「ん?」
耳を叩いた自分の名前に振り向くと、僕は目を丸くしてしまった。
所在のわからなかった神様が、人ごみをかき分けてこちらに駆け寄ってきていたからだ。
「神様!? どうしてここに!?」
「おいおい、馬鹿言うなよ、君に会いたかったからに決まってるじゃないか!」
目の前で立ち止まった神様は何故か誇らしげにその大き過ぎる胸を張ってそんなことをのたまう。
答えになってない答えに、僕は汗を湛えてしまった。
そんな中、唯一事情を知らないリューさんが僕に少し申し訳なさそうに問う。
「あの…クラネルさん。この神が貴方の主神なのですか?」
「はい、僕の神様のヘスティア様です!」
「やぁ、始めまして。君がアストレアの子かい?」
そうヘスティアは先程までの慌ただしい姿を放り投げ、身なりを軽く整えてリューさんの方を見やりながら答える。
「はい、ヘスティア様…は、アストレア様のお知り合いなのですか?」
「あぁ、そうさ!天界ではいつもヘラを止めるために、僕とアストレアが頑張っていたからね、ある種の苦労人仲間さッ!」
「(神様……ごめんなさい)」
「(気にすることないぜ、ベル君。全部ゼウスが悪いんだからね)」
「そうだったのですか、申し訳ありません。貴方の眷族を借りてしまって」
そこからリューさんは事情を説明した。酒場でのやり取り、そこからシルさんに財布を届けることになったこと、その途中でなんやかんや2人で祭りを見て回っていたこと、など等々。
それを聞いたヘスティアは最初は普通に聞いていたが、最後のほうは何処か安心したような顔持ちをしていた。
「そうか、気にすることないぜ。人助けは良いことだからね!それに…、ベル君をこういうお祭り事に連れ出してくれたのは、感謝してるんだぜ」
「…感謝とは? 私は感謝されるような事は」
「ベル君はいっつもダンジョンばっかで全然休まないんだ。だから君が連れて行ってくれなかったら今日もきっとダンジョンに潜ってた。君のおかげだよ」
「そう…でしたか。 いえ、私としても中々楽しい時間でしたので」
そう、神様とリューさんは互いに少しクスクスと笑い合っていた。
そしてリューさんがふぅと息を一瞬吸い、そして神様と僕に言う。
「私は此れで。後は私の方でシルは探しているので、お二人はお祭りを楽しんで下さい」
「…何を言ってるんだい?僕達も協力するに決まってるじゃないか」
「そうですよ、リューさん」
そんな僕達の言葉に、リューさんは少し戸惑いながらも言葉を紡ぐ。
「ですか、これはもとはと言えば私が……」
「良いんだよ、僕達にもやらせておくれ。このままでは、君とそのシルって子が出会いたのか気になり過ぎて、お祭りも楽しめないってもんだぜ!」
「そうですよねぇ。なので僕達も協力しますよ、リューさん」
そんな僕達の言葉に、リューさんは一瞬目を見開いて、でもすぐに瞳を閉じて優しい笑顔を浮かべながら「では、是非お願いします」と返す。
そうして僕達はシルさんを探すためにお祭りの中央たる闘技場へと向かう。
………
……
…
「さあベル君ッ、リュー君ッ! 次はじゃが丸君を食べに行こうぜ!!」
「あ…待って下さいよ、神様〜」
「…まだ、行くのですか?」
そう、リューさんが零すように呟いた。
僕達はもう神様の後を着いて行って30分が経過していた。だが神様はその間絶え間なく屋台へと赴き、食べ物を買い漁っていた。
リューさんに「やはり私一人で…」と言わせてしまい、僕は「すみません」と弱々しく返すことしか出来なかった。
「フフッ、初めて…かな」
僕は遠くの屋台で『じゃが丸君』を買っている神様を眺めながらつぶやいた。
「何がですか?」
「いえ、こう神様と何処かへお出かけするのがですよ」
歳相応というのは変だけど、今の神様はその幼い容姿通りの振る舞いを見せている。
あどけなく笑ったり出店の品物を見て瞳を輝かせたり、いつもホームで僕を出迎えてくれるあの大人びた神様とは雰囲気がまるで違う。
微笑ましいというのもあるんだけど、何ていうか、その、うん……とても可愛らしい。
何だが…こう、妹のような。レフィによく似てる気がする。
「貴方は…何故強くなりたいんですか?」
「え?」
リューさんの突然の質問に、僕は思わず聞き返してしまう。それに、もう一度同じ質問をリューさんは返し、そして視線を合わせて問うてくる。
澄み切った空色の双眸が、僕の
「僕は……世界を救うって…『最後の英雄』になるって誓った相手がいて…。だから強くならなきゃいけないんです」
「『最後の英雄』…ですか?」
それは、かつての誓い。あの日からずっと胸の中にあり続けた物であり、これからも忘れる事は絶対にあり得ないであろう
「『隻眼の黒竜』を討つ、それが僕の意味」
母を喰らって生まれた、僕が生きる意味。強くなり、竜を討ち、『最後の英雄』へと至る。
それこそが僕の強くならなければならない理由。それこそが義母との誓い。
「だから…、ですかね。僕はこういう『お祭り』にはあまり興味がないんですよ。それに、今の僕に、何かを楽しむ余裕はありませんから」
思い出すのは、お義母さん達と共に世界中を旅した頃。
まだ十歳の頃から始まった旅は、十二歳までの二年間続いた。 お義母さんやお祖父ちゃんが、『お前には、世界の広さを知る必要がある』と言う理由で世界中を旅しながら色んな英雄譚を読み聞かせてくれたお祖父ちゃんや、色んな景色を見せてくれたお義母さん。伯父さんはその御当地ならではのご飯をいっぱい作ってくれたり、お祖母ちゃんはたまに迷子になる僕をいつも一番最初に見つけてくれたりした。
たった二年間だけの思い出だけど、僕にとっては何よりも大切な思い出だ。
今思えば、あの頃の僕は兎に角生き急いでいた。鍛錬に明け暮れ、一日中木刀を振っていた。
そんな僕を見かけたのだろう…、もしお義母さんや伯父さんが今の僕を見たら、即刻お叱りだろう。
もっと飯を食え、もっと休息をとれ。あーしろ、こーしろ、そう口煩く言われるだろうな。
あの人達との思い出があるから…、楽しかった思い出を、これからも作っていく為に…僕は英雄にならなきゃいけない。
「…そう、ですか」
僕の言葉に、リューさんは何が考え込む素振りを見せた後、少し躊躇いながらも言う。
「貴方は…『優しい人』だ」
「…優しい、ですか?」
「はい、誰かの為に見を粉にする事はきっと『正義』だ」
「『正…義』、ですか。 そう…だったらいいですけどね」
「大丈夫です、
そう、何処か哀愁漂う表情でリューさんは僕に言う。その言葉に少し疑問?と言う訳ではないが、何処か含みのある言い方をするリューさんに僕を問いを投げ掛けようと、
「リューさん、さっきの────
「お〜い、ベルく〜んッ、リューく〜んッ、『じゃが丸君』買ってきたよ〜」
した所で、神様の豊満な双丘により前のめりになっているじゃが丸君が沢山入った紙袋を両手で大事そうに抱えながらこっちへスタスタと走ってきた。
「何の話をしてたんだい?」
「…いえ。なんでもありませんよ、神様」
その神様の問いに、僕は何でもないような素振りをしながら返事をする。
当然、神様達に嘘はつけない。でも、僕の表情から何かを察してくれたのか、神様はそれ以上追求する事はなかった。
「そうかい?なら良いんだけど」
そう神様は言いながら両手に抱えていた神様からじゃが丸君を取り出して僕とリューさんに渡してきた。
リューさんは「大丈夫です、それに申し訳が…」と言っていたが最終的に神様が押し切る形でリューさんは折れた。
僕は神様から貰ったじゃが丸君を一口、すぐに美味しくて、
「あんーーーーーまっ?!」
なんだこれは?!あまりにも甘すぎて『
リューさんは若干微妙な表情を浮かべ、神様に至っては凄まじい顔をしながらも、じゃが丸君を食していた。
「か…神様。 なんですか…この、この世の甘さを全て合わせたみたいな凄まじい食べ物は…」
「流石に…これは。いや…でも、シルの料理よりは…」
流石の第一級冒険者であるリューさんとて良い顔はしない…というか、シルさんの料理はやっぱり不味いのか?!いや、独特な感性と味をしてはいるなと思ってはいたが…やっぱり不味いんだ。
僕は伯父さんの教えで料理は基本残さないし、昔山で一ヶ月間もの間野宿させられていた時は森にいる動物や、モンスターの肉を喰らった事もある。だけど、それらは全部伯父さんに習った調理過程を施した『完成された料理』であり、人が食べることをしっかりと想定されていたものでもある。
だがこのじゃが丸君は…兵器だッ?!神様は僕が甘い物が苦手なのは知っている。なのにこれを選んだ…つまり、僕に対しての…、
「(嫌がらせ?! なんで)」
微塵も心当たりがない僕は内心ひたすら焦りながら最近のことを思い出す。 だが無論、最近神様と一緒にいた記憶がない僕には何も分からず、ただテンパるだけだった。
「やっぱり…美味しくないなぁ〜」
「やっぱりってどういうことですか?」
「いやぁね、いつもじゃが丸君を買ってくれる冒険者がよく頼んでるっていう物と同じ物を買ったんだけと…、全然美味しくないなぁ〜」
「ちなみに、それは誰ですか?」
「知らないよ、だってタケに聞いたんだから…。やっぱり『じゃが丸君小豆クリーム味。クリーム増々』はどう考えも駄目だったかぁ~」
え? なんですかそのこの世の甘さを全て集約させたような頭の悪い『じゃが丸君』は?! そんな物頼むような人居るのかなぁ?
僕は内心、神様の話を半信半疑で聞いていた。というか隣にいるリューさんはどういう顔をしてるの? そのなんとも言えないような微妙な顔は…。簡単に言うと、『知ってる、それを買いそうな第一級冒険者を?!』見たいな顔をしてる。
「じゃあ行こうか!! ベル君が羽目を外すなんて滅多にないんだから!!」
「…はい、神様。 ごめんなさい、リューさん」
「いえ。クラネルさんが無理をするのは、それはそれでシルが心配するでしょうし」
さっきまでの甘ったるいどんよりとした空気を神様が吹き飛ばしながら、僕達はその後を着いて行った。
よく考えれば、こうして神様と一緒にのんびり過ごすのは初めてかもしれない。
【ファミリア】を発足してからは、僕は常にダンジョンへ特効してたし、神様は毎日バイトだったし。
人通りの間を縫って、僕とリューさんは神様の後へ着いて行った。
二人で苦笑しながらも、上機嫌な神様に振り回されていた。
それは大きな歓声とともに始まった。
ぶわりと土煙が舞い、鎖から解き放たれた一匹のモンスターが咆哮を引きながらまっしぐらに突き進む。二Mにも及ぶ巨大な猪のモンスター『バトルボア』の体当たりを、たった一人で待ち構えていた彼女は、その短い髪をなびかせながらすんでのところで躱してみせた。
重なり合い響き渡る大音声。熱気の渦が五万人もの数を収容できる観客席を包み込む。
都市の東部に存在する
夥しい数の観衆に見守られる中、本日のメインイベント、
中央のフィールドではこの日のために捕獲されたモンスターがその凶暴性を解放し、一匹の獲物に向かってひたすら四足を漕ぐ。岩も容易く粉砕する文字通りの猪突を、【ガネーシャ・ファミリア】の
それは見る者が見れば
この
モンスターの上げる雄叫び、魔石製品の拡声器によって轟く司会者の口上、波打つ観衆の叫喚。会場のボルテージはとどまることを知らない。
「始まった……」
会場の盛況ぶりにエイナはぽつりと呟いた。
闘技場の外に待機していた彼女は、内部からびりびりと伝わってくる音と振動を肌で感じながら、背を向けていた建物に振り返る。
現在、エイナ達ギルド職員は闘技場の至る場所に動員されていた。主に観客の入場や誘導、そして【ガネーシャ・ファミリア】のサポートを行うためだ。
「(私がこんなこと考えちゃいけないんだけど……どうしてこの催しを開くようになったんだろ)」
都市レベルの危険はないとはいえ、ダンジョンからモンスターを地上に上げる行為は本来行われるべきものではない筈。少なくともエイナには抵抗がある。
モンスターとは、怖いものだ。
まさかこのフィリア祭を通してモンスターとの友好など強調したいわけではないだろう。
娯楽を追求するあまり、危険の中へ片足を突っ込むのは本末転倒──そう、少なくともギルドとしては──だと、エイナはそう思うのだ。
「それに……パンと見世物、か。 耳が痛いなぁ」
「えぇ? エイナー、何か言ったぁ?」
独り言を聞かれた同僚に、エイナは苦笑しながら何でもないと首を振った。
オラリオはその都市柄、多くの【ファミリア】、多くの冒険者を抱えている。聞こえはいいが冒険者とはすなわち荒くれ者、無法者達が大半を占める。彼等のマナーの悪さが時折一般市民との軋轢を生み、治安への不満を募らせるのもまた事実だ。
ダンジョンから生まれる魔石を効率良く回収したいギルドとしては、迷宮探索に繰り出す冒険者達は擁護しなければいけない存在である。故に客観的に見れば、
それこそ、先日バベルの中で誹謗され、エイナ自身がそれを耳にしてしまうくらいには。
「(ともあれ、何も起きてくれなければ、それでいいんだけど……)」
自分も見に行きたいなぁ、とすぐ側でこぼしている友人の同僚を見ながら、エイナはうーんと額に指を当てて少し悩んでしまった。
「ここにもいない……」
「やっぱり、もう闘技場に入っているんじゃないかい?」
「(……ん?)」
エイナの視界に見知った人物が入り込んだ。ベルだ。
闘技場の外周部に当たるこの場所で、まるで誰かを探しているかのようにあちこち振り向いている。彼のすぐ側にいるのは【ファミリア】の主神と…もう一人のローブの
エイナは背後の持ち場で固まっている職員達を軽く一瞥した後、少しの間なら問題ないだろうと判断し、自分の担当冒険者である少年のもとに歩み寄った。
「あれ?ベル君」
「あ、エイナさん」
「誰だいベル君? このハーフエルフ君は」
きょとんするベルに苦笑してから、エイナはまず彼の隣にいるヘスティアに会釈をした。
「わたくし、ベル・クラネル氏の迷宮探索アドバイザーを務めさせてもらっているギルド事務部所属、エイナ・チュールです。初めまして、神ヘスティア」
「ああ、そういうことか。いつもベル君が世話になってるね」
自己紹介を済ますとヘスティアは納得するように手を振った。エイナが「恐縮です」と再び頭を下げながら頃合いを窺って質問をする。
「ベル君、そっちの同胞の方は?」
「あ、こちらの方は…」
「はい、私はリオン。リュー・リオンです、お久しぶりです、チュールさん」
そう、その緑のケープを纏ったエルフの女性はフードを下ろしてエイナと視線を合わせる。
「あ?! リオン氏! 申し訳ありません。そうとは知らずに…」
「いえ、いつもとは違う格好をしていましたし、この姿で貴方の前に出るのは初めてですから」
エイナとリューはお互いに謙遜の応酬を行いながら謝り合う。それを見ていたベルは、機会を伺うようながら、エイナに質問する。
「あの…エイナさんは此処で何をしているんですか?」
「フィリア祭にはギルドも一枚嚙んでるから、環境整備を手伝っているの。で、私はお客さんの誘導係。ベル君はやっぱりこの催しを見に来たの?」
「いえ、僕は人を探しているんですけど……あの、ウエイトレスの格好……は流石にしてないか。こう、お金に困ってそうなヒューマンの女の子、見ませんでしたか?」
「うーん、ちょっとわからないなぁ」
挙げられた変な具体例にエイナは苦笑いを隠せない。ベルも「ですよね」と言いながら少し困ったように頭をかく。
闘技場に入るには僅かばかりの入場料を取るので、財布を持っていないらしいベルの探し人は会場の中にいる可能性は低い。その旨を告げるとベルはわかりましたと頷いた。
「それじゃあ僕達、もうちょっとこの辺りを回ってみます。もしかしたら行き──」
「いえ、これ以上は流石に。私一人で探しますので」
「え?!リューさん、ここまで来たら最後まで一緒に行きますよ!」
「ですが!!」
「だから!!」
「いえ!!」
「いいえ!!」
「「ムムムッ!!」」
お互いに一歩も譲らない善意の押し付け合い。ベルとリューはお互いにお互いの瞳を睨みつけ合いながら言い合う。
やがて落ち着くだろうとヘスティアとエイナが呆れていると、スッとエイナの前に立ち止まりヘスティアが問う。
「時にアドバイザー君」
「はい、何でしょうか?」
「君は自分の立場を利用して、ベル君に色目を使うなんてこと……してないだろうね?」
最初に何を言われたのかわからず、エイナはぽかんとした顔をしてしまう。
じーと見上げ続けてくるヘスティアが本気で尋ねているのだとわかると、彼女は静かに口元を引きつらせた。
「こ、公私の区別はつけているつもりですが……」
「うん、その言葉、信じたよ」
厳かに頷くヘスティアに、ぽんぽん、と腕を軽く叩かれる。
「あ!? 勘違いしないでくれよ。 僕は別にベル君に気があるわけじゃないんだよ!むしろそういうのはバッチ来いって感じなんだけど…。ベル君は生粋の人たらしだからさ……、ハーレムを築かないか心配で…」
「あ…あはは。 まあ、人たらしな所は否定しませんが…」
分かってるじゃないか、とヘスティアはエイナの肩をポンポンと叩きながら言う。
もうそろそろ言い争いが終わったかな?とヘスティアとエイナが二人の方を見やると、どうやら二人とも落ち着いて…いや、二人共同じ方向を睨見つけていた。
「神様、エイナさん。 早くここから離れて下さい」
「えぇ、何かが起こっている。クラネルさん、貴方は私のサポートを」
「…分かりました」
流石にLV.5と同等以上の『技と駆け引き』を持っていようが、【ステイタス】という絶対的力が足りないベルではリューの足手まとい。メインウェポンである長剣すら持っていない今のベルでは、役に立てる場面も限られているだろう。
「「来るッ!!」」
リューとベルは張り詰めた空気を纏いながら、感覚を研ぎ澄まし、冒険者としての顔つきへと変わる。
地の底から登るような咆哮が、ベルとリューの耳をつんざきながら、二人は互いに獲物に手をかける。
それは少年と少女が違和感に気付く少し前の出来事。
光源が心もとない、暗く湿った場所だった。
天井から吊るされている魔石灯は一つを除いて沈黙し、部屋の至るところに影を作り出している。一M四方の木箱が辺りに散乱しており、周囲はどこか雑然とした印象。壁には武器を始めとした様々な道具が立てかけてあった。
一見して倉庫のように見える薄暗い空間には、いくつもの『檻』があった。鎖に繫がれた多数のモンスターが閉じ込められており、金属の擦れる音が頻りに鳴る。鉄格子の隙間に鼻面を突っ込む犬型のモンスターが、牙を剝きながら唸り声を上げていた。
地下部に設けられた大部屋。闘技場の舞台裏、言うなればモンスターの控え室だ。
モンスター達はここから担当の者によってアリーナへ檻ごと運ばれる手筈になっている。地上に上げられた際に束縛を解かれ、中央フィールドにいる
地鳴りのような観衆の声が、遠くの方から反響するように響いてくる。
「何をしている、次の演目が始まるぞ!? 何故モンスターを上げない!」
鋭い足音とともに大部屋の扉が開かれた。【ガネーシャ・ファミリア】の女性構成員が激しい形相を作って部屋の中に飛び込む。
彼女は祭りの裏方を取り仕切る班長だった。出番が間近に迫っているにもかかわらず運ばれてこないモンスターに業を煮やし、急いで様子を見に来たのだ。
怒気を孕んだ彼女の声に、しかし答える者はいない。
「な……お、おいっ、どうした!?」
部屋の中に広がっていたのは、ことごとく床にへたり込んでいる仲間達の姿だった。
この場を任されていた四名の運搬係が、腰を下ろした格好で固まっている。
驚愕に見舞われながら慌てて一番手前の者に駆け寄ると、息はあった。外傷もなし。顔を上げて他の者を窺ってみても同じだ。みな命に別状はない。
ただ糸の切れた人形のように、力という力が全身から抜けていた。
「ぁ……ぁ」
「(モンスターの毒、いや違う、なんだこれは……!?)」
細く漏れる声。上気した頰。瞳の焦点が定まっていない。
まるで見覚えのない症状。屈み込んで仲間の顔を覗き込んだ彼女は軽い寒気に襲われた。彼等の陥っている異常な状態に心当たりが何もない。
ここで何が起きたのかと、彼女はその場で立ち上がり、モンスターが唸る暗い室内を見回す。
「──」
不意に、背後の空気が揺れた。
襲撃を思わせる鋭い動きではなく、何てことはない、友人へと歩み寄るようなゆったりとした動き。害意の欠片もないが故に、致命的なまでに反応が遅れる。
何者かが、真後ろに立った。
「動かないで?」
「──ぁ」
そっと、後ろから両目を塞がれた。
恐ろしく滑らかな肌触りのする細い手が、目隠しをする。
次には、痙攣するかのように一度、ずくんっと己の体が打ち震えた。
鼻腔を舐める甘い香りが、密着してくる肉の柔らかさが、肌を通じて感じる温もりが、彼女の感覚という感覚を麻痺させる。底の知れない『美』が、覆い被さってきた。
信じられない『魅了』。
視界外からの『魅了』。
ありえない。抗えない。逆らえない。
頭が真っ白になる。何も考えられなくなる。意識が断線する。
彼女は自由を奪われた。
「鍵はどこ?」
「──ぇ」
「檻の鍵は、どこ?」
息を吹きかけるように、囁くように耳元へ声を添えられる。ぞくりと首筋がわなないた。
脳に沁み込ませるように告げられた二度の言葉に、彼女はもはや条件反射のように従った。
がくがくと震える左腕を動かし、腰に取り付けてある鍵束を手に取る。かちゃかちゃと音を鳴らしながら、モンスターの檻の鍵を肩の高さまで持ち上げた。
「ありがとう」
差し出していた鍵が取られ、目を塞いでいた手も消える。が、瞳が機能することはなかった。自失した彼女には何も見えていない。
背後にいた気配が離れていくと足首から崩れ、臀部をぺたんと床に落とす。
先刻まで起きていた光景を巻き戻すように、彼女も仲間と同じ結末を迎えた。
「ごめんなさいね」
フレイヤは崩れ落ちた女性を置いて奥に進む。
西ゲートを監視するギルド職員と、猛者と知られる【ガネーシャ・ファミリア】の冒険者。両組織の構成員を無効化し、彼女はここまで侵入を果たしていた。
フレイヤに戦う力は皆無だ。下界にいる限り彼女は無力な神の一人でしかない。
だが、彼女には異常なまでの『美』があった。いや彼女自身が『美』そのものだった。
理性では制御しきれない力。ヒューマンや
今回はその力を少々悪い方向に使わせてもらった。
意識が定まらないほど、文字通り立っていられなくなるほど、男女問わず相手を
不意打ちまがいのことをすれば、彼女でもこのような芸当は可能だった。
「……」
フレイヤは大部屋の中心で足を止める。
周囲にはモンスターを閉じ込めた大小の檻がいくつも並んでいた。捕えられているモンスター達は興奮しているのか、フレイヤに四方八方から吠え声を浴びせかける。
しかし、彼女が被っているフードに手をかけた瞬間、けたたましい声はぴたりと止んだ。
『……!』
絶世の美貌が晒される。
雪のような白皙の柔肌がモンスター達の視覚を打ち、溢れ出たぞっとするような芳香が彼等の動きを縛った。輝かしい銀の瞳と銀の髪に、獣達は釘付けとなる。
凶悪なモンスター達でさえ、彼女の美の対象外にはなりえなかった。
「……貴方がいいわ」
吟味するようにモンスター達の顔をなぞっていた銀の視線が、ある一点で止まる。
どうせ役不足だろうけど、まあ暇潰しくらいにはなるわよね?
そのモンスターは真っ白な体毛を全身に生やしていた。ごつい体付きの中で両肩と両腕の筋肉が特に隆起しており、フレイヤと同じ銀色の頭髪が背を流れて尻尾のように伸びている。
野猿のモンスター『シルバーバック』は、その瞳をぎりぎりと見開き呼吸を荒くしながら、女神の眼差しを受け止める。
「出てきなさい」
手に入れた鍵を使って檻の錠を解く。
開かれた鉄格子から、シルバーバックはフレイヤに従うように一歩歩み出た。繫がれっぱなしの鎖がジャラリと鳴る。
モンスターを解き放つ、ともすれば危険な行為。
自由奔放な女神の傍迷惑過ぎる気まぐれ。
目的は、たった一つ。
「(あの子も、ここに来ている……)」
フレイヤは想う。少年、ベル・クラネルのことを。
「(……ああ、ダメね。しばらくはあの子の成長を見守るつもりだったのに……)」
フレイヤは知っていた。ベルが凄まじい速度で成長していることを。
本来ならLV.1の新米冒険者では敵う相手ではないが、あの成長速度ならば恐らく勝てる。それも圧倒的な力を持って。
原因は定かではないが、常識破りの速さで今も『飛躍』し続けていることを。
女神の眼には、それが見えていた。
「(……ちょっかいを、出したくなってしまった)」
まるで子供のようだとフレイヤは笑う。
愛しい相手にイタズラをして気を引こうとする。
イタズラを受けた相手の反応を見て楽しもうとする。
本当に、ただの子供がすることだ。
けれど、もう止まらない。見初めた相手に対する衝動が、体を火照らせる胸の奥の疼きが、愛が、フレイヤを突き動かす。
少年のあの鋭い眼光が、少年の苛立つ顔さえ愛おしい。そして、あの子の『勇姿』を、私は見てみたい。
「……」
『フッ、フーッ……!?』
激しい息づかいが響く中、慈しむようにシルバーバックの頰を撫でている。
もし、仮に少年が死んでしまったら?なんていう仮定をフレイヤは考え、そして結論を出す。
「(追いかけてあげる)」
下界を離れ天界へと昇るその魂を、どこまでも追いかけよう。
「(抱きしめてあげる)」
そして捕まえた魂を、愛を司る神の胸の中へ誘おう。
慈愛と優しさに染まる銀瞳の奥に、確かな嗜虐の色を宿しながら、フレイヤは目を細め愉悦の笑みを浮かべた。
やがて笑みを残したまま、両手で頰を包み込んだシルバーバックに顔を寄せる。モンスターの体が可哀相なほど震えた。
「(だから)」
次の瞬間、フレイヤはモンスターの額に唇を落とす。
「(待っていてね?)」
「さぁ、約束の時だぜ。 やれ、オリヴァス」
ぴちゃ、と水滴が落ち、小さく弾ける。
天井から滴り落ちたか細い音は空気を震わし、辺りへ静かに響き渡っていく。
それはゆっくりと目を覚ました。
緩慢な動きで全身を震わせ、狭い檻の中で身じろぎをする。
どこか重苦しい静けさに包まれた空間。
四方には闇が続いており薄暗い。皮膚の上をなぞるのはひやりとした冷気だった。
迷い込んだのか、どこからともなく一匹の鼠がかすかな鳴き声とともに現れ、しかしそれを仰いだ瞬間、一目散に逃げ出していく。
それはすぐに活動を始めようとはしなかった。
覚醒した直後で意思に空白が生まれているように、あるいは状況の認識のため周囲を窺うように、沈黙を連ねる。薄闇の静寂にそれはしばし身を委ねていた。
ふと、それは気付いた。
その身を閉じ込めていた黒檻が解放されていることに。
更にもう一つ。
己の同胞がすぐ近く、同じように暗がりの奥で息をひそめていることも知覚する。
それは開け放たれた扉からゆっくりと抜け出した。
ずるずると床を這いずる音を撒き散らしながら、狭苦しかった檻を後にする。呼応するように、周囲からも檻を抜け出す気配が続いた。
外に。
外に出ようと。
それは闇の中を蠢いた。
知性は介在しない与えられた本能が熱を灯し、自分の存在意義を思い出す。
移動していく。
この暗闇から抜け出し、音が聞こえてくる方向へと。
多くの生物の気配がする、自身の直上へと。
地上へと。
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それでは次回まで楽しみに待っていて下さい!