キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
パチン、と小気味良い音が静かな遺失物預り所の事務所に響いた。
私は盤上の駒から指を離し、目の前で腕を組んで唸っている陽介を見て、思わず口角を上げた。
「……ふふっ」
私の会心の一手。作戦参謀としての緻密な計算が導き出した、逃げ場のない盤面。
陽介は頭をぽりぽりと掻きながら、降参するようにため息をついた。
「確かにここで俺が何もしなければ3手詰めだね」
「……気づいたんだ。まぁ気づいたところで、そこからさらに詰めろをかけていくけど」
私の計算式に抜かりはない。彼がどう足掻こうと、最終的に王将が討ち取られる確率は限りなく百パーセントに近い。
勝利を確信し、私が余裕の笑みを浮かべた、その時だった。
「キキョウちゃん、気づいてない?」
「……え?」
陽介は手元の引き出しから一冊の古い本を取り出し、私の目の前にバサリと広げた。
それは『実戦! 詰将棋100選』と書かれた、表紙が擦り切れてボロボロになった教本だった。彼が指差したページの盤面図と、現在の私たちの盤面。それは、見事なまでに完全に一致している。
「俺から見たキキョウちゃん、7手詰め」
「……っ」
私は絶句した。
彼が先ほどから打っていた無意味に見える防御の手は、私をこの「詰将棋のテンプレ盤面」に誘い込むための罠だったというのか。いつも呑気な顔をしているこの男が、教本がボロボロになるまで盤面を研究し尽くして、私の高度な計算式をハメた……?
「まぁでも、俺と出会って数日、将棋を始めて数日の子が対局中に3手詰めを完璧に気づくのは流石だよ。作戦参謀の名は伊達じゃないね」
「くっ……」
私がギリッと奥歯を噛み締め、屈辱に肩を震わせ始めたその時。
「労働の対価を要求する!!」
預り所のドアが勢いよく蹴破られるように開き、白いヘルメットを被ったミノリ部長が鼻息を荒くして乗り込んできた。
「うわっ、ミノリちゃん!? どうしたの急に」
「昨日のショベルカーの出動経費と、貸し出し料金の請求に来たのだ!」
ミノリ部長はドサリと分厚い請求書の束をカウンターに叩きつけた。
陽介は目を丸くして、その束とミノリ部長を交互に見比べる。
「金取るの!?」
「当たり前だろう!? ショベルカーを貸していた時間の労働はできなかったんだ! その分の失われた給与を支払ってもらわなければ! 我々の神聖なる労働力は、決して無償で搾取されて良いものではない!!」
拳を高く突き上げ、労働者の権利を高らかに主張するミノリ部長。
確かに彼女の言い分は極めて論理的かつ正当だ。私たちが昨日、あの無謀な突撃でどれほどの燃料と彼女の時間を消費したか、計算するまでもない。
しかし、この閑古鳥が鳴いている遺失物預り所に、そんな大金を支払える余力などあるはずがなかった。
「あーあ!」
陽介は机の端にあった今日の新聞をバサリと広げ、経済面の大きな見出しを指さしてミノリ部長に見せつけながら、これ見よがしに大きな声でぼやいた。
「このアカツカホールディングスくらい遺失物預り所が稼いでたら、すぐに返せたのになぁ!!」
「夢物語ね」
「こう言っては何だがあたしもそう思う」
アカツカホールディングス。
特定の学園に所属せず、あらゆる企業や自治区のコンサルタント、実務を請け負う凄腕のフリーランス生徒、「アカツカ」が立ち上げた個人資本。百鬼夜行の周辺でも、その優秀さと羽振りの良さはちょっとした噂になっている。
陽介が現実逃避のような叫び声を上げた、まさにその直後だった。
「——おや。私の名前が聞こえた気がしたのですが」
静かにベルを鳴らして入ってきたその人物を見て、私は思わず目を疑った。
仕立ての良いスーツ。シワ一つない完璧な着こなし。足音すら立てない洗練された所作。
「な、なんだお前は。ずいぶんと資本主義の匂いがする身なりだな……」
「突然の訪問、失礼いたします。ただいまお名前を呼んでいただいたようですが……改めまして、アカツカホールディングス代表のアカツカと申します。以後、お見知りおきを」
彼女は胸元に手を当て、完璧な角度で一礼した。
その洗練された所作と、新聞に載っていた顔写真そのままの人物の登場に、陽介とミノリ部長は目を丸くして硬直した。
「えええええっ!? ほ、本物!?」
「なっ……資本家の権化がなぜこんな場末の預り所に!? まさか、我々労働者の拠点を買収しに来たのか!」
陽介の無茶苦茶なぼやきに引き寄せられたかのように現れたのは、噂の渦中にある万能のフリーランス、アカツカ本人だった。
「買収など、滅相もありません。本日は個人的な依頼があって、こちらの遺失物預り所に足を運ばせていただいたのです」
アカツカはパニックになっている二人を気にも留めず、淡々とした、それでいて理知的な声音で話を切り出した。
「実は、非常に重要な機密データが入ったUSBメモリを紛失してしまいまして。こちらで捜索をお願いできないかと思い、参りました」
「機密データの入ったUSB……?」
私が眉を顰めると、彼女は静かに頷いた。
「はい。お恥ずかしい話ですが、いつ、どこで落としたのか全く記憶がないのです。昨日は百鬼夜行の工業地帯や開発特区を中心に視察していたのですが、自身の行動ルートは常に記録し計算しているはずなのに、気づいた時には手元から消えていて……」
私は彼女の立ち振る舞い、言葉選び、服のシワ一つない完璧な姿をじっと観察し、作戦参謀としての計算を弾き出そうとした。
しかし、計算式に当てはめようとすればするほど、微かな違和感が私の中に残る。
「(……隙がなさすぎるわ)」
これほどまでに完璧な生徒が、機密情報という重要物品を、自身の記憶にないまま紛失するなどというずさんなミスを犯すだろうか。彼女の完璧すぎる経歴と、今回の依頼内容がどうしても噛み合わない。
「なるほど、百鬼夜行の工業地帯かぁ……」
陽介は顎に手を当てて考え込むと、ハッとしたように横にいるミノリ部長へと顔を向けた。
「ねえミノリちゃん! 工業地帯の地理なら、いつもあそこで作業してる工務部のミノリちゃんが一番詳しいよね!? ショベルカーの代金、この依頼の報酬が入ったら倍にして返すから、捜索を手伝ってくれない!?」
「な、なんだと!?」
ミノリ部長はあからさまに嫌そうな顔をして、アカツカを指差した。
「冗談ではない! こんな綺麗に舗装された道を歩くお上品な資本家が、我々労働者の泥臭い現場に何を落としたって言うんだ! 大方、歩きスマホでもしていて側溝に落としただけだろう!」
「まあまあ、そこをなんとか! この通り!」
陽介が必死に両手を合わせて頭を下げる。
ミノリ部長は「倍にして返す」という言葉と、必死な陽介の態度に少しだけ渋るような顔を見せ、チッと舌打ちをした。
「……仕方ない。労働者の汗が染み付いた土地を、素人に荒らされるのも癪だからな。道案内くらいはしてやろう」
「ありがとうミノリちゃん!」
労働者の連帯を重んじるミノリ部長と、効率と資本の論理で動くアカツカ。
初対面の時点ですでに絶望的に反りが合わない二人の様子を見ながら、私はこれから始まる捜索に、早くも頭痛の種が芽吹くのを感じていた。
■■■
私たちは百鬼夜行の郊外に広がる工業地帯へと足を踏み入れていた。
無機質なコンクリートと剥き出しの鉄骨が立ち並び、重機の稼働音が響き渡る泥臭い現場。ミノリ部長はヘルメットの鍔を指で上げながら、周囲を不機嫌そうに見回す。
「チッ、だから言ったんだ。あんな香水の匂いをさせた資本家が、こんな油臭い現場のどこに小さなUSBなんて落とすって言うんだ。どうせ高級レストランかどこかに忘れてきたに決まっている」
「そう言わずにさ。彼女の行動記録によると、昨日はこのあたりの開発特区を視察してたって話だから……」
「労働者を監視しに来たのだろう! ああ、腹立たしい!」
ブツブツと文句を言いながらも、瓦礫の隙間などを丁寧に見て回るミノリ部長の横で、私は端末でアカツカの行動ログと照らし合わせながら計算式を組み上げていた。
やはりおかしい。
彼女の提示した視察ルートは極めて合理的で無駄がない。そんな完璧な行動をする人間が、いつの間にか所持品を落とし、しかもそれに気づかない確率など天文学的な数字だ。
考えを巡らせていると、前方を歩いていた陽介がふと立ち止まった。
「あれ? おまわりさんだ。こんな工業地帯でパトロール?」
視線の先には、制服に身を包んだヴァルキューレ警察学校の生徒が二人、クリップボードを手に周囲の労働者たちに何かを聞き込みしている姿があった。
私たちの姿に気づいたヴァルキューレの一人が、小走りでこちらへと近づいてくる。
「遺失物預り所の所長さんに、百花繚乱の生徒さんですね。どうしてこのような場所に?」
「ちょっと探し物があってさ。おまわりさんたちこそ、こんな埃っぽいところでどうしたの?」
陽介の問いに、ヴァルキューレの生徒は周囲を警戒するように一度視線を巡らせてから、声を潜めた。
「実は、ある人物の内偵を進めておりまして……」
「内偵?」
「ええ。あなた方なら耳ざとく情報を仕入れているかと思いお聞きするのですが、最近この辺りで『アカツカ』というフリーランスの生徒を見かけませんでしたか?」
その名前に、私と陽介は顔を見合わせた。
「まぁ、そうだね。知り合っては、いるかな? くらいの感じ」
依頼人のプライバシーを守るため、陽介が頭を掻きながら適当に濁して答えると、ヴァルキューレの生徒は険しい表情で口を開いた。
「……遺失物預り所の皆さん。お節介かもしれませんが、忠告させてください。彼女には、これ以上深入りしない方がいい」
「深入りしない方がいいって、どういうことよ」
私が怪訝に思って尋ねると、ヴァルキューレの生徒はさらに声を潜めた。
「表向きは優秀なコンサルタントですが、彼女には真っ黒な噂があるんです。目的のためなら手段を選ばず、特定の企業へ多額の賄賂を渡し、裏工作で競合他社を不当に弾圧・買収しているという……。我々も今、その決定的な証拠を掴むために動いている最中なのです」
賄賂。裏工作。競合他社の弾圧。
私の脳内で、これまでの違和感が急速に一つの計算式に収束していく。彼女が落としたという機密情報の入ったUSB。そして、落とした記憶がないという事実。
もしそれが、単なる落とし物ではなく、彼女の「汚職の証拠」を狙った対立組織の仕業だったとしたら——。
「……なんだと?」
私の思考を打ち破るように、地を這うような低い声が響いた。
振り返ると、そこには顔を怒りで真っ赤に染め、拳をワナワナと震わせているミノリ部長が立っていた。少し離れた場所で探していたはずが、いつの間にか私たちの背後でその会話を立ち聞きしていたらしい。
「賄賂……? 他社の弾圧……? つまりあの女は、労働者の血と汗を金で買い叩き、資本の力で弱者を握り潰す、腐りきった豚だというのか……!」
彼女の全身から、今にも爆発しそうなほどの激しい怒気が立ち昇っている。
マズい。権力者の腐敗や労働者の搾取を何よりも憎む彼女にとって、今の話は絶対に聞かせてはいけない、最悪の起爆スイッチだ。
「ちょっと待って、ミノリちゃん。落ち着いて」
陽介が慌てて両手を前に出しながら、ミノリ部長の前に立ち塞がった。顔には冷や汗を浮かべて焦っているが、その声のトーンは努めて穏やかだ。
「あくまでまだ噂の段階だろ? おまわりさんたちだって、これから証拠を掴もうとしてる最中なんだし……」
「火のない所に煙は立たない! いや、あの女からはすでにドス黒い資本主義の煤煙が立ち昇っていたではないか!!」
ミノリ部長は激昂し、陽介の言葉を頭から叩き割るように怒鳴り声を上げた。
「だいたい、あの異常なまでの羽振りの良さ! 全ては我々のような日夜汗水流す労働者から不当に搾取し、他社を裏から蹴落とした結果だ! 許せん!!」
「わ、分かった。言いたいことは分かるよ。でもさ、俺たちは遺失物預り所として、もう彼女の依頼を受けちゃったわけだし」
陽介は一歩も引かずに、静かな口調で説得を試みる。
「それに、この依頼が終われば、ショベルカーの代金を倍にして返すって約束……」
「貴様、この期に及んで金の話をするか!!」
火に油を注ぐとはまさにこのことだった。ミノリ部長は顔をさらに赤くして、陽介の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「金でぇ! このあたしのぉ! 労働者としての気高い魂が買えるとでも思ったか!!」
「思ってない、思ってないよ! ただ、引き受けた仕事を途中で放り出すのは良くないんじゃないかなって……」
「ええい、黙れ黙れ! あんな腐敗した権力者の手先になるくらいなら、ショベルカーの代金などドブに捨てた方がマシだ!」
ミノリ部長は陽介の言葉を完全に遮り、忌々しそうに地面を強く蹴りつけた。
「こんな汚職まみれの豚の依頼など知るか! 我々の神聖な労働力を、これ以上一秒たりとも資本家の犬のために浪費するものか! あたしは降りる!!」
「あ、ちょ、ミノリちゃん!」
陽介の静止も虚しく、ミノリ部長はクルリと背を向けると、怒りの足音をドスドスと響かせながら、工業地帯の奥へとあっという間に姿を消してしまった。
残された私と陽介は、巻き起こった嵐が過ぎ去った後のように、ぽつんと路地裏に取り残された。
「……行っちゃった」
「見れば分かる。あなたのその危機感に欠けた説得のせいでね」
私は深くため息をついた。
これで土地勘のある案内役を失っただけでなく、依頼人であるアカツカの「真っ黒な裏の顔」まで発覚してしまった。
ただの落とし物探しだったはずの計算式が、にわかにきな臭い方向へと音を立てて崩れ始めていた。
■■■
私たちは足取り重く、遺失物預り所へと戻ってきた。
事務所のドアを開けると、そこにはすでに別の商談を終えたらしいアカツカが、来客用のソファに腰を下ろして優雅に本を読んでいる。
「お帰りなさいませ。捜索の進展はありましたか?」
完璧な微笑みを作って出迎える彼女に対し、私はドアを閉めながら冷ややかな視線を向けた。
隣に立つ陽介も、いつもの呑気な笑顔を消して、真剣な面持ちで彼女の正面に立つ。
「アカツカ。あんたが落としたっていうUSBの中身……ただの企業の機密情報じゃないね」
「……あら。何のお話でしょう?」
アカツカはパタンと本を閉じ、小首を傾げてみせた。
「ヴァルキューレの生徒から聞いたの。あなたが競合他社を不当に弾圧し、多額の賄賂をばら撒いていること。そして今、警察がその決定的な証拠を追っているということもね」
「ふふっ。警察の皆様は、どうにも私のような縛られない存在を目の敵にする傾向がありましてね。根も葉もない噂話を真に受けてしまわれたのですか?」
涼しい顔でとぼけるアカツカ。その態度は、あくまで「自分は潔白である」という完璧な仮面に守られていた。
「とぼけないで。あなたの完璧な行動履歴と、不自然な紛失。そして警察の内偵。それらの要素を計算式に当てはめれば、答えは一つしかないの」
私は一歩前に出て、逃げ道を塞ぐように彼女を真っ直ぐに睨みつけた。
「あなたが隠したいのは、自らの汚職の証拠。……そのUSBには、あなたが裏で潰してきた企業たちの弱みや、裏帳簿のデータが入っているんでしょう?」
「作戦参謀殿は、ずいぶんと想像力が豊かなのですね。ですが、確たる証拠もないのに推測だけで私を犯罪者扱いするのは、少々論理的ではないのでは?」
「推測じゃなく、必然」
私がさらに鋭く食い下がると、アカツカの完璧な微笑みが、ほんのわずかにピクリと引きつった。
「こっちがこれ以上、ヴァルキューレに情報を流さないという保証はない。さあ、本当のことを言って」
静かな、しかし確かな圧を込めた私の言葉。
数秒の沈黙の後、アカツカは小さく息を吐き出した。それは焦りからくるものではなく、物分かりの悪い子供を諭すような、ひどく冷たい溜め息だった。
「……やれやれ、そこまで食い下がられては、おそらくは確証をもって話しているのでしょうか」
アカツカは組んでいた足を優雅に組み替え、それまで被っていた「完璧な依頼人」の仮面をあっさりと投げ捨てた。
「無理に隠す方がリスクの大きい選択肢、ですかね。警察の言う通り、私は汚職をしていますよ。紛失したUSBに入っていたのは、私がこれまで裏工作で弾圧してきた巨大企業……カイザーインダストリー等の弱みや裏帳簿のデータです」
「やっぱり……」
あっけらかんと自身の犯罪行為を認めた彼女に、私は眉をひそめた。
倫理観の欠如。利益と効率のみを追求する、資本主義のバグのような存在。それがこのアカツカという生徒の本性だった。
「私の秘密を知った上で、わざわざここまで戻ってきたということは……交渉、ということですね。遺失物預り所とはいえ、背に腹は代えられないといったところですか」
アカツカは至極当然のように語り始めると、懐から高級な装丁の小切手帳を取り出した。
そして、一切の感情を交えない、事務的な声で私たちに問いかけた。
「それで? いくら欲しいんです」
口止めの対価。あるいは、このまま捜索を続行するための追加報酬。
彼女の計算式において、人間の行動原理はすべて「金」と「損得」で導き出されるのだろう。彼女のペンが小切手の上を滑ろうとした、その瞬間だった。
「お金なんていらない」
陽介の低く、真っ直ぐな声が事務所に響いた。
「……は?」
アカツカの手が止まる。
彼女は初めて、計算外の事態に直面したように目を丸くして陽介を見上げた。
「お金なんていらないよ。俺たちは遺失物預り所だ。依頼人の落とし物を探すのが仕事であって、脅迫して小遣いをせびるゴロツキじゃない」
「な、何を馬鹿なことを……。あなた方、先ほど『金がない』と騒いでいたではありませんか。私の情報をヴァルキューレに売るなり、私から口止め料を取るなりすれば、莫大な利益になるはず——」
「だから、そういうのじゃないんだよ」
陽介は困ったように頭を掻いた。
「アカツカさんが裏でどんな悪いことをしてようが、それはヴァルキューレが裁くことだ。俺たちの仕事は、あなたが無くしたUSBを見つけ出すこと。それだけだよ」
果てしなく底なしのお人よし。
目の前に積まれた莫大な利益を、ただ「仕事の筋が通らないから」という感情論だけで一蹴してのけたのだ。
「(まぁ、ここでお金に転がるようなら私の見当違いだけど。ふふっ)」
アカツカは陽介の言葉が理解できないというように、呆然と小切手帳を持ったまま固まっていた。
私は小さくため息をつき、思考を切り替える。今は彼女の道徳観を正している場合ではない。
「アカツカ、一つ確認する。あなたは『いつ、どこで落としたか記憶がない』と言った」
「ええ……」
「自身の行動を完璧に管理しているあなたが、そんなずさんなミスをする確率は極めて低い。それに加えて、そのUSBの中身が『対立企業の弱み』だとするなら、答えは一つしかない」
私が告げた推論に、アカツカの顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。
「……あなたのUSBは、落としたんじゃない。何者かに『スリ取られた』のよ。そして、その中身が一番渡ってほしくない連中の手に渡ったのだとしたら——」
私がその最悪の結論を口にしようとした、まさにその時だった。
鼓膜を破るような凄まじい爆発音が響き、遺失物預り所の壁が轟音とともに粉々に吹き飛んだ。
「キャアッ!?」
「伏せてッ!」
私は咄嗟にアカツカと陽介の襟首を掴み、カウンターの裏へと勢いよく飛び込んだ。
もうもうと舞い上がる土煙とコンクリートの粉塵。ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の音の向こうから、無機質で重い金属の足音が複数、預り所へと踏み込んでくる。
煙が晴れた預り所にぽっかりと開いた大穴。そこから姿を現したのは、鈍色の装甲に身を包んだ完全武装のロボット兵士たちだった。
そして、彼らが構えるアサルトライフルや重装甲の肩部には、はっきりと見覚えのあるマークが刻印されている。
──『カイザーインダストリー』。
裏の情報を奪い返した巨大企業が、全ての事情を知るアカツカを物理的に「口封じ」しに来たのだ。
「げーっ……そういう感じ?」
頭上を銃弾が掠める中、陽介は瓦礫を払いながら、心底嫌そうに顔を引きつらせてぼやいた。
「キキョウちゃん、アカツカさんの護衛を頼む!」
言うが早いか、陽介はカウンターの陰から勢いよく飛び出し、預り所の奥へと続く勝手口の方向へ一人で走り出してしまった。
「ちょっと! あんただけ逃げ……」
私は思わず声を荒らげ、その背中に向かって手を伸ばしかける。
絶体絶命の状況で、一般人である彼が自分だけ助かろうと逃げ出した。通常の計算式なら、そう導き出すのが普通だ。
「(いや……彼なら何か……っ!)」
しかし、私の直感がその計算を即座に否定した。
彼は私が撃たれそうになった時、生身で盾になったほどの底なしのお人よしだ。自分だけ逃げ出すような、そんな甲斐性のないヘタレじゃない。
私は彼への言葉をグッと飲み込むと、手元の銃のセーフティを外し、呆然としているアカツカの細い腕を力強く掴んだ。
「立てるね、走るよ!」
「えっ、ちょ……っ!?」
どこかへ走って行った陽介を信じ、私は牽制の銃弾を数発放つと、アカツカの手を引いて半壊した預り所から飛び出した。
目指すは百鬼夜行の自治区外。カイザーの私兵部隊が堂々と展開しにくい、郊外の険しい地形へと向かって、私たちは全力で走り出した。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
預り所の勝手口を飛び出した俺は、背後で響く激しい銃声と爆音を背に受けながら、走りながら端末を取り出した。
ミノリちゃんへ向けて、短いモモトークを飛ばす。
『今どこにいる? お願いだ、場所を教えてほしい』
数秒後。返ってきたのは短い座標だけだった。それは、百鬼夜行の工業地帯を一望できる、少し離れた高台の場所。
俺は息が切れるのも構わず、痛む肩を庇いながら全力でその座標へと向かって走った。
土煙の舞う道を抜け、錆びた階段を駆け上がった先に、彼女はいた。
夕暮れ時の赤く染まった空の下。ミノリちゃんはトレードマークの白いヘルメットを脱ぎ、小脇に抱えたまま、眼下に広がる泥臭い工業地帯の景色をじっと見下ろしていた。
無数の煙突から昇る煙と、労働者たちの汗が染み付いた街並み。その背中は、怒りというよりも、拭いきれない葛藤を抱えているように見えた。
俺の荒い足音に気づき、彼女はゆっくりと振り返る。
そして、俺が口を開くよりも先に、苦しげな顔で叫んだ。
「お前たちが襲撃されているのは見えた……! だが、あたしを呼び戻そうとしても無駄だ!!」
彼女はヘルメットを持つ手をきつく握りしめる。
「しかし! 汚職をしていると分かっている奴を救うだなんて、あたしにはできない!」
権力に抗い、正義を重んじる彼女にとって、アカツカという存在は絶対に許容できない悪だ。だからこそ、助けに行く理由が見つからずに、この高台から動けずにいたのだろう。
俺は乱れた呼吸を整え、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
「……僕だって、汚職を許すつもりはない」
俺の静かな言葉に、ミノリちゃんがハッと息を呑む。
「あの子がやってきたことは間違っている。それは後で、警察がきっちり裁くべきことだ。……けれど、僕は労働者だ」
俺はゆっくりと、一歩前に踏み出した。
「一度引き受けた仕事を、相手の素性が気に入らないからって途中で投げ出すのは、労働者のやることじゃない。それはただの無責任な放棄だ」
「なっ……!」
「ミノリだって持ってるはずだ。労働者としての誇りを。気高い血を」
彼女の信念を否定するのではなく、彼女自身の奥底にある一番熱い部分に訴えかける。
汗水流して働くことの尊さ。請け負った任務を泥臭くやり遂げることの美しさ。それを誰よりも知っているのは、目の前にいるこの小さな労働者の代表のはずだ。
「俺は遺失物預り所として、仕事を全うしたい。それだけだ」
俺は胸に手を当て、はっきりと宣言した。
正義の味方になりたいわけじゃない。ただ、自分たちが看板を掲げている「仕事」に、最後まで責任を持ちたいだけなんだ。
「それに……」
俺は眼下の工業地帯へ視線を向けた。今まさに、キキョウちゃんとアカツカさんが、巨大企業の暴力によって理不尽に踏み潰されようとしている。
「僕から見れば、今のミノリちゃんは労働者にとっても資本家にとっても敵になってる」
「あたしが……敵だと……?」
「ああ。仕事を途中で放棄する姿勢は労働者としての信頼を裏切っているし、目の前の巨悪の暴力を黙って見過ごすなら、それは結果的に一番巨大な資本家を利することになる」
ミノリちゃんは雷に打たれたように目を見開き、愕然として立ち尽くした。
彼女の葛藤の正体を、論理ではなく、仕事に対する「魂」の在り方で紐解く。
「どうか、手を貸してくれないかな」
俺は深く、彼女に向かって頭を下げた。
「キキョウちゃんと依頼人を救うために。そして……ミノリちゃん自身の、労働者としての気高い誇りを守り抜くために」
吹き抜ける風が、彼女の髪を揺らす。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
……ガシッ、と。
ミノリちゃんが、小脇に抱えていたヘルメットを頭に深く被り直す音が響いた。
「……勘違いするな。あたしは決して、あの資本家の豚を許したわけではない」
顔を上げた彼女の瞳には、先ほどの迷いは欠片も残っていなかった。代わりに宿っていたのは、不正な巨大資本を打ち砕こうとする、労働者としての猛烈な炎だ。
「だが、お前の言う通りだ、所長。契約を反故にして仕事を投げ出すなど、レッドウィンター工務部の誇りにかけて絶対にあり得ない! それに、あのカイザーの私兵ども……我々の神聖な現場を土足で荒らした罪は、労働の鉄槌をもって贖わせる必要がある!!」
「ミノリちゃん……!」
彼女はニヤリと、獰猛で頼もしい笑みを浮かべた。
「行くぞ所長! 追加の残業代は、きっちり後で請求してやるからな!」