キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
遺失物預り所の一階フロア。
ちゃぶ台を挟んで、私はミノリ部長と向かい合って座っていた。
盤上に並べられた駒を一つずつ指差しながら、私は根気よく将棋の基本的なルールを教えていく。
「だから、桂馬はこう動くの。いきなり敵陣の奥深くにワープして置くことなんてできないわ」
「むっ、そうなのか。しかし前線で戦う歩兵たちの過酷な労働環境を思えば、後方から一気に支援へ飛び込める遊撃部隊が必要ではないか? 労働者の気合いと根性があれば、盤面の三マスくらい一気に……」
「将棋に気合いは関係ないわ。それはただの反則よ」
「くっ……これも資本家どもが労働者を型にはめるために作ったルールというわけか……!」
「古くからある伝統的な競技のルールよ」
呆れたように小さくため息をつく私をよそに、ミノリ部長は腕を組んで難しそうに唸り声を上げている。
「王手ぇ!!!」
「だから……っ!!」
私たちのやり取りから少し離れた預り所の端では、所長の陽介が古びたソファに深く腰を下ろしていた。
彼は手元の詰将棋の本を、ゆっくりとページをめくりながら読み漁っている。時折、頭の中で盤面を組み立てているのか、虚空を見つめては満足げに小さく頷いていた。
「ははは。ミノリちゃんは将棋盤の上でも熱いね」
「笑い事じゃない。ルールを教えるだけで日が暮れそう」
「俺も最初は全然覚えられなくて苦労したよ」
陽介はゆっくりと立ち上がり、私たちの座るちゃぶ台へと歩み寄ってきた。
「キキョウちゃん、良かったらこれあげようか」
そう言って彼が私に差し出したのは、今しがた彼自身が読んでいたものとは違う、真新しい一冊の本だった。
表紙に光沢はなく、百鬼夜行らしい手触りの良い和紙で作られている。和綴じで仕立てられた、落ち着いた趣のある詰将棋の本だ。
わざわざ私のために、新しく買ってきてくれたものらしい。
「……これ、私に?」
「うん。キキョウちゃん、最近よく将棋の本を読んでたからね。街へ買い出しに出たついでに、初心者でも読みやすそうなのを見繕ってきたんだ」
「わざわざ、私のために……」
私は少し驚きながら瞬きをし、その本を両手でそっと受け取る。
「ありがとう。……大切に読ませてもらう」
「どういたしまして。分からないところがあったら、いつでも聞いてよ」
陽介は優しく微笑み、再び自分のソファへと戻っていく。
手元にある和紙の感触が、じんわりと温かい。私が将棋の本を読んでいたことなど、ほんの少しの暇つぶしだったはずなのに、この人はそういう些細なことを見逃していなかったようだ。
その底抜けの優しさが、時々ひどく不器用に思える時がある。
「陽介は本当に、キキョウに甘いな」
ミノリ部長が盤面から顔を上げず、ぽつりと呟く。
「甘いって、別に……ただの気遣いでしょ」
「いや、甘い。我々労働者に対する資本家の非道な搾取とは真逆の……無償の愛というやつだな!」
「変な事言わないで。集中が途切れる」
私はミノリ部長の言葉を適当に受け流しながら、新しい本を開こうとするその時だった。
カランコロン、と。
入り口のドアベルが、静かな預り所に響き渡った。
「す、すいません……あの……」
入り口に立っていたのは、百鬼夜行の自治区付近で見かけるような、少し着崩した制服姿の生徒だった。
歳は私と同じくらいだろうか。しかし、その顔はひどく青ざめ、大きな瞳には今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいる。
「どうしたの? 忘れ物、それとも落とし物かな?」
ソファから立ち上がった陽介が、警戒心のかけらもない、いつもの穏やかな笑顔で声をかけた。
その顔を見た瞬間、少女はビクッと肩を震わせ、両手で顔を覆って泣き崩れたのだ。
「お、落としちゃって……! 私、友達の形見のペンダントを……っ! ずっと大事にしてたのに、この辺りで落としちゃったみたいで……探しても、どこにもなくて……っ」
しゃくりあげながら、必死にすがりつくような声。
大切な友人を失い、さらにその形見まで失ってしまった少女の悲痛な叫びに、陽介の表情がサッと真剣なものに変わる。
「それは大変だ……! どんな形をしているんだい? いつ頃落としたか分かるかな?」
「銀色の、小さな桜の形をしてて……昨日の夕方には、まだあったんですけど……うぅっ……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「泣かなくていい。必ず見つけ出すから、安心して」
陽介は急いで少女のそばに寄り、その背中を優しく擦る。
そして私の方を振り返った。
「キキョウちゃん、温かいお茶を淹れてあげてくれない?」
「……わかった」
私は立ち上がり、給湯室へと向かいながら、静かに少女の後ろ姿を観察した。
泣き声こそ迫真だが、どうにも違和感がある。
指の隙間から覗く彼女の目は、本当に悲しんでいる人間のそれではない。涙で濡れているはずの瞳は、預り所内の防犯カメラの位置や、レジの場所をチロチロと冷静に品定めしているように見えた。
さらに言えば、着崩した制服のポケットからわずかに覗くスマートフォンの画面の割れ方やケースの汚れは、ブラックマーケット周辺に出入りする不良生徒特有のものだ。
「(……たちの悪い詐欺か、それとも強盗の引き込み役ね)」
いずれにせよ、まともな客ではない。
私は湯呑みにお茶を注ぎ、お盆に乗せて少女の元へと戻った。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
少女がお茶を受け取る隙を見て、私は陽介の袖を軽く引き、声を潜める。
「ねえ、陽介。あの子、ちょっと怪しい。泣いてるふりをしながら部屋の中を値踏みしてるし、持ってる小物も柄が悪い。適当にあしらって帰した方が……」
しかし、私の忠告を聞いても、陽介は顔色一つ変えなかった。
ただ、少女に聞こえないような小さな声で、私にだけこう返したのだ。
「いいんだよ。もし嘘なら、友達を亡くした悲しい子がこの世界にいなかったってことだから。それはそれで、すごく良いことじゃないか」
「は……?」
私は思わず絶句した。
嘘だと分かっていて、騙されているというのか。
「ひとまず見つかるまで、ここにいていいよ」
陽介は再び少女に向き直り、いつものように穏やかな声で告げた。
「お腹も空いてるでしょ? まずはご飯を食べて、今日はゆっくり休んで。二階の空き部屋を使っていいからね」
「えっ……でも、そんな、悪いです……」
「いいんだよ。困っている子を放っておくなんて、よもや大人のすることじゃないからね。……そういえば、まだ名前を聞いていなかった。俺はここの所長の向井陽介!」
「あ、えっと……リサ、です」
少しだけ間を置いて、少女──リサが答える。偽名か本名かは分からないが、彼女の瞳の奥には一瞬だけ戸惑いのようなものが浮かんだ。
「リサちゃんか。俺のことは陽介でいいよ。そっちでお茶を淹れてくれたのがキキョウちゃんで、そこでずっと将棋を打っているのがミノリちゃんだ。よろしくね」
「あたしの紹介に語弊がないか陽介???」
「はい……ありがとうございます……っ」
リサは再び顔を覆って、声を震わせながら泣き真似をした。その背中越しに、私は彼女の口元が微かに歪むのを見える。
感謝の涙などではない。間違いなく、簡単に騙されるお人好しな大人を嘲笑っているのだ。
ペンダントを探す気なんて、初めから無いのだろう。
この預り所の中に入り込み、寝泊まりする理由を作るための嘘。
「(……陽介も、わざと騙されてあげるなんて度を越しているわ。絶対に私が目を光らせておかないと)」
私は静かにため息をつきながら、再びミノリ部長の座るちゃぶ台へと戻った。
■■■
ひとまず、リサがペンダントを落としたという場所を探すため、私たちは車を出した。
運転席には陽介、助手席に私、そして後部座席にはミノリ部長が乗って、百鬼夜行自治区の道を走っていく。
つい先日までボロボロだったはずの車体は、板金で綺麗に直され、全塗装まで施されて見違えるように輝いていた。ただ外見が直っただけではない。交差点を曲がるたびに、以前のような頼りない横揺れが完全に消え去っている。
「すげーっ、俺の車が全くロールしない」
ハンドルを握りながら、陽介が子供のように目を輝かせた。
「工務部をあまり舐めるんじゃないぞ、これくらい朝飯前だ」
後部座席でふんぞり返りながら、ミノリ部長が自慢げに胸を張る。
「まるで新車だよ、ありがとうミノリちゃん」
「流石に料金はもらうが、エンジンの載せ替えとかも任せてくれていいぞ」
「かなり前向きに考えておくよ」
二人の能天気なやり取りを聞きながら、私は呆れて小さくため息をついた。
遺失物預り所の業務用の車に、ガチガチのサスペンションやエンジンの載せ替えなんて過剰すぎる。
それに何より、今向かっている場所には、お目当てのペンダントなど絶対に落ちていないのだ。リサのあの様子からして、彼女の話がでまかせであることは明白だった。
「ねえ、陽介。本当に探す気なの?」
「もちろん。落とし主が待ってるからね」
陽介は前を向いたまま、微塵の疑いもない声で答える。
嘘だと分かっていて騙されているのか、本気で信じているのか。陽介の横顔からは、その真意は全く読み取れなかった。
車は、百鬼夜行の自治区の端──ブラックマーケットにほど近い、少し薄暗い路地裏に停まった。
リサが「この辺りで落としたかもしれない」と証言した場所だ。
「よし、じゃあ手分けして探そうか。ミノリちゃんはあっちの通りをお願いできるかな?」
「むっ……労働契約外の業務だが、まあいい。車のテスト走行も兼ねているからな。特別に手伝ってやろう」
「ありがとう。後でアイス奢るよ、チョコミントでいい?」
「チョコミントだと!? 許さん!!」
「ごめんって」
ミノリ部長は腕を組みながらも、路地の奥へと歩いていった。
陽介は車のトランクから軍手を取り出すと、迷うことなく汚れた側溝や、ゴミの散乱する茂みの中へと手を突っ込み始める。
その背中を見つめているうちに、私の中でくすぶっていた苛立ちが、少しずつ形を成す。
「……ねえ、陽介」
「ん? どうしたの、キキョウちゃん。あ、ガラスの破片とか落ちてるかもしれないから、足元気をつけてね」
「そうじゃなくて。……あんた、本当にあの子の話を信じてるの?」
私の問いかけに、陽介はゴミ袋を退かしながら、あっけらかんとした声で答えた。
「信じるも何も、困ってるお客さんの依頼だからね」
「適当なこと言わないで。あの子が預り所で見せた涙は嘘。悲しんでる人間の目じゃなかった。あの子の目は、獲物を値踏みする泥棒の目だった」
「うん、そうだね」
「……え?」
「俺もそう思うよ。あの歳であれだけ綺麗に嘘がつけるなんて、普段から相当苦労してるんだろうね」
陽介は手を止めることなく、側溝の中を覗き込みながら淡々と答えた。
あまりにもあっさりとした肯定に、私は一瞬、言葉を失う。
「分かってるなら、どうしてあんなに優しくするの!? あの子はあなたを騙して、預り所の金目のものを盗もうとしてるの。今夜にでもレジのお金を持って逃げるかもしれない」
「なら、金庫の鍵を開けっぱなしにしておこうか。少ししか入ってないけど、あの子の足しになるならそれでいいよ」
「は……?」
理解が追いつかず、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
陽介はついに立ち上がり、パンパンと軍手の泥を払いながら、ひょうひょうとした笑顔で私を振り返る。
「だって、嘘をついてまであんな見ず知らずの店に泊まり込もうとするなんて、よっぽど切羽詰まってる証拠じゃないか。帰る家もない、頼れる大人もいない。そんな子が、やっと見つけた『安全な場所』なんだ。嘘を暴いて外に放り出したら、あの子はまた、危ない世界に戻るしかないだろ?」
「それは……そうかもしれないけど、でも!」
「それにさ、ペンダントの話が嘘なら、あの子の『お友達』は死んでないってことだ。それって、すごく喜ばしいことじゃない?」
ニコッと笑う陽介の顔を見て、私の中にあった苛立ちが、得体の知れない薄ら寒さへと変わっていくのを感じた。
「あんた、おかしい……」
「そうかな?」
「明らかにおかしい! 騙されて、利用されて、お金まで盗まれて……あなたには何のメリットもない! どうしてそこまでして、見ず知らずの他人に自分の身を削れるの!?」
語気が強くなる。自分でも驚くほど、声が震えていた。
彼のその優しさは、無償の愛などという綺麗な言葉で済ませていいものではない。自分という存在の価値を完全に放棄している、異常者の論理だ。
しかし、私の怒りをぶつけられても、陽介の表情は一切揺らがなかった。
彼は困ったように眉を下げて、私の頭をポンポンと軽く撫でる。
「メリットなんていらないんだよ。……大人が子供に何かしてあげるのに、理由や見返りを求めちゃいけない。俺はただ、あの子が今日一日、温かい布団で安心して眠れるなら、それで十分なんだ」
その瞳の奥には、私でも、リサでもない。
もっと別の『誰か』への、強迫観念のような重暗い感情が渦巻いているように見えた。
「さ、探すのを手伝ってとは言わないから、キキョウちゃんは車の中で休んでて。俺はもう少しこの辺りを探してみるからさ」
陽介はそう言い残し、再び泥だらけの側溝へと視線を戻した。
その無防備で、どこまでも愚かな背中を見つめながら、私は強く拳を握りしめた。
腹が立つ。
彼を利用しようとするあの嘘つきの少女にも。
そして何より、自分を傷つけることを微塵も恐れない、この狂った大人の優しさに。
「(……絶対に、私があの泥棒から預り所を守ってみせる)」
私は心の中でそう誓い、足元に落ちていた空き缶を、苛立ち紛れに思い切り蹴り飛ばした。
空き缶がカラカラと乾いた音を立てて路地の奥へ転がっていく。
その音が完全に消える前に、背後から不意に声がかけられた。
「珍しいですね、ブラックマーケットで小銭集めなんて」
私が弾かれたように振り返ると、そこには一人の生徒が立っていた。
黒を基調とし、赤と白の装飾が施された特徴的なセーラー服。トリニティ総合学園の治安維持組織である『正義実現委員会』の制服だ。
「誰……?」
私が警戒して身構えると、その生徒は手元でハンドガンをカチャカチャと弄りながら、軽く頭を下げた。
「失礼しました。ハノと言います」
彼女の態度はどこか飄々としており、正義実現委員会という堅苦しい組織名から連想される威圧感はない。しかし、手の中で遊ばせている銃の扱いの手慣れ具合から、只者ではないことが伺えた。
「正義実現委員会が、百鬼夜行の自治区……しかもこんなブラックマーケットの近くで何の用?」
私が問うと、ハノはハンドガンを腰のホルスターに収め、小さく肩をすくめた。
「今、ここでちょっとした『流行り物』がありまして。その調査です。……お二人は、最近『闇バイト』という言葉を聞いたことはありますか?」
「闇バイト?」
「SNSや裏サイトで募集されている、違法な高額報酬アルバイト。最初はただの運び屋や見張りといった簡単な仕事から始まって、最後には強盗や詐欺の実行犯にまで仕立て上げられる。一度手を出したら、脅されて二度と抜け出せなくなる……そういう悪質な手口が、このブラックマーケットを拠点に広まっているらしいんですよ」
その言葉を聞いて、私の脳裏に預り所で寝泊まりしている『リサ』の姿がフラッシュバックした。
ボロボロのスマートフォン、柄の悪い態度、そして、見え透いた嘘で他人の家に潜り込むという手口。まさかとは思うが、リサも関わっているんだろうか。
「いち自警団のような組織のあなたが、学園の外のことにまで足を運ぶの?」
私が疑念を隠しながら尋ねると、ハノは少しバツが悪そうに頬を掻いた。
「うーん、それに関してはまぁ……色々あって。トリニティ的にも、学園外の問題を解決するという外面の良さは作った方がいいのもあるだろうし……」
どうやら、組織の末端として体よく外回りの面倒事を押し付けられているらしい。
「まぁ、そういうわけなので。見ず知らずの他人が不自然に近づいてきたり、美味しい話をもちかけてきたりした時は、十分に気をつけてくださいね。特にそっちの……底抜けに人が良さそうな大人の人は」
ハノは、側溝に突っ込んだまま呑気に手を振っている陽介をチラリと見て、苦笑いした。
「忠告、感謝する」
「いえいえ。それでは、私はこれで」
ハノは軽く手を振ると、足早に路地の奥へと消えていった。
彼女の背中が見えなくなっても、私の心臓は嫌な音を立てて早鐘を打っていた。
リサがもし、その『闇バイト』の実行犯として遺失物預り所に潜り込んだのだとしたら。
彼女の目的は、単なる泥棒ではなく、外部の犯罪組織と結託した『強盗の引き込み』や、それ以上の凶悪な犯罪である可能性が高い。
「……ねえ、陽介」
「ん? やっぱり無いねえ、ペンダント」
「今日はもう帰るよ。探しても無駄なのが分かったし……早く預り所に戻らないと、マズい気がする」
陽介は泥だらけの軍手を外し、不思議そうに小首を傾げたが、私の焦燥感に満ちた声色を感じ取ったのか、「わかった」と素直に頷いてくれた。
私は急いで車の助手席に乗り込み、預り所へと向かうよう急かした。
最悪の事態が起きる前に、あの嘘つきの少女を問い詰めなければならない。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
すっかり日が落ち、静寂に包まれた遺失物預り所。
陽介たちがペンダント探しで外出している隙を突き、リサは足音を殺して二階から一階のフロアへと降りてきた。
彼女の目的は初めから一つしかない。この隙だらけの店から金目のものを根こそぎ奪い、元締めに上納することだ。
薄暗い店内を見渡した彼女の目に、ふと入り口近くに設けられた小さな駄菓子コーナーが留まった。
リサは迷うことなく近寄ると、色鮮やかなパッケージのスナック菓子やチョコレートを無造作に手に取り、ビリッと乱暴に袋を開けた。バリバリと大きな音を立てて頬張りながら、だらしない笑みを浮かべる。
「っく──っ! 駄菓子をお金払わず食べる感覚、背徳……っ♡」
たかが数十円の菓子だが、チョロい大人を騙して他人の家でやりたい放題する優越感がたまらなかった。指についた粉を舐めとりながら、リサはいよいよ本命の物色に取り掛かる。
まず目をつけたのは、その日の落とし物が保管されているというガラスケースだ。しかし、取っ手を引っ張ってもびくともしない。外見こそ古びているが、防犯用の頑丈な鍵がしっかりと掛けられており、素人の力でこじ開けられるような代物ではなかった。
「ちっ……ここは駄目か」
リサは舌打ちをし、食べかけの駄菓子をカウンターに放り出してレジへと向かった。こちらは驚くほど無防備で、ボタンを押すだけでカシャッと軽い音を立てて引き出しが開いた。
リサの口元に笑みが浮かぶ。しかし、中を覗き込んだ瞬間、その顔は露骨に歪んだ。
「うわっ、すっくね~……クソ貧乏なんだな……」
札入れのスペースには、千円札が数枚入っているだけ。あとは小銭が申し訳程度に転がっているだけだった。これでは、ブラックマーケットでの一食分の足しになるかどうかも怪しい。
舌打ちしながらレジの奥まで指を突っ込んで探ると、指先に紙切れのようなものが触れた。
引っ張り出してみると、それは古い一枚の写真だった。
「なんだこの写真。まいっか、いらない」
大人が小さな子供を抱き抱えているような写真だったが、金にならないゴミには興味がない。リサはそれをレジの脇へ無造作に放り投げた。
「うーん、なんにもないな~……」
ぐるりと店内を見渡す。
売れそうな家電もないし、高価な装飾品もない。ただの古ぼけたガラクタばかりだ。
やがて彼女の視線は、フロアの隅にあるちゃぶ台の上に止まる。
「将棋盤って高く売れるかな?」
木製の古めかしい将棋盤だ。リサには価値など分からないが、骨董品としてならいくらかになるかもしれない。
彼女は制服のポケットから、画面のひび割れたスマートフォンを取り出した。
カメラを起動し、レジの中身と、将棋盤、そして店内の様子を数枚撮影する。それからメッセージアプリを開き、慣れた手つきで文字を打ち込んだ。
『めぼしい金品なし。レジの現金数千円と、古い将棋盤くらい。全部売っても数万になればいい方かも』
送信ボタンを押し、闇バイトの『先輩』へ概算の利益を報告する。
すぐに既読がつき、数秒も経たないうちに返信の通知音が鳴った。
『は? ふざけんな。そんな端金で、お前が作った借金と今回の手付金がチャラになるわけねぇだろ』
画面の文字を追うリサの顔から、先ほどまでのお気楽な笑みがすっと消え失せる。
『話が違うぞ。あと最低でも十万は作れ』
震える指で、リサは慌てて返信を打つ。
『無理です! 本当に何もない店なんです! 今回はこれで勘弁してください!』
すがるようなメッセージを送ったが、次に返ってきた元締めの言葉は、彼女の逃げ道を完全に塞ぐ冷酷なものだった。
『なら、その店に火をつけてこい。さらに金目の物を盗むか、その店を燃やすか。そのどっちかだ』
スマートフォンの画面が放つ青白い光が、リサの絶望に染まった顔を照らし出す。
息が詰まった。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
「嘘、でしょ……火をつけるなんて、そんなの、聞いてない……っ」
画面を持った手がガタガタと震える。
最初はただの小遣い稼ぎのつもりだった。チョロい大人を騙して、少しだけお金をくすねて、駄菓子をつまみ食いして逃げるだけの、簡単なバイトのはずだったのだ。
後戻りできない暗闇の底に突き落とされたことを理解し、リサはその場にへたり込む。
「ら、ライターはたしか……この辺に……あっ、あった……」
しかし、ガタガタと震える手で、リサは先ほど物色した際に見つけた安物のライターを取り出した。
薄暗い店内で、ちゃぶ台の近くにあった座布団をかき集める。ここに火をつければ、古い木造のこの建物はあっという間に燃え広がるだろう。
「(やるしかない……やるしかないんだ……!)」
家の住所も、学園も握られている。ここで逃げれば自分の人生は本当に終わってしまう。
親指に力を込め、ライターのフリントを強く擦った。
カチッ、という小さな音とともに、オレンジ色の炎が揺らめく。
それを座布団に近づけようとした、まさにその瞬間だった。
「動かないで!」
激しい音を立てて、預り所の入り口の扉が乱暴に開け放たれた。
「やっぱりね。ペンダントなんて最初から嘘だった」
冷ややかな声がフロアに響き渡る。
入り口に立っていたのは、息を切らしたキキョウと、ミノリ、そして陽介だった。
「ひっ……!」
リサは弾かれたように顔を上げ、ライターを持ったまま後ずさった。
キキョウの目は氷のように冷たく、リサの手にあるライターと、開け放たれたままのレジを的確に捉えている。
「レジを漁った挙句に放火。……昼間に彼女が言っていた『闇バイト』、あなたがその実行犯ってわけね」
キキョウは冷酷な視線でリサを射抜いたまま、言葉を続ける。
「その追い詰められた顔……どうせ目先の小遣い欲しさに手付金でも受け取って、元締めに脅されて後戻りできなくなったんでしょ」
「ち、違う……! 私は、ただ……っ!」
痛いほど図星を突かれ、リサは完全にパニックに陥った。
頭の中が真っ白になる。どう言い訳をすればいいのか分からない。ただ、このままでは警察か、それ以上に恐ろしい学園の治安組織に突き出されてしまうという恐怖だけが押し寄せてくる。
「だって、こうするしかなかったんだよ! やらないと学園にバラすって脅されて……私の人生、終わっちゃうんだから!」
泣き叫びながら、リサは必死にライターを前に突き出した。
「こ、来ないで! 近づいたら本当に火をつけるから!」
自暴自棄になった少女の叫びに、キキョウは静かに銃へ手を伸ばそうとした。
しかし、それよりも早く動いた者がいた。
「キキョウちゃん、待って」
陽介だった。
彼はキキョウを制止すると、ゆっくりとリサに向かって歩み寄った。
その顔には、怒りも、焦りも、恐怖すら一切ない。
「……怖かったね、リサちゃん」
それは、自分の店を燃やそうとしている強盗に向けるような声ではなかった。
迷子になって泣いている子供をあやすような、底知れぬほど深く、異常なまでの優しさを孕んだ声だった。
「もう大丈夫だよ。火なんてつけなくていい。大人がなんとかしてあげるから」
「え……?」
リサは息を呑んだ。
理解できなかった。怒鳴られると思っていた。殴られると思っていた。それなのに、目の前の大人は、すべてを許すような痛ましい目で自分を見つめながら近づいてくる。
狂っている。
裏社会の元締めよりも、銃を構える生徒よりも、この得体の知れない『無償の優しさ』が、今のリサには何よりも恐ろしく感じられた。
「来ないで……っ! 来ないでってば!!」
リサは持っていた火のついたライターを陽介の足元へ力一杯投げつけると、そのまま脱兎のごとく駆け出した。
陽介の横をすり抜け、キキョウとミノリを突き飛ばすようにして、預り所の外へと飛び出していく。
「あ、待って! リサちゃん……って、あち! あちゃちゃっ!! ズボンが! 俺のズボンが!!」
投げつけられたライターの火が、運悪く陽介のズボンの裾に燃え移っていた。
「なっ、何をしている所長! 早く叩いて消すんだ!」
「無理無理! 熱い熱い熱い!」
先ほどまでの底知れぬ凄みはどこへやら。陽介は燃えるズボンを必死に両手で叩きながら、預り所の中を滑稽に跳ね回るのだった。
■■■
冷たい夜風を切り裂きながら、リサは無我夢中で暗い裏路地を走っていた。
息が上がり、肺が血の味で焼けるように痛む。それでも足を止めることはできなかった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!」
何度も濡れたアスファルトで足を取られそうになりながら、ネオンサインの光が届かないブラックマーケットの深部へと逃げ込む。追ってきてはいないだろうか。あの冷たい目をした生徒も、そして何より、あの異常な大人の男も。
背中を汚れたレンガの壁に預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
大人が、嫌いだった。
大人はいつだって嘘をつく。弱みにつけ込み、奪っていく。
「あああぁぁぁぁもおおおおおぉぉ!! 一体なんだっていうのよ!!」
割れたスマートフォンの画面を直してやると言って、わずかな前金だけを奪い、ヘラヘラと笑いながら逃げた修理業者の男。
「可愛いね、お小遣いあげようか」と、気持ち悪い撫で声で近づいてきて、その対価として体を求めてきたスーツの男たち。
大人が向けてくる『優しさ』の裏には、いつだって醜い欲望と搾取が隠されている。だから誰も信じなかった。大人たちが運営するまともな店で頭を下げてアルバイトをするなんて、絶対に嫌だった。
「なんで! なんでよ!!」
そんな時だった。『自分の力だけで稼げるいい仕事がある』と声をかけられたのは。
相手は大人ではなかった。自分と同じ、制服を着た生徒だったのだ。大人の力なんか借りなくても、賢く立ち回れば自分たちだけで生きていける。その甘い言葉を、相手が『大人ではない』というただ一点の理由だけで、リサは信じ込んでしまった。
だが、結果がこれだ。
結局、その生徒の裏にも『元締め』という大人がいて、リサは使い捨ての駒として法外な手付金と借金で縛り付けられた。
「なんで……なんでこんなことに……」
ポロポロと、堪えきれない涙が溢れてくる。
ポケットから取り出したスマートフォンの画面は、あの日大人に騙された時のまま、ひび割れている。そこには元締めからの『どこに逃げた、ふざけるな』というメッセージの通知が何件も溜まっていた。
逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。
恐怖が飽和し、やがてそれは黒々とした怒りへとすり替わっていく。自分を守るためには、誰かを憎むしかなかった。
自分が悪いわけじゃない。自分はただ、他人に頼らず生きたかっただけだ。
そうだ、あの遺失物預り所の店長だ。
あんな隙だらけの店で、金庫にもレジにも碌な現金を置いていない、あの男が悪い。あそこに金さえあれば、放火なんて命じられなかった。
それに、あの異常な目。自分の店に火をつけようとした強盗に対して、あんな底知れない優しさを向けてくるなんて、絶対に頭がおかしい。
あの男も結局、他の汚い大人と同じだ。自分のことを可哀想な子供扱いして、いい大人のフリをして酔っているだけの、気持ち悪い偽善者だ。あんな狂った大人に捕まったら、今度こそ何をされるか分からない。
「これもぜんぶ……あのクソ貧乏な大人のせいだ……!」
ギリッと歯を食いしばり、リサは割れたスマートフォンを握りしめた。
行き場のない感情が暴走する。誰のせいでもない。自分を騙し、搾取し、こんな惨めな底辺に追いやった、すべての元凶。
「全部全部全部! 全部!! 全部!!!」
誰もいない裏路地の底で、リサの慟哭だけが泥水の中に虚しく響き渡った。
「大人の!! せいだ!!!」