【完結】キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第二話 ピックの削れは埋まらない

 

 百鬼夜行の喧騒から少し離れた裏通り。古びた木造建築が並ぶその一角に、その場所はあった。

『遺失物預り所』と墨で書かれた、不格好な木の看板。

 私はその引き戸に手を伸ばしかけては止め、もう数分ほど立ち尽くしていた。

 

「(……私、何をしているの)」

 

 自分でも、自身の行動が全く論理的に説明できなかった。

 昨日のブルドーザーの件で、百花繚乱に被害請求が回ってこないか確認するため。……そんなものは、ただの後付けの建前に過ぎない。

 本来なら、あんな胡散臭い男のところへなど二度と近づくべきではないのだ。作戦参謀としての私の計算式が、そう明確に警告している。

 

 けれど、昨日の夕暮れ時。彼が純粋な感謝を受け取っていたあの光景と、「こうして感謝されるの、悪くないでしょ?」なんて、彼の言葉が、どうにも頭から離れなかった。

 

「(もしかしたら、ここに来れば……)」

 

 私自身の『落とし物』について。

 見つけ出すための何かが、わかるかもしれない。

 そんな非論理的で、ひどく感傷的な微かな期待が、無意識のうちに私の足をここまで運ばせていた。

 

「……馬鹿みたい」

 

 自嘲気味に小さく吐き捨て、私は迷いを断ち切るように、思い切って引き戸を開けた。

 

 ガラガラッ、と立て付けの悪い音が響いた直後。

 

「はい! 本当に、誠に申し訳ありませんでした! ええ、ブルドーザーはガソリン満タンで元の位置にお返ししたんですが……えっ、壁の穴はガソリンじゃ塞がらない? おっしゃる通りでございます!!」

 

 中からは、鼓膜を震わせるような男の平謝りの声が飛び出してきた。

 

「(……帰ろうかしら)」

 

 入って一秒で後悔した。

 声の主は、昨日私を壁ごと重機で強引に回収したこの預り所の主、陽介だ。

 彼は受話器を耳に押し当てたまま、相手の顔が見えない電話口に向かって、ものすごい勢いで九十度の深いお辞儀を何度も繰り返していた。

 

「はい! 修理費は全額こちらで! 分割払いでご相談させていただければと……! え? ガソリンじゃなくて軽油? あっ……」

 

 悲痛な声を上げている彼を放置し、私は呆れ果てた溜息をつきながら静かに預り所の中を見渡した。

 お世辞にも整理整頓されているとは言い難い空間だ。私のすぐ目の前にある手前の長机には、今日届けられたらしい落とし物──片方だけの草履、謎の木彫りの熊、誰かの使い古された手帳などが、分類されることもなく無造作に並べられている。

 

 さらに奥、彼が使っているらしい私物の机の上には、なぜか立派な将棋盤がデデンと鎮座していた。盤上にはいくつかの駒が散らばっており、その横には『実戦! 詰将棋100選』といった類の本が、それこそ山のように積み上げられている。

 

 作戦や戦術を好む人間が将棋を指すのは理解できるが、それにしても度を越した量だ。あの無計画で突発的な行動しかしない男が、何手も先を読む詰将棋を好むというのは、どうにも計算が合わない。

 

「……ふぅーっ。死ぬかと思った……」

 

 やがて電話を切った彼が、大げさに額の汗を拭いながら振り返った。

 そして、入り口に立つ私の姿を認めた瞬間、パァッと顔を輝かせる。

 

「ああっ! キキョウちゃん! 来てくれたんだね、俺の相棒!」

 

「……誰が相棒なの。昨日あんたが暴走したせいで、百花繚乱にまで被害請求が回ってこないか念のため確認しに来ただけ。別に、助手になった覚えはない」

 

 すり寄ってきそうな勢いの彼を、私は冷たい声と視線で牽制した。自分が抱いていた感傷的な期待を隠すように、無意識に言葉が尖ってしまう。

 

「えー、冷たいなぁ。あのままじゃキキョウちゃんが怪我してたかもしれないし、結果オーライでしょ? あ、もしかしてその将棋盤、気になる?」

 

「全く。ただ、あんたみたいな直感だけで動く人間が、理詰めのゲームをするなんて意外だと思っただけ」

 

「あはは、将棋はいいよ! どんなに不利な盤面でも、絶対にどこかに『逃げ道』が隠されてるからね。俺はそれを探すのが好きなんだ」

 

 へらへらと笑いながら答える彼。

 逃げ道を探す。それは昨日、退路を断たれた私を壁ごとぶち破って救い出した彼の行動そのものだった。

 妙に納得してしまいそうになる自分に苛立ち、私が何か言い返そうとした、その時だった。

 

「……あの、すいません!」

 

 背後の引き戸が勢いよく開き、切羽詰まったような声が預り所に響いた。

 振り返ると、そこに立っていたのは、百鬼夜行の制服を着た見知らぬ女生徒だった。その顔は青ざめており、肩で荒い息をしている。

 

「落とし物の依頼……いいですか。明日、転校してしまうんです。どうしても、今日中に見つけたくて……!」

 

 彼女の悲痛な声に、預り所の空気が一瞬にして変わった。

 

 彼はすぐさま真面目な顔つきになり、乱雑な机の上から書類をどかして女生徒をパイプ椅子に座らせた。私も少し離れた位置から、腕を組んでその様子を伺う。

 

「明日、転校……。それは急ぎの案件だね。それで、何を探してるの?」

 

「ギターの、ピックです。べっ甲柄の、少しすり減った……」

 

 彼女は膝の上で両手をきつく握りしめながら、消え入りそうな声で答えた。

 

「私、プロのミュージシャンになるのが夢で……でも、周りは伝統的な楽器ばかりで、軽音部もなくなっちゃって……。結局、バンドを組んでくれたあの子とも喧嘩別れみたいになって……」

 

「……」

 

「新しい学園に行く前に、荷造りをしてたら……ずっと財布に入れてお守りにしてた、そのピックがないことに気づいて……」

 

 涙ぐみながら語る彼女の事情を聞いて、私は思わず小さくため息をついた。

 あまりにも、くだらない。

 

「……諦めなさい」

 

 静まり返った預り所に、私の冷たい声が響いた。

 女生徒がビクッと肩を震わせ、彼が少しだけ目を丸くして私を見る。

 

「たかが百円程度のプラスチックの欠片のために、転校前日の貴重な時間を割くなんて非効率の極み。失くした場所の心当たりはあるの?」

 

「……最後に立ち寄ったのは、旧市街の廃倉庫です。昔、あの子と一緒に練習してた場所で……でも、あそこはもう不良たちの溜まり場になってて、ゴミだらけで……」

 

「なら尚更。不法投棄の山から小さなピックを一枚探し出す確率がどれほど低いか、少し計算すればわかるはず。それに、危険すぎる」

 

 私は一歩前に出て、彼女の弱々しい瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「終わった夢の残骸に縋っても、前には進めない。新しい街へ行くなら、新しいピックを買えばいい。……痛みを伴っても、ここで見切りをつけて切り捨てるのが、明日のあなたのための『最善の選択』」

 

 言い放ったその正論は、不思議なほどスラスラと口から出てきた。

 当然だ。『あの人』が失踪し、散り散りになってしまった百花繚乱。その『終わった夢』の残骸に取り残され、どこへ向かえばいいのかもわからずにふさぎ込んでいる自分自身に対して、毎日のように言い聞かせている言葉なのだから。

 

 ──間違っていない。私の計算式は、常に最善を弾き出している。

 見込みのないものに縋るのは、ただの自己満足だ。彼女のためにも、無駄な希望はここで絶つべきだ。

 

 私の言葉に彼女は俯き、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 

「……そう、ですよね。たかがピック一枚……。新しいの、買えばいいだけですよね。……ごめんなさい、変なこと言って。私、帰ります」

 

 無理に作ったような引きつった笑顔を浮かべ、彼女が立ち上がろうとした、その時。

 

「待って」

 

 それまで黙って聞いていた彼が、彼女の肩を優しく押さえて座らせ直した。

 彼はいつものヘラヘラした笑みを消し、ひどく静かな、けれど底知れない深さを持った瞳で彼女を見つめた。

 

「新しいのを買えばいい。……君は本当に、そう思ってる?」

 

「え……」

 

「君、荷造りの最中に財布の中を見て気づいたって言ってたよね。それってさ……ここしばらく、ギターケースすら開けてなかったってことじゃない?」

 

「ッ……」

 

 図星を突かれたのか、彼女の顔がサッと蒼白になった。

 

「君が本当に探してるのは、百円のプラスチックの欠片なんかじゃない。……自分の手で諦めてしまった夢の続きを、もう一度だけ弾くための『言い訳』だろ?」

 

「……!」

 

 彼女の目から、せき止めていた涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 言葉にできなかった、あるいは自分でも認めたくなかった本当の『落とし物』の正体を暴かれ、彼女は声を出して泣き崩れた。

 

「……何、それ」

 

 私は眉間に皺を寄せた。

 言い訳のために、物理的に見つかるはずのない物を探しに行く? そんな非論理的で、無駄な感情論は私の計算式には存在しない。

 

 だが彼は、泣きじゃくる彼女の頭をポンと軽く撫でると、私の方へ振り返ってニカッと笑った。

 

「よし! 依頼受理! キキョウちゃん、旧市街の廃倉庫に急行するよ!」

 

「……は? 私はただ様子を見に来ただけって、さっきも言ったはずだけど」

 

「相棒が不良に絡まれてボコボコにされてもいいの!?」

 

「勝手にボコボコにされてなさい。自業自得」

 

「あーっ! 百花繚乱の作戦参謀が、善良な一般市民を見捨てるんだー!」

 

「……ッ、あんたねぇ……!」

 

 わざとらしく大声を出す彼に、私は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 この男のペースに巻き込まれるのは本当に癪だが、見過ごせば彼は間違いなく一人で旧市街の不良の群れに突っ込んでいくだろう。

 

「……今日だけだから。勘違いしないで」

 

「やった! それじゃあ、出陣だー!」

 

 歓声を上げる彼と、涙を拭って立ち上がる女生徒。

 私は深くため息をつきながら、銃のスリングを握り直す。

 

 まただ。またこの男のせいで、私の完璧だったはずの計算式が狂い始めている。

 

 ■■■

 

 祭りの提灯が連なる華やかな表通りから数本路地を抜けると、百鬼夜行の空気は一変する。

 

 旧市街地──。開発から取り残され、古びた木造家屋と不法投棄されたガラクタがひしめき合うこのエリアは、祭りの光が届かない吹き溜まりだ。

 ひび割れた石畳の隙間からは雑草が伸び、数少ない街灯の多くは割られたまま放置されている。

 

 建物の影や薄暗い路地裏からは、通りがかるよそ者を値踏みするような、びりびりとした敵意の視線が絶え間なく突き刺さってきた。

 

「(……面倒な場所)」

 

 私は周囲の建物の屋上や死角に鋭い視線を這わせる。

 

 私の癖……もう職業病に近い。敵対勢力の有無、狙撃の射線、退路の確保。脳内の計算式は常に最悪の事態を想定し、フル回転で周囲の状況を処理し続けている。

 そんな極度の緊張状態の中で、私は足元のゴミ溜まりに視線を落とし、指先ほどの小さなプラスチックの欠片を探さなければならない。砂漠で一粒の砂金を探すような、絶望的な非効率さだった。

 

「……おいしいなぁこれ」

 

 ふと、隣から気の抜けた声が聞こえた。

 視線を向けると、彼はどこで見つけてきたのか、片手に大きなたい焼き……それも旧市街の怪しい屋台で売られていたような、やたらと生地が分厚い代物を持って無邪気に頬張っていた。

 

「……ねえ。あんた、仮にも探し物を手伝いに来たんだよね?」

 

「ん? 探してるよ。でもほら、腹が減っては戦はできないって言うし。キキョウちゃんも一口食べる? カスタードだよ」

 

「いらない。少しは緊張感を持って。ここは私たちが歩くような表通りとは違うの。いつどこから撃たれてもおかしくないんだから」

 

「そう? 俺にはみんな、暇を持て余してるだけに見えるけどなぁ」

 

 彼はのんきな声で返し、またたい焼きを齧った。

 その緊張感の欠如に、私は深い溜息をつく。周囲から突き刺さる鋭い視線も、彼という強烈な『異物』が隣でたい焼きを咀嚼しているせいで、毒気を抜かれたような呆れを含んだものに変わりつつある。

 

 しばらく歩き回り、かつて軽音部が使っていたという廃倉庫の周辺まで手分けして探したものの、当然のようにピックは見つからなかった。

 

 周囲への警戒と、見つかるはずのない物を探す徒労感。精神的な疲労がじんわりと足にきているのを感じ、私は歩みを止めた。

 

「少し、休憩する」

 

 私はそう声をかけ、道端に残されていた朽ちかけた木の柵に浅く腰掛け、銃を膝に置いた。かつては何かを区切っていたのだろうが、今はもうボロボロに風化している。

 すると、たい焼きを綺麗に平らげた彼が、私のすぐ隣にやってきて同じように柵に寄りかかった。ギシ、と古い木が微かな音を立てる。

 

「いやー、歩いた歩いた」

 

「……あんたは食べてただけでしょ」

 

「栄養補給は大事だよ。でなきゃ、いざって時に走れないからね」

 

 彼はそう言って、へらっと笑う。

 沈黙が落ちる。遠くの方で、旧市街のならず者たちが上げる下品な笑い声が微かに聞こえていた。

 

「百花繚乱って、名前しか聞いたことないんだよね」

 

 不意に、彼がそんなことを口にした。

 そのあまりにも間抜けな言葉に、私は思わず眉根を寄せて彼の横顔を見た。

 

「……さっき事務所で、『百花繚乱の作戦参謀がどうたら』って大声で叫んでたじゃない。知ってるものだと思ってたけど」

 

「キキョウちゃんが言ってたから。適当」

 

「……」

 

 私は言葉を失った。

 それを、適当な響きだけで叫んでいたというのか。この男は本当に、底が知れない馬鹿だ。

 

「それで? どんな組織なの? やっぱり、すっごいエリート集団とか? 新選組みたいな羽織着てるし」

 

「新選組……?」

 

「あ、ごめん。なんでもない」

 

 彼は悪びれる様子もなく、純粋な好奇心だけで尋ねてきた。

 普段なら「部外者には関係ない」と一蹴するところだ。しかし、彼が本当に何も知らないただの阿呆だとわかると、不思議と肩の力が抜けるような感覚があった。

 

「……いわゆる治安維持組織や風紀委員会の役割を担っている組織、それが百花繚乱。もとい、百花繚乱紛争調停委員会。トラブルの調停、街の警護、不良生徒の取り締まり……言ってみれば、警察や軍隊のようなものとも言えるかも」

 

「へえー! じゃあ、キキョウちゃんはそこの偉い人ってわけだ。通りで強いし、頭も回るわけだね」

 

「……『だった』、が正確ね」

 

「ん?」

 

 無邪気に感心する彼に対し、私は視線を自身の足元に落とし、自嘲気味に言葉を続けた。

 

「委員長代理であるナグサ先輩は、ある日突然、何も言わずに失踪した。……それをきっかけに、他の生徒たちも次々と去って、組織は事実上の解散状態」

 

 口に出すと、改めてその事実の重さと虚無感が胸を締め付ける。

 

「残っているのは、こうして意味もなく制服を着て、見込みのない過去にしがみついている……私みたいな亡霊だけ」

 

 そこまで言ってから、私は口をつぐんだ。

 少しばかり、感情が乗りすぎてしまった。同情されるのも、無責任に励まされるのも御免だった。彼の顔を見ないまま、私は冷たく突き放すような空気を纏おうとする。

 

「そっか」

 

 だが、彼の口からこぼれたのは、憐憫でも慰めでもなかった。

 

「それは確かに、簡単には見つからなそうな『大きな落とし物』だね」

 

 その声には、不思議な温度があった。

 決して茶化すわけでもなく、かといって深く踏み込みすぎるわけでもない。ただ事実として、私が失くしてしまったものの大きさを、彼なりに静かに受け止めたような響き。

 

 私は驚いて、隣に立つ彼の横顔を見た。

 彼は旧市街の淀んだ空を見上げながら、いつもと変わらない、少しだけ気の抜けた表情を浮かべていた。

 

 ……まただ。

 私の完璧な論理の死角から、この男は土足で、けれどひどく慎重に踏み込んでくる。

 

「……探すのはここまで」

 

 胸の奥がざわつくのを誤魔化すように、私は膝の上の銃を手に取って立ち上がった。

 

「これ以上は無駄。事務所に戻って、彼女に真実を伝えるよ」

 

「真実?」

 

「『見つかるわけがないから、諦めなさい』とね。それが、彼女が明日を生きるための最善の選択」

 

 私は彼に背を向け、旧市街の出口へと向かって歩き出した。

 待たせている彼女に、冷徹な正論を突きつけるために。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 さらさらと流れる川の水面が、遠くの祭りの提灯を反射して、オレンジ色に揺れている。

 私は橋の欄干に両肘をついて、ただぼんやりとその光の揺らめきを見つめていた。

 

 事務所に残って待っているように言われたけれど、どうしてもじっとしていられなくて、気づけば旧市街の入り口に近いこの川べりまで歩いてきてしまっていた。

 

「(あの二人……見つけてくれるかな……)」

 

 無理なのは、わかっている。

 あんなゴミの山から、たかが百円のプラスチックの欠片を一枚見つけ出すなんて、奇跡でも起きない限り不可能だ。あの冷たい目をした、作戦参謀という人の言う通りだ。

 

 冷たい夜風が頬を撫でる。

 目を閉じると、いつもあの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 

 不格好なアンプから鳴る、少し割れたディストーションの音。

 隣でベースを弾くあの子の、汗まみれで得意げな笑顔。

 

『私たちで、この百鬼夜行をもっともっと熱く盛り上げようよ!』

 

 そんな無謀で青臭い夢を語り合って、防音室の代わりに旧市街の廃倉庫に集まって、指の皮がむけて血が滲むまで、夜遅くまで練習した。

 

 あの時は、最高に楽しかった。

 

 毎日が溶岩のように熱くて、雷に打たれたようにシビれて、とにかく楽しかった。

 ギターをかき鳴らす瞬間だけは、自分たちが世界の中心にいるような、何にでもなれるような気がしていた。

 

 でも、現実はちっとも甘くなかった。

 

 百鬼夜行連合学院は、伝統と格式を重んじる街だ。お祭りの主役はいつだって、三味線や和太鼓、優雅な神楽や演舞と決まっている。

 歪んだギターのノイズは、この街の風情にはひどく不釣り合いだった。

 

 路上で思い切ってライブをやっても、立ち止まる人はほとんどいない。

 たまに珍しがって足を止める人がいても、かけられる言葉は決まって同じだった。

 

「百鬼夜行でギターなんて……物珍しいんだ……」

 

 それは決して、褒め言葉ではない。ただの好奇心か、あるいは冷やかし。時には「お祭りの空気に合わないから静かにしてくれないか」と苦言を呈されることもあった。

 

 私たちの音楽は、この街には受け入れられていない。その事実が、少しずつ、けれど確実に私たちの間に焦りと不協和音を生んでいった。

 結局、あの子とも些細なことでぶつかるようになり、最後はまともな言葉も交わさないまま、バンドは自然消滅してしまった。

 

 それでも。

 

 お金がなくて本当に小さいステージしか借りれなかったけど、その小さいステージで私たちは輝いていた。

 

 お客さんが片手で数えるほどしかいなくても、あの子と目を合わせて音を重ねる瞬間だけは、間違いなく私たちはキヴォトスで一番かっこいいバンドだったのだ。

 

「……ごめんね」

 

 誰にともなく零した声は、川のせせらぎに吸い込まれて消えた。

 もうすぐ、明日になる。そうしたら私は転校して、あの小さいステージに戻ることは二度とない。

 

 もうすぐ、あの二人が戻ってくるだろう。

 そうしたら、ちゃんと諦めて、前を向こう。

 

 自分の手で終わらせてしまった夢に、いつまでも縋り付いているわけにはいかないのだから。

 

 そう自分に言い聞かせるように、私はすり減ったべっ甲柄のピックの感触を思い出しながら、空っぽの右手をきつく握りしめた。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 旧市街の入り口、祭りの提灯の光が届くか届かないかの境界線。

 川べりの古びた橋のたもとで、彼女は両手をきつく握りしめ、川面を見つめて待っていた。

 

 足音に気づいた彼女が、ハッと顔を上げる。

 私たちの手ぶらの状態を見て、その瞳の奥で微かに揺れていた期待の灯りが、ふっと消えるのがわかった。

 

「……お帰りなさい。やっぱり、見つかりませんでしたよね」

 

「いやぁ……面目ないね」

 

 私が冷酷な事実を告げるよりも先に、彼女は無理に作ったような、ひどく不格好な笑顔を浮かべてそう言う。

 

「私、ここで待ってる間に考えてたんです。ゴミだらけの旧市街で、小さなピック一枚を探すなんて……ただの私の、往生際の悪い我儘だって」

 

 彼女の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。

 震える声を必死に押し殺し、彼女は深く頭を下げた。

 

「私が、勝手に夢見て、勝手に諦めて……勝手に逃げるだけだから。だからもう、いいんです。新しい街で、ちゃんと前を向きます」

 

 それは、見事なまでの『論理的な自己完結』だった。

 見込みのない過去を切り捨て、痛みを伴っても前へ進む。私が彼女に突きつけようとしていた『最善の選択』を、彼女は自分の手で導き出していた。

 

 これでいい。これが正解だ。

 なのに、どうしてだろうか。自ら夢を損切りした彼女の痛々しい姿が、ひどく胸をざわつかせた。

 

「ええ。……それが、あなたのための最善の選択よ」

 

 私は胸の奥の不協和音を押し殺し、彼女の決断を肯定するために口を開いた。

 終わった夢の残骸に縋っても、誰も救われない。だから、綺麗に忘れなさい、と。

 

 私がその決定的な言葉を紡ごうとした、まさにその時だった。

 

『──ジャーン……』

 

「お、良い音……かな?」

 

 旧市街の奥深く。先ほどまで私たちが探していた方角から、風に乗って微かな音が響いてきた。

 それは、チューニングも合っていない、歪んだギターの不格好なコード。

 

「……ッ!」

 

 その音を聞いた瞬間、綺麗に諦めようとしていた彼女の足が、地面に縫い付けられたようにピタリと止まった。

 俯いていた顔が勢いよく上がり、その瞳は信じられないものを見るように大きく見開かれている。

 

「……今の、音」

 

「ただの不良の暇つぶし。あそこはならず者の溜まり場になってる。早くここから離れるよ」

 

 私が冷静に促そうとしたが、彼女の耳にはもう、私の言葉など一ミリも届いていなかった。

 

「違います……ッ! あのコード進行。それに、あの少し跳ねるような手癖……!」

 

 彼女の呼吸が荒くなる。

 論理的に考えれば、ただのプラスチックの欠片で音が変わるはずなどない。あんな遠くから聞こえる粗悪な音色で、誰が弾いているかなど判別できるわけがない。

 だが、彼女の『直感』は、私のそんな計算式を木っ端微塵に粉砕していた。

 

「……あの子だ。私と一緒にバンドを組んでた、あの子が弾いてるッ!」

 

 彼女は泥だらけの手を握りしめ、私たちが今しがた戻ってきたばかりの、暗く危険な旧市街の路地へと身体を向けた。

 

「待って! 行くのは無駄だし、危険すぎる!」

 

 私は咄嗟に彼女の腕を掴もうと手を伸ばすが、凄まじい力で私の手は振り払われる。

 

「私のお守り……あの子が、昔一緒のバンドだった子が私のピックで弾いてる!!」

 

 もはや理屈ではない。

 損切りしたはずの夢、見つかるはずのない落とし物、そして決別したはずの仲間。

 そのすべてが、あの不格好なコード一つで繋がってしまった。

 

 彼女は叫び声を上げ、柄の悪い不良たちの溜まり場へと向かって、丸腰のまま単身で駆け出していった。暗闇の中へ吸い込まれるような、あまりにも無謀で、一直線な後ろ姿。

 

「ちょっと……ッ!」

 

 制止は間に合わなかった。

 私は伸ばしかけた手を強く握り込み、舌打ちをした。

 

「……本当に、感情で動く人間は計算外……」

 

 先ほどまでの完璧な諦めをあっさりと捨て去り、危険に飛び込んでいく彼女の姿が、どうしようもなく、今の百花繚乱でたった一人で足掻き続ける『あの子』と重なって見えた。

 

「ほら、キキョウちゃん! 置いてくよ!」

 

 隣を見ると、陽介がすでに走り出す体勢に入っていた。彼の顔には緊張感こそないものの、その瞳は迷いなく、彼女が消えた旧市街の奥を見据えている。

 

「……言われなくても、わかってる」

 

 私は悪態をつきながら自身のサブマシンガンを構え直し、無謀な依頼人の後を追って、再び旧市街の暗がりへと全力で駆け出した。

 

 ■■■

 

「キキョウちゃん足早いね~、運動部だった?」

 

「百花繚乱……ッ!!」

 

「あ、そっか」

 

 肺が焼けつくような息苦しさを感じながら、暗い路地を駆け抜ける。

 辿り着いた先は、先ほどまで私たちがゴミの山を漁っていた廃倉庫だった。トタンの壁はひしゃげ、割れた窓からはドラム缶で焚かれている火の明かりが、不気味なオレンジ色に揺らめいて漏れ出している。

 

「静かにね」

 

「分かってるから」

 

 私が入り口の影に身を潜めると、隣に並んだ彼も息を殺して中の様子を伺った。

 

 倉庫の中央。

 ゴミの山と、乱雑に置かれたバイクの部品に囲まれるようにして、五、六人の不良生徒──柄の悪いならず者たちがたむろしていた。

 その輪の中心、ドラム缶の火のすぐそばにある木箱の上に、一人の少女が腰掛けていた。

 

 彼女の膝の上には、傷だらけのアコースティックギター。

 そしてその右手には、依頼人が血眼になって探していた『べっ甲柄のピック』が握られている。

 

 少女は気怠げにギターの弦をかき鳴らし、周囲の不良たちはそれに合わせて下品な手拍子を打って笑い合っていた。音楽を愛する者の姿ではなく、ただ退屈しのぎに音の鳴るオモチャを弄んでいるだけの、自暴自棄な光景。

 

「……ッ、返して!!」

 

 その輪の中へ、依頼人の彼女は一切の躊躇なく飛び込んでいった。

 突然の侵入者に不良たちがギョッとして立ち上がる中、ギターを持っていた少女の指が止まり、不協和音が鳴り響く。

 

「……は。なんで、あんたがここにいんの」

 

 ギターの少女は、依頼人を見て目を丸くした後、すぐにその表情を苛立ちに歪めた。

 かつて一緒に夢を語り合ったという、バンドの相方。しかし、今の彼女の姿にその面影を見出すのは難しかった。投げやりな視線、荒れた口調、そして不良たちとつるむその態度は、夢に敗れてすべてを投げ出した者のそれだった。

 

「そのピック……私のお守りなの。返して、お願い……!」

 

 依頼人が必死に手を伸ばすが、少女はフンと鼻を鳴らし、ピックを弄ぶように指先でくるくると回した。

 

「お守り? ああ、これのことか。見つからなくて、さぞ焦っただろうな」

 

「え……?」

 

「お前のカバンからくすねてやったんだよ。お前が転校の挨拶とかで、ヘラヘラ笑ってる隙にな」

 

 少女の口から出た残酷な事実に、依頼人は息を呑んで立ち尽くした。

 

「どうして……そんなこと」

 

「ムカつくからだよ!!」

 

 少女の怒声が、廃倉庫のトタン屋根にビリビリと反響した。

 周囲の不良たちが、面白半分にニヤニヤと笑いながら依頼人を取り囲むように距離を詰める。だが、依頼人は一歩も引かず、ただ悲痛な目で相方を見つめていた。

 

「自分だけ綺麗さっぱり夢を諦めて、私たちを捨てて、新しい街に逃げるお前がさぁ! 『今までありがとう』だの『いい思い出だ』だの、勝手に終わらせてんじゃねえよ!」

 

 少女の言葉は、怒りに満ちているようでいて、どこか泣き叫んでいるようにも聞こえた。

 純粋に夢を信じていたからこそ、現実の壁に叩き潰され、相方にも見捨てられた時の反動は大きかったのだろう。

 

「お前だけだよ! こんなモン大事に持って、綺麗な思い出にして次に行こうとしてんのは! 一緒にバカみたいに夢見てた私は、この街でどうすりゃいいんだよ!」

 

「違う……綺麗な思い出なんかに止めない! 私だって、悔しかった……でも、これしかなかったの!」

 

「だったらこんなモン、一緒に燃やしてやるよ!!」

 

 少女は乱暴に立ち上がり、握りしめていたべっ甲柄のピックを、ドラム缶の火の中へ投げ捨てようと腕を振りかぶった。

 

「やめてッ!!」

 

「おいおい、喧嘩かぁ? 混ぜてくれよ」

 

 依頼人が止めに入ろうとするが、周囲の不良たちがヘラヘラと笑いながら彼女の肩を掴み、乱暴に突き飛ばした。

 コンクリートの床に倒れ込む依頼人。少女は振りかぶった腕を止めたものの、倒れた相方をひどく冷たい、けれどひどく傷ついた目で見下ろしていた。

 

「……」

 

 私は、入り口の影からその光景をただ黙って見ていた。

 

 終わった夢に縋り、それでも過去を捨てきれない依頼人。

 夢が破れた現実に絶望し、置いていかれる孤独に耐えきれず、何もかもを壊すことでしか自分を保てない相方の少女。

 

 どちらの姿も、今の私にはあまりにも痛々しかった。

 

「……まったく。不器用すぎる」

 

 胸の奥底で渦巻く得体の知れない感情を、私は舌打ち一つで強引に抑え込む。

 

 論理だの、効率だの、最善の選択だの。

 そんな計算式は、あの二人のむき出しの感情の前では、何の役にも立たない紙切れと同じだ。

 

「キキョウちゃん」

 

 隣で静かに状況を見つめていた彼が、私を呼んだ。

 指示を待つような、あるいは私の決断を促すような、静かで強い響き。

 

「……ここからは、物理的な制圧をする」

 

 私は静かに歩み出ながら、自身の銃を構え直した。

 不良たちに取り囲まれた依頼人を守るため、私は暗がりからドラム缶の明かりの中へ、堂々と姿を現した。

 

「あ……?」

 

 ドラム缶の炎が揺らめく中、暗がりから姿を現した私を見て、不良の一人が間の抜けた声を上げた。

 次いで、私の着ている制服を認識し、その顔に明らかな動揺が走る。

 

「ひゃ、百花繚乱……!? なんでこんな所に……ッ。解散の噂があったはずだろ!」

 

 私は彼らの狼狽えに答えることなく、ただ冷徹に銃口を向けた。

 彼らも腐っても百鬼夜行のならず者だ。すぐに顔を引きつらせながらも各々の武器を構えようとするが、私の実力には到底追いつかない。

 

 タァンッ! と、乾いた銃声が廃倉庫に響き渡る。

 

「ぎゃっ!?」

 

「うおっ!?」

 

 私の放った弾丸は、彼らが引き金に指をかけるより早く、その手元を正確に撃ち抜いていた。

 

 弾き飛ばされる銃。悲鳴を上げて手を押さえる不良たち。私は歩みを止めることなく、流れるような動作で次々と的確な射撃を叩き込んでいく。

 反撃の隙すら与えない、完全な制圧戦。彼らがデタラメに撃ち返してくる弾道は、私の予測計算の範囲内に綺麗に収まっており、かすり傷一つ負うことはない。

 

「くそっ、囲め! 数で押し潰せ!」

 

 リーダー格らしい不良が叫び、私から距離を取っていた二人が、死角へと回り込もうと左右に散った。さらに、倒れ込んでいる依頼人とギターを持った相方の少女の方へも腕を伸ばそうとする。

 

「(人質を取るつもりだ……)」

 

 私が銃口の向きを変えようとした、その時だった。

 

「動かないでね」

 

 ひどく穏やかで、しかし背筋が凍るような冷たい声が、二人の不良の背後から響いた。

 

「「……え?」」

 

 二人の不良が、文字通り石のように固まった。

 無理もない。彼らの真後ろには、いつの間にか陽介が立っており、両手に構えた二丁の拳銃の銃口を、それぞれの不良の首筋にピタリと押し当てていたのだから。

 

「(……気配が、全くなかった)」

 

 私は銃を構えたまま、目を見張った。

 作戦参謀として周囲の状況を完全に把握していたはずなのに、彼は完全に消えていたのだ。ガラクタが散乱するこの廃倉庫で、足音はおろか、服の擦れる音一つ立てずに、彼らの背後へ回り込んだというのか。

 

「(たい焼きの力……いや、ちょっと認めたくない)」

 

 いつもへらへらと笑い、ブルドーザーで壁をぶち破るような大雑把な男が、信じられないほどの静寂と精緻な歩法を身につけている。

 私の脳内で、彼に対する計算式がまた一つ、大きく音を立てて狂い始める。

 

「『割り打ちの銀』……ってとこかな~」

 

「ひっ……!」

 

「わ、悪かった! 降参だ……!」

 

 背後からの完全な死の気配に、不良たちは武器を手放し、膝から崩れ落ちた。

 それを合図にしたかのように、残っていた不良たちも次々と戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように廃倉庫の奥へと逃げ去っていった。

 

 後に残されたのは、静寂を取り戻した廃倉庫と、パチパチと爆ぜるドラム缶の火の音。

 そして、床にへたり込んだまま呆然としている依頼人と、ギターを抱きしめて立ち尽くす相方の少女だけだった。

 

「ふぅ、お疲れ様」

 

 陽介は銃を下ろすと、いつもの気の抜けた笑みを浮かべて、パンパンと手についた埃を払う。

 

 物理的な制圧は、これで完了した。

 だが、一番厄介な『感情の暴走』という事態は、まだ何一つ解決していない。

 

 私はゆっくりと、二人の少女の元へと歩み寄る。

 

「いたた……」

 

 不良たちが逃げ去り、静寂が降りた廃倉庫。

 パチパチと爆ぜるドラム缶の炎の音だけが響く中、コンクリートの床に倒れ込んでいた依頼人が、ゆっくりと身体を起こした。

 

 彼女は無言のまま、立ち尽くしている相方の少女の元へ近づく。

 そして、少女が力なく下ろした右手から、すり減ったべっ甲柄のピックを静かに抜き取った。少女は抵抗しなかった。ただ、呆然とその手の中の小さな欠片が奪い返されるのを見つめているだけだった。

 

「返してもらうよ」

 

「……」

 

 ピックを取り返した依頼人は、踵を返した。

 相方に目を配ることもなく、冷たい夜気が吹き込む入り口の方へと背中を向ける。

 

「私、夢を100%あきらめたわけじゃないんだ」

 

 炎を背にして立つ彼女の口から紡がれたのは、決して諦観でも、絶望でもなかった。

 静かで、けれど芯のある確かな熱を帯びた声。

 

「いつかは……いつかはギターで、天下を取りたいなって。思ってる」

 

 彼女は、情熱の日々の続きを、まだ一人で追いかけようとしていた。新しい街で、この不格好な夢の続きを弾くつもりなのだ。

 

「けれど……もう一緒には演奏できないね」

 

 その決定的な一言が、廃倉庫の空気を凍てつかせた。

 それは完璧な決別だった。夢を諦めず、前へ進むための、最も痛みを伴う『損切り』。

 

「まっ……待って!!」

 

 背中を向けたまま歩き出そうとする彼女へ、相方の少女が悲鳴のような声を上げた。

 手を伸ばし、すがるような、ひどく震えた声で。

 

「私は……私はお前の演奏技術が羨ましかっただけ……」

 

 そこまで叫んで、少女の声は唐突に途切れた。伸ばしかけた手が、空中で行き場を失って震えている。

 

 自分の口から出た浅ましい本音。そして、腹いせにピックを盗み、あまつさえ炎の中に投げ捨てようとした己の行い。

 もう、絶対に引き返せないのだと。どんな言葉を紡いでも、かつて並んで音を鳴らしたあの防音室には二度と戻れないのだと、少女自身が一番よく分かってしまっていた。

 

「……っ……っっ……!!」

 

 少女は地面に視線を落とし、両手で口元をきつく覆い隠した。

 ボロボロと大粒の涙をこぼし、声にならない嗚咽を漏らしながら、彼女は激しい後悔に身をよじって泣き崩れた。

 

 依頼人は、そんなかつての相方を一度も振り返らなかった。

 

 彼女はまっすぐに、入り口で状況を見守っていた私たちの元へと歩いてくる。

 そして、陽介の目の前で立ち止まると、その泥だらけの右手をゆっくりと開いた。

 

 傷だらけの、べっ甲柄のピック。

 彼女はそれを、彼の掌の上にそっと乗せた。

 

「私の落とし物じゃ、なかったみたいです」

 

「え、でも……」

 

 ひどく穏やかな、憑き物が落ちたような顔だった。

 

「これはきっと、他の誰かの『落とし物』です」

 

 そう言い残し、彼女は深く一礼をする。

 

 そのまま彼女は、廃倉庫の出口を抜け、祭りの喧騒が待つ表通りの方角へと、迷いのない足取りで去っていった。

 暗闇の中へ消えていくその背中は、不思議と小さくは感じられなかった。

 

「……」

 

 私は、陽介の掌に残されたピックと、炎の前で泣き崩れる少女の姿を交互に見つめ、ただ黙り込んでいた。

 

 依頼人は前を向いた。過去を切り捨てて、歩き出した。

 私の計算式が弾き出した通りの、最も合理的で、最善の選択。

 ……でも、本当にそうなのか? このピックの意味は、きっともっと違うものだ。

 

「君。これを」

 

 静寂の中、彼が泣き崩れる少女に近づき、ピックを差し出した。

 

「彼女はきっと、君がいつかこれを持って、隣に帰ってきてくれるのを待ってる」

 

「え……?」

 

 少女が涙に濡れた顔を上げる。

 陽介は彼女の戸惑いなどお構いなしに、ひどく静かな声で語りを続ける。

 

「あんなにも大事にしていたピックを、なぜ受け取らなかったか。考えればわかるはず」

 

「……」

 

「『他の誰かの落とし物』……他の誰かって、落とし物って、いったい何だろうね」

 

「それ、は……」

 

「その答えが見つかるのを、彼女はずっと待ってくれているはずだよ」

 

 彼がそっと指を開くと、すり減ったピックが少女の掌へと滑り落ちた。

 少女は震える両手でその小さな欠片を包み込み、今度は後悔からではなく、堰を切ったような大粒の涙をこぼし始めた。

 

「(……待っている)」

 

 私の頭の中で、カチリ、と何かが音を立てて組み替わった。

 

 見込みのない過去を切り捨てるのが『損切り』なら、傷つくリスクを承知の上で、相手が立ち直る日を信じて待つという選択は、いったい何と呼べばいいのだろう。

 

 非論理的で、あまりにも非効率な、ただの感情論。

 

 けれど、その不格好な祈りのような選択は、私の計算式が弾き出したどんな『最善』よりも、はるかに気高く、強かった。

 

「(……私は、逃げていただけ)」

 

 ナグサ先輩が消え、組織がバラバラになったあの日。

 先輩を待つという選択を放棄して、ただ一人で冷たい論理の壁に引きこもっていた。

 

 依頼人が落としたのは、ピックなどではない。

 相方が失ってしまった、未来を信じるための『情熱』と『勇気』。彼女はそれを見つけて欲しくて、あの言葉を残していったのだ。

 

「……行こうか、キキョウちゃん」

 

 彼が立ち上がり、私を振り返っていつもの気の抜けた笑みを浮かべた。

 私は小さく息を吸い込み、少女の嗚咽が響く廃倉庫に背を向けた。

 

 ■■■

 

 表通りへと続く旧市街の暗い路地を抜け、ようやく祭りの提灯が並ぶ大通りへと戻ってきた。

 空を見上げると、西の空はまだ燃えるような茜色に染まっており、完全な夜が訪れるまでにはもう少しだけ時間がありそうだった。

 

「んーっ! 一件落着!」

 

 隣を歩く陽介が、大きく背伸びをしながら呑気な声を上げた。

 

「まだ日の入りまで時間あるし、どう? 事務所に戻って、将棋でも指さない?」

 

 こちらを振り向いて無邪気に提案してくる彼に、私は小さく息を吐いた。

 

「……乗り気じゃない」

 

 冷たく返し、私は視線を前へと向けた。

 疲労を感じているのは確かだった。物理的な疲れではなく、作戦参謀としての私の『計算式』が、根底から揺さぶられたことによる精神的な疲労だ。

 

「(……何が、正解だったのかな)」

 

 提灯の光が揺れる道を歩きながら、私は先ほどの廃倉庫での出来事を反芻していた。

 

 もし、依頼人が私の正論を受け入れ、あのまま事務所から帰っていれば。

 相方の少女があの場所で無惨に泣き崩れることもなく、依頼人も痛みを伴う決別を突きつける必要はなかった。最も効率的で、最も合理的な『正解』。

 

 けれど、現実は違った。

 彼女たちは不器用にぶつかり合い、傷つけ合い、そして陽介の介入によって『未来を信じて待つ』という、ひどく非論理的で回りくどい結末へと着地した。

 

 あれは、正解だったのだろうか。それとも、不正解だったのだろうか。

 いや、そもそも人の感情という変数において、明確な『正解』や『不正解』など存在するのだろうか。

 

 考えれば考えるほど、私の完璧だったはずの計算式はノイズだらけになり、答えの出ない迷路に迷い込んでいくような感覚がした。

 

「そっかぁ、また今日も昼寝して一日が終わるかな……」

 

 隣で、彼が残念そうに呟いた。

 私の思考の迷路などお構いなしに、欠伸交じりに後頭部で手を組んで歩いている。

 

 彼という人間は、論理や計算では測れない。盤面を無茶苦茶にして、私の想定外の『逃げ道』や『落とし物』を勝手に見つけ出してしまう。

 

 今の私が一人で考えても、きっと答えは出ない。

 

 だったら、もう少しだけ。この計算外の男が好むという『盤面』に付き合って、思考を預けてみるのも、悪くないかもしれない。

 

「ちょっと」

 

 私は足を止め、数歩先を歩く彼の背中に声をかけた。

 

「ん?」

 

 彼が振り返る。

 私はそっぽを向いたまま、微かに揺れる自身の尻尾を誤魔化すように、努めて平坦な声で言った。

 

「……指さないとは言ってない」

 

「っっっキキョウちゃぁん!!」

 

 夕闇が迫る百鬼夜行の通りに、少しだけ間の抜けた彼の歓声が響く。

 私は小さくため息をつきながらも、彼の歩幅に合わせて、再び前へと歩き出した。

 

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