キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス 作:曇りのち晴れ男
アタシが自らの組──クロヌマ組を束ねる中で培ってきた裏稼業のノウハウや立ち回りは、ここでも大いに役立っていた。
おかげでアタシは、新しく身を寄せたこの組織でも、あっという間に幹部連中から一目置かれる立ち位置を確保している。
しかし、この組織はどこか異様だった。
ブラックマーケットのさらに奥深く。打ち捨てられた巨大な地下廃水処理施設を改装した、広大で薄暗いアジト。鉄サビと機械オイル、そして安葉巻の匂いが充満するその場所を見渡せば、右を見ても左を見ても、いかつい装甲に身を包んだロボットか、マフィア然とした屈強な獣人の大人たちばかりなのだ。
そして何より奇妙なのは、そんな荒くれ者たちを束ねるトップの存在である。
フロアの最奥。ドラム缶や鉄骨を組み上げて作られた仰々しい玉座にふんぞり返っているのは、柄の悪いサングラスをかけた一人の『生徒』だった。いや、周囲の屈強な大人たちが見せる異様なまでの怯えようを見れば、単なる生徒ではなく『組長』と呼んだ方が正しいのだろう。
今行われているのは、ある構成員の凄惨な仕置きだった。
事の発端は、玉座に座る組長が現在進行形で描いている『絵』。
「よぉ。この傷、見ろよ」
玉座からゆっくりと立ち上がり、組長は自分の頬についた生々しい傷跡を指差して薄く笑った。
「なんだと思う?」
足元に押さえつけられている構成員は、口をガムテープでぐるぐる巻きに塞がれているため答えられない。ただ、恐怖に顔を引きつらせて、くぐもった呻き声を上げるだけだ。
「てめぇが付けた傷だよ」
組長はしゃがみ込むと、男の髪を乱暴に掴み上げ、その怯えきった顔を至近距離から覗き込んだ。
「私の銃を奪い、拳での勝負に持ち込んだまでは良かったなァ」
ひぃっ、と構成員の喉が引きつるように鳴る。それを心底愉快そうに嘲笑いながら、組長はネットリとした声を紡いだ。
「私がボクシングやってる時に見たら、プロデュースしてやりたいくらいだよ。ボクシングやったことねぇけど」
組長はそう言ってケタケタと笑いながら、掴んでいた構成員の髪から手を離した。
ドサリと、巨漢の獣人が冷たいコンクリートの床に崩れ落ちる。
「でもさぁ、大人ってのは本当に弱い立場だよな」
組長は自分の細い腕を見下ろし、それから床に這いつくばる巨漢を冷たい目で見下ろした。
「お前ら大人は『生徒』には勝てない。そういう風にできてるんだよ、このキヴォトスって場所はさ」
ガンッ、と。
無造作に振り下ろされた組長のスニーカーが、獣人の太い腕を踏み砕いた。
ゴキリという嫌な音とともに、ガムテープ越しの絶叫が地下空間に響き渡る。周囲を取り囲む屈強な大人たちが、一斉にビクッと肩を震わせた。
誰一人として助けに入ろうとしない。いや、己と組長の絶対的な力の差を理解しているからこそ、恐怖で動けないのだ。
「で? そんな私から、組の金パクって逃げ切れると思ったわけ? なぁ、私の描いてる『絵』がそんなに気に入らなかったか?」
組長は踏みつけた腕をグリグリと踏み躙りながら、ひどく退屈そうにため息をついた。
「『こんな計画に付き合ってたらキヴォトス中を敵に回す、正気の沙汰じゃない』……だっけ? あーあ、つまんねぇ。お前ら大人の想像力って、いつも小銭の計算と保身で止まっちまうんだな。だからいつまで経っても、私たちの足元を這いずり回る犬なんだよ」
組長は顎をしゃくり、傍らに控えていたロボットの幹部に合図を送った。
「こいつ、もういらない。私の『絵の具』には安っぽすぎる。ドラム缶にでも詰めて、ゲヘナの海にでも沈めてこい」
「ハ、ハハッ……!」
ロボットの幹部が慌てて構成員を引きずって奥へと消えていく。
その断末魔のような呻き声が遠ざかるのを、アタシは静かに見つめていた。
アタシも一応不良崩れでありながら、一つの組のトップを張ってきた人間だ。裏社会の暴力や拷問など見慣れている。
しかし、目の前のこの生徒は違う。暴力のスケール、命に対する軽薄さ、そして何より理不尽なまでのフィジカルの強さを、呼吸をするように振りかざしている。
「……なぁ、シオリ」
ビクリと、アタシの肩がわずかに跳ねた。
前回の会合ですでに顔を合わせている彼女の、サングラスの奥の視線が、正確にアタシを射抜いていた。
「はい。何でしょうか」
「お前はどう思う? 私の描いてる『絵』だよ。クロヌマ組のトップを張ってたお前の目から見て、私の計画は……狂ってるか?」
試されている。ここで少しでも怯えや躊躇を見せれば、アタシもあの獣人と同じ運命を辿るだろう。
アタシは己の内心を完璧に隠し、口角を少しだけ上げてみせた。
「……とんでもない。私がこれまで回してきたシノギなど比べ物にならない、壮大で、美しい芸術だと思います。私のような者には、その完成図を想像することすら恐れ多いほど」
その答えに、組長は満足げに笑い声を上げた。
「ははっ、いいじゃん。流石は上に立ってた奴だ、話が早くて助かるよ」
組長は再び玉座に腰を下ろし、長い脚を組んだ。
「その美しい芸術を完成させるには、まだまだ『絵の具』……金と駒が足りない。あのなんちゃら薬剤ももっと捌け、末端のガキどもから巻き上げてる金や、闇バイトの上がりも、もっとペースを上げろ」
玉座に深く沈み込みながら、組長は冷たい声で宣告する。
「私の絵の完成を邪魔する奴は、どこの学園の連中だろうが、自警団だろうが、容赦なく潰す。……シオリ、お前もせいぜい私の役に立ってくれよ」
「……ゥス」
アタシは深く一礼しながら、背筋を這い上がるような悪寒を噛み殺した。
「(……ここは、私が今までいた世界なんかよりずっとヤバい場所だ)」
圧倒的な暴力と、底知れない狂気。
このブラックマーケットの闇の深層で、アタシはとんでもない怪物に取り入ってしまったのかもしれない。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
暗い夜道を、必死に駆け抜ける。
百鬼夜行自治区の入り組んだ路地裏を、逃げ出したリサを追って私たちは走り続けていた。
「止まりなさい! 逃げたってどうにもならない!」
私の制止の声など耳に入っていないのだろう。前方を行くリサの背中は、見えない恐怖に急き立てられるようにして、どんどん闇の奥へと進んでいく。
「くっ……あの生徒、すばしっこいな!」
隣を走るミノリが忌々しげに舌打ちをする。
だが、私の意識は逃げるリサの背中よりも、もう一人の同行者に強く惹きつけられていた。
「……陽介?」
どこか、様子がおかしい。
私のすぐ斜め前を走る陽介の横顔は、夜の暗がりの中でも分かるほどに青ざめ、異常なほどの冷や汗がどっと噴き出していた。
ただ走って息を切らしているのではない。過呼吸のように肩を激しく上下させ、焦点の合わない目で虚空を睨みながら、何やらブツブツとうわごとを呟き続けているのだ。
「……だめだ、だめだだめだ……」
「ちょっと、どうしたの? 陽介!」
私の呼びかけにも、彼は全く反応しない。
ただひたすらに、見えない『何か』に取り憑かれたように足を動かしている。
「今度こそ、今度こそ俺が……絶対に……ッ!」
そのうわごとを聞いた瞬間、私の背筋をぞくりと冷たいものが撫で上げた。
「(……狂ってる)」
預り所で見せた、あの得体の知れない優しさの正体。
それは無償の愛などという綺麗なものではない。自分自身の輪郭すら見失ってしまった人間の、狂気にも似た執着だった。
「陽介! しっかりしなさい!」
私は彼を正気に戻そうと、走りながらその袖を強く引っ張った。
しかし、陽介は振り払うようにしてさらにスピードを上げる。その虚ろな瞳に宿る狂気は、路地の奥深くへと進むにつれてさらに色濃くなっていくのだった。
このまま走らせておくのは危険だ。
そう判断した私は、真横を駆け抜けようとした陽介の足元に、思い切り自分の足を引っ掛けた。
「うわっ!?」
無防備に足をすくわれた陽介は、派手に前のめりに転倒し、路地裏の土埃を巻き上げて地面に転がった。
急な出来事に、少し前を走っていたミノリが驚いて立ち止まる。
「な、なんだ!? 急にどうした!」
ミノリの戸惑う声を無視して、私は地面にうずくまる陽介の前に立ち塞がり、冷たく見下ろした。
「あんた、いったい何があったっていうの」
「……」
陽介はうわごとのように喘ぎながら、ゆっくりと顔を上げる。
その顔は青ざめ、呼吸は浅く、視線はどこか遠くを彷徨ったままだ。
「ずいぶん自信の無さそうな顔してる」
「俺は……俺は走らなきゃ……急がなきゃいけない……」
焦点の合わない目で起き上がろうとする陽介。過去の幻影に囚われ、狂気めいた執着に呑まれかけているその頬を──。
私は、思い切り平手打ちした。
乾いた音が、暗い路地裏に響き渡る。
顔を弾かれた陽介は、目を見開いて硬直した。
「……キキョウ、ちゃ……」
呆然と私を見上げる陽介に、私は静かに、けれど強い怒りと思いを込めて告げる。
「私の知ってる向井陽介は、こんな時に冷汗を出して焦るような大人じゃない。私の脳に焼き付いている向井陽介は、誰よりも優しくて、誰よりもお人よしで、生徒を明るく、暖かく助け出すことしか頭にないバカ」
少しだけ声が震えたのは、見なかったことにしてほしい。
私は彼を真っ直ぐに見据え、言葉を叩きつけた。
「でも今のアンタはどう?」
「……」
陽介は私の言葉を受け、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。
土で汚れ、見えない恐怖に急かされるようにガタガタと痙攣していたその指先。
しかし、私に頬を打たれ、言葉をぶつけられたことで、取り憑かれていた『何か』が剥がれ落ちたように、次第にその手の震えは落ち着いていく。
彼の瞳に、確かな理性の光が戻ってきたのを確認し、私は小さく息を吐いた。
「まったく、普段の行動すら予測できないのに。こんな時にまで予測不能なことしないで」
呆れたように言い捨てると、陽介は困ったように眉を下げて、少しだけ痛む頬をさすった。
「……ごめん。目、覚めたよ」
憑き物が落ちたような、いつもの情けない、けれどどこか安心する声だった。
彼が立ち上がるのを待ち、私は頭の中で冷静に状況を計算する。
「時間にして1分半、おおよそ200mくらいは離されたはず。さっさと行くよ」
「……うん」
陽介が深く頷くのを確認し、私たちは再び、リサの消えたブラックマーケットの闇の奥へと足を踏み出した。
■■■
リサの背中を追って百鬼夜行の自治区すら抜け、気がつけば私たちは、ブラックマーケットのより深く、澱んだ闇の奥へと足を踏み入れていた。
ネオンの光も届かない、廃棄されたコンテナが立ち並ぶ路地。
そこでようやくリサに追いついた──しかし、彼女の足は私たちへの恐怖で止まったわけではなかった。
逃げ惑うリサの行く手を阻むように、一人の生徒が立ち塞がっていたのだ。
「あ、あいつ! この前キキョウちゃんとやりあった!」
陽介がその姿を認めて、小さく声を上げる。
暗がりの中でも、その好戦的な目つきと凄みのある佇まいは見間違えるはずもない。
「黒沼シオリ……」
私がその名を口にすると同時、シオリは怯えて立ちすくむリサを見下ろし、ネットリとした低い声を鼓膜に響かせた。
「逃げるのはよくねぇなァ、リサ」
「ひっ……」
「どうして嘘つくんだ。『絶対余裕』って、言ったよな?」
「それは……」
「言ったよなァ」
「……はいっ」
リサが震えながら肯定した瞬間だった。
シオリの足が容赦なく跳ね上がり、リサの腹部を情け容赦なく蹴り飛ばした。
「がっ……!?」
鈍い衝撃音と共に、リサの小さな体は路地裏の汚れた壁へと勢いよく叩きつけられる。
ゴホッ、と血の混じった咳を吐き出し、そのまま崩れ落ちるリサ。
そのあまりにも凄惨な暴力に、私はいてもたってもいられず、無言で愛銃構え、シオリの眉間へと銃口を向けた。
「……てっきりキヴォトスを逃げ回ってるかと思ってたけど、ずいぶん元気そうね」
私の冷たい声に、シオリは蹴り上げた足をゆっくりと下ろし、ニヤリと口角を吊り上げる。
「あぁ、そっちもな」
「……その服に付けてるバッジ。ヤクザの真似事?」
シオリの制服には、以前戦った時にはなかった、鈍い光を放つ金属製の代紋が光っていた。
私の挑発的な問いに、シオリは襟元のバッジを指で弾く。
「いや、これは本物だ。ブラックマーケットで暗躍する組、セリサワ組の代紋」
「……クロヌマ組だったりセリサワ組だったり。アンタたちはまだ生徒でしょ? くだらない」
ヤクザごっこも大概にしろ、という私の軽蔑を込めた言葉。
しかし、シオリの表情から余裕が消えることはなかった。むしろ、その瞳の奥には狂信的なまでの熱が宿り始めている。
「良い意味でも悪い意味でもクロヌマ組はまだ不良崩れみたいなもんだ、でもセリサワ組は違う」
シオリは腰のホルスターから自身の銃を引き抜き、私へと真っ直ぐに向け返した。
「キヴォトスを裏で支配する、最大の勢力になる」
張り詰めた空気が、臨界点に達する。
「死にな! 百花繚乱の亡霊!」
鼓膜を劈くような銃声が、ブラックマーケットの底に連続して木魂し始める。
火線が交錯し、薄暗い路地裏をオレンジ色の閃光が何度も照らし出した。
以前相対した時の一騎打ちとは違う。今の私にはミノリという心強い味方がおり、状況としては完全に二対一だ。
それにもかかわらず、シオリは一切の劣勢を感じさせることなく、私たちの連携をことごとく捌き、いなしていく。
「(……どういうこと? 前よりも格段に動きが……!)」
私が戦慄を覚えたのは、その戦闘スキルの向上だけではない。
先ほどリサを蹴り飛ばして言葉を交わしていた時のシオリは、どこか暗く淀んだ、重苦しい表情をしていたはずだ。
しかし、私たちが銃を抜き、戦闘が開始されたその瞬間──彼女の顔つきは劇的に変化した。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
ゴホッ、と口から吐き出した血が、薄暗い路地裏のアスファルトに黒い染みを作る。
背中を強打した衝撃が、内臓を掻き回すような鋭い痛みとなって全身を蝕んでいる。指先ひとつ動かすのすら億劫なほどの苦痛の中、私の薄れゆく視界は、眼前で繰り広げられる激しい戦闘の光景を捉えていた。
鼓膜を破らんばかりの銃声と、闇を切り裂く閃光。
圧倒的な力を持つシオリさんに対し、二人の生徒が果敢に立ち向かっている。
一人は、青い羽織を着た生徒。
彼女は冷徹なまでに冷静だった。次々と飛んでくる銃弾を的確にいなしながら、戦況を瞬時に計算し、無駄のない理詰めの射撃でシオリさんを牽制している。
もう一人は、ヘルメットを被った小柄な生徒。
彼女は青い羽織の生徒とは対照的に、パワフルで荒々しかった。建物の壁や障害物を破壊する勢いで重火器を振り回し、その圧倒的な火力と力技で、強引に状況を打開しようと前線を押し上げている。
そして──最後の一人。
「キキョウちゃん、右の死角! ミノリちゃん、そのまま押し込んで!」
飛び交う銃弾の音に「ひぃっ」と肩をすくませて怯えながら、二人の生徒の背後に隠れるようにして指示を出している、あの貧乏くさい大人の男。
「(……ばっかみたい)」
私は痛む胸を押さえながら、ぼんやりと心の中で毒づいた。
自分は安全な後方に隠れて、弾丸の一発すら撃てないくせに。いっちょ前に口だけは出して、震えながら見学しているだけの、情けない大人。
だけど。
どうして、あんな目をしているのだろう。
飛び交う火線の中で、必死に声を張り上げるその大人の瞳には、私の知っている『大人』の薄汚さが微塵もなかった。
計算も、保身も、見返りを求める欲すらない。
ただひたすらに、前線で戦う二人の生徒を──キキョウとミノリの力を、誰よりも、自分自身の命すらも投げ出せるほどに、完全に信じ切っている目だった。
「(どうして……?)」
理解できなかった。
大人が、私たち生徒をあんな風に信じるなんて。
どうして、私みたいな嘘つきの泥棒に、あんなに優しい態度を向けたのか。
……騙されていると分かっていて、私を預り所に泊めようとした。
……私が店を燃やそうとした時でさえ、怒るどころか『怖かったね』と悲しそうな顔をした。
「お人、よし……?」
掠れた声が、自分の唇からこぼれ落ちる。
思い返せば、先ほど私をゴミのように蹴り飛ばしたシオリさんの視線は、冷たく淀んでいた。
それは、私のスマホを直すふりをして金を騙し取った修理業者の目と同じ。私に『可愛い』と近づいてきて、体を要求してきたスーツの男たちの目と同じだった。
自分以外の人間を、利用価値のある『道具』としてしか見ていない、冷酷な搾取者の瞳。
もし、シオリさんが今までの汚い大人たちと同じだと言うのなら。
甘い言葉で私を騙し、闇バイトという名の地獄に引きずり込んだ元締めと同じ側の人間だと言うのなら。
じゃあ、あの大人は?
あのクソ貧乏で、弾丸に怯えて、それでも生徒を信じ抜いている、あの情けない大人の瞳は──。
「(……あんな目、今まで生きてきて、一度も見たことない)」
胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
逃げてばかりだった。大人のせいにして、社会のせいにして、自分は被害者だと正当化して。
でも、違う。私が私の足で歩くことを諦め、安易な道に逃げたから、こんな場所で無様に這いつくばっているんだ。
もし、あの大人の異常なまでの優しさが、嘘偽りのない本物だと言うのなら。
あの大人が、私の嘘を分かった上で、それでも私という存在を受け入れようとしてくれたのなら。
「(……逃げちゃ、だめなんだ)」
今、ここで逃げたら、私は一生『ゴミ』のままだ。
シオリさんや、私を騙した大人たちと同じ、卑怯で汚い人間のままで終わってしまう。
自分のやったことと向き合わなければ。
なんとしてでも、この足で立ち上がらなければ。
「ぁ……くっ……」
激痛に軋む関節に無理やり力を込め、私は血と泥に塗れた壁に手をついた。
足が震える。視界が明滅する。それでも、歯を食いしばって膝を上げる。
あの大人の、どうしようもないほどの『優しさ』をだましちゃだめだ。
「(弾丸は、入ってる……!)」
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「ははっ、いいぜ! もっと撃ってこいよ!」
狂気的なまでに情熱をたぎらせ、爛々と輝く瞳。
まるで、暴力と硝煙の立ち込めるこの戦いの中にこそ自分の本当の居場所があるのだと、自らの存在証明を叩きつけるように、獰猛な笑みを浮かべて彼女は引き金を引いていた。
「くっ……!」
私が身を乗り出してアサルトライフルを連射し、弾幕でシオリの動きを制限する。
銃弾がシオリの足元のコンクリートを削り飛ばし、彼女の意識が僅かに私の方へと向いた。
「今だ、ミノリちゃん!」
「おおっ! 労働者の鉄槌、受けてみろぉ!!」
私が作ったそのコンマ数秒の隙を突き、ミノリが側面から猛スピードでシオリの懐へと飛び込む。
銃撃戦から一転、至近距離での格闘戦。彼女が渾身の力を込めて武器を振り下ろす。
「チッ……!」
しかしシオリは咄嗟に銃を盾にしてそれを受け止めた。
ギギギッ、と金属同士が軋む不快な音が鳴り響く。
ミノリの腕力は、並の生徒であればそのまま押し潰せるほどのものだ。しかし、ギリギリの力比べの末、シオリの腕はそれ以上下がらなかった。
「甘いなァ!!」
「うわっ!?」
咆哮と共に、シオリが爆発的な腕力でミノリの武器を弾き返す。
完全に力負けしたミノリの体が宙に浮き、追撃の蹴りを受けて後方のゴミ山へと勢いよく吹き飛ばされた。
「ミノリちゃん!」
「くっ……」
「い、いっつ……! だ、だが、我々労働者の不屈の魂は、この程度では決して折れんぞ!!」
ガシャガシャと瓦礫を跳ね除け、ミノリは立ち上がる。吹き飛ばされた勢いの割にピンピンしており、すぐにまた元気な声で威勢よく銃を構え直した。
そのタフさには救われるが、私の額にはじっとりと冷たい汗が伝っていた。
「(駄目。このままじゃ……)」
シオリの集中力は全く途切れていない。それどころか、戦いが長引くほどにその動きは鋭さを増しているようにすら見えた。
ミノリの突撃も決定打にはならず、私の射撃も致命傷には至らない。
このまま正面からの力押しでジリ貧の消耗戦を続ければ、いずれ必ず限界を迎え、押し切られるのは私たちの方だ。
焦りが私の思考を曇らせかけた、その時だった。
私でも、ミノリでもない。全く別の方向から放たれた乾いた銃声が、路地裏の空気を引き裂いた。
「……ッ!」
目まぐるしく動いていたシオリの動きが、ピタリと止まる。
彼女の額を、一発の弾丸が的確に捉えていた。もちろん、銃弾は容易く命を奪うものではない。しかし、まともに受けた衝撃で皮膚が裂け、一筋の赤い血がシオリの顔をツーッと伝い落ちた。
シオリは額から流れる血を手の甲で乱暴に拭い、銃弾が飛んできた方向──横へと鋭い視線を向ける。私もつられて、そちらへ目をやった。
そこにいたのは。
「わた……わたわたっ、私は……私はぁ……!」
先ほどシオリに蹴り飛ばされ、ゴミ山の中で倒れ伏していたはずのリサだった。
ボロボロになった制服。痛みと恐怖でガクガクと頼りなく震える足。それでも彼女は、力強く両手で銃を握りしめ、その銃口を真っ直ぐにシオリへと向けていた。
「へぇ、なかなかガッツあんじゃん」
シオリは血の滲む額を気にする素振りも見せず、狂気を孕んだ笑みを深める。
圧倒的な暴力と力量の差を見せつけられてもなお、立ち上がったリサ。彼女は涙と土埃でぐちゃぐちゃになった顔を歪めながら、必死に言葉を振り絞った。
「私……大人をバカにしてたけど……年上なんてって思ってたけど……」
声は上ずり、手は小刻みに震えている。だけど、その目には先ほどまでの逃げ惑うだけの弱々しい色はなかった。
「今目の前で戦ってる遺失物預り所の人たちを見て……考え、変わり、ました……!」
リサの視線が、私とミノリ、そして……私たちの後ろで息を呑んで見守っている陽介を掠める。
あんなに酷い態度をとって、裏切って、火までつけようとした自分を、それでも異常なほどの優しさで助けようとした大人。そして、自分のために身を挺して強敵に立ち向かっている私たちの姿が、逃げることしか知らなかった彼女の中で、何かを決定的に変えたのだ。
「シオリ、さん。私、戦いますから……っ!」
覚悟を決めた少女の叫びが、ブラックマーケットの澱んだ闇の中に、確かな熱を帯びて響き渡った。
「ははっ、その震える手でどこを狙ってんだよ!」
「ひっ……」
シオリは獰猛な笑みを浮かべ、リサへ向けて銃口を振り向ける。
しかし、彼女が完全にリサへ意識を割いたその瞬間を、私が逃すはずがない。
「よそ見してる余裕なんて、どこにあるの」
私が即座に引き金を引く。放たれた連続する銃弾は、シオリの胴体や肩を激しく打ち据えた。
肉を貫くことこそないものの、ハンマーで殴られたような重い衝撃がシオリの姿勢を大きく崩させる。
「チッ……!」
「リサちゃん! 今撃つのが最善手! ミノリちゃんは──」
シオリは舌打ちをして咄嗟に防御姿勢をとり、私の方へ牽制の射撃を返そうとする。だが、その足元を今度はリサの放つ不器用な銃弾が削り飛ばした。
「や、やぁぁぁっ!!」
目を固く閉じ、叫びながら引き金を引くリサ。狙いも何もない乱れ撃ちだったが、土煙を上げながら足元に跳弾する弾幕は、確実にシオリのフットワークを制限していた。
「鬱陶しいガキが……っ!」
シオリが苛立ちに顔を歪め、強引に包囲を突破しようと地を蹴る。
だが、そこに待ち構えていたのは、先ほど吹き飛ばされたはずのミノリだった。
「労働者の団結力、とくと味わえぇ!!」
戦車のような突進から繰り出されたミノリの渾身のフルスイング。
シオリは再び銃を盾にしてそれを受け止めようとした。だが、リサの射撃で足場を崩され、私の射撃で体勢を崩していた今の彼女に、先ほどのような踏ん張りは効かなかった。
「なっ……!?」
「5手詰めよ、黒沼シオリ」
ガァンッ! という金属の激突音と共に、シオリの構えが大きく弾かれる。
無防備に晒されたその隙に、私が冷静に狙い澄ました弾丸を叩き込む。
胸部への強烈な打撃に息を詰まらせ、さしものシオリもたまらず後退し、ガクンと片膝を突いた。
「……そこまで」
私が冷たく宣告し、銃口を向ける。
荒い息を吐きながら膝をつくシオリ。先ほどまでの狂気的な余裕はなく、明らかな焦燥と疲労が滲んでいた。
三人掛かりの波状攻撃。いくら彼女が強かろうと、これ以上の戦闘は分が悪いと悟ったのだろう。
「……チッ。烏合の衆が束になりやがって」
シオリは忌々しげに睨みつけると、不敵にニヤリと笑った。
「今日はこのくらいにしてやる。だがな、セリサワ組の『絵』はもう止まらねぇ。お前らもせいぜい、今のうちに平和な日常を楽しんでおくんだな!」
「絵なんてどこにもないが?」
「物のたとえだよ! クソバカヘルメット!!」
「バカとは何だ!!」
次の瞬間、シオリは火事場の馬鹿力とでも言うべき爆発的な腕力で、傍らに積まれていた巨大な廃棄コンテナの扉をなぎ倒した。
「くっ……」
「あぶなぁああああい!?」
鼓膜を破るような轟音と、もうもうと舞い上がるサビと土埃。そして潰されそうになる陽介。
視界が完全に遮られた数秒の間に、シオリの気配はブラックマーケットのより深い闇の底へと完全に消え去っていた。
「キキョウ! 早く追わなければ……」
「……追わない。セリサワ組のホームで深追いは危険」
私が銃を下ろすと、周囲を包んでいた張り詰めた空気が、嘘のように霧散していった。
「お、終わった……? 終わったの……?」
カランッ、と。
リサの手から銃が滑り落ちる。極限の恐怖と緊張から解放された反動で、彼女は糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。
「うぅ……あぁぁぁっ……!」
子供のように声を上げて泣き崩れるリサ。
そんな彼女の元へ、ゆっくりと歩み寄る影があった。陽介だ。
「……よく頑張ったね、リサちゃん。もう大丈夫だよ」
彼はしゃがみ込み、土埃と涙でぐしゃぐしゃになったリサの頭を、あの過去の幻影に囚われた『異常な優しさ』ではなく、今この場にいる一人の『大人』としての、不器用で温かい手つきで優しく撫でた。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ! 私、手付金なんて欲張って……預り所も燃やそうとして……!」
「うん。でも、最後はちゃんと自分で立ち向かえた。偉かったよ」
「これが労働のすばらしさだ……」
優しく頭を撫でられながら、リサは陽介の胸で大声で泣き続けた。ミノリが謎の感動をしている横で、私は小さくため息をつく。
「……やれやれ。これで騒動は一件落着」
「キキョウちゃん、ありがとう。ミノリちゃんも」
陽介が安心したようにこちらを向いて笑う。
「お礼ならいい。それより、あの『嘘の落とし物』はどうするの? ペンダントだっけ?」
私が意地悪く聞くと、陽介は少しだけ困ったように笑い、リサの頭を撫でながら答えた。
「そんなもの、最初から無かったんだよ。……そうでしょ? リサちゃん」
「……はいっ。もう、どこにもありません……!」
泣きはらした顔で、リサが力強く頷く。
こうして、一人の少女の浅はかな嘘から始まった長い夜は、ブラックマーケットの片隅で静かに幕を下ろしたのだった。
「落とし物がないなら、遺失物預り所の仕事は最初からなし! ……解決、だね!」
「……ええ、無駄に体力は使ったけれどね」
この一幕に得などなかったはずなのに、ただ無駄に体力を消費したという損しか残らなかったはずなのに。
今この瞬間の私は、ひどく暖かい表情だっただろう。
■■■
深夜の遺失物預り所。
騒々しかったミノリはレッドウィンター連邦学園へと帰り、預り所には私と陽介の二人だけが残されていた。
ちゃぶ台の前で待っていると、台所から戻ってきた陽介が、湯気を立てる二つの容器を持って現れた。
「おまたせ! カップラーメンのカレー味にチーズねじ込んでみたよ」
「すごい匂い……」
ちゃぶ台に置かれたジャンクフードの暴力的な香りに、私は思わず顔をしかめる。しかし、戦い疲れた身体にはこの塩分と脂が妙に魅力的に映るのも事実だった。
「ほらほら、冷めないうちに食べて」
誤魔化すように笑う陽介を横目に、私は割り箸を割った。
ジャンクな味をすすりながら、私はずっと気になっていたことを切り出す。
「……で。路地裏でのアレ、一体何だったの」
ピタリと、陽介の箸が止まる。
「アレって……リサちゃんに逃げられた時のこと?」
「とぼけないで。急に冷や汗をかいて、うわごとを呟きながら走り出したことよ。誰の幻影を見ていたの?」
私が真っ直ぐに視線を射抜くと、陽介は困ったように目を泳がせた。
「いやぁ、最近ちょっと寝不足気味でさ。暗いところを走ったら、なんか変な錯覚を起こしちゃったみたいで……アハハ、気をつけないとなぁ」
のらりくらりと、核心を躱そうとする陽介。
そのあからさまな逃げ腰の態度に、私は苛立ちを覚え、ちゃぶ台に身を乗り出した。
「嘘。あれはそんな生易しいものじゃなかった。あんた、過去に何か……」
「ほんとほんと! ただの寝ボケ! ほら、キキョウちゃんも早く食べないと麺が伸び……」
「誤魔化せると思ってるの? ……私は、百花繚乱の作戦参謀だよ」
私はさらに顔を近づけ、逃げ場を塞ぐように陽介を睨みつけた。
二人の距離が限界まで縮まり、静寂が落ちる。
私の本気の追及に、陽介の顔からヘラヘラとした笑みが消え、もう誤魔化しきれないと悟ったのか、彼の額にツーッと本物の冷や汗が伝う。
「……キキョウ、ちゃん。俺は……」
観念したように、彼が重い口を開きかけた、その時だった。
ふと、私の視界の端で、何かが動いた。
ちゃぶ台の横、古い畳の上。そこを、ミミズのような異様に細長く、ぬちゃりとした虫がうごめいていた。
「(あ)」
思考よりも先に、私の身体が動いた。
百鬼夜行の生徒としての、あるいはなにか抑えきれない『本能』のようなものに突き動かされ、私の右手は無意識のうちに、そのうごめく標的へと振り下ろされていた。
鈍い音と共に、私の手のひらが何かを完璧に押し潰す。
沈黙。
私は何の感情もない無表情のまま、その手のひらをゆっくりと持ち上げ、目の前の陽介へと突き出して見せた。
「…………」
それを見た陽介の顔が、恐怖で青ざめ、目が見開かれる。
「うぉぉぉぉおおおおあああああああ!?」
深夜の預り所に、陽介の絶叫が響き渡った。
その尋常ではない叫び声に、私は首を傾げ、突き出していた自分の右手を裏返して、見下ろした。
潰れた虫の残骸。
そして、手のひらにネットリとへばりつく、生温かくて、ひどく気持ちの悪い感触。
「うわあああああぁぁぁぁぁ!!!!」
一拍遅れて脳がその事実を理解した瞬間、私の口からも陽介に負けないほどの絶叫が飛び出していた。
「勘弁してよキキョウちゃぁぁぁぁぁぁあああああん!!!!」