キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
ヴァルキューレ警察学校を飛び出した私たちを待っていたのは、残酷なほどに平和な光景だった。
二十年ぶりの復活祭を翌日に控えた百鬼夜行のメインストリートは、前夜祭の熱気に包み込まれている。
通りには無数の提灯が飾られ、屋台から漂う綿飴や焼きそばの匂いが空腹を誘う。行き交う生徒たちは皆一様に笑顔を浮かべ、今夜のパレードの話題で持ちきりだった。
この足元のすぐ下で、彼女たちを丸ごと焼き尽くす最悪のテロ計画が進行しているなどとは、誰も夢にも思っていないだろう。
「(……大通りの地下水路なんて広すぎる)」
私は人混みを掻き分けながら、スマホの画面に表示した地下水路の図面を睨みつけた。
無数に枝分かれし、旧市街や廃棄区画へも繋がっている広大な地下の迷宮。芹澤が起爆用のバルブを正確にどの地点へ設置したのかまでは分からない。
加えて、最も恐ろしいのは『正確なタイムリミットが不明』という点だ。
パレードの最中を狙うはずだが、それが開始直後なのか、あるいは最高潮に達した時なのか。芹澤の気分次第で、今この瞬間に点火されてもおかしくはない。
「どうしよう……手当たり次第に探していたら、絶対に間に合わない。でも、ピンポイントでバルブの位置を特定する方法なんて……!」
スマホを握る手にじっとりと汗が滲む。
いつ爆発するかもわからない足元の爆弾。時間が無情に過ぎていく焦燥感に、私の呼吸は浅くなり、視界が狭まっていく。
トンッ、と。
その時、私の肩に温かい手が置かれた。
「落ち着いてキキョウちゃん。こういう時に作戦を考えるのは俺よりキキョウちゃんの方が優れてる。だからこそ、しっかり冷静に、ね」
振り向くと、そこにはいつもの呑気な、けれど確かな信頼を宿した瞳で私を見下ろす陽介がいた。
パニックに陥りかけていた私の思考が、彼のその低く落ち着いた声によって、スッと静かな水面のように凪いでいくのを感じた。
「……そう。なら、私の後ろでしっかり構えてて」
私は深く息を吸い込み、スマホの画面を消した。
無意識のうちに早鐘を打っていた鼓動が、本来の作戦参謀としての冷静なリズムを取り戻していく。自分の焦りを一瞬で拭い去ってくれたこの不器用な大人に、私は内心で深く感謝していた。
「(焦るな。盤面を俯瞰して、ヒントを探すの)」
私は足を止め、周囲の喧騒の中へと鋭い視線を巡らせた。
楽しげに笑う生徒たち。屋台に並ぶ観光客。
その平和な群衆の中で、異質なノイズがないか、一つ一つ情報を精査していく。
ふと、大通りから薄暗い裏路地へと外れていく、一人の生徒の背中が目に留まった。
お祭りの法被も着ておらず、どこか周囲を警戒するように早足で歩いている。そして何より、彼女の着ている黒いジャケットの襟元には──。
「(……間違いない。前に見た、セリサワ組の代紋)」
こんなお祭りの中心地で、裏社会の構成員がコソコソと動いている理由など一つしかない。
地下水路の見張り交代か、あるいは起爆装置の最終確認か。いずれにせよ、彼女の向かう先には私たちの探している『正解』がある。
頭の中で、バラバラだった計算式がカチリと音を立てて組み上がった。
「陽介」
私は先ほどまでの焦りなど嘘のように、作戦参謀としての鋭く、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて振り返る。
「バルブの位置を特定する、いい方法がある」
私の視線の先を追い、裏路地へと消えていく黒いジャケットの生徒を見つけた陽介は、すべてを察したようにポンと手を打った。
「なぁるほど、キキョウちゃん。俺も同じこと考えた」
口裏を合わせたように頷き合うと、私たちは足音を殺し、お祭りの喧騒を背にして薄暗い裏路地へと足を踏み入れた。
■■■
「ぐぎゃっ!?」
ドスッ、と。
鈍い音を立てて、セリサワ組の構成員が冷たい地下水路の床に崩れ落ちた。
「……これで案内役はお役御免」
私は気絶した構成員を見下ろし、小さく息を吐いた。
大通りの地下に張り巡らされた複雑な水路網の中から、起爆バルブの正確な位置を割り出すのは至難の業だった。だからこそ、地上でこの構成員を見つけたのは大きかった。
「ふぅ、ここまで長かったね。お疲れ様、キキョウちゃん」
背後からついてきていた陽介が、構成員を道の端へどかしながら声をかけてきた。
「キキョウちゃん、ゲームで言うならこの先はセーブできないポイントだからね」
「……デジタルなゲームはあまりやらないからわからないけど」
「まぁ、後戻りできないから気を付けてってこと」
「誰に言ってるの」
私が気を付けることを忘れるとでも思っているのか。
そんなニュアンスを込めて、かすかに微笑みながら彼を見つめ返すと。
「ははっ、ごめんごめん」
陽介はそう言って、少しバツが悪そうに頭を掻いた。
相変わらず緊張感のない男だが、その呑気な声のおかげで、張り詰めていた私の肩の力が少しだけ抜けたのも事実だった。
「(……この壁の向こう)」
私は構成員が向かおうとしていた古いレンガ造りの壁の前に立ち止まった。このすぐ裏が、バルブのある空間。
だが、馬鹿正直にドアから入るよりは、奇襲がしやすい方法を取った方がいい。
鼻を突く化石燃料の匂いは比較的薄くなっている。この程度なら大丈夫だろう。
私は小型の爆薬を壁の隙間にセットした。
「陽介、耳を塞いで」
短く指示を出し、私は起爆スイッチを押した。
くぐもった重い破壊音と共に、レンガの壁が内側へと崩れ落ちる。土煙が舞う中、私たちはその大穴から起爆バルブのある空間へと一気に突入する。
「なっ……!? てめぇら、どこから!」
バルブを背にして見張りに立っていたのは、黒沼シオリ。
彼女は、突然の壁の崩落と奇襲に目を剥いて銃を構えた。
「(……冷静に。状況を計算しろ)」
私は瞬時に周囲の空間を分析する。
現状、鼻で感じられる化石燃料のガス濃度なら、一、二発発砲した程度ですぐに引火爆発することは無いだろう。
敵の本拠地手前ということもあってか、新たに張り巡らされた特殊配管は極めて丁寧に作られており、ガスの漏れ自体は驚くほど少ない。
だが、それでも。
ここで下手に銃火器を乱射して、万が一にも引火でもしたら一貫の終わりだ。勝利条件はシオリの無力化とバルブの破壊であり、私たちもろとも自爆することではない。
「陽介下がってて」
私は愛銃を下ろす代わりに、制服のポーチから熱源を持たない特殊な閃光玉を取り出し、シオリの足元へと正確に投擲した。
「チッ、舐めやがって……!」
シオリが引き金を引こうとした瞬間、強烈な閃光が地下水路の暗闇を真っ白に染め上げる。
「ぐぁッ!? 目が……!」
視界を奪われ、シオリの銃口がブレる。
その隙を逃さず、私は懐から『紐』を引き抜いた。容易には千切れない頑丈な代物だ。
一気に距離を詰めながら紐を投げ放ち、闇雲に銃を振り回そうとしていたシオリの両手首を、銃ごとグルグル巻きにして絡め取った。
「なっ……なんだこれ! ほどけねぇ!」
「これで終わりよ、黒沼シオリ」
「そのセリフも何回目だ……ッ!」
手首の自由を奪われ、もがくシオリ。
私は紐の端をしっかりと握り込んだまま、彼女の目の前まで肉薄し、その顔を冷たく見据えた。
至近距離で対峙して、確信に変わる。
ブラックマーケットで戦った時の彼女は、もっと鋭く、殺気に満ちていた。だが、今はどうだ。もがく足の運びはどこか浮ついており、何より──紐で縛り上げられたその手が、情けないほどにガタガタと震えているではないか。
「アンタ、本当はここから逃げ出したいんでしょ」
「……あァ!?」
「強がっても無駄。手が震えてる。ブラックマーケットの時みたいな、自分の意思で戦ってる人間の目じゃない。芹澤の狂気に怯えて、無理やり立たされてるだけの……哀れな捨て駒の目をしてる」
私の指摘に、シオリの顔が図星を突かれたように大きく歪んだ。
「だ、黙れッ! アタシはセリサワ組の幹部だ! あの人の描く絵のために……!」
「嘘。何万もの関係ない人間を巻き込んで殺すような計画、アンタ自身が一番ゾッとしてるんじゃないの?」
私は紐をさらに強く引き絞り、言葉の追撃をかける。
「アンタは、芹澤が怖くて逃げ出せないだけ。だから、私たちに負けて、バルブを壊されて……『百花繚乱に邪魔されたから計画は失敗した』っていう、体のいい言い訳が欲しいんでしょ!?」
「ちが……違うッ! アタシは……アタシはッ!!」
シオリの表情が、葛藤と恐怖でぐちゃぐちゃに歪む。
これで心は折れる。武装を解除し、背後のバルブを破壊すれば、私たちの勝ちだ。
そう、計算式を弾き出したその直後だった。
「ふざけん、なァァァアアアアッ!!」
シオリの口から、獣のような咆哮が聞こえる。彼女は顔を真っ赤に紅潮させ、私に絡め取られていた両腕に、常軌を逸した力を込め始めた。
ギリギリギリッ! と、特殊なワイヤーが編み込まれた紐が悲鳴を上げる。
「アタシは……ッ! アタシはっ……?」
火花が散るような破断音と共に、捕縛紐があまりにも簡単に、真っ二つに引きちぎられた。
窮地で火事場の馬鹿力を発揮したからといって、ワイヤーを千切ること自体に驚きはない。
だが、紐を千切った反動と、彼女の強烈な腕の振り払いをまともに受け、私はたまらず後方へと数歩突き飛ばされた。
「キキョウちゃん!」
陽介が背中を支えてくれる。
体勢を立て直して前を向くと、そこには千切れた紐を腕にぶら下げたまま、肩で荒い息をするシオリの姿があった。
その瞳に宿っているのは、私への敵意ではない。
芹澤の狂気に対するどうしようもない恐怖と、後戻りできない絶望。行き場を失った感情が、彼女を暴走させようとしていた。
「うおおおおおおおおっ!!」
もはやそこに、理路整然とした戦術はない。ただ純粋な恐怖に突き動かされた、生存本能むき出しの突進と、銃床による大振りの殴打だった。
だが、恐れを知ってしまった人間の「死に物狂い」ほど厄介なものはない。
「くっ……!」
私は銃でその一撃を受け流そうとするが、先ほどの紐を千切った異常な膂力がそのまま乗った打撃を完全にいなすことは困難だった。
ガキンッ! と火花が散り、私の腕が痺れで跳ね上がる。姿勢を崩され、後退を余儀なくされた。
「(重いっ……!)」
狭い空間。背後には陽介がいるため、これ以上大きく下がることもできない。
シオリは私の体勢が崩れたのを見逃さず、さらなる追撃を叩き込もうと大きく銃を振り上げた。
その絶体絶命の瞬間。
私の背後で、焦燥に駆られた陽介の声が聞こえた。
「くっ……俺も何かキキョウちゃんに貢献出来たらなぁ……シャーレの先生みたいに弾丸弾く力なんて持ってないし……あっ、そうだ!」
何かを思いついたような彼の声。
次の瞬間、陽介は自分のカバンから何かを鷲掴みにし、シオリの顔面めがけて思い切り投げつけた。
「これこそ最善の手ぇ!!」
バラバラバラッ! と、けたたましい音を立てて空を舞ったのは、彼がいつも遺失物預り所のちゃぶ台に広げている『将棋の駒』だった。
「……あァ!?」
暗い地下空間で突然視界に散らばった無数の飛来物に、シオリの意識が強制的にそちらへと引っ張られる。
顔に当たった「歩」や「香車」の駒を鬱陶しそうに手で払い、足元に転がった「飛車」を踏みつけて僅かにバランスを崩した。
ほんのコンマ数秒。
だが、私にとっては、世界をひっくり返すのに十分すぎるほどの『決定的な隙』だった。
「(そこっ!)」
私はシオリの横を滑るようにして抜け、彼女の背後に鎮座する起爆バルブの心臓部──圧力を制御するシリンダーの結合部へと、愛銃の銃口をピタリと合わせた。
そして、一切の迷いなく引き金を引く。
放たれた銃弾は、極めて正確にバルブの心臓部を撃ち抜いた。
金属がひしゃげる凄まじい音と共に、制御機構の歯車が砕け散り、バルブのハンドルがガクンと力なく垂れ下がる。
これで、このバルブを手動で開くことも、遠隔で操作することも物理的に不可能になった。
「あ……あぁっ……!」
破壊されたバルブを振り返ったシオリの顔から、一気に血の気が引いていく。
計画の失敗。それはすなわち、芹澤からの凄惨な報復を意味した。
「終わった……アタシは殺される……っ! もうおしまいだァァッ!!」
絶望に呑み込まれたシオリは、完全に正気を失ったように頭を抱え、周囲の壁や計器板を手当たり次第に蹴り飛ばして暴れ回り始めた。
ただでさえ化石燃料が充満しているこの空間で、自暴自棄になられては、たまったものではない。
「陽介、下がって!」
私が再びシオリを取り押さえるための計算式を立てようとした、その時だった。
陽介が手元のスマホの画面をタップし、何かの『合図』を送ったのが見えた。
直後。
私たちが指向性爆薬で開けた壁の穴とは反対側。水路の奥の分厚いコンクリートの壁が、地鳴りのような轟音と共にドカーンッ! と派手に粉砕された。
「寂しいじゃないかキキョウ! このような大舞台に工務部を頼らないとは!!」
もうもうと舞い上がる土煙を吹き飛ばしながら現れたのは、愛銃を肩に担ぎ、白いヘルメットを被ったミノリ部長だった。
その後ろには、武装したレッドウィンター工務部の面々がズラリと顔を揃えている。
「ミノリ部長……!? どうしてここに」
私が驚いて振り返ると、陽介が将棋の駒を拾い集めながら、得意げにウィンクをして見せた。
「最高のゲストをお連れしたよ、キキョウちゃん」
どうやら、裏路地でセリサワ組の構成員を見つけ、アジトの場所の目星がついたあの段階で、陽介はこっそりとミノリに連絡を取って援軍を要請していたらしい。
「ミノリちゃん! まだ奥にセリサワ組がいるはず! 間違っても力技で点火されないように全員捕まえて!!」
陽介が声を張り上げて指示を出す。
すると、ミノリはヘルメットの鍔をグッと上げ、ニヤリと力強い笑みを浮かべた。
「承知した! さぁ労働の時間だ! 悪党どもに労働者の鉄槌を下してやれぇ!!」
「うおおおおおおおっ!!」
「時間外だから25%増しの手当てが陽介からもらえるぞぉ!!」
「えっ、何それ俺聞いてない」
ミノリの号令と共に、工務部の生徒たちが怒涛の勢いで地下水路の奥へと突撃していく。
暴れ回っていたシオリも、その圧倒的な数の暴力と勢いを前に完全に言葉を失い、なす術なく工務部の生徒たちに取り押さえられたのだった。
近くを見るだけでも、セリサワ組の構成員たちが工務部の手によって次々と縛り上げられていくのが分かった。暴れ回っていたシオリ自身も、完全に戦意を喪失して項垂れている。
これで、百鬼夜行を終わらせる最悪の事件は幕を閉じた。
そう、安堵の息を吐きかけた、その時だった。
ふと、周囲の制圧に当たっていた工務部の生徒の一人が、小走りで私のもとへ駆け寄り、元気な声で報告を上げてきた。
「百鬼夜行の方、奥の方まで探索に行った班から連絡です! セリサワ組のメンバーは全員捕縛したそうです!」
一瞬、思考が強烈な違和感を覚える。
「……待って」
「どうしたの、キキョウちゃん」
私の脳内で、完了したはずの計算式が、不協和音を立ててバグを引き起こした。
「……全員って言った?」
全員。
その言葉を聞いて、私はすっぽりと抜け落ちていた『最悪のピース』を頭に浮かべた。
「キキョウちゃん? 何を言って……あ」
そうだ。どうして、この事件が組み立てられたのか。
どうして、あのアカツカの強固な金庫から、ヴァルキューレを黙らせるためのUSBが盗み出されたのか。
私とミノリ部長の二人がかりで立ち向かってもなお、私たちを苦戦させ、逃げおおせたあの組織のトップが。
この『狂った絵』を描き上げた張本人が、いるはずなのに。
シオリを追い詰めることと、バルブを破壊することに思考のリソースを割きすぎた。作戦参謀としての私の視野が、ほんの一瞬、その事実を盤面から見落としてしまっていた。
「全員周囲を警戒ッ!!」
すぐ隣で、陽介が突然血を吐くような声で叫んだ。
だが、時はすでに遅かった。
背後から、爆風とも打撃ともつかない凄まじい衝撃音が響き渡る。
振り返るよりも早く、1秒も経たない間に、奥の通路を固めていたはずの工務部の部員たちが、まるで枯れ葉のように次々と宙を舞い、壁へと叩きつけられて吹き飛ばされていく。
「キキョウちゃん!!」
そして、次の瞬間。
「あぐっ……」
すぐ隣から聞こえた、くぐもった、短い呻き声。
私の視界が、ぐにゃりと歪み、すべての景色がスローモーションのようにゆっくりと流れ始めた。
私が、ヤツのことを忘れていなければ防げたというのに。
作戦参謀である私の計算から、たった一瞬、その存在が記憶から消えてしまったがゆえに。
私の目の前で。
ただの一般人であり、脆く弱い生身の体しか持たない大人の男が。
私を庇うようにして前に飛び出した陽介が、その腹部から泥のように赤く濁った血液をドクンと吐き出しながら、力なくその場に膝をついた。
「(……あ)」
生徒の身体とは違う。
それは、正真正銘の致命傷を告げる、命を削る生々しい赤色。
冷たいコンクリートの床に、おびただしい量の血だまりが広がっていく。
膝をつき、ゆっくりと前のめりに倒れていく彼の背中を見て。
私の世界は、完全に崩壊した。
「ッ陽介ぇっ!!」
鼓膜を劈く私の絶叫だけが、ひんやりとした地下水路の闇の中へ、悲痛に響き渡った。
私の悲痛な絶叫が地下水路に響き渡る中、ヤツは悪びれる様子もなく、血だまりに沈む陽介を冷たい目で見下ろす。
「チッ、大人がしゃしゃり出てくんな。……まぁいい、次はお前だ」
芹澤はそのまま銃口を滑らせ、呆然と膝をつく私を確実に仕留めんとばかりに引き金に指をかける。
その瞬間。
作戦参謀としての緻密な計算式も、百花繚乱としての理詰めの戦術も、私の頭の中から完全に消え失せた。
残ったのは、視界を真っ赤に染め上げるほどの純粋な殺意だけ。
「……ッ!!」
私は咄嗟の判断で、銃を構えることすらしなかった。
地面を蹴り上げ、野性の獣のように芹澤の懐へと飛び込むと、下から強烈な蹴りを放ち、ヤツの構えていた銃身を下から思い切り蹴り上げた。
「おっと」
銃弾は天井のコンクリートを穿ち、芹澤の攻撃が大きく逸れる。
だが、芹澤は体勢を崩すどころか、私の蹴りの威力を楽しむかのような不敵な笑みを浮かべて後方へと飛び退いた。
「セリサワ組を立ち上げる前、そこらの不良集団に呼ばれてた呼び名があってな」
「……何の話」
私は陽介を背中で庇うように立ち塞がり、震える声で睨みつける。
そんな私の怒りなど意にも介さず、芹澤は狂気を孕んだ瞳を爛々と輝かせた。
「
自身を災厄と名乗るその歪んだ笑み。
「もうセリサワ組なんて関係ない。ここまで計画が進んだんだ。力づくでも起爆するぜ」
その言葉を聞いて、私は心の底から戦慄し、同時にどうしようもないほどの怒りが全身の血液を沸騰させていくのを感じた。
「(……どうして、どうしてこれほどまでに倫理観の『終わった』生徒がいるの……?)」
不思議で仕方がなかった。
理解できなかった。自分の利益のためでもなく、組織のためでもない。ただ全てを壊し、燃やし尽くすことだけを目的とするその狂った思考回路が。
そして何より、そんな何の意味も、何の目的も分からない計画のために。
私を庇って、私の中でいつの間にか『一番大切な人』になっていたあの男が、血を流して倒れているのだ。
冷静になれるわけがなかった。
怒りで、どうにかなりそうだった。
この世界は、目の前に立つ終わった生徒が『人間性』を『落とした』とでもいうのだろうか。
「化石燃料をため込んだ地下タンクがどこにあるか、教えてやろうか」
芹澤は両手を広げ、まるで舞台俳優のように仰々しく告げた。
「前夜祭が行われてる広場のど真ん中だ」
「……だから、どうだっていうの」
私の声は、地を這うように低く、殺気に満ちていた。
だが、芹澤は構わず言葉を続ける。
「これからその地下タンクに向かい、時限爆弾を仕掛ける。数十分後には百鬼夜行はただのぼろ雑巾になる」
何万もの生徒の命。
百鬼夜行という街そのものの崩壊。
作戦参謀であれば、何よりも最優先で阻止しなければならない最悪の事態。
だが、今の私の目には、背後で血を流している一人の大人の命しか映っていなかった。
「だからどうだっていうの!!」
私は、喉が裂けるほどの声で吠えた。
街がどうなろうと知ったことではない。そんな壮大な脅し文句で、私のこの怒りが逸らせると思ったら大間違いだ。
「あんたは私の大切な人を撃った! それに変わりはない!」
私は愛銃を両手で強く握りしめ、銃口を芹澤の眉間へと真っ直ぐに突きつける。
もはや計算などいらない。ただ、目の前の敵を排除する。
「今ここで倒す! 芹澤アキコぉ!」
私がその名を呼んだ瞬間。
薄ら笑いを浮かべていた芹澤の顔から、一瞬にして表情が消え去り、凄まじいまでの殺意と怒りが爆発した。
「下の名前を呼ぶなって前に言って見せただろうが!!」
怒号と共に、芹澤が狂気に満ちた力で床を蹴る。
激しい殺意と殺意が真正面からぶつかり合い、地下水路の空間に再び致命的な銃声が轟き始めた。
怒りに身を任せて突っ込んだ私を嘲笑うかのように、芹澤の動きは桁違いだった。
圧倒的な暴力のスケール。放たれる銃弾の一発一発が、規格外の重さを持って私の防御を削り取っていく。
ブラックマーケットで相対した時でさえ異常だと感じたが、今はさらにタガが外れているようだった。
「うぉおおおおおああああああっ!!」
ふと、奥の通路から異変を察知したミノリ部長が、銃を構えて駆けつける。
「我々の友を撃った罪は!! 罪はぁ!!」
「お前は、レッドウィンターの……!」
「言葉になどできないっ!!」
しかし、ここは入り組んだ狭い地下水路だ。工務部が得意とする建物を丸ごと吹き飛ばすような大規模な範囲攻撃は、かえって身動きが取りづらくなっていた。
「チッ、鬱陶しいモグラどもがッ!!」
芹澤が壁を蹴り、立体的な動きでミノリ部長の射線を掻い潜る。そして、彼女の矛先は再び私へと向けられた。
「(……速い)」
作戦参謀としての計算が、彼女の理不尽な身体能力に追いつかない。
防御の姿勢をとろうとしたその瞬間。
芹澤の放った凶悪な一撃が、私の防御をすり抜け、腹部へとモロに直撃した。
「がッ……ぁ……!」
陽介と同じ、腹部への被弾。
あまりの威力に全身の感覚が吹き飛び、ビリビリとした痺れが脳髄まで突き抜けた。息ができず、私は無様にコンクリートの床へと膝をついてしまう。
「百花繚乱の搾りカスも大したことねぇな!」
芹澤がトドメを刺そうと、私に向けて銃を構え直す。
体が動かない。指先すら感覚がない。このままでは、芹澤を倒すことができない。
そう絶望しかけた、その時だった。
地下水路に、乾いた発砲音が鳴り響いた。
私を狙っていた芹澤の腕を、一発の弾丸が正確に掠め、その銃口を逸らしたのだ。
「……あ?」
芹澤が苛立たしげに視線を向けた先。
そこには、自身の腹部から流れる血を必死に押さえながら、工務部の生徒の一人から受け取った無骨なハンドガンを両手で構える、陽介の姿があった。
「できれば……女生徒に銃を撃つなんてマネ、マジでしたくなかったけど……」
震える手で銃口を向けたまま、彼は苦しげな息を吐きながら言った。
「陽介っ!」
「俺じゃなくて前!」
陽介の叫びで、私はハッと我に返った。
彼が命を削って作ってくれた、この決死の隙を無駄にするわけにはいかない。
「あああああッ!!」
私は麻痺した体に無理やり鞭を打ち、愛銃の引き金を絞り切った。
至近距離から放たれた怒涛の弾幕が、芹澤の身体を的確に打ち据える。
「ぐ、がッ……!?」
さしもの芹澤も、無防備な状態での連続被弾には耐えきれなかった。彼女は大きく体勢を崩し、見事にその場に膝をついた。
「チィッ……! 鬱陶しい……! ……もう、退くか」
芹澤は血を吐き捨てるように恨み言を口にすると、これ以上の戦闘は不利と悟ったのか、身を翻して闇の奥へと走り出した。
おそらく、地上から前夜祭の広場へ向かい、地下タンクに時限爆弾を仕掛けに行ったのだろう。
今すぐにでも追わなければならない。街が吹き飛ぶ最悪のタイムリミットが迫っている。
しかし、私の本能は、理屈や作戦を投げ捨てて、倒れ込む陽介の元へと駆け寄っていた。
「キキョウちゃん……俺はいいから、芹澤を」
「うるさい」
「今度ばかりは、本当に百鬼夜行が終わるから……」
「うるさいっ!!」
私は叫ぶように遮った。
芹澤を逃がすことより、私の目の前で陽介の命が終わろうとしていることの方が、ずっと恐ろしい。
私がなりふり構わず傷口を押さえようとする必死な様子を見て、陽介はハッとしたように目を瞬かせた。
そして、私の悲痛な顔を見て何かを察したのか。あるいは自身の甘さを振り払うかのように、彼は自分の治療を最優先することを決意した。
「……ミノリちゃん、包帯、ある?」
「あ、ああ。あるぞ!」
ミノリ部長が慌てて救急キットから分厚い包帯を取り出し、手渡す。
陽介は痛みに顔を歪めながらも、自分の腹部に何重にもしっかりと包帯を巻きつけ、溢れ出る出血を何とか強引に押さえ込んだ。
「さて……早く追わないと。おそらく地上から地下タンクの近くまで行くはず」
顔面を蒼白にしながらも、彼はふらつく足で立ち上がった。
「上には陽介の車を持ってきてある! ガソリン満タンだ!」
「サンキュ。限界まで回せば爆速で大広場付近に迎えるはず。マンホール開けるやつも持ってきて!」
陽介とミノリ部長の素早いやり取り。二人はもう、次の一手に向けて動き出している。
私はその背中を見つめながら、どうしようもない不安と、抑えきれない感情をぽつりとこぼした。
「陽介……」
「どうしたの、キキョウちゃん」
振り返った彼の顔は、ひどく血の気が引いていて、今にも倒れそうなのに。
それでも、私を安心させるように、いつものように優しく微笑んでいる。
「……無理は、しないで」
それは、作戦参謀としての指示でもなく、生徒としての計算でもない。
ただの一人の女の子としての、痛切な願いだった。