
地下水路特有のカビや泥の匂いではない。もっと人工的で、鋭く、作戦参謀としての危機本能を強烈に刺激する匂い。
「キキョウちゃん? どうしたの?」
私の動きがピタリと止まったのを見て、陽介が不思議そうに首を傾げる。
私は伸ばしかけた手を止め、暗い地下空間のさらに奥へと、懐中電灯の光を向けた。
「ストップ、陽介。そこから動かないで」
私が鋭い声で制止すると、泥水から上がろうとしていた陽介はビクッと動きを止めた。
「えっ? ど、どうしたの急に」
「……匂い。気づかない?」
「……下水っぽい、くっせ~ぃ匂いがするけど」
「あっそう……」
私は鼻を覆いながら、暗い地下空間の奥へと懐中電灯の光を向けた。
カビや泥の臭いに混じって、微かに、だが確実に漂ってくる異臭。甘ったるくて、ツンと鼻の奥を刺すような化学的な揮発臭。
「これは……ただのガスじゃない。化石燃料……それが気化している匂い」
「化石燃料? なんでそんなもんが、百鬼夜行の地下水路なんかから……」
そこまで言って、私は血の気が引くのを感じ、ハッとして陽介を見下ろした。
「陽介! アンタ、ライターとか火の出るもの持ってない!?」
「え? 持ってるけど。……なんで? 火、いる?」
陽介は泥水の中に立ったまま、ポケットから呑気に百円ライターを取り出し、親指をかけてカチッと火を点けようとした。
「危っ……バカッ!!」
私は咄嗟に足元の泥水を思い切り蹴り上げ、陽介の顔面と手元のライターめがけてぶち撒けた。
「ぶふぉっ!? けほっ、な、何すんのさキキョウちゃん!?」
「ここで火なんか出したら、引火して私たちごと木端微塵になるに決まってる!」
「……まぁ、化石燃料が揮発してるならあり得なくはないけど、流石に引火するほど引火ガスを漏らしてないでしょ」
「……っ」
「……へい、ごめんさぃ……」
泥水まみれになって目を白黒させている陽介を睨みつけ、私は水路の壁面へと懐中電灯の光を向け直した。
古いレンガ造りの水路の壁面。そこに、周囲の古びた景観とは明らかに不釣り合いな『真新しい太い配管』が、異常な数張り巡らされていた。
ただの老朽化に伴う改修工事にしては、数が多すぎるし、配置も不自然だ。
「この配管の行き先は、工業地帯じゃない。この水路に沿って上へ向かってる。この真上は……」
「大通りだ。……今夜、前夜祭のパレードが行われるメインストリートの、ど真ん中」
事態の異常さに気づいた陽介が、泥水を滴らせながら青ざめた顔で呟いた。
私は配管の末端、等間隔に設置されている金属製の装置に懐中電灯の光を当てる。
「このバルブ……液体を一気に気化散布させるための構造をしてる。つまり、この配管の中に化石燃料を充満させて、一斉にバルブを開放すれば……」
「地下空間と、その真上の大通りが、一瞬で巨大なガスバーナーの中身みたいになるってこと……!?」
「ええ。そこに何らかの火種を投げ込めば、大通りごと吹き飛ぶ」
ただのイタズラや嫌がらせの範疇を遥かに超えている。
明確な殺意と、お祭りの人混みを狙った大規模なテロの準備だ。
私はハンカチを取り出し、バルブの表面に付着した泥を素早く拭き取った。
そこには、小さく『企業ロゴ』が刻印されていた。私は制服のポケットから自分のスマホを取り出し、そのロゴの画像を検索する。
「……ヒットした。かつてキヴォトス全域で下水道工事を請け負っていた、中堅のインフラ企業」
「その会社が、こんなテロの準備を? どうして……」
「いいえ、この会社自体は数年前に表向きは倒産してる。でも、その直前に強引な買収を仕掛け、裏でこの企業を完全に掌握していた親会社があるの」
スマホの画面に表示された『親会社』の名前を見て、私はゴクリと息を呑んだ。
「……アカツカ・ホールディングス」
あの時、アカツカがすべての罪を自白したはずの企業。
その遺物が、なぜ今になって、こんな最悪の形で百鬼夜行の地下に牙を剥いているのか。
「……陽介。山車の飾りは、依頼主の生徒のところへすぐに届けてあげて」
私は踵を返し、足早に水路の出口へと向かいながら指示を出した。
「キキョウちゃんは!?」
「私はヴァルキューレの矯正局へ向かう。……アカツカ本人に接触して、直接吐かせる」
■■■
ヴァルキューレ警察学校の地下にある、冷たいコンクリートに囲まれた面会室。
分厚いアクリルガラスの向こう側に、囚人服に身を包んだアカツカが看守に連れられて姿を現した。
「お久しぶりですね、遺失物預り所の方」
パイプ椅子に腰掛けたアカツカは、憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな顔をしていた。かつて私たちと対峙した時に見せていた、権力と金に執着するギラギラとした悪意はもうない。まるで社会人一年目の新入社員のような、すっきりとした清々しい表情だった。
「……正確には百花繚乱なのだけれど」
「あぁ、そうでしたね。失礼しました」
穏やかに微笑む彼を見て、私は少しだけ胸が痛むのを感じた。
言いたくはなかった。彼が改心したという事実を、私たちにすべてを打ち明けて罪を償おうとしているこの状況を、自分から疑うような真似はしたくなかった。
けれど、作戦参謀としての私の頭は、地下水路で見た光景と目の前の男を、冷徹な計算式ですでに結びつけてしまっていた。
「……単刀直入に聞く、アカツカ」
私はガラス越しに彼を真っ直ぐに見据え、言葉を絞り出した。
「あなたはまだ、私たちに何か隠していることがあるんじゃないの?」
「……何の話ですか?」
「とぼけないで。百鬼夜行の旧市街から大通りへ抜ける地下水路に、おびただしい数の特殊配管が張り巡らされていた。中身は気化した化石燃料。……配管の末端にあるバルブには、あなたが裏で操っていたダミーのインフラ企業のロゴが刻まれていた」
私の言葉を聞いた瞬間、アカツカのすっきりとした顔に、微かな緊張が走った。
「今夜、前夜祭のパレードが行われる大通りの真下で、大規模な爆破テロの準備が進められている。……あれは、あなたの残党の仕業でしょう? まだあんな計画を隠し持っていたなんて……!」
「待ってください! 今、どこの配管と言いましたか?」
私が鋭く追及すると、アカツカはガタッと音を立てて身を乗り出し、ガラスの向こうから問い返してきた。
「旧市街から大通りへ抜ける地下水路」
「旧市街から大通り……」
その場所を聞いた瞬間、アカツカは目を見開き、心底からの『純粋な驚愕』を顔に浮かべてガラスをドンッと叩いた。
「ばかな……! あの地下物流網の計画は、私が自首した時に、余罪としてすべてヴァルキューレに自白したはずです!」
「……え?」
「証拠となるデータも、インフラ企業のダミー口座の記録も、すべて提出した。テロへの転用なんて私は絶対に指示していない! ……そもそも、なぜ計画が凍結されていないんです!? なぜ今になってもインフラ企業にヴァルキューレの捜索の手が入っていないんだ!」
アカツカの必死な叫びが、狭い面会室に響き渡る。
彼の顔に、嘘をついているような様子はない。本気で混乱し、自分の計画がまだ動いていることに驚いている。
だとしたら、あまりにもおかしい。
アカツカが自白し、証拠まで提出しているのなら、なぜヴァルキューレ警察学校は動かなかったのか。インフラ企業の不審な動きを、なぜ今まで放置していたのか。
無能だから? 怠慢だから?
……違う。自白と証拠があるにも関わらず放置されているのなら、理由は一つしかない。
「(……意図的に、『動かなかった』?)」
私は、急速に組み上がっていく最悪の計算式を前に、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
ガチャリ、と。
面会室の重い扉が開く音がして、私はハッと意識を現実に引き戻された。
「キキョウちゃん、待たせた! 山車の飾り、無事に届けてきたよ」
息を切らしながら入ってきたのは、泥汚れを軽く拭き取った陽介だった。
私は彼の方へと視線を向けたが、私の思考は彼を労うどころではなかった。頭の中を、恐ろしいほどの速度で疑問符が駆け巡っている。
「(……なぜ? どうして? なぜあんなものが?)」
アカツカはすべてを自白したと言った。証拠も提出したと。
ならば、なぜあんな大規模なテロ装置が、誰にも気づかれずに完成しようとしているのか。アカツカの手がすでに入っていないのに、なぜインフラ企業はあんな狂った計画を続行しているのか。
ヴァルキューレ警察学校の怠慢だとしても、限度がある。大通りの地下にあれだけの配管を巡らせる大がかりな工事を、警察組織が一つも察知できないなんてあり得ない。
意図的に見逃している。あるいは、捜査のメスを入れることを『禁じられている』。
「……ねぇ、アカツカ」
私は再びアクリルガラスの向こうへ向き直り、冷え切った声で問いかけた。
「あなたが以前盗まれたUSB……あのデータの中に、ヴァルキューレ警察学校の捜査を強制的に止めさせるような、警察組織に対する『抑止力』になるものは入っていなかった?」
「抑止力……?」
「ええ。例えば、警備局や上の人間を脅して、完全に沈黙させられるような『決定的な弱み』」
私の推論を聞いた瞬間、アカツカの顔からスッと血の気が引いていった。
彼は震える手で口元を覆い、呻くような声で事実を吐き出した。
「……裏金工作の記録だ。アカツカ・ホールディングスの違法な開発を黙認させるために、長年にわたって一部の上層部へ贈り続けていた巨額の賄賂リスト。あのUSBの中に残っていたそのデータがあれば、ヴァルキューレの一部を完全に黙らせることは……可能だ」
やはり、そうか。
警察の口を塞ぎ、インフラ企業を脅迫して操り、お祭りの人混みごと街を吹き飛ばすテロを企てている黒幕。
「キキョウさん……」
青ざめた顔のアカツカが、すがるような目で私を見た。
「一体誰が、私の残したデータを使ってこんな真似を……。何か、心当たりがあるのですか?」
「……っ」
心当たり。
聞かれた瞬間、私の脳裏に『ある女』の顔が鮮明にフラッシュバックした。
あの日、私と陽介とミノリ部長で立ち向かい、倒したものの逃がしてしまった女。彼女が去り際に残した、あの不気味な言葉。
『近いうちに、この百鬼夜行は『終わる』んだからな』
ただの負け惜しみだと、その時は思っていた。
だが、あの言葉と、大通りの地下に仕掛けられた配管の目的が、今ここで最悪の形で一致した。
「(……間違いない。アカツカからあのUSBを盗み出したのは、芹澤だ)」
彼女があのUSBの中身を利用して、ヴァルキューレを脅し、インフラ企業を操り、百鬼夜行を終わらせるためのこの最悪の導火線を完成させたのだ。何の意味もない。何の利益もない。ただ純粋な悪意だけで、この盤面をひっくり返そうとしている。
背筋が凍りつくような悪寒に襲われ、私は小さく震える手をギュッと握り込んだ。
隣に立つ陽介を見上げる。彼は、私のただならぬ様子を察して、静かに真剣な表情を浮かべていた。
「……陽介、私たちはもしかしたら最悪なものを見つけたかもしれない」
私は、絞り出すような声で告げた。
今夜のパレードという、絶望的なタイムリミットがもう数時間後に迫っている。
「……もしあの配管が使われれば。百鬼夜行が、終わる」
「決行が今日じゃない可能性もあるよ、キキョウちゃん」
「可能性は低いかもしれない。けれど、あれほどの配管なら見張りを付けるだろうし、まだ制作中なら工事の音だって地下に響くはず。それなのにあそこは人の気配なんてしないし音もしなかった」
「……『今夜が決行日』という仮説を立てるには、少なくても十分な材料ってことかぁ」
数万人の生徒や観光客がひしめく大通りが、一瞬にして火の海に変わる。逃げ道なんてない。
作戦参謀としての絶望的な予測に、私の声は微かに震えていた。
だが、その言葉を聞いた陽介は、パニックを起こすことも、絶望に顔を歪めることもなかった。
彼はいつもの穏やかな、けれど決して揺らぐことのない確かな眼差しで私を見下ろし、静かに口を開いた。
「キキョウちゃん、一つ間違いがあるよ」
「……え?」
「最悪なものでもあり、最高なものだ。『未然に防げる』わけだからね。見つけなければ止めることもままならなかったんだから」
その言葉は、絶望の泥沼に沈みかけていた私の思考を、力強く引き上げるものだった。
そうだ。私たちは偶然にも『見つけた』のだ。
何も知らずに火をつけられるのを待つのではなく、盤面上の最悪の罠を、本番前に看破することができた。
「さあ、遺失物預り所のお仕事の続きだ」
陽介は私の頭にポンと手を置き、前を向いて力強く笑った。
「パレードが始まる前に、その最悪の導火線をぶっ潰しに行こう」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
百鬼夜行大通りの地下深く。
ひんやりとした古い水路に、鼻の奥をツンと刺すような化石燃料の匂いが漂っている。
巨大な配管の中に充満しているのは、ガスなどではない。極めて引火性の高い、高純度の『液体』の化石燃料だ。
大通りの真下に張り巡らされたこの配管のバルブを全開放すれば、大量の液体燃料が一気に散布される。そこに火種を一つでも投げ込めば……頭上で前夜祭のパレードを楽しむ何万もの生徒や観光客は、逃げる間もなく一瞬にして業火に飲み込まれる。
「……圧力、規定値に近いです。もうすぐバルブ、開けます……っ」
暗がりに設置された計器板の前で、脅されて連れてこられたインフラ企業の大人が、顔面を蒼白にしながら報告してきた。
「……あぁ、わかった。下がってろ」
短く答えた自分の声が、酷く上ずっているのが分かった。
作業員と入れ替わるようにバルブの前に立ち、冷たい金属のハンドルに手を添える。
「(……っ)」
ハンドルを握る自分の両手が、情けないほどにガタガタと震えていた。
奥歯を噛み締め、力ずくで抑え込もうとしても、指先の震えは全く止まらない。
「(なんで……なんで、こんなことになった……)」
アタシは胸の奥で、誰にも聞こえないように毒づいた。
クロヌマ組で頭を張っていた頃は、暴力も、窃盗も、すべては生き残るための『シノギ』だった。金になり、自分の力と居場所を証明できるからやっていた。
だが、今の組長である芹澤が描こうとしているこの『絵』には、何の利益もない。ただ街が燃え、人が死にゆく様を特等席で眺めたいという、純度百パーセントの悪意と狂気だけだ。
「(アタシは……ただの不良だったはずだ。裏社会でのし上がって、デカい顔がしたかっただけだ。こんな……何万もの命を無意味に焼き尽くすような、イカれた大量殺人鬼になりたかったわけじゃねぇ……っ!)」
ジジッ、と。
不意に、耳に付けたインカムからノイズが鳴り、耳障りな笑い声が響いた。
『──聞こえるか、シオリ。そっちの絵の具の準備はどうだ?』
芹澤の声だ。
ビクリと肩を跳ねさせながらも、アタシは必死に喉の震えを押し殺し、冷徹な幹部の声を作って応答する。
「……問題ねぇ。配管はもうすぐ満たされる。もう少しで、いつでもバルブを開放できるぜ」
『ハハッ、上出来だなああぁぁぁぁぁ? パレードが一番盛り上がる時間まで待て。最高の芸術を見せてやる』
通信が切れる。
アタシはバルブから手を離し、ホルスターから愛銃を抜いた。カチャリと安全装置を外す手つきすら、ひどくおぼつかない。
このバルブを守り抜くのが、今のアタシに与えられた役割だ。ここから逃げ出せば、芹澤の狂った報復がアタシを待っている。自分からこの計画を投げ出して逃げる勇気なんて、アタシにはもう残っちゃいない。
暗闇の中で、銃を強く握り直す。
脳裏に浮かぶのは、ブラックマーケットでアタシを追い詰めた連中の顔だ。
弾丸に怯え、震えながらも、損得勘定抜きで生徒を信じ抜き、身を挺して盾になったあのバカな大人。
そして、その大人が全幅の信頼を寄せていた、あの青い羽織の女。
「(……頼む。気づいてくれ、百花繚乱の作戦参謀)」
もし、あの勘の鋭い女がこの計画の異常性に気づき、ここへ向かってきているのだとしたら。
「(早く、ここに来て……アタシを止めてくれ)」
アタシのこの震える手を、その銃弾で撃ち抜いてくれ。
「百花繚乱に負けたからバルブを開けられなかった」という、この狂った計画から抜け出すための『体のいい理由』を、アタシに与えてくれ。
冷たい地下水路の闇の中で、アタシは自分がかつて見下していたはずの『正義』に、すがるように祈り続けていた。