【完結】キキョウより湿度の高い男 in キヴォトス   作:曇りのち晴れ男

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第九話 その面影に

 

 パチリ、と。

 遺失物預り所の静かな空間に、将棋の駒を盤に打ち付ける小気味良い音が響いた。

 

 いつものように、私と陽介はちゃぶ台を挟んで将棋盤に向かい合っていた。

 盤面を見つめる陽介の目はいつも通り真剣で、預り所には平和で穏やかな時間が流れている。

 ……そう、思っていた。

 

「なぁ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」

 

 ふいに、腕組みをして傍らで見学していたミノリが、酷く真剣な眼差しで話を切り出した。

 いつもなら「労働者の権利が~」と威勢よく騒ぐ彼女の、妙に低く、切迫したような声色。

 

「ん~? どしたのミノリちゃん。あ、王手──」

 

「……あの写真のことだ」

 

 カチッ、という不自然な音が鳴った。

 陽介が飛車を打ち込もうとしていた手元が、ミノリの言葉を聞いた瞬間に信じられないほど大きく狂ったのだ。

 指先から滑り落ちた飛車は、本来置かれるべきマスからえらくズレた、全く意味のない場所へと転がった。

 

「ちょっと、何してるの。アンタらしくもない」

 

 私は盤面から顔を上げ、不審に思って陽介を睨む。

 いつもなら「あちゃー、手が滑った!」とでも誤魔化してヘラヘラ笑うはずの彼だが、今の顔からは完全に血の気が引いていた。

 昨晩、百鬼夜行の路地裏で見せたあの時と同じか、それ以上に激しく動揺し、呼吸すら浅くなっている。

 

「……ミノリちゃん、やめて」

 

 絞り出すような、ひどく震える声だった。

 しかし、ミノリは退かない。彼女は作業着のポケットから乱暴に何かを取り出した。

 

「いいや、やめない。いい加減に話してもらおう。あのキキョウと映った写真のことを!」

 

「……何のこと?」

 

「やめるんだ!!」

 

 鼓膜を劈くような、悲痛な叫びだった。

 ちゃぶ台をバンッと両手で叩き、陽介が弾かれたように立ち上がる。普段の飄々とした彼からは想像もつかない、ひどく荒げた声だった。

 その異常な反応に、ミノリは「やはり確信犯か」という様子で、追及の手を緩めるどころかさらに鋭く目を細める。

 

 私は眉をひそめ、ミノリと陽介を交互に見遣る。

 

「私は陽介と一度も写真は撮ってない。そんなもの、存在するはずがない」

 

「……」

 

 私の否定に対しても、陽介はうつむいたまま何も答えない。

 ただ、ギュッと拳を握りしめ、冷や汗を流して黙り込んでいる。その異様な沈黙が、私の胸の奥に嫌なざわめきを呼び起こした。

 

「これが確たる証拠だ」

 

 ミノリの力強い宣言と共に、一枚の古い写真がちゃぶ台の真ん中──崩れた将棋盤のすぐ横へと叩きつけられる。

 

 私は、ちゃぶ台の上に投げ出されたその写真を、ゆっくりと手に取った。

 

 少しだけ色褪せた、古い写真。

 そこに写っていたのは、今よりいくらか若い顔つきをした陽介と──。

 

「これ、いったい……」

 

 私は思わず息を呑み、目を見開いた。

 陽介の隣で、楽しそうに笑ってピースサインを作っている少女。

 髪の長さも、顔立ちも、纏っている空気すらも。それは、まるで鏡を見ているのかと錯覚するほど、私と『瓜二つ』の人物だったのだ。

 

 だが、断じて私ではない。私にはこんな写真を撮った記憶もなければ、こんな無防備な笑顔を彼に向けたことすら一度もない。

 

「出て行ってくれ……頼む」

 

 頭を抱え、ちゃぶ台に突っ伏すようにして陽介が呻いた。

 その声は微かに震え、恐怖とも後悔ともつかない感情に支配されている。彼から発せられる空気が、以前路地裏で見せたあの『異常な状態』に近づきつつあるのが分かった。

 

「……」

 

 私は何も言えず、ただ写真の中の『私ではない誰か』を呆然と見つめていた。

 だが、ミノリ部長は引き下がらない。

 

「話してくれ、陽介! 隠し事は良くないぞ。我々労働者は真実を知る権利が……!」

 

「頼むから!!!」

 

 ビクッと、私の肩が跳ねた。

 それは怒りではない。過去の亡霊から逃れようとするような、血を吐くような哀願だった。

 陽介は両手で顔を覆い、過呼吸のように肩を激しく上下させながら、震える声で言葉を絞り出す。

 

「……ちゃんと、話すから。今は、少し、時間がほ、欲しい……」

 

 今にも粉々に砕け散ってしまいそうな、ひどく脆い響き。

 これ以上彼を追い詰めるのは危険だ。私の理性がそう警鐘を鳴らした。

 

 本人がちゃんと話すと言っている以上、ここで無理に口を割らせるのはどう考えても悪手だ。彼を完全に壊してしまう。

 

「……行くよ、ミノリ部長」

 

 私は静かに写真をちゃぶ台に戻し、ミノリの腕を強く掴んだ。

 

「しかし、キキョウ! ここで追及の手を緩めては……」

 

「いいから。今は引くよ」

 

 私が静かに、けれど有無を言わさない強い力で腕を引くと、ミノリ部長も陽介のただ事ではない様子に気圧されたのか、不満げに口をつぐんで大人しく従った。

 

「……待ってるから。必ず話して」

 

 ちゃぶ台に突っ伏して震える背中にそれだけを言い残し、私たちは遺失物預り所を後にした。

 

 ■■■

 

 昼下がりの陽射しが降り注ぐ百鬼夜行の自治区。その石畳を歩きながら、私は思考の海に深く沈み込んでいた。

 

「まったく、納得いかんぞキキョウ! あそこまで追い詰めたのだ、一気に真実を吐き出させるべきだった!」

 

 隣を歩くミノリ部長が、拳を振り上げながら不満を爆発させている。

 

「労働者には知る権利がある! あの不自然な態度、何かとんでもない隠し事をしているに違いない!」

 

「……無理。あのまま追及を続けてたら、あいつは完全に壊れてた」

 

「む……壊れる、だと?」

 

「ええ」

 

 私は短く答え、路地の先へと視線を向けた。

 脳裏にこびりついて離れないのは、先ほどの陽介の異様な姿だ。ちゃぶ台を叩き、血の気を引かせて叫んだあの悲痛な声。底知れない恐怖と後悔に支配されたような、痛ましいほどの取り乱し方。

 

 それに何より──あの写真だ。

 

 陽介の隣で無防備に笑っていた、私と瓜二つの少女。

 間違いなく、あれは私ではない。私には彼とあんなふうに写真を撮った記憶はないし、あんな無邪気な笑顔を見せたこともない。だが、顔立ちも、髪の長さも、纏っている空気すらも、自分のドッペルゲンガーを見ているようだった。

 

「……一体、誰なの……?」

 

「何か言ったか、キキョウ?」

 

「なんでもない。ねえ、ミノリ部長。ちょっと気になったんだけど」

 

 私は歩みを緩め、隣で不思議そうに首を傾げるミノリ部長を見た。

 

「そもそもあの『遺失物預り所』って、いつから百鬼夜行にあったのかな」

 

「ん? いつからと言われてもな……気がついたらあそこの路地裏にあった、としか言いようがないが。それがどうしたのだ?」

 

「いえ。あんな得体の知れない大人が、どういう経緯でこの自治区に根を下ろしたのか、少し疑問に思っただけ。……ちょっと役所に寄る。調べたいことがあるの」

 

「おっ、労働基準法違反の証拠探しだな!」

 

 ■■■

 

「……あった」

 

 静まり返った自治区の資料室。山積みになった書類の束を掻き分け、私は目当てのファイルを引き抜いた。

 百鬼夜行に提出された、各店舗の開業届が綴られた分厚いファイル。少し埃を被ったそのページを素早くめくり、『遺失物預り所』の項目に目を落とす。

 

「どうだキキョウ! やはり脱税か? それとも不当労働行為の記録があったか!?」

 

「静かにして、ミノリ部長。……これ、見て」

 

 身を乗り出してくるミノリ部長の前に、私はその書類を差し出した。

 代表者名、向井陽介。そして、届出が受理された日付。

 

「ん? ただの開業届じゃないか。日付が……何だ、少し前の話だな。これがどうしたというのだ」

 

「ミノリ部長は覚えてないの? この日付、キヴォトスの空が不吉な赤に染まって、『虚妄のサンクトゥム』が各地に一斉出現した日の……ちょうど一週間後よ」

 

「なっ……!?」

 

 ミノリ部長の目が驚愕に見開かれる。

 そう、世界が終焉しかけたあの日だ。各学園が甚大な被害を受け、数え切れないほどの混乱と、そして『喪失』が生まれた未曾有の厄災。

 

「キヴォトス中がパニックになって、復興すらままならないような時期だよ? そんな時に、わざわざこんな路地裏で『落とし物を探す店』なんて、悠長なものを立ち上げようと思う?」

 

「た、確かに……異常だな。普通なら、自分の生活を立て直すだけで精一杯のはずだ」

 

 私は書類から顔を上げ、埃の舞う資料室の虚空を睨んだ。

 写真に写っていた私と瓜二つの少女。過去の亡霊にひどく怯える陽介。そして、世界が混乱の極みにあった時期に設立された、遺失物預り所という場所。

 

 バラバラだった不可解な点と点が、一本の黒い線で繋がりつつある。

 

「偶然……って訳じゃなさそう」

 

 呟いた私の声は、ひどく冷たかった。

 資料室の空気は淀み、時計の針の音だけが不気味に響いている。

 

「どういうことだ、キキョウ?」

 

 ミノリ部長が訝しげに顔を覗き込んできた。私はファイルをパタンと閉じ、先ほどちゃぶ台に叩きつけられた『あの写真』の記憶を脳内で鮮明に呼び起こす。

 

「ミノリ部長。あの写真に写ってた少女の服……どこの学園の制服か、分かった?」

 

「ん? いや、それが全く見当もつかん。私はキヴォトス中のあらゆる労働現場と制服を網羅している自負があるが……あんな意匠の制服は、どこの自治区にも存在しない。仕立ての規格そのものが、私たちの知るものとは全く違っていた」

 

「……そう。キヴォトスには存在しない規格」

 

 私は資料室の薄暗い天井を見上げた。

 頭の中で、バラバラだったピースが『パチリ、パチリ』と音を立てて組み上がっていく。

 作戦参謀としての私の脳髄が、感情を置き去りにして、一つの残酷な計算式を弾き出そうとしていた。

 

 世界が異様なものに侵され、空が赤く染まった日。

 あの時、キヴォトス各地で空間の歪みや不可解な現象が多発した。もし、その空間のバグによって、キヴォトスとは全く違う『外の世界』から迷い込んできた大人がいたとしたら? 

 

「……キヴォトスの外の人間」

 

「なっ……外、だと!? 馬鹿な、そんなことがあり得るわけが……!」

 

「証明はできない。でも、そう仮定すればすべての辻褄が合うわ」

 

 私は自分の声が微かに震えているのを自覚しながら、言葉を紡いだ。

 

「外の世界から来た大人が、見知らぬ土地でどうにか生き延びて、この遺失物預り所を開いた。……そして、あの写真に写っていた『私と瓜二つの少女』は……」

 

 そこまで言いかけて、息が詰まった。

 心臓の奥が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛むからだ。

 

 陽介があの路地裏で見せた、異常なまでのパニック。

 自分が傷つくことも厭わず、狂気的なまでに100%の力で他人を助けようとする、あの『呪い』のような自己犠牲。

 そして、あの写真を見た瞬間に彼が見せた、血を吐くような後悔の姿。

 

「……もう、死んでるんじゃない?」

 

「キキョウ……?」

 

「あの少女は、もうこの世……正確には『あっちの世』にいない。彼がいた元の世界で、取り返しのつかない形で喪われた。……だから彼は、あんなにも過去の亡霊に怯えてるのよ」

 

 計算式が、完成してしまった。

 そして導き出された『答え』は、私という存在の根幹を無惨に打ち砕くものだった。

 

 彼が私に優しくしてくれた理由。

 深夜に将棋を教えてくれた時間。

 私が銃撃に晒された時、自分の身を盾にしてまで守り抜こうとした、あの異常な執着。

 

 すべては、私が『あの少女』と瓜二つだったから。

 彼は私を通して、過去に救えなかった誰かの幻影を見ていただけなのだ。

 

「……最低」

 

「おい、キキョウ。顔色が悪いぞ。大丈夫か?」

 

「……なんでもない」

 

 私はミノリ部長の手を振り払い、踵を返した。

 傷つきたくなかった。これ以上、自分の心が惨めに崩れ落ちる前に、分厚い論理の壁で周囲を塞がなければならない。

 作戦参謀の『穴熊』だ。感情を殺し、冷徹な計算式だけで相手を盤面から排除する。

 

「ミノリ部長。レッドウィンターに帰って」

 

「な、なんだと!? まだ真実は……!」

 

「十分。答えはもう出た。……あとは、私個人の問題だから」

 

 有無を言わさぬ冷たい声でそう告げると、私は呆然とするミノリ部長を置いて、逃げるようにその場を後にした。

 

 ■■■

 

 感情を殺せ。私は百花繚乱の作戦参謀だ。

『穴熊』を組め。誰にも踏み込まれない、強固で冷徹な論理の壁を。

 私はただの代用品。それ以上でも、それ以下でもない。無価値な事実として処理すればいいだけのことだ。

 

 ──その時だった。

 

「チッ、今日のシノギはこれだけかよ。百鬼夜行のガキ共はシケてんな」

 

「上に報告すんのも馬鹿らしいっスね。……お、なんだこのきしょいぬいぐるみ。さっきのガキが落としてったやつか?」

 

 薄暗い路地の先から、下品な笑い声が鼓膜を打った。

 足を止め、視線を向ける。そこには、百鬼夜行には似つかわしくない黒服に身を包んだチンピラが3人、薄汚れた何かを蹴り合いながらヘラヘラと笑っていた。

 

 その胸元には、見覚えのある代紋が光っていた。

 この自治区の裏で暴れているというヤクザの組織──『セリサワ組』の下っ端だ。

 

「ギャハハ! 泥水吸ってさらに薄汚く……って、痛ぇな! 何しやがる!」

 

 不良の蹴りを受けた手作りの猫のぬいぐるみが、泥水の中に無惨に転がり、ほつれた糸から綿がはみ出している。

 おそらく、持ち主の子供にとっては世界に一つだけの、何よりも大切な『落とし物』だ。

 

 ああ、そうだ。彼ならきっと、あんな泥だらけのゴミみたいな落とし物でも、自分の身を呈して取り返しに行っただろう。

 そして、持ち主に笑って返すのだ。自己満足の、贖罪のために。

 

「……」

 

 私は無言のまま、自分の銃に手をかける。

 普段の私なら、こんな末端のチンピラとの無意味な小競り合いは避ける。厄介な組織の連中なら尚更だ。

 

 だが、今の私の頭の中では、異常な計算式が弾き出されていた。

 

 泥水に沈む、無惨なぬいぐるみ。

 誰かの想いが込められていたはずなのに、今ではただの汚い布切れとして扱われているそれ。

 それが酷く──『身代わり』として扱われていた自分自身の惨めな姿と、重なって見えたのだ。

 

 ガシャリ、と。

 ボルトを引く冷たい金属音が、路地裏に響いた。

 

「あ? なんだお前──」

 

 セリサワ組の男が振り返り、言葉を発し終えるよりも早く、私は引き金を引いた。

 

「ひっ!?」

 

 一切の躊躇いのない射撃。

 弾丸はチンピラたちの足元と、彼らが持っていた得物を正確に弾き飛ばし、火花を散らした。

 

「な、なんだこいつ!? いきなり撃ってきやがった!」

 

「おい、やっちまえ!!」

 

 パニックに陥った男たちが、慌てて銃を構えようとする。

 遅い。

 私は銃を構えたまま、最短距離を無駄のない動きで駆け抜け、一番手前にいた男の懐へと飛び込んだ。

 

「がはっ!?」

 

 銃身で鳩尾を容赦なく打ち据え、くの字に折れ曲がった体を蹴り飛ばす。

 そのまま反転し、二人目の膝裏を強く蹴り抜きながら、至近距離から銃弾を浴びせる。

 悲鳴が上がる。血も涙もない、ただ相手を完全に『盤面から排除する』ためだけの、冷酷で機械的な暴力。

 

「て、てめぇ……! 俺たちをセリサワ組と知って……!」

 

 最後の一人が、恐怖と怒りに顔を引き攣らせて後ずさる。

 私はその顔に銃口をピタリと突きつけ、感情の一切こもっていない、氷のように冷たい声で告げた。

 

「……だから何? 3秒以内に私の視界から消えないなら、『制圧』から『排除』に切り替えるよ」

 

「ひぃっ……! お、覚えてろよ化け物女!!」

 

 腰を抜かしかけた男たちは、捨て台詞を吐きながら這うようにして路地の奥へと逃げ去っていった。

 あっという間に、再び無機質な静寂が戻ってくる。

 

「……はぁ」

 

 小さく息を吐き、私は銃を下ろした。

 無意味だ。こんなことをしても、心にぽっかりと空いた穴は何も埋まらない。

 

 私はゆっくりと歩み寄り、泥水の中に転がっていた『手作りの猫のぬいぐるみ』を拾い上げた。

 

 泥を払い、ほつれた綿を指先で不器用に押し込む。

 しかし、どんなに体裁を取り繕ったところで、このぬいぐるみについた泥汚れは完全に落ちることはない。一度壊されたものは、もう二度と元には戻らないのだ。

 

「……いくら繕ったところで、これはただの偽物」

 

 私は泥だらけのぬいぐるみを、路地裏のブロック塀の上に静かに置いた。

 

「誰かの失くした『本物』の代わりになんて、なれるわけないのにね」

 

 ぽつりと零れ落ちた声は、自分でも驚くほど震えていた。

 顔を上げると、すっかり陽が落ち、完全な夜の帳が百鬼夜行を包み込んでいた。

 

 もう、時間だ。

 私は作戦参謀。この惨めで愚かな『おままごと』の盤面を、終わらせに行かなければならない。

 感情を殺し、冷徹な事実だけを突きつけるために。

 

 私は振り返ることなく、暗闇に沈む遺失物預り所へと向かって歩き出した。

 

 ■■■

 

 すっかり陽の落ちた百鬼夜行の路地裏。

 昼間の喧騒は嘘のように鳴りを潜め、冷たい夜風が私の頬を撫でていく。

 

 遺失物預り所の前には、灯りが点いていなかった。

 いつもなら、だらしない姿勢で縁側に座り、たい焼きでもかじっているはずの彼の姿はない。

 

 引き戸の前に立ち、私は深く深呼吸をした。

 胸の奥で渦巻く感情──悲しみ、怒り、そして惨めさ──を、重い鉄の扉の奥に封じ込める。私は作戦参謀。ただ事実を突きつけ、彼の欺瞞を暴き、この馬鹿げた『おままごと』を終わらせるだけだ。

 

「……入るよ」

 

 返事はない。

 軋む引き戸を開けると、暗闇の中に、うずくまるような一つの影があった。

 

「陽介」

 

 ちゃぶ台の前に座り込み、彼は頭を抱えていた。

 床には、昼間弾き飛ばされた将棋の駒が散乱している。彼の手元には、あの『写真』が握りしめられていた。

 

 私が声をかけても、彼は顔を上げない。

 ただ、過呼吸のように肩を震わせ、何かをうわごとのように繰り返している。

 その姿は、大人の余裕など微塵もない、過去のトラウマに完全に押し潰された哀れな敗北者のそれだった。

 

「……いい加減にして」

 

 私の口から出たのは、氷のように冷たい声だった。

 

「昼間、役所で調べてきた。アンタの店ができた時期、そしてキヴォトスには存在しないあの制服。……私の計算式が弾き出した答えを、言ってあげようか?」

 

 ビクッと、陽介の肩が跳ねた。

 

「アンタは外の世界の人間。そして、その写真の子は……もう死んでる。アンタのせいでね」

 

「……ッ!!」

 

 陽介が弾かれたように顔を上げた。

 暗闇の中でも分かるほど、彼の顔は蒼白で、目には尋常ではない恐怖と絶望が浮かんでいた。図星だ。私の言葉が、彼の最も柔らかくて痛い傷を的確に抉ったのだ。

 

「アンタが私に異常なほど執着して、気持ち悪いお節介を焼いてきた理由も分かった。……私を、その子の『身代わり』にしてたんでしょ」

 

「ちが……っ、キキョウちゃん、それは……!」

 

「違う? 何が違うの?」

 

 気がつけば、私は声を荒げていた。

 感情を殺すはずだったのに。冷徹な作戦参謀でいるはずだったのに。

 声が震え、視界が滲むのを止められなかった。

 

「ふざけないで……! 一緒に将棋を指したのも、くだらない冗談で笑い合ったのも、路地裏で私を助けてくれたのも……全部『私』じゃない! アンタは私を通して、ずっとその子を見てただけ!」

 

「……」

 

「私は、百花繚乱の作戦参謀、桐生キキョウ! アンタが過去に救えなかった、か弱い女の子なんかじゃない! ……他の誰かの代わりになんて、死んでもなってやらない……!!」

 

 沈黙が落ちた。

 私の血を吐くような叫びが、狭い預り所の空間に吸い込まれて消えていく。

 

 ハァ、ハァと荒い息を吐きながら、私は彼を睨みつけた。

 これでいい。これで彼は私を突き放す。私も彼を軽蔑して、二度とここには来ない。このひどく痛む傷も、一人で舐めていればいつかは治る。

 

 そう、思っていた。

 

「……ごめん」

 

 静かな、声だった。

 パニックで震えていたはずの陽介の呼吸が、嘘のようにスッと落ち着いていた。

 

 彼はゆっくりと立ち上がり、乱れたちゃぶ台の前に座り直した。

 そして、床に落ちていた『飛車』の駒を拾い上げると、パチリ、と静かに盤面に置いた。

 

「陽介……?」

 

「君の言う通りだ、キキョウちゃん。君の計算式は、いつだって完璧だ」

 

 彼は、真っ直ぐに私を見た。

 その瞳にはもう、過去の亡霊に怯える恐怖はなかった。

 代わりにあったのは、自分自身の罪をすべて引き受けるという、静かで、途轍もなく重い『覚悟』の色だった。

 

「俺は、君に……あの子の影を重ねていた。どうしようもない後悔から逃げるために、君を身代わりにして、勝手な自己満足を押し付けていた。……本当に、最低な大人だ」

 

 自嘲するように笑うその顔は、今にも泣き出しそうに見えた。

 

「俺が黙って逃げ続けたせいで、君を……目の前にいる『桐生キキョウ』という一人の女の子を、こんなにも深く傷つけてしまった。……それだけは、絶対にやっちゃいけないことだったのに」

 

 彼は深く息を吸い込み、そして、私の目を真っ直ぐに射抜く。

 

「君の計算式は完璧だ。……でも、一つだけ間違ってる」

 

「……何が」

 

「君は、誰の身代わりでもない。俺が今、目の前で向き合っているのは、誇り高き百花繚乱の作戦参謀……桐生キキョウだ」

 

 その言葉の熱量に、私は思わず息を呑んだ。

 

「……聞いてくれるか」

 

 陽介は、ちゃぶ台の上の写真を静かに伏せて、静かに話し始める。

 

「俺が……どうしようもない大人の甘えで、世界で一番大切なものを壊してしまった、最低な話を」

 

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