【完結】キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第三話 レンズ・トゥ・サンセット

 パチリ、と硬質な木の音が、静まり返った遺失物預り所の事務所に響く。

 窓から差し込む気怠い午後の陽射しが、机の上に置かれた将棋盤を斜めに切り取っていた。

 

「キキョウちゃん、居飛車穴熊好きだね」

 

 盤面を見つめながら、向かいに座る陽介が呑気な声を出した。

 私は彼から視線を外し、自分の陣地──盤の隅にガチガチに囲い込んだ王将へと目を落とす。

 

 実際のところ、私は作戦立案の教養として将棋を少しばかりかじったことがある程度だ。最近はこの事務所の机に山積みになっている彼の棋書を勝手に借りて、最適な定跡を勉強しているのだが……目の前の男には、セオリーというものが全く通じない。

 

「……計算式を組み立てる上で、守りを盤石にするのは基本」

 

「にしてもガチガチすぎない? 王様、隅っこで息詰まっちゃうよ」

 

「あんたこそ、いつもその変な形ばかりじゃない。何それ」

 

「これ? 風車戦法」

 

 彼はへらっと笑って、自分の陣地を指差した。

 私が読んだ入門書には載っていないような、飛車がフワフワと陣地を漂うひどく捉えどころのない陣形だ。

 

「明確な壁も作らずにのらりくらりと……ただ逃げ回っているだけじゃない」

 

「逃げるが勝ちって言うでしょ? 風車はスースーしてるけど、その分逃げ道だけはいっぱいあるからね」

 

「私の『穴熊』は、計算上絶対に崩されない」

 

「でもさ、穴熊って一回崩されると逃げ道がないんだよね。風車みたいに余裕を持たせておけば、相手の隙を突いて……ほら、待つこともできる」

 

 パチリ、と彼が歩を突く。

『待つこともできる』。その言葉に、私はチクリと胸の奥を刺されたような気がした。

 

 穴熊のように分厚い壁に引きこもってしまえば、傷つくことはないかもしれない。でもそれは、ナグサ先輩が消えたあの日から、私がただ自分の殻に閉じこもっているのと同じだ。

 

「……あんたの適当な陣形で、私の計算式を崩せると思わないこと」

 

「厳しい! でもまあ、せっかくこうしてキキョウちゃんが盤面に付き合ってくれてるんだし。俺の風車で、その分厚い壁のどこかに風穴を開けてみせるよ」

 

「だったら、もっと論理的に……」

 

 私がため息交じりに言い返そうとした、その時だった。

 

 事務所の入り口のドアベルが、重たげな音を立てて鳴った。

 陽介と私は同時に顔を上げ、入り口の方へと視線を向ける。

 

「あの~……私の落とし物って届いてないですかね……」

 

 そこに立っていたのは、一人の見知らぬ生徒だった。首には最新型の、いかにも高価そうなデジタルカメラ。

 

 しかし、私の目を引いたのはその真新しい機材ではなく──彼女の、ひどく疲弊し、どこか焦点の合っていない『空洞のような瞳』だった。

 

「いらっしゃい。落とし物だね。……とりあえず、そこのソファに座って話を聞こうか」

 

 陽介がいつもの飄々とした態度から少しだけ声のトーンを落とし、静かに彼女を促した。

 促されるままに座った彼女は、首から提げた真新しいデジタルカメラを両手で力なく包み込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「……数日前、地方の撮影ロケに行ったんです。その時に、ずっと愛用していた年代物のフィルムカメラを落としてしまったみたいで」

 

 ロケ先での紛失。場所が広いなら厄介だ。

 

 私は手元のメモ帳を引き寄せながら、作戦参謀の視点で彼女を観察した。

 

 首から提げている機材は、素人の私が見ても分かる最新鋭ハイエンドモデル。それだけの機材を持っていながら、わざわざ不便な旧式のフィルムカメラを探しに来たというのか。

 

「それは災難だったね。よし、探すための手がかりが欲しいんだけど……何か特徴はある? 例えば、長年使ってたなら、特定の場所に擦り傷があるとか、ファインダーの覗き心地とかさ」

 

 陽介が優しく問いかける。

 だが、その質問を聞いた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。

 包み込んでいた機材から手を離し、彼女はひどく怯えたような目で、自身の両の掌を見つめた。

 

「……思い出せ、ないんです」

 

「え?」

 

「あんなに、あんなに大切にしていたはずの相棒なのに……傷の形も、シャッターを切る時の重さも、ファインダー越しの景色がどう見えていたかも……全部、すっぽりと記憶から抜け落ちていて……ッ」

 

 彼女の声が震え、絞り出すような悲痛な響きを帯びる。

 

「カメラが無くなったことに気づいた後、代わりにこの最新のカメラを持って、ロケ先の綺麗な夕焼けの海を見に行きました。……でも、全然ダメだった。どれだけ美しい景色を見ても、ただの一度も、シャッターを切りたいって思えなかったんです」

 

 彼女の空洞のような瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。

 

「私……カメラを落としたんじゃ、ない。もっとずっと前に……世界を切り取りたいっていう情熱を、自分から無くしちゃってたんです……。もう、自分が何を撮りたかったのかも、分からない……」

 

 その独白を聞きながら、私は静かに息を呑み、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。

 

 かつてはそこにあったはずの熱がすり減り、空っぽになってしまった絶望。

 立派な機材だけをぶら下げて、中身を失って立ち尽くす姿。

 その痛ましい輪郭が、今の私自身に重なって見えて——チクリと、また胸の奥が痛んだ。

 

「……キキョウちゃん?」

 

「……」

 

 陽介の声にハッと我に返る。

 私はゆっくりと立ち上がり、乱れた呼吸を整えるように一つ深呼吸をした。

 そして、泣き崩れる彼女を見下ろし、努めて平坦な声を紡ぐ。

 

「泣いている暇があるなら、正確な情報を出しなさい。あなたが落としたのがただのカメラなのか、それとも別の何かなのか……見つければ分かること」

 

「……え?」

 

「ロケ先の場所。最後にカメラの無事を確認した時間。周囲の状況。すべて吐き出しなさい。……まずは、現場を歩く」

 

「……了解、キキョウちゃん!」

 

 私が言い放つと、陽介は少しだけ驚いたように目を丸くして微笑んだ。

 

 ■■■

 

 潮の香りが混じったぬるい風が、鼓膜を撫でて通り過ぎる。

 私たちは依頼人の証言をもとに、彼女がロケで訪れたという海沿いの展望公園へとやってきていた。

 

「あー……あっちぃ。海風があるとはいえ、日差しが容赦ないねぇ……」

 

 陽介が額の汗を手の甲で拭いながら、情けない声を上げる。

 彼はさっきから、展望台へと続く遊歩道の脇の植込みを、その辺で拾ってきた木の枝でガサガサとつつき回していた。

 

「文句を言わない。正確な計算式を組み立てるには、まず現場の『一次情報』をこの目で確認する必要がある。あんたも臨時助手としてついて来たんだから、真面目に探しなさい」

 

「へいへい、分かってますって。でもさ、落とし物探しって案外こういうアナログなところから見つかるもんじゃない? ほら、草むらの中にポツンと落ちてたり……」

 

「……犬の散歩じゃないんだから」

 

 私は呆れたようにため息をつき、パタパタと揺れる自身の尻尾を軽く手で押さえた。

 非効率に見えるかもしれないが、現場の空気を知らずして完璧な作戦は立てられない。それに、彼とこうして並んで歩いていると、少しだけ私の内側のノイズが静まるような気がしていた。

 

「で、どう? キキョウちゃんの目から見て、何か手がかりはありそう?」

 

 木の枝を放り捨てた彼が、自販機で買った冷たいお茶のペットボトルを私に差し出しながら聞いてきた。

 私は無言でそれを受け取り、キャップを開けながら周囲を見渡す。

 

「……あり得ない」

 

「ん? 何が?」

 

「彼女がこの遊歩道で、あの年代物のフィルムカメラを『落とした』という確率が」

 

 私は冷たいお茶で喉を潤してから、綺麗に舗装されたレンガ造りの遊歩道を指差した。

 

「彼女の証言によれば、車を降りてから展望台まで歩き、途中で機材の確認をした時にはカメラが無かったということになっている。でも、見ての通りここは平坦で、見晴らしがいい。金属とガラスの塊である古いカメラを落とせば、必ず大きな音が鳴るはず」

 

「確かに。首から提げていた紐が切れたにせよ、カバンから転がり落ちたにせよ、気づかないってのは不自然だね」

 

「そう。それに、もし彼女が奇跡的な鈍感さで気づかなかったとしても、これだけ視界が開けた場所。他の観光客が気づいて、管理事務所に届けるのが自然な流れだよ。でも、遺失物預り所に該当の届け出はゼロ。それ以外の施設にも該当は無かった」

 

 私はそこまで言ってから、振り返って公園の入り口──彼女がロケ用の機材車を停めていたという、駐車場の隅のスペースへと視線を向けた。

 

「あの駐車スペース。大きな防風林の影になっていて、遊歩道からも道路からも完全に死角になってる」

 

「……なるほど。落としたんじゃなくて、『落としたと思い込んでいるだけ』か」

 

「彼女、言ってたね。車を停めた後、少しだけ自販機に寄るために、機材を入れたカバンを車のシートに置いたまま数分離れたって」

 

 陽介の目が、いつもの呑気なものから、少しだけ真剣な色を帯びた。

 

「車上荒らしかぁ」

 

「その可能性が極めて高い。彼女は自分の情熱が空っぽになってしまったことに怯えるあまり、記憶が混濁して『自分で落とした』と思い込んでいる。でも、実際は違う」

 

 私は手元の端末を取り出し、画面をタップして起動させた。

 

「足で稼ぐターンは終わり、助手さん。物理的な足跡が消されているなら、電子の海から見つけ出すまで。……もし犯人が、あのカメラの価値も分からずに盗んだ小悪党だとしたら、必ずどこかでボロを出すはず」

 

「おっ。キキョウちゃん、何かアテがあるの?」

 

「『試し撮り』、かな。カメラを盗んだ人間が一番やりたがる、最も愚かな承認欲求の満たし方」

 

 ここからは、私の陣地──確実な計算式と情報が支配する、作戦参謀の時間だった。

 

「ねぇ、あんたの持っているパソコンを貸して」

 

「お、ついに本気モード? はいはい、どうぞ」

 

 陽介が背負っていた鞄から使い込まれたノートパソコンを取り出し、私に手渡す。

 私は遊歩道のベンチに腰を下ろし、膝の上にパソコンを広げて起動させ、検索ツールを展開してキーボードを凄まじい速度で叩き始めた。

 

 黒い画面の上に、無数の文字列とデータが滝のように流れ落ちていく。

 

「へえ……すごい速さだね。でも、SNSの投稿なんてそれこそ星の数ほどあるでしょ? どうやってその中から、カメラを盗んだ奴の投稿を見つけ出すのさ?」

 

 隣に座った陽介が、私の手元を覗き込みながら不思議そうな声を上げる。

 

「力技で全部見るわけじゃない。条件を指定して、いらない情報を削ぎ落としていくの」

 

「条件?」

 

「そう。まずは位置情報。この展望公園を中心とした半径二キロ圏内に絞る。次に時間。彼女が機材車を離れた今日の夕方以降に投稿されたものだけを抽出する」

 

 私がエンターキーを叩くと、画面上の膨大なデータがごっそりと削り取られた。

 

「なるほど、時間と場所か。でも、それだけでも結構な数があるんじゃない?」

 

「だからさらにフィルタリングをかける。画像認識AIを走らせて、画面に『人物』が写っているものをすべて除外するの」

 

「人物を? なんで?」

 

「他人のカメラを盗んで試し撮りするような人間は、わざわざ自分の顔や他人の顔が写った写真をネットには上げない。足がつくリスクが高まるからね。彼らが撮りたがるのは、カメラの性能を試すための無難な被写体──つまり、ただの風景写真」

 

「はえー、理詰めだねぇ」

 

 私の説明に、陽介が感心したように素っ頓狂な声を上げる。

 自撮り、記念写真、食べ物の画像。それらが次々と弾かれ、最終的に画面に残ったのは、数十枚の風景写真だけだった。

 

「……いくつか候補が残った。その中で、一番怪しいのはこれ」

 

 私は一つの画像をカーソルで選択し、拡大した。

 開設されたばかりの無名アカウントによる、たった一枚の投稿。被写体はまさに今、私たちが目の前で見ているのと同じ、夕焼けの海だった。

 

「おっ、これなの? 一見すると普通の綺麗な夕焼けだけど」

 

「普通じゃない。不自然な点はある。この画像、データサイズに対して細部の解像度が妙にぼやけてる。SNS特有の自動圧縮を差し引いてもおかしい。おそらく、意図的にトリミングされているか、アップロードの過程で劣化したか……」

 

「それが彼女のカメラで撮られたって、どうやって証明するの?」

 

「それは、これから」

 

 私はその画像を保存し、別の解析アプリケーションへと放り込んだ。

 

「AIを使って、この画像を本来の解像度までアップスケーリング処理する。同時に、ピクセル単位でのノイズ除去と、光の屈折率の解析も並行して行う」

 

「なんかすごいことになってきたね。それ、どれくらいかかるの?」

 

「……10分くらいかな。あんたがこのサイトに課金すればもっと早く済むみたいだけど」

 

「ごめん無理、お金ない」

 

 処理のプログレスバーがゆっくりと進み始めたのを確認して、私はキーボードから手を離した。

 

 ■■■

 

 潮騒の音だけが、二人の間に静かに流れる。

 陽介は隣に座ったまま、海風に吹かれて目を細め、オレンジ色に染まり始めた水平線をぼんやりと眺めていた。

 

「……便利な世の中だねぇ」

 

 ぽつりと、彼が呟く。

 

「10分待つだけで、見えないものが見えるようになっちゃうんだから」

 

「計算と技術の蓄積。勘や足の裏だけで動くあんたには縁のない世界」

 

「違いない」

 

 彼はあっさりと認めて、からからと笑った。

 その横顔を、私はじっと見つめる。

 今朝の将棋の盤面。そして、昨日の廃倉庫での振る舞い。

 

 彼はいつだって捉えどころがなく、非論理的で、でも絶対に『致命傷』だけは避けて、のらりくらりと相手の懐に潜り込んでくる。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「あんたは、どうしてあんな埃っぽい遺失物預り所なんてやっているの」

 

 私の問いかけに、陽介は少しだけ驚いたように瞬きをした。

 私が彼自身のパーソナリティに踏み込んだことが、意外だったのだろう。私自身、どうしてこんなことを聞いたのか、自分でもよく分からなかった。

 

「依頼人の彼女は、情熱を失って空っぽになった。私は……」

 

 そこまで言いかけて、私は口をつぐむ。

 

「私は、計算式で自分を囲い込んで、そこから動けなくなっている。でも、あんたは違う。いつも風車みたいにフラフラしているくせに、他人の落とし物のために、どうしてそこまで踏み込めるの」

 

 陽介はしばらくの間、黙って海を見つめていた。

 やがて、彼はいつものへらっとした笑みを少しだけ引っ込めて、波の音に溶けるような静かな声で言った。

 

「……怖いから、かな」

 

「怖い?」

 

「うん。自分が何を失くしたのかも分からないまま、空っぽのまま生きていくのって、すごく怖いことだと思うんだ」

 

 彼の言葉に、私は先ほどの依頼人の空洞のような瞳を思い出した。

 

「無くしたことすら思い出せないまま、ただ形だけが残っていく。……だからせめて、手の届く範囲で『これ、落としましたよ』って言ってあげられる場所にいたいのかもね」

 

 明確な過去を語ったわけではない。

 けれど、その言葉の端々には、彼自身もかつて何か決定的なものを失くし、それを探し続けているような……そんな微かな痛みの匂いがした。

 

 のらりくらりと躱す彼の『風車』の中心にある、決してブレない軸のようなもの。

 

「(……この男も、何かを抱えている)」

 

 私がその輪郭に少しだけ触れそうになった、その時だった。

 

『ピピッ』

 

 膝の上のパソコンが、処理の完了を知らせる無機質な電子音を鳴らした。

 その音で魔法が解けたように、陽介はいつもの呑気な表情に戻り、画面へと身を乗り出してきた。

 

「お、終わった?」

 

 私も思考を切り替え、画面に表示された解析済みの高画質画像を開く。

 先ほどまでのぼやけた夕焼けが、AIの補正によって恐ろしいほど鮮明な一枚の写真として蘇っていた。

 

「……大正解」

 

 私は画像をピンチアウトして、太陽の光が反射している画面の隅を拡大した。

 

「見て。高画質になったことで、光の屈折率に特有の『ノイズ』が写り込んでいるのが分かるようになった。これはデータ上のバグじゃない。レンズの表面に刻まれた、微細な物理的な傷が引き起こした乱反射の痕跡」

 

「ってことは……」

 

「彼女の落とした年代物のフィルムカメラには、長年使い込まれたことでついた無数の小さな傷があったはず。その傷跡が、まるで指紋のようにこの写真に刻印されてる」

 

「ヒェーッ! AI、怖っ!!!」

 

 陽介が肩をすくませて、大げさに身震いをした。

 私は画面を閉じ、パタンとノートパソコンを折りたたむ。

 

「紛失じゃない。何者かが彼女の車からカメラを盗み、そのカメラでこの写真を撮ってアップロードした。……これは、立派な窃盗事件。無論本人に傷等の確認をしないといけないけど」

 

 パタンとノートパソコンを折りたたんだ、その直後だった。

 空気を切り裂くような乾いた破裂音が、夕暮れの公園に響き渡った。

 

「(狙撃……!?)」

 

 私が思考するより一瞬早く、一発の銃弾が私のすぐ横をすり抜け──隣に座っていた陽介の頬を掠めた。

 

「……っ」

 

 陽介のくすんだ色の頬に、つうっと一筋の赤い線が描かれる。

 私は反射的にベンチから跳ね起き、自身の得物を引き抜いて銃口を向けた。

 

 遊歩道の先、夕日を背にして立つ一つの影。

 

 黒ずくめの服を着た、見知らぬ生徒だった。手には無骨なアサルトライフルが握られている。さっきのSNSの投稿主か、あるいはその仲間のうちの一人か。

 私は迷わず引き金を引いた。

 

 しかし、放たれた弾丸を、黒ずくめの生徒は最小限の動きで回避し、即座に精確な射撃を撃ち返してくる。

 

「(速い……!)」

 

 綺麗に舗装された展望公園の遊歩道には、身を隠すための障害物が一つもない。

 純粋な射撃精度と、回避の反射神経。お互いの実力のみが物を言う、ごまかしのまったく効かない空間だ。

 

 私は作戦参謀として、最適な射撃角度と弾道を瞬時に計算して弾幕を張る。しかし、相手の生徒もまた、まるで獣のような直感で私の射線を掻いくぐり、的確な牽制射撃を撃ち込んでくる。

 

 防戦一方にはならないが、押し切ることもできない。完全に、互角だった。

 

「(……よもや百花繚乱の幹部でもあろう者が、ただ一人の生徒と互角に持ち込まれるなんて)」

 

「(少し。一人の生徒としてヘコむかな)」

 

 自嘲気味にため息をつきたくなるのを呑み込み、私は必死に銃撃戦を継続する。

 だが、相手の変則的な動きに私の計算式が追いつききらず、一瞬だけ射線が開いて押し込まれそうになった、その時だった。

 

「キキョウちゃん、踏み込みすぎだ! 相手の狙いは足止め、左の射線を開けて誘ってる!」

 

 背後から、陽介の鋭い声が飛んだ。

 いつもの呑気な声ではない、淀みのない明確な指示。

 

「二歩下がって右へ牽制! 相手が体勢を崩した隙に弾幕を張れ!」

 

「……っ」

 

 私は無意識のうちに彼の声に従い、ステップを踏んで右へ銃弾を散らす。

 

 すると、見事に相手の退路と予測が重なり、黒ずくめの生徒が舌打ちをして姿勢を崩した。その隙を逃さず、私は正確な一撃を撃ち込み、相手の動きを完全に封じ込める。

 

「よし、そのまま牽制維持!」

 

 頬から血を流しながらも、陽介は背後から冷静に戦況を見極め、私という『駒』を的確に動かしている。彼というイレギュラーな存在が指示を出すことで、拮抗していた盤面がこちらに傾き始めた。

 

 数度の激しい銃火の交錯の後、黒ずくめの生徒はこれ以上の戦闘を諦めたのか、ふと面倒そうに銃を下ろした。

 

「なんか、探ってる奴がいるから見に来てみれば……」

 

 夕風に乗って、無気力な声が届く。

 彼女は私の制服を値踏みするように一瞥し、忌々しそうに踵を返した。

 

「百花繚乱か……面倒くさいな」

 

 そう言い残し、彼女は閃光弾を足元に転がした。

 強烈な光と煙が視界を白く染め上げる。

 

 数秒後、潮風が煙を晴らした時には、すでに黒ずくめの生徒の姿は夕暮れの公園から完全に消え去っていた。

 煙が完全に晴れた遊歩道には、私と陽介だけが取り残される。

 

「(……まずいことになった)」

 

 私は銃を下ろし、奥歯を強く噛み締めた。

 

 相手に私が百花繚乱であることが一方的にバレた。さらに、私たちが「何かを探っている」という事実まで筒抜けになっている。作戦において最も重要な『情報のアドバンテージ』を完全に失ったことに対する、焦りと焦燥感が胸の内で渦巻く。

 

 しかし、そんな私の深刻な思いとは裏腹に、背後の男はどこかウキウキとした足取りで歩き出し、舗装された地面に向かってしゃがみ込んだ。

 

「おっ、落とし物発見」

 

「えっ」

 

 探していたカメラが見つかったのかと思い、私は弾かれたように振り返る。

 

「あ、ごめん、カメラじゃないよ」

 

 彼が指先でつまみ上げたのは、ほんの小さな、木材のカスのような破片だった。

 先ほどの黒ずくめの生徒が、戦闘のステップを踏んだ際に服か靴の裏から落としたのだろう。

 

 私は拍子抜けしてため息をつく。だが、陽介はその木屑の破片を顔の前に近づけ、目を細めて匂いを嗅いでいた。

 

「……何をしているの。ただのゴミじゃない」

 

「いや、木っていうのはね、こんな小さなカスみたいな破片だけでも、すっごく特徴的な香りを放つんだよ。特にこれは……建築や足場に使われる、特定の種類の木だった気がする。きっと、多分、メイビー」

 

「カスなのが木なのか確率なのか分からない……」

 

「パチンコなら確率高い方ザマス、ぼくちゃんパチンコやらないから分からないザマスけど」

 

「カスなのは本人だったみたいね。……何その口調」

 

「お口が悪いザマスね、キキョウちゃん!」

 

「その喋り方に反吐が出そう……っ!!」

 

 陽介は木屑を指先で転がしながら、いつになく楽しげな口調で推理を繋ぎ合わせる。

 

「さて。百鬼夜行の中でこの木材が大量に使われていて、なおかつこんな風に木屑が服に付着するような場所……つまり、大規模な解体現場か、あるいは不法投棄されているスクラップの山があるエリア。そこに彼女たちの隠れ家があるってことさ」

 

 頬から一筋の血を流したまま、名探偵のように誇らしげに語る彼の姿に、私は呆気にとられてしまった。

 まさか、こんなアナログ極まりない手がかりから、相手の潜伏エリアを特定しようというのか。

 

「でも木材の匂いに流通している人物なんて……」

 

「あるよ、アテなら」

 

 陽介はへらっと笑い、木屑をポケットにしまい込んだ。

 

 ■■■

 

「……」

 

「おっほ! リアが滑るッ! さすが雪道!」

 

 車体が大きくバウンドするたびに、私の尻尾の毛が総毛立つ。

 

 私は助手席のドアのくぼみを強く掴みながら、隣で呑気にハンドルを握る陽介へと静かに視線を向けた。

 塗装が剥げ、あちこちが錆びついたボロ車。ヒーターが壊れて隙間風が吹き込む車内で、私は寒さと振動に耐えながら、窓の外の雪景色を恨めしそうに眺める。

 

 レッドウィンター連邦学園。どこを見ても白い雪景色が広がる学園で、何もかも百鬼夜行とは違う学園。

 

「……ねぇ。あんたのこの車のヒーターが壊れているのは、私の忍耐力を試すための高度な作戦の一部?」

 

「いやあ、寒さは戦士の精神を研ぎ澄ますっていうし」

 

 陽介は私の静かだが辛辣な声に、少し肩をすくめた。

 

「私の精神はすでに、この車がいつ分解するかという計算で十分に研ぎ澄まされているのだけれど。……あと何分」

 

「お、見えてきた」

 

 陽介がブレーキを踏み、ボロ車が情けない音を立てて雪道に停車した。

 

 凍てつくような冷たい風が頬を刺す。ここはレッドウィンターの郊外にある大規模な再開発エリアだった。

 煌々と焚かれた投光器の光が舞い上がる雪を白く照らし出し、重機の駆動音と、金属が打ち据えられる甲高い音が交差している。

 

 そして、その騒音を掻き消すほどの、凄まじい大音声が響き渡っていた。

 

「我々は要求する! 不当な労働環境の改善と、週休二日制の完全導入! そして何より、食堂におけるプリン配給量の二倍増を!!」

 

「「「オーッ!!」」」

 

 うず高く積まれた雪と土砂の山を演壇代わりに、拡声器を握りしめてデモを行っている一人の生徒。

 白いヘルメットに、作業着をアレンジしたような無骨な出で立ち。彼女の背後では、ヘルメットを被った数十人の労働者が、プラカードやスコップを掲げて気勢を上げている。

 

 陽介が手を振りながら、その土砂の山へと近づいていく。

 拡声器を下ろした白いヘルメットの生徒が、こちらに気づいてスッと目を細めた。

 

「見慣れない顔だな。そのヘラヘラした顔、資本家の犬か?」

 

 彼女の眼には大人の陽介が権力者に見えてしまったらしい。私は背後から事の成り行きを静かに見守ることにした。

 

「人聞きの悪いこと言わないでよ。俺はね、百鬼夜行連合学院で遺失物預り所をやっている陽介。で、君が噂に聞く、レッドウィンター工務部のミノリ部長……で合ってるかな?」

 

 陽介が工務部長の名前を確認すると、ミノリは鼻を鳴らした。

 

「合っている。で、遺失物預り所が何の用だ。手短に言え」

 

「初対面なのに、さすがに話が早い。今日は、建築と木材のスペシャリストである君に、ちょっと専門的な意見を聞きたくてね。これ、投げるよ~」

 

「っ。……木のカス……?」

 

「天下の工務部はレッドウィンター以外の工事も担当することもあるって聞いたよ。君ならその木材が使われている百鬼夜行の区画が分かるだろ~っ?」

 

 陽介は笑顔のまま、先ほど拾った木屑をポケットから取り出し、ミノリへと投げ渡した。ミノリは訝しげにそれを受け取ると、指先で擦り、匂いを嗅いで確認する。

 

「粗悪な防腐処理が施された輸入木材の破片だ。確か百鬼夜行との自治区にある、第七廃棄区画。あそこに不法投棄されているスクラップの山でしか見かけない、質の悪い建材だったな」

 

「やっぱり。さすがだ、助かったよ」

 

 陽介はパンッと手を打つと、そのまま流れるような自然な動作で、とんでもないことを口にした。

 

「じゃあ、ちょっとそこのショベルカーを貸してくれ」

 

「ちょ、ちょっとあんた……何する気……!?」

 

「は……? ショベルカーだと? 自分が何を言っているのか分かっているのか! 我々の血と汗の協力者である重機を、素人に貸し出せる義理はないはずだ! 断固拒否する!」

 

 ミノリが目を丸くして怒鳴る。当然の反応だ。

 私も思わず頭を抱えそうになった。いくら協力的な関係を築きたいとはいえ、重機を借りられるわけがない。

 

「理不尽を正すためなら、義理なんて関係ないんじゃないかな」

 

 陽介は突然、ひどく真剣な、悲痛な声色を作ってミノリに語りかけた。

 

「実はね、善良な生徒が大切にしていたカメラを、理不尽な悪党に奪われちゃってね。俺たちはそれを取り返しに行きたいんだ。でも、悪党は雲隠れして安全圏でぬくぬくしてる。これって、許されることだと思う?」

 

「ぬくぬくしている、悪党だと……」

 

「そう。大切な財産を不当に搾取して隠れ住む連中。俺には今の状況が、ミノリ部長がいつも戦っている相手と重なって見えるんだ」

 

 ミノリの表情が、ピクリと動いた。

 陽介は言葉を畳み掛ける。

 

「彼らの障壁を打ち壊し、理不尽を正すには、ミノリ部長たちの持つ圧倒的な力が必要なんだよ。ショベルカーを一台、貸してくれないかな」

 

「……ッ!」

 

「廃棄地区なら、ショベルカーで道を切り開けるはずなんだ」

 

 ミノリは強く拳を握りしめた。義憤と使命感に燃える労働組合長としての怒りが、その小さな体に満ちているのが分かった。

 

「許せん……他者を搾取し、遮断された場所でふんぞり返るなど! あぁ、分かった! 初対面の資本家顔の見知らぬ男だが、その言葉だけは信じてやろう! その理不尽な障壁、我々の手で粉砕してやれ!!」

 

 私は、その一部始終を唖然として見つめていた。相手の信念をピンポイントで突いて同調させ、重機の調達をたった数分の会話でクリアしてしまったのだ。

 

 ミノリは作業着のポケットからジャラリとキーの束を取り出し、陽介に押し付けた。

 

「貸すのは重機だけだ、操縦はそっちでやれ! いいか、傷一つついたら即刻ストライキだからな! 免許は持っているのか!」

 

「任せてよ。俺、こう見えて重機の免許持ってるからさ」

 

 陽介はキーをひらひらと振りながら、真新しい黄色のショベルカーへと乗り込もうとする。

 

「さあキキョウちゃん! いざ、このショベルカーで悪党の隠れ家へ出発だよ!」

 

「……陽介。あんた、馬鹿なの?」

 

 私は凍りつくような冷ややかな声で、ウキウキと重機に足をかけている男を呼び止めた。

 陽介が間の抜けた顔で振り返る。

 

「第七廃棄区画という大まかなエリアしか分かっていないのに、最高時速が数十キロしか出ないそんな遅い重機で、広大なスクラップの山を探索するつもり? 相手にわざわざ自分たちの居場所を宣伝して回るようなもの」

 

「あ……」

 

 陽介の動きがピタリと止まった。

 重機はあくまで探索用の足ではない。そんな初歩的な計算すら飛んでいる男に、私は深い深いため息をついた。

 

「呆れた連中だ。まずはそのボロ車で正確な場所を特定してこい。座標が分かり次第、我々工務部の輸送車で重機を運ぼう」

 

 ミノリが呆れ顔でそう言い放ち、それからふと、私たちの乗ってきたボロ車へと鋭い視線を向けた。

 

「ちょっと待て。このボロ車、ヒーターが壊れているのか?」

 

「ああ、ヒーターは壊れてる。まあ、寒さは精神を研ぎ澄ますっていうし」

 

 陽介が苦笑いしながら答えると、ミノリの顔色がサッと変わった。

 

「ふざけるな! こんな極寒の地で暖房もない車に人を乗せるなど、劣悪な労働環境にもほどがある! 工務部の威信にかけて、今すぐ直してやる! おい、道具を持ってこい!」

 

 強行突破の開戦準備をするはずが、レッドウィンターの極寒の空の下、ミノリはボロ車のボンネットを開け、道具を持ってその中へと潜り込んでしまった。

 

 私は、ミノリにヒーターを直してもらっている車の前で情けなく立ち尽くす陽介を、ただただ冷ややかに睨みつけていた。

 

「なぁんだこれは! ただの冷却水不足じゃないか!!!」

 

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