キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
薄暗い地下水路から地上の裏路地へと這い出た私たちの目に飛び込んできたのは、乱暴なスキール音と共に夜の街へと発進していく一台の車のテールランプだった。
「あいつ……! 芹澤!」
私が叫ぶと同時、ミノリ部長が声を上げた。
「こっちだ! ここに陽介の車を回してある!」
彼女の指差す先、路地の影には一台の車が停まっていた。以前は煙を噴いていたあのボロ車だが、ミノリ部長率いる工務部の手によって日頃からちまちまとメンテナンスと改造が施された結果、今では見違えるほど綺麗で頑丈な姿へと生まれ変わっている。
一分一秒でも惜しい。私たちは弾かれたように車へと駆け寄り、ドアノブに手をかけた。私も助手席へ、ミノリ部長も後部座席へと乗り込もうとした、その時だった。
「あ、ごめん。ミノリちゃんは下で工務部のみんなに指示を出して、セリサワ組の残りを頼みたい」
運転席のドアに手をかけた陽介が、血の気の引いた顔にいつもの呑気な笑みを貼り付けて、ミノリ部長の搭乗を静かに制止した。
「なぜだ! 私だってこの大事件に関わっている以上、芹澤を止めてみせる!」
当然、ミノリ部長は納得がいかないと声を荒らげる。圧倒的な戦闘力を持つ芹澤を相手にするなら、彼女の重火器と突破力は確かに欲しい手札だ。
しかし、陽介は痛む腹部を庇うようにしながら、真っ直ぐな口調で言った。
「……車は人ひとりの重量でかなり速度が変わる。確かに芹澤相手に俺とキキョウちゃんだけじゃ心もとないかもしれないけど、でも間に合わないよりはマシだ」
「しかし……!」
「それに、地下から出てきたセリサワ組に邪魔されたらたまったもんじゃないからね」
「……っ」
彼のその言葉に、作戦参謀としての私の思考が瞬時に同意を示した。
陽介の言う通りだ。いくら工務部がエンジンをチューンアップしてくれているとはいえ、一分一秒を争う今の極限状態において、数十キロの重量増加による加速の遅れは命取りになる。それに、地下水路で残党が暴れ出し、後方から横槍を入れられるようなイレギュラーは絶対に防がなければならない。
これは彼のお人好しな自己犠牲などではない。純粋に、最も勝率の高い『戦術的な計算』だった。
「……分かった」
不満げに顔を歪めていたミノリ部長だったが、陽介の理路整然とした説明に納得したのか、引き下がるように一歩後退した。
そして、ヘルメットの鍔をグッと引き下げ、私たちに向かって力強く頷く。
「芹澤のことは頼んだぞ。必ず百鬼夜行を守れ!!」
「任せてよ。行ってくる」
陽介は短く応えると、痛みを堪えて運転席へと滑り込んだ。私も無言で助手席に乗り込み、ドアを勢いよく閉める。
工務部の手によって整備された力強い重低音を響かせ、私たちはミノリ部長をその場に残し、前夜祭で賑わう大通りの広場へと向かって急発進した。
車内は以前のような狂った熱風もなく、静かで快適なはずだった。
だが、その密閉された空間には、むせ返るような生々しい血の匂いが満ちている。私は、ハンドルを握る陽介の横顔を直視することができない。
「……無理しないでって、言ったのに」
絞り出すような私の声に、陽介は前を向いたまま、へらっと笑った。
「無理なんてしてないよ。ほら、ちゃんと運転できてるし。キキョウちゃんの作戦参謀としての計算式には、俺のドライビングテクニックも組み込んでおいてよね」
「……バカ」
腹部の分厚い包帯は、すでに赤黒く染まり切っている。
彼の命の灯火が、今この瞬間も確実に削り取られているのが分かる。痛いはずだ。苦しいはずだ。意識だって、まともに保てているのが不思議なくらいなのだ。
それなのに、彼は私を不安にさせまいと、ひたすらに『いつもの大人』を演じ続けている。
「(……泣くな。私は作戦参謀だ。今は、芹澤を止めることだけを考えろ)」
私はギュッと唇を噛み締め、膝の上で震える両手を強く握り込んだ。
フロントガラスの向こうには、色鮮やかな提灯に照らされ、何も知らずに前夜祭を楽しむ生徒たちの姿が見えてきている。あの笑顔の下に、芹澤が向かっている最悪の時限爆弾があるのだ。
■■■
前夜祭の喧騒から少し離れた大通り。
提灯の明かりが途切れるその道を、猛烈なスピードで逃走する芹澤の車をついに視界に捉えた。
しかし芹澤はこちらを目視してか、スピードを上げる。
「いた……! でも、あのスピードじゃ……!」
工務部のメンテナンスが行き届いているとはいえ、車種そのもののスペック差はいかんともしがたい。アクセルをベタ踏みしても、じりじりと距離を離されていく。
陽介は血の気を失った顔でしばらく前方を睨みつけ、計算を巡らせたのち、唐突に口を開いた。
「キキョウちゃん、悪いけどしっかり捕まってて。強行手段に入るから」
「えっ……?」
私が聞き返すよりも早く、陽介はギアをトップに入れ、さらにアクセルを踏み込んだ。
目の前に迫っているのは、きついカーブ。車に詳しくない私が見たって、明らかに異常な速度だ。仮にどれほど性能の良いタイヤを履かせていようと、絶対に曲がれっこない。
「ちょっ、陽介……ッ!?」
ブレーキを踏む気配は一切ない。
そのまま突っ込めば、ガードレールを突き破って大惨事になる。そう身構えた瞬間、陽介は絶妙なタイミングでハンドルを切り、車の側面をわざとガードレールへと激突させた。
凄まじい摩擦音と、大量の火花が夜の闇に散る。
だが、車は止まらない。それどころか、ガードレールに車体を押し付けることによって生じる遠心力と反発力を利用し、まるでミニ四駆のローラーのように、あるいはビー玉を転がす積み木のおもちゃのように、ガードレールを軸にして強引にカーブを曲がり切っていく。
「(……嘘でしょ、減速せずに曲がった!?)」
コーナーで減速を強いられた芹澤の車と、狂った遠心力でカーブを駆け抜けた私たちの車。
その差は一瞬で縮まり──。
「捕まって!!」
ガードレールから弾き出されるような凄まじい加速を利用し、陽介はそのまま芹澤の車の側面に、自分たちの車体を思い切り叩きつけた。
凄まじい衝撃音が響き渡り、火を噴いた二台の車はもつれ合うようにして路肩へ激突。私たちの車は衝撃で宙を舞い、ひっくり返って完全に動きを止めた。
「くっ……!」
ひっくり返った車内で、シートベルトに吊るされるような体勢になった私が呻き声を上げると、隣からバリッ、という嫌な音が聞こえた。
「……っ、痛ぁ……」
陽介が顔をしかめている。
クラッシュの衝撃で割れた窓ガラスから、路肩に生えていた街路樹の鋭い枝が突き破ってきており、あろうことか彼の腕の肉に深く突き刺さっていた。
「陽介ッ! 腕が……!」
「大丈夫、大丈夫だから。……それより、外へ」
致命傷の腹部に加え、腕にまで痛々しい傷を負いながらも、陽介は強引にシートベルトを外し、ひっくり返った車から私を引っ張り出してくれた。
そして自身の腕から血の滴る枝を引き抜くと、すぐに私を背に庇うようにして周囲を警戒する。
「……な……るほどな」
ひしゃげた芹澤の車から、土煙を払うようにしてヤツが這い出してきた。
額から血を流しているが、その目には全く死の恐怖がない。狂ったように口角を吊り上げ、自分の車をスクラップにした陽介を見据えている。
「なかなか、頭のねじが飛んでるのはお互い様みてぇだな……」
「それはどうも。褒め言葉として受け取っておくよ」
芹澤が狂気の笑みを深め、戦闘態勢に入る。
私も愛銃を構えるが、ヤツの圧倒的な暴力を前に、私単身では敵わないことは先ほどの地下水路で嫌というほど思い知らされている。
「芹澤の組長!」
「助太刀に参りました!」
「あいつら……セリサワ組の……。キキョウちゃん、少しまずいね……」
それに加え、騒ぎを聞きつけたのか、地上に待機していたセリサワ組の構成員たちがワラワラと路地裏から姿を現し始めた。
「(……くっ、多勢に無勢。こんなところで足止めを食らったら……!)」
私が奥歯を噛み締めた、まさにその矢先だった。
「組長のためにも私らが頑張るぜ──!!」
「クロヌマ組復活のためにー!!」
「あいつ、赫灼のマガツじゃねぇか!?」
「ぶっとばせー!!」
突如として、怒号のような歓声が響き渡り、別の不良グループがセリサワ組の側面から怒涛の勢いで雪崩れ込んできた。
あの見覚えのあるスカジャン。以前、シオリに切り捨てられ、見限られていた『クロヌマ組』の残党たちだ。
「なっ……てめぇら、クロヌマの残党か! なんでここに!」
セリサワ組の構成員たちが混乱し、たちまち大乱闘が巻き起こる。
クロヌマ組の構成員たちは、こちらに目もくれていない。もしかしたら私たちを助ける意図なんて微塵もなく、ただ鬱憤を晴らすため、あるいは失ったシマを取り戻すために暴れに来ただけなのかもしれない。
だが、今の私たちにとっては、これ以上ないほど好都合だった。
「チッ……クソがッ!」
分が悪いと悟ったのか、芹澤は苛立たしげに舌打ちをすると、乱闘の隙を突いて広場の裏手にあるマンホールをこじ開け、地下へと逃走を図った。あの下が、地下タンクのはずだ。
「追うよ、キキョウちゃん!」
「ええっ!」
私たちは乱闘を抜け、芹澤が逃げ込んだのと同じマンホールへと飛び込んだ。
暗い梯子を下りながら、息も絶え絶えのはずの陽介が、ふと呑気な声を出す。
「あ、そういえば芹澤が先に入るから、マンホール開ける道具必要なかったね」
この極限状態で、しかも満身創痍の体で。
冗談めかして笑うその呆れた背中に、私はただただ深く息を吐き出すしかなかった。
「……はぁ……」
呆れと、そしてどうしようもないほど募る彼への心配を、その深いため息に無理やり押し込めて、私は地下タンクの底へと降りていった。
■■■
マンホールの下は、先ほどまでの古びた地下水路とは打って変わって、驚くほど近代的に改装されていた。
ジメジメとした本来の下水道の通路を抜け、さらに奥へと進むと、そこには不自然なほど真新しい金属製の扉──まさかまさかの、二基並んだエレベーターが設置されていたのだ。
表示ランプを見ると、片方のエレベーターはすでに下層のタンク施設へ向かって降下を始めている。間違いなく芹澤だ。私たちはすぐにもう片方の箱に飛び乗り、下行きのボタンを押した。
ウィィィン、と重い駆動音を立てて、エレベーターが地下深くへと沈んでいく。
「エレベーターが2個あってよかったね。ワンチャン、横の壁破壊したら隣に芹澤いないかな」
この期に及んでそんな突拍子もないことを言う陽介に、私は呆れを隠せずに溜息をついた。
「壊してる間に向こうのエレベーターが下に行っちゃう」
「あはは、そっか。違いないね」
乾いた笑いをこぼしながら、陽介はずるずると崩れ落ちるようにしてエレベーターの壁にもたれかかり、血に濡れた腹部と腕の傷をきつく押さえた。
無機質な照明に照らされたその顔色は、もはや蝋人形のように真っ白だった。まともに立っていることすら不可能なはずなのに、彼は強がって壁に背中を預けている。
「休息を取るのは働くのと同じくらい……いや、それ以上に大切だから……。キキョウちゃんも休んだ方がいいよ」
浅く、途切れ途切れの呼吸を繰り返しながら、彼はそれでも私を気遣うように笑いかけてくる。
その限界をとうに超えた姿を見て、私はギュッと拳を握りしめ、決意を込めて口を開いた。
「やっぱり、エレベーターが到着したらここで待ってて」
これ以上の無茶は、確実に彼の命を奪う。作戦参謀としての計算式など持ち出すまでもない、誰の目にも明らかな事実だ。
だが、陽介は静かに首を横に振った。
「……でも、キキョウちゃん1人で勝てる? 最低でも、俯瞰的に見た指示が必要なはずだよ」
「その傷で何言ってるの」
私は痛切な声で彼の言葉を遮った。
芹澤の戦闘力は桁違いだ。確かに、私一人で勝てる保証はどこにもない。彼の言う通り、作戦を俯瞰して指示を出す『目』は絶対に必要だ。
だけど、これ以上彼に『歩』としての犠牲を強いるくらいなら、私は何度でも計算式を狂わせてみせる。作戦参謀としての冷徹な思考は、彼を前にするといつも簡単に崩れ去ってしまっていた。
チンッ、と。
無機質な電子音が鳴り、地下タンク施設のある最下層でエレベーターの扉が開いた、その瞬間。
「遅ぇんだよッ!!」
完全に開ききるよりも早く、待ち構えていた芹澤の凶悪な先制攻撃の弾丸が、暴風のようにエレベーター内へ撃ち込まれた。
「っ……ずいぶんと起爆に熱心だけれど……なぜそこまで百鬼夜行を消し去ろうとするのか理解ができない」
「考えてもみろ。この世界にはクソが多すぎると思わないか? すべてが自分勝手に行動し、問題を起こし、そして大人に被害を被り、その大人が生徒を虐げる」
「一体何を言うかと思えば……! 自己紹介は済んだはずだけれど……!?」
「私はキヴォトスの生徒を減らし、選別する。私という独裁者のもとにな!! そのために百鬼夜行をまず消し去る!!」
私は陽介を庇うようにして地を蹴り、弾幕の隙間を縫って一気に外へと飛び出した。
そのまま銃身を構える暇も与えず、芹澤の懐へと肉薄し、至近距離での格闘戦へと持ち込む。
「ハッ! もう遅い、ここにある化石燃料に点火するための爆弾はカウントを始めた!!」
芹澤は私の打撃を受け流しながら、歓喜に満ちた狂気の笑い声を上げる。
「解散した百花繚乱ごと燃やし尽くしてやるって言ってんだ。ありがたいだろ?」
「黙りなさい。アンタはただの……ッ!」
私は芹澤のガードを強引に弾き飛ばし、その無防備になった鳩尾へと、ありったけの怒りを込めた痛恨の蹴りを深く突き刺した。
「ぐはッ……!?」
内臓を揺らす重い一撃に、さしもの芹澤も目を見開き、たまらずその場に膝をついて咳き込む。
私はその頭上から、冷酷に言い放った。
「……百鬼夜行から生まれた妖怪に過ぎない!」
芹澤が苦悶の表情を浮かべて動けなくなっている隙に、私はすぐさま施設の中央に鎮座する巨大な制御端末──時限爆弾が仕掛けられている場所へと駆け寄った。
「(……早く、爆弾を止めないと……ッ)」
赤いデジタル時計の数字が無慈悲に減っていく。作戦参謀としての知識を総動員し、解除の計算式を立てようとパネルに手を伸ばした、まさにその時だった。
「キキョウちゃん!!」
背後から、血を吐くような陽介の叫び声が響いた。
直後、私の頬のすぐ横を、鼓膜を劈くような爆音が通り抜けていく。
「ッ!?」
振り返ると、倒れていたはずの芹澤が立ち上がり、私に向けて凶悪な銃口を向けていた。
私の頭を吹き飛ばすはずだったその一発は、エレベーターの壁にもたれかかっていた陽介が、横から牽制の射撃を放ってヤツの手元を狂わせたことで、間一髪で逸れたのだ。
「クソッ!! 邪魔をするな!!」
トドメを邪魔された芹澤は、激昂して顔を真っ赤に歪め、その殺意の矛先を私から──ボロボロの大人へと向けた。
嫌だ。
ダメだ。
「やめっ──」
私の静止の叫びも虚しく。
容赦なく放たれた重い弾丸は、無防備な陽介の腹部を、もう一度、残酷なまでに撃ち抜いた。
「がふっ……! ぅ……」
大量の血飛沫が舞う。
今度こそ、彼は倒れる。誰もがそう確信した。
しかし。
致命傷を二度も受け、すでに死の淵にあるはずの陽介は、倒れなかった。
それどころか、血走った目で芹澤を睨みつけ、最後の生命力を爆発させるかのように、ヤツの懐へと決死の特攻を仕掛けたのだ。
「なっ……てめぇ、大人だろ!? なんで動け……ッ!?」
予想外の突進に芹澤が怯んだ一瞬。
陽介はヤツの腕に食らいつき、その規格外の火力を誇る銃を力任せにもぎ取った。
「キキョウちゃぁん!!」
陽介は奪い取った無骨な銃を、私へ向かって放り投げる。
直後、激怒した芹澤の強烈な蹴りが陽介の胸板にめり込み、彼はボロ布のように吹き飛ばされて床に叩きつけられた。
「ぁ……ぁぁあああっ!! キキョウちゃん! とどめを刺せぇぇぇぇ!!」
血の海に沈みながらも、彼が叫ぶ。
私のために。百鬼夜行のために。
「くっ……!!」
私は宙を舞う芹澤の銃を空中でキャッチし、そのまま迷うことなくヤツへと銃口を向けた。
「戦局を揺るがす……一手!!」
陽介の最後の号令と共に、私は引き金を力強く絞り切る。
放たれたのは、生徒の私ですら腕を持っていかれそうになるほどの、狂った反動と爆発的な破壊力。
その強烈な反動によって、私自身も後方へと大きく吹き飛ばされ、床を転がる。
「ぐっ……ぁああ!!!」
だが、その一撃は間違いなく、赫灼のマガツの身体を真正面から打ち砕いていた。
凄まじい衝撃波と共に吹き飛ばされた芹澤は、背後の配管に激突し、ついに白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
百鬼夜行を恐怖に陥れた狂気は、今度こそ、完全に……沈黙した。
「陽介っ! 陽介……陽介!!」
私は芹澤の倒れた姿など一瞥もせず、血の海に沈む陽介のもとへ駆け寄り、その体を抱き起こした。
「ぁ……う。だい、じょうぶ。生きてる、生きてる……」
口から血の泡を吹きながらも、彼は安心させるように力なく笑う。
私は涙で視界が滲むのを必死に堪えながら、彼に肩を貸して立ち上がらせ、中央に鎮座する時限爆弾へと近づいた。
しかし、コントロールパネルのカバーを引き剥がして息を呑む。中には何十本ものダミー配線が複雑に絡み合っており、作戦参謀の私でも瞬時に正解を導き出せるような構造ではなかった。
「これ……これじゃあ、すぐには解除できない……」
「キキョ、ちゃ……ミノリちゃんに連絡……。百鬼夜行の第七廃棄地区……誰もいない廃棄地区に、化石燃料を送る……」
「え……?」
「ミノリちゃんにバルブを直してもらって……化石燃料を第七廃棄地区に送る。そして……陰陽部にそこを閉鎖してもらえば、引火も免れる……」
「っ……それなら!」
「操作は俺がする、キキョウちゃん、は……ミノリちゃんと陰陽部に連絡を……」
私は陽介を端末の前に座らせると、即座にスマホを取り出した。
ミノリ部長へ緊急通信を繋ぎ、大通りのメインバルブを強制的に修復・開放して別ルートへのバイパスを作るよう指示を飛ばす。並行して陰陽部へも連絡を入れ、廃棄地区の完全封鎖と消火態勢の構築を要請した。極限状態での作戦伝達だったが、二つの組織は文句一つ言わず、即座に私の立てた計算式通りに動き出してくれた。
「よし……可変できるルートで良かった……あとはバルブを回せば、あの廃棄地区に燃料が行く……」
血まみれの指でキーボードを叩き終えた陽介が、大きく息を吐き出す。
画面には、化石燃料の供給ルートが廃棄地区へと強制変更されたことを示すランプが点灯していた。
「それじゃあ、爆弾に巻き込まれないように離れましょう」
私は再び陽介に肩を貸し、先ほど乗ってきたエレベーターの方へと歩き出した。
二度の致命傷を負い、すでに満身創痍の彼の足取りは、ひどく重く、歩くスピードは非常に遅い。それでも、二人で支え合いながら、一歩ずつ安全な距離を稼いでいく。
そして、エレベーターの手前までたどり着いたその時。
背後で、ドムッ、という中規模の爆発音が響き渡った。
「っ……あつ……」
熱風と衝撃波が私たちの背中を撫でていく。だが、連鎖的な大爆発は起きない。
陽介の機転と、工務部・陰陽部の協力により、化石燃料への引火という最悪の事態は完全に阻止されたのだ。
これで終わった。百鬼夜行は守られた。
そう安堵しかけた、次の瞬間だった。
『異常な爆発を感知しました。施設内を確認します』
施設内に、冷酷な機械音声が鳴り響いた。
『施設内に登録のない人物を確認』
『施設長、芹澤。意識の喪失を確認』
『設定されているプログラムに従い、証拠隠滅のため施設を爆破します。施設に残っている職員は非常階段から逃げてください』
直後、ガコンッ! という嫌な音と共に、目の前にあったエレベーターの電源が完全に落ち、分厚い防火扉が降りて通路が封鎖されてしまった。
「……めんどくさいことしてくれたね、芹澤ちゃん」
「くっ……」
息つく暇もない絶望的な展開。証拠隠滅のための自爆プログラム。
だが、立ち止まっている暇はない。私は陽介を抱え直すと、緑色のランプが点滅している非常階段の方角へと急いで歩き出そうとした。
しかし、陽介はふいに私の手を振り払った。
そして、ふらつく足取りで、爆発の熱が燻る中央施設──白目を剥いて倒れている芹澤のもとへと戻ろうとするではないか。
「何してるの! そんなのに構ってる場合じゃ……」
「前に、言った……よね。俺は……生徒と向き合うって」
自分の命すら風前の灯火だというのに、彼は血まみれの手で、自身を二度も撃ち抜いた宿敵の身体を背負おうとしていた。
「芹澤ちゃんだって、生徒、だ。ぜ、全員……助ける……」
その声はひどく弱々しかったが、込められた意志は鋼のように硬かった。
どんな極悪人であっても、彼女がキヴォトスの生徒である限り、見捨てて逃げることなど彼には絶対にできないのだ。
「……あぁ、もう!」
計算も理屈もない、ただのバカな大人のエゴ。
私は悪態をつきながらも、彼を一人にすることなんてできるはずがなかった。
私は陽介の腕を自分の肩に回し、さらにもう片方の肩で、意識のない芹澤の身体を強引に抱え上げた。
ズシリと沈み込むような重さ。だが、歯を食いしばり、私は二人を抱えたまま、爆破のカウントダウンが迫る非常階段へと必死に歩みを進めた。
「……く。ぅ……」
ふと。
私が支えていた陽介が力なく倒れるのを感じる。
無理もない。銃弾一発で大けがをする陽介が今日だけで何発も食らい、それに加えて車両事故の衝撃や芹澤の蹴りなども入っている。
私の手は陽介の腰に伸び、根本から彼を支える。
「キキョウ、ちゃん……百鬼夜行を……これからの未来を……」
「うるさい……」
「頼むから……」
まるで自分がこれから死ぬとでも言いたそうな陽介に腹を立て、彼の頬を掴む。
ここまで来て私だけ残して死ぬなんて許さない。
「いい? アンタも私も芹澤も、三人で脱出する。これが絶対条件。この場における敗北条件は、一人でも欠けること。分かった?」
「……」
陽介は、それ以上何もしゃべらなかった。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
腕が、あつい。
おなかが、あつい。
若さの力がみなぎる体で、無理をしすぎた。
けれど、疑問手ではない。最善手だったはずだ。
痛い。
それなのに。
なんでこんなにも、穏やかな気持ちなんだろう。
この状況で予測できる結末。
キキョウちゃんが俺と芹澤を運ぶことを最後まで遂行できず、途中で体力が尽きて共倒れになるか。
あるいは、途中で芹澤が目覚め、相打ちにされるか。
この、どちらかだ。
シャーレの先生は、生徒たちのことをいつも考えていたという。
いつも考えて、生徒たちを守るために行動するという。
俺も……そんな先生に、近づけたのかな。
キキョウちゃん。
……君にだけは、俺が一番であってほしいな。ワガママかな。
大切な相棒。大切な百鬼夜行の生徒。
いつだってみんなのことを考えて、根は優しい、いい子。
「くっ……うぅ……陽介……まだ起きてるでしょうね……! 寝たら許さないから……!」
……でも、このペースじゃ、きっと地上には間に合わない。
「絶対間に合わせる……! 地上まで、起きていること……!」
ふと、キキョウちゃんに担がれながら階段をのぼり、右を見た。
すると、その階の奥に、地上への直通エレベーターがあるのが見えた。
おそらく俺たちが入ってきた水路とは別の場所にあった、緊急用のエレベーターだろう。
あそこなら。
二人なら……入れそうだ。
「キキョ……ちゃ。右……」
「右……? あぁ、非常エレベーター……! なんだ、まだ動いてる……! あれなら……!」
視界が、薄い。
キキョウちゃんの声が、ひどく遠い。
「これじ……3人で……れない……」
「何とか……込めない……」
無理だ、キキョウちゃん。
ウォータースライダーのスタートみたいに、思い切り身を縮めて、二人がやっと入れるくらいの狭さなんだ。
それに、書いてある通り、重量制限が140kg。二人の体重を平均値で考えても、俺が今すぐ体重40kgにならないと無理だ。
「……介……! 芹……を……行く 聞……てる……!?」
キキョウちゃんが、必死な顔で何かを叫んでいる。
芹澤を置いていく。
それも仕方がない。
そのようなことを言っているのだろう。
残念だけど、それはできない。
俺は、生徒を守るのだから。
キキョウちゃんが、どうにか3人で乗れないかとエレベーターの中を再度調べているうちに。
俺はゆっくりと、懐に手を入れた。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
どうにかして、この狭い空間に三人で乗る方法はないか。
私は必死にエレベーターの奥を調べ、配置を計算しようとしていた。
「えっ」
突然後ろから、満身創痍のはずの陽介の手によって、信じられないほどの強い力で突き飛ばされた。
「陽介!?」
私が体勢を崩して奥へと倒れ込んだ直後、無情な金属音と共に、分厚いエレベーターの扉が閉ざされる。
「……」
ガラス張りの小窓の向こう側で、陽介は血まみれの体を壁に預けたまま、静かにこちらを見つめていた。
狭い空間で、芹澤と2人で詰められる。
「ちょっと! 開けて! 何とかして3人で入る方法を!」
私は弾かれたように、分厚い扉をガンガンと叩いた。
だが、陽介は何も答えない。
「……」
彼はゆっくりと、エレベーターの外側に設置された制御パネルへと手を伸ばした。
本来なら、中に乗り込む人間がタイマーをセットしてから入り、時間差で起動させる用途で作られていた緊急用のエレベーター。
彼は今、そのタイマーを無視して、私だけを乗せた箱をダイレクトに上へ送るための『強制起動』の操作をしているのだ。
「やめて、おねがいやめて……!」
私はガラスに顔を押し付け、必死に首を横に振った。
置いていかないで。私だけを逃がさないで。
作戦参謀としての冷静さなど完全に吹き飛び、ただの一人の女の子として、私は泣き叫びながら扉を叩き続けた。
その時。
私の思考の裏側に、ある一人の人物の姿がフラッシュバックした。
──ナグサ先輩。
かつて、自分たちの前から何も言わずに姿を消してしまった、百花繚乱の委員長代理。
大切なものを抱え込み、私を置いていってしまった彼女の背中が。
今、目の前で命を散らそうとしている、この不器用で優しい大人の姿と重なった。
「(……嫌だ。もう、誰も私の前からいなくならないで……ッ!)」
祈るような私の視線の先で。
分厚いエレベーターの壁に防がれて、彼が何をしゃべったのか、声は全く聞こえなかった。
「やめて…………」
けれど、その血の気の引いた唇は、確かに動いていた。
『あ』
『り』
『が』
『と』
『う』
直後、強烈な浮遊感と共に、エレベーターが地上へと向かって急上昇を始める。
小窓の向こうに見えていた彼の姿が、あっという間に地下の闇の中へと遠ざかっていく。
「陽介えええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!!!!!」
私の絶叫は、上昇するエレベーターの駆動音に掻き消され、彼に届くことはなかった。
遠ざかる視界の端。
彼は最後まで、あのいつもの呑気で、最高に優しい笑顔を崩さなかった。
■■■
ガコンッ、と。
重い金属音を響かせて、地上へと続く直通エレベーターが停止した。
ゆっくりと開いた扉の向こう側に広がっていたのは、前夜祭の喧騒から少し離れた、ひっそりとした水路の出口だった。
遠くからは、何も知らない生徒たちが楽しむ祭囃子の音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
「……っ、ぁ……」
私はよろめくようにしてエレベーターから足を踏み出し、冷たい壁に手をついた。
エレベーターのボタンはもう反応しない。
陽介を失ってしまった。
その残酷な事実が、心臓を素手で鷲掴みにされているかのような、呼吸すら忘れるほどの激しい痛みとなって全身を駆け巡る。
膝から崩れ落ち、このまま声が枯れるまで泣き叫びたかった。
だけど、作戦参謀としての私が、それを許さない。
「(……泣くな。まだ、終わってない)」
私はギリッと唇を噛み締め、滲む涙を乱暴に拭い去った。
今は、この極悪人……芹澤を対処しなければならない。彼女が仕掛けた爆弾の事後処理、工務部や陰陽部との連携、残党の制圧。
彼が命を賭けて守り抜いたこの百鬼夜行の街を、完全に安全な状態にするまで、私の戦いは終わっていないのだ。
痛む体を引きずり、決意と共に重い足を一歩踏み出そうとした、その時だった。
ふと、自分の制服のポケットの中に『何かが入っている』ことに気がついた。
「……え?」
元々、そんなもの入れていなかったはずだ。
頭の中に、先ほどの記憶がフラッシュバックする。
彼が私をエレベーターの奥へと力強く突き飛ばし、分厚い扉が閉まる直前。彼の血に濡れた手が、一瞬だけ私のポケットの辺りに触れていたような感触。
あの時、彼は懐に手を入れて、これを私に託したのだ。
震える指先をポケットへ差し込み、そこに入っていた薄い紙きれを取り出す。
街灯の淡い光に照らされて、その全貌が露わになる。
それは。
陽介と、一人の女子生徒──春が、並んで優しく微笑み合っている、少し古びたツーショット写真だった。
「ぁ…………」
彼が額縁の物とは別に、肌身離さず持ち歩き、何よりも大切にしていたはずの、たった一つの宝物。
それを最後に私へ預けた彼の真意が痛いほどに伝わってきて、せき止めていたはずの涙が、再びとめどなく溢れ出していった。
『百鬼夜行を守る』
きっとキヴォトスから託されたのであろう私たちの最後の依頼は、終わった。