【完結】キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第六話 一番高価なその言葉

 

 吹き荒れる潮風が、頬を容赦なく叩きつけていた。

 

 私たちが逃げ込んだのは、百鬼夜行の自治区外れに位置する、切り立った無人の岬。

 背後には荒波が打ち付ける険しい崖が広がり、逃げ道はない。そして前方の獣道からは、ガシャガシャという無機質な金属の足音が、確実な死の包囲網を狭めながら迫ってきている。

 

「……ハァッ……ハァッ……」

 

 岩陰に背を預けたアカツカは、額に冷や汗を滲ませ、激しく肩で息をしていた。

 いつもシワ一つなかった仕立ての良いスーツは土埃と泥にまみれ、洗練された所作は見る影もない。だが、彼女の瞳にはまだ、資本家としての強気な光が残っていた。

 

「……問題ありません。最悪の事態は想定内です。私には、こういう時のために多額の資金援助と引き換えに、武力による保護条約を結んでいる提携先の企業がありますから」

 

 自分に言い聞かせるようにそう早口で呟くと、アカツカは震える手で懐から端末を取り出し、通話をかけた。

 数回のコールの後、通信が繋がる。

 

『……はい』

 

「私です! 今すぐ百鬼夜行郊外の岬に武装部隊を回しなさい。カイザーの私兵部隊が動いています。大至急、安全なルートを確保して……!」

 

『申し訳ありません、アカツカ代表。その要請はお受けできません』

 

 風の音に混じって端末のスピーカーから漏れ聞こえてきたのは、提携先企業の代表の、ひどく事務的で氷のように冷たい声だった。

 

「……何ですって? 何を言っているのか分かっているのですか!?」

 

『カイザーインダストリーの正規部隊が物理的に動いているのですよ。我々の武力ではどうにもできない。彼らを敵に回すことは、我が社にとっても致命的なリスクとなります』

 

 アカツカの顔から、スッと血の気が引いていく。

 

「なっ……私が死ねば、お前たちは契約違反になるんだぞ!」

 

 アカツカが声を荒らげると、電話の向こうの代表はふっと鼻で笑うような音を立てた。

 

『それで? 誰が私たちを告発するのですか?』

 

「え……」

 

『この契約自体、「自分の命を守りたいだけ」のもの。多額の金額と引き換えに得た契約ですよね。しかしその存在を知っているのはアカツカ代表、あなただけだ。あなたが死んで、誰が私たちを告発するのですか? と聞いているのです』

 

「そ、そんな……」

 

『まぁ、賄賂が好きなのですから、地獄で鬼でも買収したらどうでしょう。それでは』

 

「ふっ、ふざけるな! まさか最初から私を助けるつもりなんて……!」

 

 アカツカの悲痛な叫びを遮るように、無機質な電子音だけが、潮騒の響く岬に虚しく鳴り響いた。

 

「……あ、……」

 

 彼女は通話の切れた端末を耳に当てたまま、まるで電源の切れた機械のように呆然と立ち尽くす。

 その瞳から、先程まで宿っていた強気な光が完全に失われていた。

 

「……それが、あなたが効率と数字だけで築き上げた『正解』の末路」

 

 私は岩陰から身を乗り出し、迫り来るカイザー兵の足音を警戒しながら、冷淡な声で事実を突きつけた。

 

「な、にを……」

 

「あなたはお金で他人を縛り、完璧な関係性を計算してきたつもりだった。でも、利害だけで結ばれた契約なんて、金よりも巨大な『暴力』や『リスク』が現れれば、いとも簡単にひっくり返る。……そいつらにとって、今のあなたは助ける価値のない負債でしかないの」

 

「ちが、違う……! 私は、今まで完璧に立ち回ってきた! 利益をもたらす存在だったはずだ! 金さえ払えば、なんだって……!」

 

「ええ、金は万能。でも、命を懸けた忠誠心までは買えなかった。それだけの話」

 

「まだだ! まだ私の協力者はいる! 弾道ミサイルだって、戦車だってヘリだって、いくらでも用意できる! 金だけはいくらでもあるんだ!!」

 

 アカツカは血走った目で端末を操作し、次々と通信を繋いでいった。

 

『……申し訳ないが、相手がカイザーの正規部隊では話が違う。違約金は全額払おう』

 

「馬鹿なことを言うな! 報酬は十倍……いや、いくらでも出すと言っているだろ!?」

 

『命あっての金だ。失礼する』

 

 無機質な音が返る。彼女は怒り狂って、今度は別の権力者の番号へかけた。

 

「お前たちの弱みは私が握っているんだぞ! 今すぐ私兵を回せ! 私が死ねば、裏帳簿のデータが全て明るみに——」

 

『……ええ、そうですね。ですが、あなたがカイザーに消されれば、そのデータごと綺麗に闇に葬られる。好都合なんですよ、アカツカ代表』

 

「なっ——待て! おい!!」

 

 切断。次にかける。繋がらない。また次にかける。着信拒否。

 彼女が莫大な金と時間、そして脅迫を用いて築き上げた強固なネットワークが、カイザーインダストリーというより巨大な暴力の前に、ドミノ倒しのようにあっけなく崩壊していく。

 

 私は手元の銃の残弾を確認し、小さく息を吐いた。

 

「惨めね。世界中を金で買収した気になっていたのに、いざ死の淵に立たされた時、あなたの為に怒ってくれる味方は誰一人としていなかった」

 

「あ……ああ……」

 

 私の言葉が、最後のトドメとなった。

 アカツカは力なく膝から崩れ落ち、荒涼とした岬の地面に両手をつく。

 

 だが、それでも彼女は諦めきれなかった。震える指で端末の画面を叩き、嗚咽を漏らしながら、情けなくすがりつくように最後の通信を繋ぐ。

 

「た、頼む……! 何でもする、全財産を譲渡したっていい……! 私を、助け……!」

 

 半狂乱の哀願。しかし、スピーカーからは予想外に力強い声が返ってきた。

 

『現在地、確認しました。最高レベルの防衛契約に基づき、これより救出に入ります。──上空を御覧ください』

 

「え……?」

 

 直後、荒れ狂う波の音を掻き消すように、重厚なローター音が空から降ってきた。

 

 私とアカツカが見上げると、切り立った断崖の向こう側から、重武装を施された三機の最新鋭戦闘ヘリコプターが姿を現したのだ。

 カイザーの地上部隊がこちらへたどり着くよりも早い、完璧なタイミング。

 

「あは、あははははっ!! 見たか! ほら見なさい!!」

 

 アカツカは泥だらけの顔を歪め、狂ったように空へ向かって叫んだ。

 

「金だ! 結局、最後は金が勝つんだ! 私の財力があれば、カイザーのポンコツ歩兵どもなんて一瞬でスクラップに——」

 

 しかし、彼女の歓喜の高笑いは、最後まで続くことはなかった。

 

 ガシャァン、という重たい金属音が響く。

 迫り来る鈍色のカイザー兵たち──その後方に控えていた無骨な多脚戦車の装甲が開き、何基もの地対空ミサイルポッドが空へと向けられたのだ。

 

『──対空迎撃システム、起動だ』

 

 無機質な電子音と共に、数本の白煙が空に向かって一斉に放たれた。

 

 轟音。

 フレアを撒く暇すら与えられず、先頭と右翼の二機が空中で無惨に爆散し、オレンジ色の業火となって海へ墜落していく。

 

「な……!?」

 

 残された最後の一機はしぶとかった。驚異的な機動で二発のミサイルを躱し、機首のガトリングガンでカイザーの陣地に猛烈な弾幕を浴びせ返す。

 いける──そう思ったのも束の間だった。

 

 カイザーの対空システムは、そんな傭兵の足掻きなど最初から計算済みだと言わんばかりに、絶え間なく次弾を装填し、十数発のミサイルによる圧倒的な飽和攻撃を放ったのだ。

 逃げ場を完全に塞がれた最後の一機は、黒煙を吹きながら崖の向こう側へと姿を消した。

 

 直後、地響きと共に巨大な爆発炎上が巻き起こる。

 

「私を! 私を助けろよ!! なんのために傭兵がいるんだと思って……!!」

 

 血を吐くような、耳障りな悲鳴。

 しかし、燃え盛る鉄屑の中から彼女に応える声は二度と返ってこない。ただ端末から、プツ、プツ、と通信エラーを告げるノイズだけが虚しく響いていた。

 

「あ……あぁ……」

 

 チリチリと燃えカスが降る中、再び岬を支配したのは、無慈悲に迫り来るカイザー兵のガシャガシャという足音だけだった。

 金で用意した最高戦力が、虫ケラのように撃ち落とされた光景。

 今度こそ、アカツカの瞳からすべての光と希望が完全に消え失せていた。

 

 ■■■

 

 激しい銃撃音が、岬に打ち付ける荒波の音を容赦なく掻き消していく。

 

「(くっ……。残弾が……あと三発……!)」

 

 私は岩陰に身を潜めながら、ボルトを引き、空薬莢を弾き飛ばした。

 次々と押し寄せるカイザーのロボット兵たち。彼らには恐怖も疲労もなく、ただ無機質な足音を響かせながら、正確な陣形でこちらの退路を塞ぎに来ている。

 

「な、何なのよあいつら……! いくら撃ってもキリがないじゃない!」

 

 背後で頭を抱えていたアカツカが、ついにパニックを起こして叫んだ。

 そして、震える手で自身の懐をまさぐり、一丁のハンドガンを引き抜いた。無駄に豪奢な金色の装飾が施された、実用性よりも見栄を重視した高価な代物だ。

 

「……ちょっと、あんた。何する気?」

 

「私だって戦えるわ! やられっぱなしで終わるもんですか……っ!」

 

「やめておきなさい。あんたの性格なら、ろくにメンテナンスなんてしてないでしょ」

 

 私が鋭く制止するが、アカツカは聞く耳を持たなかった。

 

「メンテナンスですって? これは最高級の特注モデルよ!? あんたたちが一生かかっても稼げない額を積んで買ったんだから、手入れなんかなくても完璧に動くに決まってるでしょ!」

 

「馬鹿っ、どんな名銃だろうと手入れを怠れば——!」

 

 私の静止を振り切り、アカツカは岩陰から身を乗り出して無我夢中で引き金を引いた。

 

「私に、近づくなァッ!!」

 

 パン、パンッ、と軽い発砲音が二発響く。

 しかし、素人が震える手で撃った弾が当たるはずもない。それでも彼女は恐怖を振り払うように、三発目を撃ち出そうと再び引き金を引いた。

 

「きゃあああっ!?」

 

 異常な破裂音と共に、ハンドガンがアカツカの手の中で無残に暴発した。

 手入れを怠った銃身内部で弾詰まりを起こし、強烈な圧力の逃げ場を失った衝撃がスライドを吹き飛ばしたのだ。弾け飛んだ金属パーツの破片が、アカツカの白い頬と額を容赦なく切り裂く。

 

「あ、痛っ……ああっ!」

 

 赤い鮮血が滲み、アカツカは顔を覆って岩場にうずくまった。指先を火傷したのか、手から滑り落ちた高価なハンドガンは、原型をとどめない無惨な鉄屑と化している。

 

「嘘……なんで!? 不良品じゃない! 何百万も払ったのに……こんな肝心な時に、どうして!!」

 

「……不良品なのは、あなたの頭の方」

 

 泣き叫ぶアカツカの前に立ち塞がりながら、私は冷たく言い放った。

 

「どれだけ高価な代物だろうと、日々の泥臭いメンテナンスを怠ればただの鉄屑になる。……さっきの通信相手と同じね」

 

「な、に……?」

 

「面倒な手入れはすべて金で解決できると思い込み、自分は綺麗な場所から安全に引き金を引くだけ。人脈も、武器も、都合のいい飾りとしか思っていない。そんなあなたの傲慢さが招いた結果」

 

 私の言葉に、アカツカは痛みを忘れたように呆然と目を見開いた。

 反論しようと唇を震わせるが、言葉が出てこない。

 

 そして——とうとう、私の時間も尽きた。

 

 虚しい金属音。ボルトが後退したまま固定され、薬室が完全に空になったことを告げていた。

 

「……弾切れ。予備もない」

 

「え……? た、弾がないって……なら、買いなさいよ! 私がいくらでもお金を出すから、今すぐ調達して!」

 

「これが現実かもよ、アカツカ。あなたがいくら札束を積もうと、今この瞬間、たった一発の銃弾すら買うことはできない」

 

 岩場の陰を回り込んできた十数体のカイザーのロボット兵たちが、赤いセンサーアイを不気味に光らせながら、一斉にこちらへアサルトライフルの銃口を向けた。

 

「アカツカ代表、あなたの持っていた関係各所の弱みの情報は我々が頂きました。それさえ手に入れば、あなたは用済みです」

 

 兵団の先頭に立っていた者が、冷酷な死の宣告を下す。

 アカツカは短い悲鳴を上げ、ガタガタと震えながら岩にすがりついた。

 

 逃げ場のない崖っぷち。弾切れの銃。そして、完全に心を折られた依頼人。

 

「(……ここまで、ね。……ごめんなさい、陽介)」

 

 彼なら何かしてくれるかもしれない。そう信じてここまで走ってきたけれど、どうやらタイムリミットらしい。

 私は静かに目を閉じ、迫り来る最悪の結末を覚悟した。

 

 しかし、目を閉じた私の耳に届いたのは、冷酷な銃声ではなかった。

 

「──!?」

 

 背後の獣道から響き渡ったのは、不釣り合いなほど甲高い、空気を無理やり吸い込むようなエンジンの吸気音──猛烈な咆哮だった。

 

「……え?」

 

 直後。

 

「うおぉぁぁぁあああああああ!」

 

「な、に……っ!?」

 

 目を開けると、包囲網を敷いていたカイザーのロボット兵たちが宙を舞っていた。

 

 強引に岩場を乗り越え、鈍色の兵士たちをボウリングのピンのように撥ね飛ばしながら突っ込んできたのは、見覚えのある一台の古いバン。

 遺失物預り所の前にいつも停まっていた、あのボロボロの営業車だ。

 

 砂煙を上げて急ブレーキをかけた車体が、ギシィッと重たい音を立てて沈み込む。しかし、そのサスペンションは以前のような死にかけの軋みではなく、強烈な衝撃をしっかりと吸収する粘り強さを取り戻していた。

 

「あ、あれって……」

 

 私が呆然と見つめる中、バンの助手席からガチャガチャと慌ただしい音が響く。

 そして、ガラス窓がゆっくりと、手動で下がってきた。

 

「クルクル回して開ける窓なんて久しぶりに見たぞ、陽介……」

 

「うひょー、流石にロボット兵とぶつかると車体がバッコンバッコンになるね~ミノリちゃん」

 

「工務部なら板金くらい容易いぞ」

 

「また板金7万円コースか……」

 

「『また』ってなんだ陽介」

 

「気にしないで」

 

 窓枠から顔を出したミノリ部長が呆れたように言うと、運転席から陽介の呑気な声が返ってくる。

 

 直後、開いた窓の中からキンキンに冷えたエアコンの冷気が、外の硝煙の匂いを押し退けるように吹き出してきた。

 先ほど襲撃を受けて陽介が走り出し、それから今までの短時間で、彼はミノリ部長と共に車のエアコンとサスペンションを直し、この死地に駆けつけてきたのだ。

 

「陽、介……!」

 

 私の声に、運転席のドアが開く。

 満身創痍で、服のあちこちを破破れさせながらも、陽介はいつものように人の良さそうな笑みを浮かべて降りてきた。

 

「遅くなってごめん、キキョウちゃん。それにアカツカさんも。……足回りを直すのに少し手間取っちゃってさ」

 

「遅い。死んだらどうするの」

 

「手厳しいね」

 

 怒りよりも先に、安堵で全身の力が抜けそうになる。

 だが、感動の再会に浸る暇はない。撥ね飛ばされなかったカイザー兵たちが即座に体勢を立て直し、再び一斉に銃口をこちらへ向けてきた。

 

「くそっ! もうめんどくさい! 全員殺すまでだ!!」

 

 無数の赤いセンサーが光る中、助手席のドアを乱暴に蹴り開け、一人の小柄な労働者が姿を現した。

 トレードマークの白いヘルメット。そして、その手に握られた無骨な得物。

 

「チッ……機械の分際で、労働の汗も知らんような薄っぺらい連中が!」

 

 ミノリ部長はカイザーの軍勢を前にして一切の怯みを見せることなく、武器を構え、地の底から響くような声で高らかに叫んだ。

 

「我々の神聖な現場を土足で荒らす巨大資本め! 労働の鉄槌を受けよ!」

 

 圧倒的な物量を前にしても決して折れない、気高き労働者の雄叫び。

 再び幕を開けた戦闘は、先ほどまでの絶望的な防衛戦とは全く違っていた。

 

「ふんっ!!」

 

 ミノリ部長が手にしたアサルトライフルを猛然と構え、フルオートで引き金を引く。

 激しい銃声と共に放たれた弾の雨が、カイザーのロボット兵の硬質な装甲を次々と貫き、火花を散らして吹き飛ばしていく。彼女は敵の弾幕をものともせず、ただ己の信念と怒りだけを推進力にして、無機質な軍勢のど真ん中をこじ開けていった。

 

 私は岩陰に身を隠しながら、その泥臭くも圧倒的な戦いぶりに息を呑む。

 

 一方、地面にへたり込んでいたアカツカは、目の前で繰り広げられる光景が理解できないというように、呆然と口を開けている。

 

「どうして……」

 

 顔の傷から流れる血を拭うことも忘れ、アカツカの震える唇から、絞り出すような声が漏れた。

 

「どうして助けるのよ……! あなたにとって、私は忌むべき資本家で、汚職の元凶のはずでしょう!? 陽介に……一体いくら積まれたの!?」

 

 自分を切り捨てた提携先。信じていた金と人脈。そのすべてを失った彼女にとって、「無償の助け」などというものは計算式に存在しないエラーでしかないのだ。

 金で動かない人間など、この世にいるはずがない。そう信じて疑わない痛切な叫びだった。

 

 カイザー兵の一体を猛烈な銃撃で機能停止に追い込んだミノリ部長が、その声に反応してこちらを振り返った。

 彼女の目は、アカツカの薄汚れたスーツや無惨な顔の傷を哀れむでもなく、ただ真っ直ぐに射抜いていた。

 

「勘違いするな、資本家の豚!」

 

 戦場の騒音さえも切り裂く、腹の底から響くような怒声。

 

「あたしは貴様を助けに来たわけではない! 所長との『労働契約』を果たしに来ただけだ!」

 

「労、働……契約……?」

 

「そうだ! 貴様の薄汚い金など、この泥臭い戦場では紙切れ以下の価値もない! 我々を動かすのは金ではない。労働者としての気高い誇りだ!」

 

 ミノリ部長は言い放つと同時に、背後から迫った敵へと素早く銃口を向け、容赦のない鉛玉の雨を浴びせる。

 

「一度引き受けた仕事を、相手の素性が気に入らないからと途中で投げ出すのは、労働者のやることではない! だからあたしは戦うのだ!」

 

「誇り……? そんな、一銭の得にもならない感情論のために……命を懸けているっていうの……?」

 

 アカツカはへたり込んだまま、震える手で自身の胸元をギュッと掴んだ。

 金で買った味方は、金よりも大きなリスクを前にしてあっさりと自分を見捨てた。

 しかし目の前の彼女たちは、一銭の得にもならない「仕事への誇り」と「感情論」だけで、圧倒的なリスクに真っ向から立ち向かい、自分を庇って傷だらけになっている。

 

「アカツカさん。あんたがどれだけ汚い手を使ってきたとしても、俺たちの依頼人であることに変わりはないんだ」

 

 バンの陰で私の無事を確認した陽介が、まっすぐにアカツカを見て言う。

 

「あんたを無事に帰す。それが遺失物預り所の仕事だからさ」

 

 底なしのお人よしと、気高き労働者。

 彼らの言葉は、アカツカの信じてきた「正解」を根本から叩き壊すには十分すぎる威力を持っていた。

 

「あ、あぁ……」

 

 アカツカの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 恐怖からではない。どれだけ金を積んでも買えなかった本物の忠誠と誇りが、今、最も見下していたはずの労働者たちの姿を借りて、自分の目の前にある。

 

 金と効率がすべてだと思い込んでいた彼女の価値観が、音を立てて崩れ去っていくのが、傍で見ている私にもはっきりと分かった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 視界が、じわりと滲んでいた。

 死の恐怖からじゃない。頬を裂かれた傷の痛みからでもない。

 

 泥にまみれ、傷だらけになりながらも、決して折れることなく巨大な暴力に立ち向かう小さな背中。

 労働者の誇りと叫び、忌むべき対象であるはずの私を庇い、自身の信念のために引き金を引く労働者の姿から、どうしても目が離せなかった。

 

「ミノリちゃん! 正面突破! キキョウちゃんは死角を援護してあげて!」

 

「合点!」

 

「了解」

 

 ——ああ、そうだ。私は、知っている。

 あの泥臭さを。汗にまみれ、黒く汚れた作業着の重さを。

 理不尽な権力に虐げられ、一銭の得にもならない怒りに震えながら、恨めしげに高層ビルの頂を見上げた、あの日の感情を。

 

 私は最初から、エアコンの効いた役員室でオーダーメイドのスーツを着ていたわけじゃなかった。

 元々は、彼女と同じだったのだ。油と泥にまみれ、安い賃金で休む間もなく酷使される、ただの取るに足らない労働者の一人。

 

『私が上に立つ。私が資本家になって、理不尽に搾取されるだけの労働者を守り、豊かにするんだ』

 

 それが、私の出発点だったはずだ。

 その理想の組織を創り上げるために、死に物狂いで働き、泥水をすすり、他人の何倍も知識を詰め込んで、今の地位へと上り詰めたのではなかったか。

 

 ……なのに。

 私は一体、いつから間違えてしまったのだろう。

 

 より大きな力を求め、効率と数字を追いかけるうちに、「綺麗事」だけでは巨大な敵から組織を守れない現実を知った。

 最初は、誰かを守るための必要悪だったはずだ。しかし、裏工作や賄賂の味を覚え、金で人を動かす快感に浸るうちに、いつしか目的は「自分の地位と命を守るため」だけの汚職へとすり替わっていた。

 

 邪魔な他社を蹴落とし、金にならない弱者を切り捨て、安全な場所から見下ろす日々。

 気がつけば私は、あの日、底辺から睨みつけ、最も憎んで唾を吐きかけた『強欲な資本家の豚』そのものに成り下がっていたのだ。

 

「……っ……あぁ……」

 

 喉の奥から、醜い嗚咽が漏れた。

 

 私が本当に目指したかった「完璧な資本家」の姿。

 それは、数字を操作して安全圏でふんぞり返るだけの存在ではない。今目の前で、金にもならない誇りのために本気で怒り、弱き者のために死地へ飛び込んで戦う、あの小さな労働者のような、気高い存在だったはずなのに。

 

「私は……なんて、愚かな……」

 

 今になって、ようやく気づいた。

 崩れ去ったのは、私が金で築き上げてきた薄っぺらい人脈や汚職のネットワークじゃない。

 私自身の、魂の根幹だったのだ。

 

 激しい銃弾が飛び交い、硝煙の臭いが充満する荒涼とした岬で。

 私はただ、泥にまみれて戦う己の「原点」の姿を見つめながら、かつて捨ててしまった理想の重さに耐えきれず、子供のように惨めに泣き崩れることしかできなかった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 激闘の末、どうにかカイザーの部隊を退けた私たちの元へ、ようやくヴァルキューレ警察学校の生徒たちが駆けつけてきた。

 サイレンの音が岬に響き渡る中、私たちは息をつく暇もなく事情聴取に応じ、ロボット兵の回収作業を見守っている。

 

「──ええ。ですから、この襲撃はカイザーインダストリーの……」

 

 私がヴァルキューレの生徒に状況を説明していた、その時だった。

 

 背後から、ひどく不穏な、地盤が悲鳴を上げるような轟音が響いた。

 先ほどの激しい戦闘の爆発や衝撃で、岬の脆い崖が限界を迎えていたのだ。

 

「アカツカっ!!」

 

 陽介の緊迫した叫び声に振り返ると、へたり込んでいたアカツカの足元の岩盤が、音を立てて崩落していく瞬間だった。

 

「あ……っ!」

 

 アカツカの体が宙に浮き、そのまま崖下へと吸い込まれていく。

 間に合わない。誰もがそう思った瞬間、白いヘルメットを被った小さな影が地を蹴った。

 

「っっぉぉおおおおお!!」

 

 間一髪。

 崩れゆく崖の縁から身を乗り出し、落下していくアカツカの腕を、ミノリ部長が力強く掴み取った。

 

「ぐ、うぅっ……! 早く……上がってこい……! あたしは何十分だってこの手を掴んでいられる……! だが上がることはお前自身でなければ無理だ!」

 

 二人分の体重と重力が、ミノリ部長の細い腕にのしかかる。崖の縁の鋭い岩肌に擦れ、彼女の腕からツーツーと赤い血が流れ落ちていた。

 自分を一番憎んでいたはずの相手が、身を挺して命を繋ぎ止めてくれている。その事実に、宙吊りになったアカツカは驚きに目を丸くしている。

 

「どうした……! 早く、上がってこい!」

 

 そして──憑き物が落ちたような、いよいよ改心したというような、とても穏やかな顔で微笑んだ。

 

「……3日前、タヌキダイスキ工業へ1300万円。その1週間前にはオサカナ水産へ2000万円。その4日前には……」

 

「な、何を……急に……っ!?」

 

「私の指示で動いた裏金です。証拠のデータは、私のメインオフィスの隠し金庫にすべて残してあります」

 

 それは、彼女自身の悪行と、巨大企業たちの汚職を暴く決死の暴露だった。

 事態の異常さに気づいたヴァルキューレの生徒たちが、慌ててメモ帳を取り出し、彼女の告発を記録し始める。

 

 ミノリ部長は目を丸くしながら、その独白を聞き続けた。アカツカは、自分の命のタイムリミットが来ていることを悟っているかのように、早口で、しかし正確に、自身が関与したすべての汚職を吐き出していく。

 

 おおよそ五分。すべての悪行を語り尽くしたのであろうアカツカは、ふっと安堵の表情を浮かべた。

 

「もう、腕も限界でしょう。まさか本当に数分持ちこたえてくれるとは思っていませんでしたが……。これでさよならです、気高い労働者さん。すべてを白状した私に明日はない」

 

 言うが早いか。

 アカツカは自ら、ミノリ部長の手を振り解いた。

 

「なっ──!?」

 

 抵抗をなくした体は、残酷な重力に従って真っ逆さまに落ちていく。

 死を覚悟したアカツカの背中が、荒れ狂う海面へと遠ざかろうとした、次の瞬間。

 

「うるさぁぁぁあい!!」

 

 空気を震わせるような絶叫が響いた。

 ミノリ部長は、自らも崖から身を躍らせるようにして、さらに限界まで身を乗り出したのだ。

 いや、ほぼ落ちている状態だった。

 

「陽介!!」

 

「わかってる!!」

 

 私と陽介は地面に泥塗れになりながら這いつくばり、間一髪で宙に浮いたミノリ部長の両足を力任せに掴んで、全体重をかけて踏ん張る。

 腕を通して、強烈な下への引力が伝わってくる。ミノリ部長が、再び落下するアカツカの腕を、今度は両手でガッチリとホールドしたのだ。

 

「あたしはな! 労働者だ! 資本家の豚は嫌っているし、労働への誇りを持った一人の生徒だ! だがぁ!」

 

 腕から血を滴らせながら、全身の筋肉を軋ませ、ミノリ部長は崖下のアカツカに向かって咆哮した。

 

「目の前で死のうとしている存在を見殺しにするほど、あたしは落ちぶれていない!!」

 

 荒れ狂う潮騒と硝煙の匂いの中、彼女の真っ直ぐで気高い叫びだけが、ただ純粋に、世界を震わせていた。

 

「せぇのっ……!」

 

 陽介の掛け声に合わせ、私と陽介は渾身の力を振り絞り、二人を無事に崖の上へと引き上げる。

 

「ハァッ……ハァッ……! 全く、無茶苦茶重かったぞ……!」

 

「ご、ごほっ……げほっ……!」

 

 荒い息を吐きながら地面にへたり込むミノリ部長と、激しく咳き込みながら泥だらけの地面に突っ伏すアカツカ。

 崖から這い上がったアカツカは、しばらく呆然と荒涼とした空を見上げていた。

 

「……馬鹿が」

 

 腕から血を流し、息も絶え絶えな状態でありながら、ミノリ部長は鋭い声でアカツカを睨みつけた。

 

「命を粗末にする権利など、労働者にも資本家にもないんだ! ましてや、自分で犯した罪の清算から死んで逃げるなど……労働の放棄に等しい最低の行為だぞ!」

 

「……ええ」

 

 アカツカは泥まみれの顔のまま、力なく笑った。

 

「本当に、あなたたちは理解不能です……。お金にもならないのに……こんな私を助けるなんて……」

 

 そこへ、周囲の安全を確保したヴァルキューレ警察学校の生徒たちが数名、手錠とバインダーを持って駆け寄ってきた。

 

「アカツカ代表ですね。対象の身柄を確保しました!」

 

「動かないでください! ……先ほどの自白、しっかりとこちらで記録させていただきました。これより、横領および大規模な贈収賄、その他諸々の容疑で署まで同行願います」

 

「……ええ、逃げも隠れもしません。すべてお話しします」

 

 手錠をかけられながらも、アカツカの口調は落ち着いていた。

 今まで金と権力で築き上げてきた彼女の豪奢な生活は完全に終わり、これから冷たい鉄格子の中で自身の罪と向き合う日々が待っている。

 

「歩けますか? パトカーの方へ向かいます」

 

「はい。……お手数をおかけします」

 

 ヴァルキューレの生徒に両脇を抱えられ、彼女はゆっくりと立ち上がる。

 パトカーへと連行されていく彼女の背中。かつての洗練された「完璧な資本家」の面影はどこにもない。しかし、その足取りは不思議と真っ直ぐで、今まで彼女を縛り付けていた見えない重圧から解放されたような、どこか清々しさすら感じさせた。

 

 ふと、アカツカがパトカーの前で足を止めた。

 そして静かに振り返り、ミノリ部長の方を、じっと見つめる。

 

 声は、潮騒とサイレンの音に掻き消されて聞こえなかった。

 

 けれど、微かに動いた血のにじむ唇は、確かにこう紡いでいた。

 

『──ありがとう』

 

 私には、はっきりとそう言ったように見えた。

 

 視線に気づいたミノリ部長は、そっぽを向きながら「ふんっ」と鼻を鳴らしただけだったが、ヘルメットの下の横顔は、自分たちの労働の成果を誇るようにどこか満足げだった。

 

「……終わったね、陽介」

 

「うん。車の修理代とか弾薬代を考えたら大赤字だけど……まぁ、遺失物預り所の仕事としては、上出来じゃないかな」

 

 横で泥だらけになって笑う底抜けのお人好しを見ながら、私は呆れたように、けれど自然と笑みを零して小さく息を吐いた。

 こうして、巨大企業を巻き込んだ私たちの泥臭い逃避行は、一人の資本家の崩壊と新生という形で、静かに幕を下ろしたのだった。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 荒れ狂う波音が響く岬から、およそ百メートルほど離れた高台の岩場。

 冷たい潮風が吹き抜ける暗がりのその場所からは、ヴァルキューレ警察学校の車両が放つ赤と青のパトランプの光が、遠く明滅しているのが見えた。

 

 その光景を、冷めた目で見下ろしている人影が二つ。

 一人は、アカツカの逮捕劇を静かに見つめるシオリだった。彼女の視線の先では、アカツカが今まさにパトカーへと押し込まれようとしている。

 

 シオリは手元で、小さなUSBメモリをクルクルと弄び、宙に軽く放り投げてはキャッチする動作を無意識に繰り返していた。

 

「……これで、いいんだろ?」

 

 パトカーのドアが閉まる音を遠くに聞き届けながら、シオリは背後の闇に向かって呟いた。

 

「十分。本当に盗みの才能は長けてるようで」

 

 闇の中から響いたのは、感情の読めない静かな声だった。

 関係各所の心臓を抉るような極秘情報。シオリが手の中で転がしているそのUSBメモリが、巨大企業を揺るがすほどの価値を持っていることは、その声に滲む微かな満足感からも明らかだった。

 

 シオリはUSBを手のひらでギュッと握り込むと、振り返ることもなく背後の人物へと無造作に放り投げた。

 軽い軌道を描いて、それは確実に相手の手に収まる。

 

「約束だ。あんたのところで匿ってもらう」

 

 もはや彼女は、元の場所には戻れない。この街の表を歩き、ヴァルキューレに捕まることは死を意味する。彼女にとってこのUSBを奪い取って引き渡すことは、自身の命を繋ぐための唯一の「切符」だった。

 

 シオリの言葉に対し、闇の中の人物はUSBを懐へと滑り込ませる。

 

「もちろん」

 

 その短い了承の言葉と共に、二人の姿は夜の闇の中へ、足音ひとつ立てずに深く溶けていった。

 眼下で続く騒ぎなど、もはや自分たちの知る由ではないとでも言うように。

 

 ▼ ▼ ▼ ▼ ▼

 

 激しい戦闘から数時間が経過した、遺失物預り所の一階。

 極限の戦いで完全に疲弊したキキョウは、泥を落とした後、すでに二階の居住スペースで深い眠りについていた。

 

 静まり返った一階のフロアに、パシィッ! と威勢のいい駒の音が響き渡る。

 

「王手ぇ!!!」

 

「まだ一手目なんだけど……」

 

 ちゃぶ台を挟んで向かいに座る所長──陽介が、盤面を見つめながら困ったような顔で苦笑いしている。

 

 あたしが今しがた力強く叩きつけた『桂馬』は、陽介の陣地の奥深く、王将の目の前に堂々と鎮座した。

 

 それぞれの駒がどういう動きをするのかなんて小難しいことはよく知らないが、労働者の闘争たるもの、ちまちまと進むのではなく、初手から相手のトップの首を狙いに行く気概が必要なのだ。

 我ながら完璧な一撃だ。あたしは桂馬を真上に移動して陽介の王将を取り、そのまま自分の方へ迎える。

 

「取った駒はあとで使えるんだろう?」

 

「いや、うん、持ち駒はそうなんだけど……。俺の王将ないなった……。対局終わった……」

 

「ん????」

 

「ミノリちゃんが楽しそうなら何よりだよ……」

 

 ひとしきり将棋を指し終えた後、あたしは盤面を片付けながら、今回の事件について口を開いた。

 

 あのアカツカという資本家。憎むべき存在ではあったが、最後に彼女が見せた顔は、不思議と悪いものではなかった。そして何より、自分たちの「労働」が他人の命を直接繋ぎ止めたという事実が、あたしの心に小さな変化をもたらしていた。

 

「……たまには、こういうアプローチの仕方の人助けも悪くないと、少し感じた」

 

「え?」

 

「あたしたちのデモやストライキとは違うが……泥臭く、直接的に誰かを救う労働。それもまた一つの正義だ」

 

 あたしは立ち上がり、陽介に向かって宣言した。

 

「暇なときにここの仕事を手伝わせてもらう。重機も必要とあらば貸し出そう」

 

「あはは、ありがとう。その時は頼りにさせてもらうよ」

 

 レッドウィンター連邦学園へ帰還しようと席を立った、その時だった。

 ふと、散らかった陽介の作業デスクの奥──わざと他の書類の陰に隠すように置かれている、小さな写真立てが目に留まった。

 

 そこに写っていたのは、陽介とキキョウのツーショットだ。

 

 しかし、強烈な違和感がある。陽介の顔つきが今よりも老けて見えるのはもちろんだが、何より──キキョウが着ている制服が、キヴォトスのどの学園のものとも一致しないのだ。

 少なくとも、あたしはあんなデザインの服を見たことがない。いつ、どこで撮られたものなのかすら、全く見当がつかない一枚だった。

 

「陽介、これは……」

 

 思わず手を伸ばしかけたあたしに対し、陽介はいつもの呑気な笑顔のまま、しかし素早い動作で写真立てをパタンと伏せた。

 

「これはね。キキョウちゃんとこの前撮ったんだよ。気にしないで」

 

「しかし……」

 

 老けて見える顔立ち。見たこともない服。「この前撮った」という説明はどう考えても不自然だ。あたしがさらに言葉を継ごうとした、その瞬間。

 

「ミノリちゃん」

 

 ピタリ、と。

 陽介の声のトーンが落ちた。

 

 怒っているわけではない。しかし、それ以上踏み込むことを絶対に許さない、分厚く冷たい壁が、彼の笑顔の奥に突然そびえ立ったのが分かった。普段の気の抜けた彼からは想像もつかない、底知れない静かな威圧感。

 

「……」

 

 その得体の知れない空気に気圧され、あたしはそれ以上の追及の言葉を呑み込むしかなかった。

 

「……じゃあ、あたしは帰る。キキョウが起きたらよろしく言っておいてくれ」

 

「うん、気をつけてね。今日は本当にありがとう」

 

 背中にいつもの朗らかな声を受けながら、あたしはどこか釈然としない胸騒ぎを抱えたまま、夜の遺失物預り所を後にした。

 

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